和パロリンゼル【救いは 誰がために~前編~】「リンクです」
こざっぱりとした小姓の衣服を纏った彼は、簡潔にそれだけを述べた。
お父様が新しく雇った使用人だと紹介されたその人は、どこまでも澄みきった青の瞳が印象的な青年だった。
「これからは、このリンクがお前の身の回りの世話をする。屋敷内ではもちろんのこと、外へ出かける際も、この者を頼るがよい」
お父様の言葉に、え…?という顔をしてしまった。
この人が、私の世話役を?
確かに見た感じとても綺麗な顔立ちをしていて、細身な体で、背丈も私と同じくらいの小柄な人だったけれど。
しかし、どこからどう見ても、彼は男性だった。
「なぜ、ですか…?」
私専属の世話係が付くと聞いていたから、当然女性が来るのだとばかり思っていた。
身の回りの世話をすると言うのならば、ゼルダと同じ性別である女性でなければ色々と不便だし、当然彼1人ではやりきれない事も出てくるだろう。結局は、他の女使用人を頼らなければならなくなる状況になると、容易く想像できるのに…?
「まぁ、お前の言いたい事も分かる。だが、リンクは優秀で信頼できる人間だ。心配はいらぬ」
結局、答えてもらいたい事は何も教えてはもらえず。
何となく宥められ、言いくるめられて、ゼルダの意見はさらりと流された。
それが、リンクという青年との、出会いだった。
この国の主要都市を統治する大きな一族。
ハイラル一族。
統治主の名は、ローム。かの者にはゼルダという美しい一人娘がいた。
彼女がまだ幼く愛くるしい姫であった頃、妻に先立たれたロームは、手塩をかけて姫を育て上げた。
その甲斐あって、姫は美しく、器量の良い娘に育った。
領土内はもちろんのこと領土の外からも、姫の噂を聞きつけた来訪者がひっきりなしに訪れるほどに。
そんな姫も成長し、良い年頃となった。
然るべき男と結ばれ、一人前の大人として家庭を持つべき年になったのだ。
今までは麗しき姫君への賛美や、姫のご機嫌取りの言葉を並べ立てるだけだった各地の豪族達が。近頃急に、会話の端々に婚礼を匂わせる言葉を吐き出すようになった。
ハイラル一族の繁栄のため、婿選びは重大な案件であると。そのためには自分達と良い関係を結ぶ事がさも有益であるかのように、語る口々。
それらにゼルダは、日々飽き飽きとしていた。
ハイラル家に、嫡子はいない。
いるのは、美しく優しかった母の忘れ形見である、姫の自分だけだ。
よって、ハイラルの一人娘であるゼルダを嫁に迎えるという事は。莫大な領地と資産を持つハイラル一族を自らの手中に収められるという事と、同一なのだ。
そんな下心丸見えの彼らと会話をするのが、ゼルダにとっては苦痛の所業であった。
自分とて、由緒正しきハイラル一族の姫君であるのだという自覚はある。
自らの婚礼に私情を挟める立場ではないと、はなから分かってはいるが。
それでも、私利私欲にまみれた豪族達の中で、いいように扱われる自分の未来を想像するというのは。耐えよと言われても、なかなかに難しい事だった。
そんな折に、お父様が連れてきた、リンクという名のあの青年だ。
彼は確かにお父様が言うように、とても優秀な人材だった。
初めて顔合わせをした時、女性の身だしなみや女性の扱い方について精通しているような人には到底見えなかったのだが。やはりゼルダが感じたままの人であったらしく、最初の方はずいぶんと苦労していたようであった。
しかし彼は非常に仕事の呑み込みが早く、何でも吸収していって。やがてすぐに世話役として申し分ない働きを見せるようになった。
こちらからわざわざ言わずとも、必要なものは全て揃えてあって。人と会う際にも、先人の情報などの前準備は完璧だ。
会話も私が話す事に対して受け答えをするのみで、無駄な私語はしない。感情に任せて怒ったりする事などなく、ただ与えられた仕事を黙々とこなしていた。
多分…真面目な人なのだと、思う。
よく言えば、真面目。悪く言えば、堅すぎる。
生真面目で、心が真っ直ぐな人だから、色々と融通が効かせられない部分もきっとあるのだろう。
完璧な人間など、いない。彼の主である自分とて、些細な事で簡単に気分が浮き沈みしてしまうような、未熟な人間なのだ。
ゼルダの気持ちにもう少し余裕でもあれば、そんな風に彼を擁護する考えを持ってあげられたのかもしれない。
でも…、今は無理だった。
きっと、お父様が彼を連れてきたタイミングが悪かったのだ。
他の領土に住むゾーラ家の姫君のミファーとか。ゲルド家の若き女当主であるウルボザとかと。女同士、心許せる者同士で楽しくお喋りをし、正直少しでも気分転換がしたかった。
彼女らは住む領土が遠くなかなか会う事ができないのだが。いつもゼルダの事を心配してくれるインパならば、領土内の屋敷で働いていた。
だが、父の側近であるインパは最近いつも忙しそうで、ゼルダのために時間を割く事はなかなかできないようであった。
それに対して申し訳ないと謝ってくれるインパに、仕方がない事ですと返答をつつも。しかし常にゼルダの側に付いているリンクという世話役の青年は、日々蓄積されていくゼルダの鬱憤を解消してあげられる術を、残念ながら何も持ち合わせてはいなかったのだ。
真面目で物腰柔らかく、寡黙。通常の人ならば好意的に感じるであろう彼の気質でさえ、ゼルダの心を逆撫で、苛立たせてしまうという始末。
そういった危ういバランスで成り立っていたゼルダとリンクとの関係は。ついにある日、口喧嘩という形で均衡を崩してしまったのだった。
「だから!!付き添いは必要ないと言っているです!」
「なりません、お一人で行かれるのは危険です」
近頃巷で流行り始めた「からくり機械」というものの研究に、自らの人生を懸けているプルアという変わり者の女性がいる。
明日、その彼女の元へ荷物を持っていくのだ。
荷物を届けるくらいならば、わざわざゼルダ自らが赴かなくとも、使いの者に任せれば良い話なのだが。
実は持っていくのはプルアが研究に使う「からくり」というものの部品であり、普通の荷物とは違って取り扱いがとても複雑だった。
プルアいわく(興味がない者には全くのガラクタに見えるのだが)とても貴重な物品であるため、いつもゼルダ自らがプルアに手渡しするという事になっていた。
それに自分も付き添うと、リンクが言い出したから。
お互いどちらも一歩も引かない口論が、ここに今勃発したのだ。
プルアがいるのは、ここから通りを3つほど先に行った場所にある、小さめの屋敷だ。
ゼルダの住む屋敷からもとても近いため、今までプルアの所に行く時はいつもゼルダ1人だった。
しかしリンクが例え近所であろうとも付き添うと譲らないように、確かにゼルダはいつでも本当の意味では1人である時はないのも事実だ。
ハイラル一族が誇る戦闘に特化した隠密組織に、「忍び」というものがある。
彼らは表舞台には決して現れず、いたとしても正体は一切不明で、裏の世界で暗躍し、闇に紛れて、己が使命を果たす者だ、と聞かされている。
一体誰が「忍び」であるのか。それはゼルダとて知る事はない。
おそらく知っているのは父であるロームと。後は数名の上層部の人間だけだろう。
そんな「忍び」が、いつも姫であるゼルダの行く先々を、ひっそりと見守っているのだ。
だから例えたった1人でいても、ゼルダの身はいつも危険に晒される事はない。
しかし、リンクは「忍び」ではない。
ゼルダの側に付き従う、身の回りの世話係だ。
忍びではない彼が、ゼルダを見守るとなれば。それはおそらく文字通り、目に見える位置でずっと見守る、という事になるのだろう。
リンクの言いたい事も、分かる。
今世の中は混乱気味で、イーガー族という輩達がこの国を乗っ取ろうと目論んでいるらしい。
彼らはハイラル一族の忍びと同じような隠密組織を使い、己達の野望を果たそうと、各地で活発に動いているという噂だ。
どうやら彼らの本拠地はウルボザの領土内のどこかにあるらしいという所までは分かっているのだが、奴らはかなりの手練れで、なかなか尻尾が掴めないのだと、ウルボザが嘆いていたのは記憶に新しい話だった。
手練れの「忍び」に対抗するのには当然、同じだけの手練れの「忍び」が必要となる。
今、ハイラル家は人手が足りないのだ。お父様やインパが毎日忙しそうに各地を飛び回っているのも、おそらくそのせい。
いくら一族にとって大切な姫君であるとはいえ、貴重な存在の「忍び」を、姫のために何人も使う事はできない。
だから、男性であるリンクが側付きに置かれた。
いくら武術に長けた者を配置したとしても、女性であれば見た目だけで侮られるから。
リンクはいわば、周りへの牽制のための存在なのだ。
それは、分かっている。
しかし、ゼルダがプルアの所へ行くというのはただ荷物を届けるという目的のためだけではない。
実は「からくり」の研究にひっそりと興味引かれていたゼルダは、その後にプルアとゆったりとお茶でもしながら、「からくり」について語り合うのが真の目的なのだ。
ついつい夢中になってしまって、時間も忘れて話し込んでしまうのは反省すべき点だったが、周りの人達も今のゼルダの状況を分かっているから、多少目はつむっていてくれる。
だが、仕事熱心なリンクはどうだろう。
主であるゼルダに時間を急かしたりはしないだろうが、付き添うと言ったからには、屋敷の外だろうがどこだろうが、彼はきっとずっとゼルダが帰るのを待つのだろう。
それでは、リンクを待たせている事が気になってしまって、気が済むまでゆっくりと話ができない。
彼はおそらく、「それが自分の役目なのだから気にしなくてもいい」と言うのだろうが。それで、はいそうですか。ではゆっくりします、と簡単に割り切れるものでもない。
「あの…本当に、すぐそこなんです。だから、行きだけついて来てもらえれば、帰りは1人でちゃんと帰ってきますから…お願いします」
何とか、最近の唯一の楽しみであるプルアとのお喋りの時間は確保したかった。
威圧的に言うからいけないのかも…と思い、思考を切り替えて試しにお願いモードで頼んでみたら。
リンクは一瞬だけ、う…ッと言葉に詰まり、怯んだ顔をしたのだが。すぐに頭を振って、ダメです、ときっぱりと言い放った。
こんなに頼んでいるのにダメなのかと、ついついカッとなってしまって、またリンクを詰ってしまった。
「リンクの分からず屋!もう、いいです!!」
リンクから背を向け、ずかずかと歩いていく。
「どちらへ?」
「自分の部屋です!もう、今日は休みます。ついて来ないでくださいっ!!」
かくして、明日の予定についてのリンクとの話し合いは、決裂で終わった。
翌日、ゼルダからリンクに伝えられた連絡事項は、「今日は体調が優れないので、1日部屋で休む」であった。
部屋に伺い伝言を受けた時、姫様は頭から布団を被った状態だった。
しかしまさか横になっている女性の布団を剥ぎ取り、体の具合を確かめるというような失礼な事はできなかったので、分かりましたと了承の言葉だけを告げ、そっと部屋の扉を閉めた。
高熱が出ているような息の荒さや、咳などの喉の不調を訴えている様子はなかったので、お疲れなのだろうかと思う。よく休まれて、早く元気になってくれたら良いのだが…
朝ご飯は召しあがりたくないという事だったので、お昼時にでも何か栄養のある物をお出しできないかと、まるっと変更になってしまった今日1日の予定を頭の中で算段し直しながら、リンクはロームの部屋の片付けをしていた。
ここの部屋の主は朝から机の上に溜まった書類の山と戦っていた。だが先ほど緊急の予定が入り、片付けもままならないまま、慌てて出かけられてしまった。
…本当に、お忙しい方だ。
心の中では一人娘との時間をもっと作ってやりたいと思っているのだが、なかなかうまくはいかない父親の代わりに、自分が少しでもお役に立てればと思うのだが…
やはり自分も理想と現実とがそんなにうまくいかない人間のようで。どうやら自分は姫様に苦手意識を持たれているらしい。
だが、頭の中で現状は分かっていても、いざ解決法を、と言われれば。一体どうすればいいのか、全く良い考えも思い浮かばない。
自分もまだまだ未熟者だな…と、反省をしながら。数冊の書籍をまとめて抱えると、今度は書庫に向かった。
幾冊もの本や資料等が並ぶ棚の正しい場所に、手にした冊子を1冊1冊戻していく。
本の位置は全て頭に入っているので、さほど時間はかからなかった。
手のもの全てを片付け、ふと目線を上げたところで。
何となく、書庫内の景色に違和感を持った。
…何だろう。何かが、足りない気がする。
視線を上げたまま、書庫の奥に向かう。
先にあるテーブルの上に、昨日まではあった1つの荷包みがなくなっている事に気付く。
そこには、姫様がプルアの所へと持っていくつもりだった荷包みがあったはずだ。
誰かが、持っていったのだろうか?
書庫はロームも姫様も自分もよく訪れる場所だが、中には重要な書物もあるので、誰でもかれでも入れる部屋ではない。
では、急ぎの荷物だったから、姫様が誰かにプルアの所へ持っていくように頼んだのだろうか。
しかし荷包みの中身はからくりの部品で、大変貴重な物であるため、かなり信頼できる人物にしかそれは託せないだろう。
そしてそんな信頼に値する人物は、プルアの実の妹であるインパくらいしかリンクには思い付かなかったが。インパは先ほど出かけられたロームと共に出先へと向かった。この屋敷内にはいない。
…嫌な予感がした。
そして、この自分の嫌な予感というのは、得てしてよく当たるものなのだ。
「ロームさま!ロームさまーーっ!!」
けたたましい足音と共に、大声で叫ぶ女性の声がリンクの耳に飛び込んできた。
足音はまっすぐに、ロームの部屋へと向かっている。
「どうかしましたか?」
書庫を飛び出し、廊下を走る女性の前に躍り出る。
「あぁ…っ、リンク殿…!」
目の前にいたのは、姫様の部屋に出入りしている女性の世話係の1人だった。
彼女は、リンクの姿を見るなりほっとした表情をして。次いで、リンクがたった1人でそこにいる事に絶望したような表情を見せた。
「姫様が…姫様が、お部屋にいらっしゃらないのです…っ」
「ーーーーーッ!!」
リンクは、世話係の女性がやって来た道を引き返すように走り出した。
背後で彼女が何かを叫んでいた気がしたが、振り返っている暇はない。
ただ、どうか無事であってくれと、そう祈りながら。
矢のように、廊下を駆け抜けた。
お昼前で賑わう街中を、後ろめたい気持ちでゼルダは歩いていた。
何度か後ろを振り返るが、誰かが追いかけてくるような気配はない。
ゼルダの作戦は、どうやらうまくいったようだ。
屋敷のみんなが、ゼルダは体調不良で部屋で眠っていると思っている。お付きの世話役である、リンクでさえも。
まるで騙すような形で出てきてしまったのを、申し訳ないと思いながらも。でもすぐそこですし、帰りはプルアに送ってもらえるかもですし、大丈夫ですよね…と自分に言い訳をしながら、急ぎ足で人と人の間をすり抜けていく。
団子屋の看板娘が呼び込みをする声に立ち止まる人もいれば、忙しそうに横を通りすぎていく人もいる。
大きな荷物を背負っている商売人や、井戸端会議で話が弾む奥さま方。道端を走り回る子供達。
様々な年齢の人達が、それぞれの用事で立ち止まり、すれ違ってゆく。
そんな中、特にゼルダの目を引いた1人の老婆がいた。
そのお婆さんは、腰が曲がった小さな体の割には大きな包みを持ち、ヨロヨロ…ヨロヨロと、ゼルダの前を歩いていた。
たまにこんな風に、手助けが必要そうな人を街で見かける事がある。
だがゼルダは直接誰かに手を差しのべた事はない。
そういった役は、だいたい付き添いの者が行うからだ。
リンクと共にいる時も、そうだった。
いつも彼はゼルダが発見するよりも先に彼らの存在に気付き、ゼルダに一言断ってから、颯爽と人助けをして戻ってくる。
それは、側にいる姫の手を煩わせないためというよりかは。彼がただ純粋に、目の前で困っている人を助けてあげたいから、そうしているように見えた。
本当は、とても心優しい人なのだと思う。
ゼルダがプルアの所への同行を断っても頑なに譲らなかったのも、自分の仕事が全うできなくなるから、という理由ではなく。ただただゼルダの身が心配だったから、なのかもしれない。
そんな人を冷たくあしらい。さらに嘘までついて、屋敷に置き去りにしてきてしまった。
自分が決定した事とはいえ、心がチクチク痛むのを誤魔化すように、ゼルダは目の前の老婆に声をかけた。
「おばあさん、大変そうですね。お手伝いしましょうか?」
本当は、こんな事を1度やってみたかった。
いつも守られてばかりの姫ではなく、自分も誰かの助けとなってみたかったのだ。
ゼルダの声に老婆は振り向き、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして、微笑んでくれた。
「まぁ、まぁ、心優しいお嬢さん。ありがたや…どうにも、膝と腰が痛くてねぇ」
そう言って膝をさするお婆さんにさらに近寄り、手にしている包みを持ってあげる事にする。
包みは見た目の大きさの通り、なかなかにずっしりと重かった。自分が元々持っていた荷物の上に、さらに老婆の荷物を置き、両手でしっかりと持つ。
「おばあさん、どこかへ行く途中なのですか?」
「えぇ、孫娘の所に…」
お婆さんの孫娘の家がどこかは分からないが、このまま一緒に荷物を持っていってあげれば良いだろう。
多分そんなに遠くはないだろうし、行く方角もちょうど同じのようだ。
お婆さんの包みからは、どういった類いのものかは分からかったけれど、ほんのりと甘い香りがした。
何が入っているのか中身が気になったが、覗いて見るわけにもいかないので、好奇心からゼルダは老婆に聞いてみる事にした。
「おばあさん、これは何ですか?何だかいい香りがしますね」
「…えぇ、それはお香の原料です。孫娘がこれを袋に詰めて、お香にするのですよ…」
「そうなんですね!こんな香りのお香もあるだなんて知りませんでした。今度機会があったら、孫娘さんが作られているお香を買いに行ってみたいです」
「まぁまぁそれはありがたい…あぁ、ここを曲がります」
「はい」
老婆に言われるがままに、通りを横に折れる。
そこは、プルアの屋敷よりも少し手前にある小道だった。小道はしばらく先まで続き、またその向こう側に別の通りがある。
「…この小道を抜けた先です」
「分かりました」
やはり、孫娘さんの家はそんなに遠くはないようだ。
寄り道にはなるが少し遠回りするだけだったので、プルアの所にはそんなに遅くはない時間に着けるだろう。
老婆はゼルダの少し後ろをゆっくりとついてきていたので、歩調を確認しながら小道を進む。
だが小道を中ほどまで歩いた所でふと、くらりと視界が揺らいだ。
あれ…、と思い立ち止まる。
歩くのをやめると少しマシになるかと思ったがそうではなく、今度は視界だけでなく意識も靄がかったようにボンヤリと霞んできた。
いけない…
屋敷を抜け出す前に誰かが部屋に来てしまっては困るからと、朝食はいらないとリンクに伝えたのだが、それがいけなかったのだろうか?
プルアの所で、お茶請けに…いつも何かしらお菓子が出てくるから、それを食べたらいいかと、思ったのですけど……
ついにはクラクラし始めた頭で、急な体調の変化の原因を突き止めようとしていると、ドシン…!と、誰かに正面からぶつかってしまった。
すみません、と謝ろうと顔を上げ。しかしゼルダの唇は何も音を紡げず、凍りついた。
「おやおや…いけませんねお嬢さん、気を付けないと」
そう言ってゼルダの行く手を阻んだ者は、異形の姿をした者だった。
最も異様だったのはその顔を覆う面で、中心に目玉を逆さにしたような模様が描かれていた。
ゼルダはこの模様を、ウルボザに文献を見せてもらって知っていた。
今まさしくウルボザが手を焼いている、この国を手中に収めようと各地で悪事の限りを尽くすイーガ一族のものだ。
「ハイラル一族の姫君が、供も連れずたった1人でこんな所をウロウロとしているとは…」
手を伸ばせばすぐにゼルダを捕らえられる位置にいるのにそうはせず。赤を基調とするピタリとしたボディースーツの腕を緩慢に上げ、わざとらしくやれやれ…とため息をつくのが、むしろ却って不気味だった。
まずい…こんな所で。
彼らは、目的のためならば手段を選ばないという。
捕まれば、どんな目に遭わされるか分からない。
(逃げ…なければ)
けれども、イーガ一族の狙いはハイラル一族の姫であるこの自分1人で間違いないだろう。そこに、関係のない人間を巻き込むわけにはいかない。
(おばあさんが…!)
どうか、逃げて…!と叫ぼうとして。
またしてもゼルダは何も言う事ができず、その場に立ち尽くさなければならなかった。
振り返った先に、ゼルダが逃そうとする者はいなかった。
腰の曲がった小柄な老婆はどこにも見当たらず。いたのは先ほどゼルダがぶつかった者と同じ体躯と格好の、異形の者だった。
「な……」
叫ぶ言葉の代わりにこぼれた呟きの後、首の後ろにトン、と軽い衝撃が走り。
ゼルダの意識は、そこで途絶えた。
人の話し声で目が覚めた。
ゆっくりと瞼を押し上げると、視界の向こう側でちろちろと明かりが揺れていた。
しかし、目に見える光源はそれだけで、周囲はほとんど真っ暗のようだ。
体を起こそうとして、しかしそうはできない事に気付く。
手と足は何かに縛られているようで、自由に動かせなかった。口にも布のようなものが巻かれていて、声も出せない。
(私…どうしてこんな事に……)
ここまでの経緯を思い返そうとして、頭がズキリと痛んだ。視界がまた、ぼやける。
考えなければならないのに、思考が纏まらない。
その原因たるものは、鼻腔から感じ取れた。
ゼルダの記憶にあるものよりもさらに濃く調合してあるようだが、この香りを知っている。
花の蜜を煮詰めて、さらに凝り固めたような。
お婆さんの、包みから漂っていた香り。
「ぅ……、」
頭が、痛い。
体に、力が入らない。
この香は恐らく、吸い込む事で神経に作用する効果のある薬だ。深く吸ってはいけない。しかし手足が拘束されており、どうにもできない。
何とかこの状態を打破できないかとしばらくの間もがいてみたが。やがてまた、肢体をぐったりと床に横たえる事となった。
すると、先ほど口からこぼれた呻き声に気付いたのか、明かりの向こう側から人影らしきものが近付いてくるのが見えた。
バサッと、自分と明かりとの間を遮断していたものが取り除かれ、またもや見覚えのあるものが姿を現す。
目の前から払われたのは御簾で、そこから奇妙なお面が顔を覗かせていた。
「おい、姫君がお目覚めなさったぜ」
様子を伺いに来た者がそう言うと、仲間らしき者がもう1人、後ろから顔を覗かせた。
私は…彼らに拐われたのかと、この時点でようやく薄らぐ意識の中で理解する。
この者達が街で私を拉致したあの2人と同一人物であるかどうかは、全ての者が同じお面を被っているので分からなかったが。ここが敵のアジトらしき場所なのは確かだった。
彼らは私が1人になる時をずっと狙っていて、荷物が重くて困っている老婆の振りをし、私に近付いたのだ。
彼らはもともと訓練していて耐性があるからなのか、はたまたお面をしているからなのか、この香の影響はあまりないようだったが。香の匂いに興味を持たせ、嗅がせて私の思考と身体の自由を奪うのも、彼らの策。
全てはいいように、彼らの思惑通りに動いてしまった自分の浅はかさが悔しくて、涙が滲む。
奥歯をギリ…と噛みしめると、布の奥からまたくぐもった声がもれた。
それを、恐怖のあまりこぼれた声と感じ取ったのか。御簾を捲った方の面が喋りだした。
「なぁに心配なさんな、別に取って食ったりはしねぇよ。あんたは、大事な大事な人質だからな」
人質、という言葉が胸に刺さる。では私は無理矢理彼らの一族の誰かと契りを結ばされるのか。それとも、私の命を盾にして、ハイラル一族の持つ莫大な力と権限とを奪い取るつもりなのか。
そんな事にこの身を使われるくらいならば、こちらにも覚悟はある。
自分の身が自分だけのものではない事くらい、重々承知の上だ。私が姫として生かされているのは、私の存在に価値があるからだ。一族にとって不利益となった者は、切り落とされる。それは姫であったとしても変わりはしない。
口に布を噛まされているので喋る事はできないが、あなた達の思うようにはさせません…!という意を込めて、目の前の2人を睨めつける。
すると、後から来た方が挑発的に笑った。
「はっ!気の強い女、俺は好きだぜ。なぁこいつ、生娘だろうが、なかなかの上玉じゃねぇか?」
そう言い御簾の中に入ってきて、ゼルダの前にしゃがみ込み、頭の上から足の爪先まで値踏みするように視線で舐め回していった。体が不自由な状況を何とかしようとした時に少し暴れたから、着物が着崩れているのに今さらになって気付き、そんな事をしても意味がないと知りながら、芋虫のようにじりじりと後ろに下がる。
だが、卑しい視線は着物からはだけ出たゼルダの白い太股に止まった。
面を付けているから表情は見えないが、きっと下卑た笑みを貼りつけているのだろう男が想像している事など、考えなくても分かる。
ゼルダは、ゾワリとした震えが背に走るのを感じた。
「おいやめろ、そいつに危害は加えるなという上からの命令のはずだ」
どうやら少しは思考がまともなようである方が止めたが、当の本人の男はそれに対し不服そうに声を上げた。
「かーーっ!つまんねぇ。お頭だっていい加減いい年なんだから、まさか新品がいいなんて言わねえだろ。ちょっとくらいいいじゃねぇか」
忠告に耳を貸さず、囚われの女に手を伸ばす事をやめようとはしない相方に、男はやれやれとため息を吐く。
だが、ふと何かに気付いたのか、御簾の向こう側に視線をやった。
「……おい」
再びこちらを向き、男が顎をしゃくると。今にもゼルダの肌の上に触れようとしていた手は止まり、小さく舌打ちをした。
「チ…ッ、分かったよ」
やがて彼らはまた御簾を払って出て行き、向こう側にあった灯りも吹き消された。
真の闇がゼルダを包み、部屋を出ていく足音もそのうち聞こえなくなった。
残された五感で感じ取れるのはただ、甘ったるい花の香りだけ。
暗闇に1人取り残されたゼルダは、体の震えを止められずにいた。
先ほどの男が、仲間を連れていってくれなかったら、一体どうなっていたのだろう、と。
一族の姫として、普通の街娘のように恋をし、望む人と結ばれるなどという淡い夢は見られない事は覚悟している。
好きでもない相手と、いつしか契らなければならないだろう事も、重々承知の上だ。
だがそれは、こんな所で。顔も分からぬ誰かに、無理矢理体を開かれる事などでは、決してないはずだ。
面で顔を覆っていても分かる、ゼルダの体を隅々まで探ろうとするねっとりとした視線。
自由がきかず、弱った眼前の女を、己の欲望を満たすための道具としか見ていない、その非情さ。
今一度、ゼルダは体をブルリと震わせた。
何か緊急の事態が起こったのか、ひとまず彼らは目の前から去ったが、危機を脱したわけではない。
用件が片付けば、またここに戻ってくるかもしれないのだ。
その時にまた、先ほどの続きが行われるのだとしたら…?
(嫌、だ……)
何とか、何とかしなければ…と思うのだが、気持ちばかりが焦って、思った通りに動かない思考と体ではせいぜい床の上でもがいて体力を減らす事しかできなくて。
(いったい…どうしたら……)
何か、何かないのかと、暗くてろくに物も見えない部屋の中を、それでも必死になって視線を彷徨わせていると。
静けさの中、一切の音を拾わなかったゼルダの耳が。不意に1つの音を感知した。
音がしたのはここからだいぶ遠い場所のようだが、何かの衝突音だろうか。最初の音に次いでまた、何かが何かにぶつかるような音が連続で聞こえる。
もう少しよく聞こうと耳をすませてみれば、今度は複数の人間が怒号のような声を飛ばしているのが微かに聞こえた。
誰かが、暴れている…?
しかしここからでは正確な情報は把握できず、人の声も、喋っている内容までは聞き取る事ができない。
数分間ほど、バタバタと聞こえてくる音に意識を向けていたが。やがてそれもまた始まった時と同様、突然にパッタリと止んだ。
再び訪れる、静寂。
暗がりの中息を殺して待つしかないゼルダにとっては、それは不穏であり、恐ろしいものでしかなかった。
視覚を奪われ、残された聴覚が逆に冴え渡る。
ドクドクと血潮が自分の体の中を巡る音さえも聞こえるようで、嫌な汗がじわりと出てくる。
(なにが…なにが起こって…)
心臓の音は、どんどんと高鳴っていって。
そして、また。ゼルダの耳は、何かの音を捉えたのだ。
それは、音というにはあまりにも小さな。衣と衣がすれる音。
普段ならば気付きもしないだろうものが、恐怖で最大限まで神経が研ぎ澄まされていたゼルダの耳を打つ。
ゼルダは、人の気配などを読む術は持っていない。
しかしいつの間にかこの部屋に、人がいたのだ。それに気付いてしまった。
気配も殺し、足跡さえも消し去り、誰かがこちらに近付いてくる。
普通の人間の足の運びではない。
きっと、先ほどの男だ。仲間と一緒にこの部屋を出た振りをして、1人だけこっそりと戻ってきたのかもしれない。
ゼルダを、弄ぶために。
ドクドクと脈打つ音が、耳のすぐそばでうるさいくらいに鳴り響く。
いくら静かにしていたところで、自分がここにいる事はすでに相手に知られている。
しかし、自然と呼吸する事を止め、ゼルダは身動ぎ1つすらできずにいた。
逃げることはもう、できない。
体も意識もまともに動かせない状態なのだから、闇雲に足掻いたとしても、すぐに捕まってしまうだろう。
そして残酷な現実は、ついにゼルダの元までたどり着いたのだ。
払われる、御簾。
闇に浮かんだ、細身の影。
(イヤ……ッ!)
ゼルダにとって死の宣告よりも恐ろしいその死神の姿が、目に入る事を脳が本能で拒否して。ゼルダは固く瞳を閉じた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ…ッ!
視界を世界から遮断したところで、状況は何も変わらない。
これはリンクからの忠告を無視し、下らない自分の息抜きの時間などを優先した結末なのだ。
彼はいつだって正しく、優しく、こんなにも私の事を気にかけてくれていたのに…
今さら悔やんでももはやどうにもならない事ばかりが脳裏に浮かんで、涙が滲む。
今から自分には、死よりも残酷な非道の時間が与えられるのだ。
口に噛まされた布のせいで自害を選択する事もできず、絶望に支配されたゼルダの耳に。
控え目に囁かれた1つの単語が届いた。
「……姫様」
目を見開く。
気遣わしげに、安心したように、呼ぶ声。
まさか、まさか、そんな事が…
彼が、こんな敵地真っ只中の危険な場所に、いるはずがない。これは、自分が現実から逃避するために見ている幻覚なのではないのかと、何度も何度も瞬きを繰り返した。
だが、夜目が利かないゼルダにはその全貌ははっきりとは見えなかったが、暗闇に浮かび上がった澄んだ瞳の青が、彼がリンクその人であると示していた。
「ご無事で、良かった……」
あまりの出来事に何の反応もできずにいたゼルダを、リンクはゆっくりと抱き起こして、口に巻かれていた布と、手足の拘束を解いてくれた。
「説明したい事は山ほどありますが、今はとにかくここから離れましょう」
リンクはそう言い、ゼルダに手を差しのべる。
しかしゼルダは、その手を即座に取る事はできなかった。
頭の中に、街で出会った老婆の姿が思い浮かんだからだ。
あの老婆は、姿通りの老婆ではなかった。
では、このリンクは…?
このリンクは、本当にリンクなの…?
そう疑ってしまった理由の1つに、まずこの危険な場所になぜリンクが来る事ができたのか、という疑問がゼルダの中では未だ解決されていなかったのと。
もう1つの原因は、リンクのその出で立ちにあった。
彼はいつもの小姓の服を着ておらず、ゼルダを拐った者達と同じような、体にぴったりと沿ったボディースーツのようなものを身に付けていた。
お面こそ被ってはいなかったが、その精悍な顔立ちは目から下の部分が、覆面のようなもので隠されていた。
目の前にいるリンクがあまりにもいつものリンクの姿とはかけ離れ過ぎていて、ゼルダには戸惑いしか感じられなかった。
「姫様…?」
返事もせず、ただぼぅっとリンクを見つめているだけのゼルダの様子に、不安になったのかリンクは心配そうに顔を覗き込んできた。
が、穏やかだったその瞳は突然鋭く光り、リンクは勢いよく背後を振り返ったのだ。
急激なリンクの変化にゼルダが驚いている間に、彼は素早く動き、御簾を力強く払い除けた。
あまりにも勢いよく払われたため、千切れ飛んだ御簾が、ゼルダの傍らに落ちる。複数の矢に貫き通された状態で。
敵襲があったのだという事をようやく理解し、蒼白な顔でリンクの方を見ると。彼は自分に向かって放たれた数本の矢を、手にしたクナイで全て弾き飛ばしていたところだった。
次いで、クナイで弾き飛ばせぬよう足元を狙われた矢を今度は足と床の間でうまく踏みしだき、その勢いのまま彼は前方に飛び出していく。
跳躍したままリンクは闇に向かって何度かクナイを放った。
ゼルダには、どこに誰がいるのかなど全く見当もつかなかったが、グ…ッというくぐもった声がして。その後、矢による追撃はなくなった。
時間にして、数秒。何が起こったのか頭の中でまだ整理が追いつかない。
しかしリンクは、クルリ、とこちらを向き、「失礼します」と一声掛けると、ゼルダの前に跪いた。
「きゃあ!リ、リンク…ッ!?」
リンクはゼルダの膝裏と背中に腕を回し、ヒョイとゼルダを持ち上げると、ここから立ち去るため駆け出した。
女とはいえ、人を1人抱え上げているのに、そんな事など全く感じさせずリンクは涼しい顔で入り組んだ屋敷内を走り、たまに現れる段差も軽々と飛んだ。
どこをどう走ったのかまるで分からないが、気付けば外で、屋敷の屋根の上に出ていた。
リンクは地上へは降りず、そのまま建物の屋根から屋根へと飛び移るようにして、さらに移動していく。
リンクの腕の中で風を切り、まるで空を飛ぶように走っている。
外はすっかりと夜になっていて、空にぽっかりと浮かぶ月が冴え冴えと青白い光を放っていた。
先ほどまで濃密な空気が立ち込める室内に閉じ込められていたから、新鮮で冷たい夜の外の空気が、ゼルダのモヤモヤとしていた頭の中を、スッキリと綺麗に洗い流してくれるようだった。
こんなに走っているのに、すぐ側のリンクからは疲れや息の乱れなどは全く感じられない。
このまま、どこまで行くのだろう…?とゼルダが思っていると、リンクは何かに気付いたように立ち止まり、ゼルダをそっと降ろした。
比較的足場の安定した所でゼルダをしゃがませると、リンクは落ち着いた声で言い聞かせるように言った。
「少し、ここでじっとしていてください。すぐに終わらせますから」
終わらせる?何を??
心の中の声がそのまま表れたような顔のゼルダに、リンクは何も心配はいりません、というように目を細め、すぐにゼルダの側から離れた。
まるでそれを待っていたかのように、何もなかった空間から赤い煙幕が出現する。そこに、ゼルダは今日何度目にしたか分からない面を見た。
現れた男は、今までゼルダの前に姿を現してきた者達とはまた違い、屈強な体の大男だった。
同じ模様を描いたお面に、同じ赤を主体としたボディースーツ。しかしそのぴったりと体に沿った布地は、隆々と盛り上がった男の筋肉を誇張させている。
リンクはゼルダとそんなに変わらないほどの背丈で、元々男性の中でも小柄な方だというのもあるが。
大男の前に立つと、リンクはその半分ほどの大きさしかないように見えた。
あまりもの、体格差。
素人目ながらも。いや…素人目だから、なのか。
この勝負に、リンクには到底勝ち目がないように見えた。
だがリンクは大男と対峙しても全く怯む様子はなく、真っ直ぐに敵を見据えている。
男が、その体に見合った丈の細長い武器を構えた。刃は奇妙な形をしていて、月光に照らされぬらぬらと輝いていた。
対してリンクも、小刀を構える。
しばらくは2人ともに動かず、相手の出方を伺っているようだった。
最初に仕掛けたのは、男の方。
男はその場から動かず刀を振りかぶり、そして大きく振り下ろす。すると真空波のようなものが起こって、真っ直ぐリンクの方に向かってきた。
それをリンクは横に飛び避ける。
そのままリンクは一気に男との距離を詰め、男に打ちかかっていった。
まるで弾丸の打ち合いのような攻防。早すぎてゼルダには弾き合う高い金属の音と、時折散る火花しか見えなかったが、大男に対してリンクは果敢に攻めていった。
一際高い金属音の後に、2人は離れる。しかしすぐさま男の方が攻撃に転じた。
男が刀を持つのとは違う方の手を下に叩きつけると、そこから切れ目が生じ、屋根の瓦も一緒に巻き上げながら爆風が地を這い、リンクに襲いかかった。
今度はリンクは上に跳び、攻撃を躱す。
予備動作もなく高く跳躍したリンクは、頭上から男を狙いクナイを放った。
男はリンクのクナイを全て刀で弾き落としていった。
お互いの攻撃は相手には上手く躱され、戦いはどちらも引かない競り合いに見えた。
軽々と宙へと跳ぶリンクは、おそらくその身軽さを生かした素早い攻撃方法が戦いのスタイルなのだろう。
目にも止まらぬ電光石火で相手の懐に入り、一撃を繰り出す。
しかしそれもこれだけの体格差があると、効果は半減してしまいそうで、ゼルダはとても不安になった。
対する相手の一撃はいかにも重そうだ。もしも、リンクに攻撃がまともに当たってしまったら、大怪我どころでは済まないかもしれない。
もしここでリンクが倒れれば、自分はまたあの屋敷に連れ戻され、そこで死ぬよりも恐ろしい目に遭わされるかもしれないというのに。ゼルダはリンクの事の方が気がかりで仕方がなかった。
もしも、リンクが怪我をしてしまったらどうしよう。
もしも、もしもリンクが…死んでしまったりしたら…!
ゼルダは切実に願う。リンクの無事を。
しかしゼルダの祈りも虚しく、ついに恐れていた瞬間が訪れてしまった。
キィーーン!!と高い音が鳴り響く。それは男の一撃を受けたリンクの小刀が折れた音だった。
「ーーー!!」
刃の途中から叩き割られ、何回か屋根の上を跳ねながら地面へと落ちていく小刀の欠片を、ゼルダは絶望的な思いで見つめる。
リンクもほんの一瞬自分の手元を見たが、すぐに何の未練もなく、彼は残った方の小刀も屋根の下に捨てた。
この好機を、相手が見逃すはずはない。
男は大きく前方に跳躍し、一気にリンクとの間合いを詰めた。
振り下ろされる刃に、今度はリンクはクナイで立ち向かった。
だが男は息をつく間も与えず、次々と斬撃を叩きつけてくる。リンクは全てクナイで弾いていくが、武器の威力の差は埋められなかった。
やがて男が横一文字に斬った刀によって、リンクのクナイは弾き跳ばされた。
小刀もクナイも失い、リンクは丸腰となってしまった。もはや身を守る術がなくなった彼に止めを刺すべく、男は渾身の力を込めて刀を振り上げた。
(あぁ……ッ!!)
リンクが斬られてしまう場面を直視する事はできず。ゼルダは手で顔を覆った。
耳は塞ぐ事ができなかったから。苦渋に満ちたリンクの声を聞かなければならぬのだと覚悟した。
しかし聞こえてきたのは、グホ……、という、リンクらしからぬ低い呻き声だった。
ゼルダは顔を上げる。
そこに見たのは、男の腹にリンクの脚がめり込んでいる瞬間だった。
そして、リンクの倍ほどもあろうかという巨体は後ろに勢いよくふっ飛び、先ほどの小刀のように、何度か屋根の上で弾んで、地面の方へと落ちていった。
信じられない事だが、勝負はついていた。
流れる水でも、一点に集中させれば岩にすら穴を開ける事ができると言う。つまりは、そういう事なのだ。
リンクは脚の一点のみに力を集中させ、武器を持たない相手に油断しきった男を、瞬時に体を回転させた勢いも加えて、渾身の回し蹴りで後ろへとふき飛ばしたのだ。
それは言うほど簡単な事ではない。相当に鍛えられた体幹と、体のしなやかさがないとできない技だ。
リンクは武器を失ったのに、その身ひとつであの大男に勝ってしまった。
受け身も取れずもろに地面に叩きつけられたらしい男がピクリとも動かない事を屋根の上から確認して。
リンクはこちらの方に歩いてきた。
「姫様、お怪我はありませんか?」
あまりにもびっくりする事が目の前で起きすぎて、リンクに聞かれた質問に対してゼルダは頷く事しかできないでいた。
すると、ゼルダの困惑した表情を見て察してくれたらしいリンクが、あぁ…と、顔の下半分を隠していた覆面をずらしてくれた。
「このような格好で申し訳ございません。掟に従い、正体を明かしておりませんでしたが、あなたにだけは伝えておくべきだったのかもしれません…」
覆面の下から現れたのは、やはりリンク以外の誰でもなくて。
深い青の目と整った顔立ちが、ゼルダだけを真っ直ぐに見つめていた。
「私は、ハイラル一族に仕える忍び。あなただけをお護りするよう遣わされた、忍びです」
「私の…、忍び……」
忍び。ハイラル一族が誇る、戦闘と隠密行動に長けた一団。しかし、忍びが誰なのかという事を、知る者はほとんどいない。
いつも身の回りの世話をしてくれていたリンクが、まさかその一員だったなんて。
普段の物静かな彼の印象からは、到底想像する事もできなかった。
「行きましょう。もう少し先で、インパが迎えに来てくれているはずです」
そう言ってゼルダをひょいと抱き上げると、リンクはまた屋根から屋根へと飛び移りながら、先に進んだ。
相変わらずの涼しい顔をしているリンクをじっと眺めながら、しかしさっきから緊張続きだったため、言いたくてもずっと言えなかった一言を、ゼルダはリンクに伝えた。
「リンク、ありがとう…」
「え…?」
突然話しかけられて、リンクは驚いたようにゼルダの方を見る。
「あの…怒って、ないですか?私があなたの言うことを聞かなかったから、その…こんな風にあなたに迷惑をかける事になってしまって……」
恐る恐るリンクの様子を伺いながらも、自分の非を認める発言をするゼルダに、彼はしばらく呆然として。
しかしやがて視線をふいと逸らすと、困ったような少し拗ねたような口調で答えた。
「そりゃあ、まぁ…少しは、怒っていましたよ。でも…姫様はきっと怖い思いをされたのに、その上責めたりなんてしたら…姫様が、お辛いだけじゃないですか…」
それに…とリンクは続ける。
「今はむしろ、姫様をお護りできなかった自分に対して、非常に腹が立っています」
「…??リンクは、私を助けにきてくれたではありませんか」
「姫様を、危険な目に遭わせました」
やはり、片時もお側を離れるべきではなかった…と、真面目な表情をするリンクは、こう宣言した。
「これからもお側でお護りさせていただきますので、どうかそのおつもりで…もう2度と、危ない目には遭わさせません」
頼もしくも力強い意思を持った言葉に、ゼルダはコクコクと首を縦に振るしかない。
これからも、リンクが護ってくれる。
側にいてゼルダの身の回りの世話をする使用人としてではなく。ゼルダを護る、忍びとして。
優れた身体能力を持つ、ハイラル一族の誇りでもある集団。
その一族の姫に付く、忍び。
(私…だけの、忍び……)
その言葉が一層甘い響きをもって、胸中に広がっていく事に。
ゼルダはもう、気付き始めていた。