姫様のお胸に顔を埋める勇者のお話姫様の部屋の扉前で寝ずの番をしていると、インパがやってきた。何か姫様に緊急の用事だろうか?そう思って立ち位置をずらし、インパのために扉を開けようとしたところで、内側から扉が開いた。
「姫様…?」
インパが来るのが分かっていたのだろうか。そう言えば少し前に侍女が、姫様の部屋から出ていった気がする。職務が終了したので侍女は下がったものだと思っていたが、もしかしたらインパを呼んできてほしいと姫様から頼まれていたのかもしれない。
何か侍女では対応できない不都合が生じたのだろう。
リンクは姫様とインパに1つ会釈をし、そのまま警護の仕事に戻ろうとした。
だが、どうした事だろう。インパは扉の前から動こうとはせず、目で何かを訴えてくる。
なんだ?と、首を傾げていると、扉の内側から姫様がそっと名を呼んだ。
リンク、と。
頭の中の疑問符は、さらに増えた。
姫様は用事があって、インパを呼び立てたのではないのだろか?なのに、姫様が呼ぶのは自分というのは、一体どういう事なのだろう。
訳が分からないまま、扉の前で立ち尽くしていると、痺れを切らしたらしいインパに、トンと肩を押された。
それがあまりにも予想外の動作だったので、少しヨロリと扉の向こう側へと体が傾いてしまったところに、姫様が腕を引っ張ってきて、あっという間に部屋の中に引き込まれてしまった。
扉が閉まる前に、自分の代わりにインパが扉前に立ったのが見えた。
本当に、訳が分からない。
「姫様?一体どうされましたか」
侍女でもなく、インパでもなく、自分が部屋に招き入れられて、姫様が頼んでくる用件が全く思い当たらない。
身の回りの世話なら侍女が適任だろうし、侍女で対応できない事ならば、インパ以上の適任者はいないだろう。
それなのに、自分を呼んだ理由を真剣に考える。
明日の予定、とかだろうか?しかしそれならば、御前を下がる前にちゃんと連絡を受けたし、今こうして夜半に部屋に呼び寄せて伝えなければいけない緊急性もなかったように思える。
そもそも自分は夕方姫様の護衛の職務を終えた後、そのまま引き続き姫様の部屋の寝ずの番でずっと扉の前立っていた。
何か言い忘れた事を思い出したのであれば、いつだってその場で伝える事ができたはずだ。
こちらの質問に、姫様は何も答えてくれず。腕を引いたまま部屋の奥の寝台の所まで歩いていって、そこでようやくこちら側を振り向いてくれる。
腕を引かれるので仕方なく姫様の後ろを付いていっていた自分も、同時にそこで立ち止まる。
姫様は、なぜだかちょっと怒っていらっしゃるようで。振り返られた時に見た姫様は、眉をひそめて、少し頬を膨らませているようであった。
「リンク…あなた、昨日からずっと寝ていないですよね?」
突然姫様から発せられた言葉の意味が一瞬理解できず、首をひねる。
昨日から…?と思いながら、自分の今までの職務の内容に思いを巡らせた。
昨日はいつも通り姫様の護衛をして、それから寝ずの番の担当だったのでそのまま警護の職務についていた。
次の日の午前中姫様は出掛けられる予定がなかったので、その時はお側にはいなかったが、部屋で報告書を纏めていて、その後訓練所に行き少し剣を振るっていると、姫様が外出される午後になったので、そのままお側に付き、夕方に御前を後にしたが、本日寝ずの番の担当だった者が体調不良でダウンしていたため、代わりに寝ずの番で立っていた。
…なるほど、確かに寝ていない。
「大丈夫です。遠征の時は何日も寝ない時もありますし、慣れています」
正直姫様に突っ込まれるまで全くその事実に気付いていなかったが、どちらにせよ姫様が心配されるような事ではない。
むしろ自分が休む事によって、姫様に危険が及んだり、不便が起こる事の方が困る。
そう思って、答えたのだが。
だが姫様は、こちらの答えにまるで納得されていないご様子で、とても不服そうだった。
…困ってしまった。
だから代わりに、インパを呼んだのだろうか。
しかし執政補佐官である彼女も、多忙を極める身。こんなところで寝ずの番を代わっている場合ではないし、そもそも体調不良の者の代わりに寝ずの番を申し出たのはこの自分だ。それを途中で投げ出すというのは、騎士としてあまりにも不真面目な行動であるし、色々と不具合も生じる。
姫様のお付きの騎士だからといって、優遇されていいはずがないのだ。
それに…休めと言うのならば、なぜ部屋の前から下がらせず、中に招き入れたのか。それもよく分からない。
だが依然姫様は不機嫌なままようで、こちらの言葉に返答もくれない。
どうしたら良いのか分からなくて、立ち尽くしてたままでいたら、姫様がベッドに腰掛けるので、また少し側に寄る。
すると、何という事だろうか。姫様が自分が座った横をポンポンと叩くのだ。
さすがに、それは…と思ったけれど。姫様のご機嫌斜めな様子は直らないようだし。今の自分にはそれをどうにかする方法すら思い付かないので、仕方なく言われた通りに隣に座る。
すると…ふわりと、何かが視界を遮り、そっと頬を柔らかいものが掠めていった。
それが、姫様が身に纏っている寝着の、肌触りの良い生地の袖部分だったという事に、だいぶ長い間気が付く事ができなかった。
「ひ…姫様?!」
気付けば、その御身の胸の中。頭を抱え込まれ、抱き締められてしまっていた。
動揺して、すぐに離れなければ、と思うのだが。どこに手を持っていけばいいのか分からず。しかしどこに持っていったとしても、姫様の柔らかい御身のどこかに触れてしまうのだと気付いて。
結局はどうする事もできず、その胸に寄りかかるがままになってしまう。
「姫、様…離して、ください」
「イヤです」
唯一の抵抗手段である、声に出して離れてほしいと頼み離れてもらう、という方法もバッサリと拒否されてしまい、とうとうどうする事もできなくなってしまった。
しかも困った事に、姫様の肌の柔らかさと温かさを近くに感じ。同じハイリア人なのに、どうしたらこんなにいい匂いがするんだろう…と思ってしまう姫様の匂いに包まれていると。今まで何とも感じなかった眠気が、唐突にその存在を主張してきて、瞼が重くなってきてしまうのだ。
姫様は一体、どんな魔法を使われたのだろうか。
姫様の使われた魔法ならば、この自分に対抗する術など到底ないのではないかと思うのだが。しかしここは何がなんでも抵抗しなければ、という決意とがせめぎ合う中。姫様の歌うような声が、コロンと上から滑り落ちてきた。
「こうでもしないと、貴方は休んでくれないでしょう…?貴方が無理をしていると、私も心配で眠れないのです」
だから、私が安心して眠れるように、貴方も大人しくここで眠ってください、と。
臣下を気遣っているようで、ある意味無茶苦茶な要求をしてくる姫様に、諦めにも似た気持ちをのせて、ため息を1つこぼした。
例え姫様の望まれた事だったとしても、ここで一夜を明かす事は許されない。そこは、姫様も分かっておられるはずだった。
インパは、ずっと自分の代わりをして扉前に立つわけではない。
ただほんの一時だけでも、全ての緊張を解いて、休んでほしいと、姫様は言っているのだ。
姫様の腕の中で、安らぎを得る。そのどうしようもない背徳感と、心に満ち溢れる幸福感を感じながら。
リンクは静かに、瞳を閉じた。
ドサ…ッという音で、目を覚ました。
何だろう…とても柔らかなものに包まれている。
途切れた記憶を手繰り寄せ、視界にいっぱいに広がっていたシーツの白波から。そこは姫様の寝台の上だった事を思い出す。
自分は姫様に乞われるままに瞳を閉じて、そしてそのまま姫様の寝台を占領してしまったのだ。
何という事をしでかしたのだろうか。
主を差し置いて、その睡眠の場所を奪うなどと。
…姫様は一体どこにおられるのだろうか?
自分が寝る場所を奪ってしまったばっかりに、ソファーなどで眠っておられたら、それこそ面目なくてもうお顔をまともに見る事さえできない。
そう考え、視線をさまよわせ。ふと自分が思い通りに動ける状態ではない事に気付いた。
何だろうか…何かに自分は拘束されている。
しかしそれはとても緩やかな拘束で、自分が身を捩ればすぐに外れてしまうような力加減で。
でも何となくだが、無理矢理にその拘束を解いてはいけない気がした。
それはなぜか。
それは、自分が意識を手放す前の出来事を思い返せば、自然と答えは浮かび上がるもので。
恐る恐る、首をひねって顔を巡らせてみる。
冗談であってくれ…と、心の中で何度も繰り返したが。
残念な事に目の前に広がっていた現実は、自分の予想とそう大差ないものであって。
大人しく言う通りに目を閉じた騎士に満足した姫様は、
その胸を預けさせたまま、そのうちご自分も眠たくなってしまわれたのだろう。
騎士を胸に抱いたまま、姫様はそのままコテン…と、寝台に倒れてしまわれたのだ。それが多分、自分を覚醒に導いた先ほどの音。
つまり、自分が今下敷きにしているものは…
少し身動ぎをしただけで、頬に当たる柔らかいもの。
たった1枚の布切れだけで隔てられた姫様のお胸が、ふわふわと、だが程よい弾力をもって、自分の肌を押し返してくる。
「~~~~ッッ!!」
わぁああぁあッッ!!と叫びそうになった声を、何とかすんでのところで喉の奥に押し込み。リンクはガバッと寝台から起き上がった。
その勢いが強すぎて、姫様は一瞬、ううん……とくぐもった声をおあげになったが、幸いな事に再び眠りの世界へと導かれたようであった。
今のこの状況で、自分でも信じられなかったが。そこからは物凄い素早さで行動し、姫様をしっかりと寝台の中央に横たえ直し、そっとそのお身体に布団をかけて、どこをどう歩いたか全く分からなかったが、姫様の部屋の扉の前に立ち、ゆっくりとそこを押した。
扉の隙間から見えたインパが、こちらを振り返る。
「リンク…?ちゃんと休めました?」
インパの言葉から、自分が意識を飛ばしてから、どうやらそんなに時間は経っていなかった事が伺えた。
姫様は…?というインパの言葉に、どう返答をしたのかは覚えていない。
ただ分かる事は。
扉から出てきた自分は、模範足る騎士の仮面を被る事など、到底できておらず。
一時だけ寝ずの番を代わってもらったインパと、また交代をしなければならなかったのに。
真っ赤になった顔をこれ以上見られないために。
脱兎の如く、その場を走り去ったという、事実だけ。