和パロリンゼル【救いは 誰がために~中編~】「リンク!見てください、あちらの方にもたくさん花があります!」
四角い板のようなものを構えながら、ゼルダは声を弾ませリンクを呼ぶ。
ゼルダの持っているものは、プルアが試作品として作ったからくり道具らしく。何でもその場の景色でも人物でも、絵のように切り取る事ができるのだそうだ。その板の中身の構造や、絵として切り取れる原理などはリンクには全く分からなかったが。今回の試作品はゼルダがプルアのお手伝いをして作り上げたものらしく、今日はその性能を試すための遠乗りでもあった。
ゼルダがイーガ一族に拐われたあの事件から数ヶ月。ゼルダにはしばらくの間、外出禁止令が出されたのだが。
しかしゼルダ本人も今回の事はだいぶショックが大きかったらしく、気持ちも沈んでしまっていて。しばらくは本当に、部屋からもあまり出ない引きこもった生活を送っていた。
昼間はもちろんの事、夜もたまに寝ている間にうなされる時があり。リンクは昼夜を問わず、ゼルダの側で懸命に世話をした。
その甲斐あって、少しずつ、少しずつゼルダは回復していき。また、本来の好奇心いっぱいの明るさを取り戻しつつあった。
ちょっとずつ、リンクと共に屋敷の外に出かけ。
そして今日ついに、街を離れた遠くの草原まで外出する事ができたのだ。
街中での散歩や買い物を楽しむ事も気分転換になり、ゼルダの心が晴れると言えば晴れるのだが。
しかし本当は、こうして自然に囲まれた野原の中でのびのびと。植物や、生き物を観察したりするのが大好きな方なのだと思う。
こんな所にも、あんな所にも、と。綺麗な花を見つけては、それを四角い板を操作し絵に収めていくのを微笑ましく見ながら。そっとゼルダの横に行き、少し顔を寄せて、人差し指を唇の前に当てた。
「リンク…?」
不思議そうにこちらを見るゼルダに、指をさして先の草むらを示す。
リンクに示された箇所に視線を移し、ゼルダは感嘆の声をあげた。
「わぁ…ッコウゲンギツネの親子です…!」
すかさずそちらも絵に収め、ほわぁ…といった表情をして親子2匹のキツネを見つめて、かわいい…とゼルダは呟いた。
2人でしばらくキツネの様子を観察していると。彼らはキョロキョロと首を振り、やがて走り去ってしまった。
あぁ、行ってしまいました…とため息を吐いてゼルダは言ったものの、残した絵を見つめる目はキラキラとしていて、とても嬉しそうだった。
そんなところが、可愛らしいと思う。
あの一件以来、今まで煙たがられていたのが嘘みたいに、姫様はリンクに懐いてくれるようになった。
外に出る時はもちろん、外出を控えてずっと屋敷内にいた時も、ゼルダは常にリンクを側に置いた。
大抵は、ゼルダの部屋か書庫かだったが。プルアのお手伝いをしているからくり道具の事や、ハイラルに咲く植物などの図鑑を広げては解説をしてくれるゼルダの話を、リンクは熱心に聞いた。
ゼルダの知識はとても幅広く、豊富で。リンクには少し難しい所もあったが、リンクが質問をしたりすると、ゼルダはすぐに答えを返してくれた。
ゼルダの教え方はとても丁寧で、分かりやすく、リンクは次々と質問を重ねていく。
そんな事をしているうちに時間は瞬く間に過ぎ、気付けば、とても有意義な数ヶ月を過ごしていた。
「姫様、そろそろ昼食にしましょう」
「わぁ!リンクお手製のお弁当ですよね?とても楽しみです!!」
また、屋敷で養生している間。リンクはゼルダのために様々な栄養ある食事を提供していた。
リンクの作る料理は普通にとても美味しかったので、最初ゼルダは屋敷の料理人が作っているのだとばかり思っていたのだが。リンクが作ったものだったという事に気付いた時は、たいそう驚いていた。
そして、いつか遠出をして、リンクの作ったお弁当を食べてみたい!とゼルダにせがまれていたのであった。
今回は、その約束を果たす時でもあった。
「どうぞ、ゆっくりと召し上がってくださいね」
「うわぁああぁ、すごいです!」
細身の体の割には実はとてもたくさん食べるリンクの分も入っているので、目の前に広げられていく豪華なお弁当を見て、ゼルダは興奮気味に叫んだ。
ツヤツヤの白米で形良く三角に握られたおにぎりや、綺麗な黄色に焼かれた、だし巻き玉子。黄金色でサクサクに揚げられた、南蛮揚げなど。
どれも見た目だけではなく、塩やだしの味が程よくきいていて、味も申し分ない。
「おいしい!どれも、すごくおいしいです!」
「お口に合って、良かったです」
色んなおかずを摘まんでは、おいしいおいしいと喜んでたくさん食べてくれるゼルダを、目を細め微笑みながら見つめていると。突然ゼルダが、ガバッと顔を上げた。
「そうだ、リンク!今度、私にお料理を教えてください!」
キラキラとした目で、そう言われて。パチクリと瞬きを数回繰り返して。
そして思わず、ふふ…と、口から息を漏らす。
「はい、喜んで」
煌めく瞳で、何でもやってみたいと様々な事に挑戦しようとなさる姫様。
前のように明るい姫様が戻ってきて、本当に良かった。
どうかこのままずっと、笑っていてほしいと。
ただそれだけを。リンクは、願った。
ゼルダの護衛に当たらない日、まれにリンクには忍びとしての任務を与えられる事がある。
今日もそんな日の中の1日で、朝と昼頃あたりまではいつも通り姫様の側で過ごしたが、夕方から地方の豪族達との宴が屋敷内で開かれるというので。姫様は必然的にそちらに出席する事となり、夜リンクは忍びの任務に就いていた。
与えられた仕事を無事完了させ、屋敷に戻ってくると。屋敷の玄関口辺りで、誰かが小さな声でひそひそと話し合っている声が聞こえてきた。
ちょうど隠し通路からそっと屋敷内に入ろうとしていたリンクだったが、ふと気になる単語を耳にして、思わず立ち止まった。
「…おい聞いたか?姫様が……大変らしいぞ」
「あぁ、例の奴だろ?ほんと、好きだよな」
「とにかく姫様は部屋に帰されたらしいが……あの後、どうなったんだろうな」
(……なんだ??)
いかにも不穏そうな言葉が並んだ会話に、リンクは眉を潜めた。
どういう事だろう。姫様は今宵、豪族達との宴に参加されていたのではなかったのか。
屋敷内だから、自分がお側におらずともそれほど大事には至らないだろうと思っていたのだが。
よもやそこで何かが、起こってしまったのだろうか?
続きを聞こうと耳をそば立てたが、残念ながら会話はそこで途切れてしまったらしい。話し合っていた2つの気配が、玄関口から去って行くのが分かった。
詳細が非常に気になるところだったが、彼らを追いかけてみたところで、そんな風にこそこそと会話をしていた者がまともな事は教えてはくれないだろう。
そもそも自分は今、忍びの格好だ。このままの姿で人前に出る事はできない。
リンクは屋敷内に入る事を一旦諦め、少しだけ逡巡して。屋根の上に登った。
自室に戻り、着替えてから誰か詳細を知ってそうな人間を捕まえて聞いても良かったのだが。それでは時間がかかりすぎる気がした。
とにかく一刻も早く、姫様の身に何が起こったのか確認しなければならない。
屋根を伝い、人に会う事なく、リンクはゼルダの部屋の方面へと向かう。
姫様の部屋がある西の離れまでたどり着くと、今度は屋敷内に入った。
部屋の前に誰もいない事を確認して、リンクはスルリとゼルダの部屋の中に入り込む。
あの事件以来、寝ている間にうなされるようになった姫様はリンクの名を呼ぶ事がよくあったので、その度にリンクは姫の部屋を訪れ、側に付き添い、落ち着かれるまではずっと部屋にとどまった。
なので夜ゼルダの部屋にリンクがいたとしても、屋敷の者が怪しむ事はない。ただ今は忍びの服装だから、人目を気にしなければいけないだけだ。
(静かだ…)
姫様が大変だと聞いた割には、部屋の前にも部屋の中にも誰も人がいない事をリンクは不思議に思った。
あるのはどうやら、姫様の気配ひとつだけのようだ。
もしや、玄関前で話していたあの者達の勘違いだったのだろうか?それともすでに状態は落ち着かれて、姫様は眠られた後…?
いずれにしても、姫様の様子を確認できたなら、すぐにでも退室した方が良さそうだと判断する。
姫様が眠られているであろう寝処の側にある御簾をくぐる。
寝処の周りには幾つかの灯りが置かれていて、眠るには少々明る過ぎるくらいであったが。あの一件以来、姫様は暗闇を恐れられるようになった。
監禁されていた場所が真っ暗闇の中だったから、あの時の恐怖が甦るのだろう。
表向きは元気さを取り戻しつつあるが、ふとこうした所に姫様の心の傷の深さを伺い知る事ができてしまい、息苦しくなるほどに、胸が痛む。
果たして、姫様はやはり寝処で布団を被られて眠っておられた。お顔が少し赤いようであったから、そっと額に手を添えてみたが、熱はない。うなされていらっしゃる様子もなく寝息も安定していたから、ひとまず今のところは何も問題はないように見えた。
(良かった…)
ほっと息を吐く。
どうにも姫様が拐われたあの日の事件は、自分の中でも結構トラウマのようになってしまっているらしい。
自分がお側にいない間に姫様に何かあったら…と、必要以上に不安になってしまうのだ。
とにかく今回は大事がないようなので、早々にこの場から立ち去ろうと御簾の外側に出たところで。
背後から、ふと声がした。
「だれ……?」
しまった。起こしてしまったか。
声は少し寝ぼけているようで、まだ完全には気付かれていない。このまま立ち去っても、誰かがいたのは気のせいだったかと、誤魔化す事もできそうであったが…
「リンク…?」
名を、呼ばれた。
こうなってしまっては、知らない振りをする事はできない。しかも呼ばれた名はとても不安気で、うなされていらっしゃる時に呼ばれる声色と、とてもよく似ていた。
リンクは観念して、再び御簾の中に戻った。
「やっぱりリンク!来てくれてたんですね…!」
姿を現すなり、不安そうだった気配はどこへやら。姫様は途端に嬉しそうな声を上げて出迎えてくれた。
「忍びの服装…お仕事だったのですね、リンク。大丈夫ですか?どこか怪我とかは、してないですか…?」
来てはくれたが忍びの姿であったリンクに何かを察したらしい姫様は、安否を確認しようと手を伸ばしてくる。
その手を取り、逆に握り返して。リンクは問うた。
「俺は大丈夫です。それよりも、姫様のお加減はいかがですか?」
見た目は問題なかったが、姫様が大変であるらしいと耳にしたのだ。些細な事だったのかもしれないが、きっと何かしらの事件はあったのだろう。本人に確認を取れば1番手っ取り早く真相は分かるかと、聞いてみたのだが。
「私ですか?はい!とっても元気ですっ」
姫様は、とてもお元気でいらした。ともすれば、元気すぎるのでは…?と思うくらいに。
いくら離れにある部屋とはいえ、夜もだいぶ遅いのにそれを気にされる様子もなく話されるそのテンションの高さは気になったが。まだとろりと眠そうな眼に、眠っているところを起こしてしまったのだったと思い出して、握りしめたままだった手を姫様の布団の中に戻し、お側を離れるため姿勢を正した。
「お元気そうで、良かったです。眠っておられるところ、起こしてしまって申し訳ございません。ゆっくりと休まれてくださいね」
リンクが立ち去ろうとしている気配を感じ取ったのか、あ…っと、ゼルダは短く声を上げる。
その見つめてくる瞳が若干寂しそうではあったが。これ以上の長居は無用だと、リンクは踵を返した。
が…
「ダメですッ!」
ガシィッと腕を掴まれ、引かれて。リンクは後ろに反り返りそうになってしまった。
「ひ、姫様!?」
「もっとリンクとお話していたいです!リンク、ここに座ってください」
「えぇ…!?し、しかし」
もう夜中と言っても差し支えない時間になろうとしている。うなされていらっしゃる時は、ずっとお側に寄り添ったりもしたが…しかしながら今はお喋りを楽しむような時間ではない事は、明白だった。
それに今日は忍びの姿だ。話している声を聞かれ、誰か他の者が様子を見るため部屋に入ってくるなどという事態になったら、それはそれで面倒な事になる。
困ったように姫様の顔を見るが、引き下がってくれるような様子はなく、腕もガッチリと掴まれたままだ。
リンクは、はぁあ…と長いため息を吐いて、心の中で白旗を上げた。
「……分かりました。でも、少しだけですよ」
ぱぁあ…と、姫様の顔が明るくなる。
自分はこの笑顔に、弱い。
以前よりも姫様が心を許してくれるようになったのは非常にありがたい事なのだが。代わりに、めっきりと姫様に対して甘くなってしまった。
姫様が笑ってくださるのなら、大概の事は、まぁいいか…と思うようになってしまったのだ。
だから、なのかどうかは分からない。
次に発せられた姫様の言葉に、必要以上に動揺してしまったのは。
「ふふふ、リンクならそう言ってくれると思っていました!リンク、大好き!!」
「!??姫様!?」
姫様の声量に負けず劣らずの大きさで叫んでしまったのは、問題発言と同時に、姫様が抱きついてこられたから。
一体姫様は、どうされたというのか。
元気なのは良い事だが、あまりにもはしゃぎすぎでないか?
ショートしそうな頭の中で、それでも冷静であろうとする自分が巡らせた思考の中に、導き出された答えがあった。
ピタリとくっつかれた姫様から立ち上る、微かな香り。
これは、もしや……
「姫様……もしかして、酔っておられますか?」
「えぇ~酔ってなんか、いませーん」
酔っ払っている割には口調がしっかりとしていたから気付けなかったが、語尾はかなり怪しい。
姫様は先ほどまで豪族との宴に参加されていた。ならばこの陽気な姫様が作り出された原因は、そこしか思い当たらない。
「姫様…どれくらい、飲まれたのです?」
「んんん~?よく覚えてません。何だかたくさん飲み物、渡されました」
…要するに姫様は誰かにしつこく何度も酒をすすめられ、しかし全てを無下に断る事もできず受け取ってしまい、宴の席で酔ってしまわれた…と、そういうわけか。
姫様が大変らしいと言われていたのは、つまりこういった理由によるもので。なので姫様は宴もたけなわの中、途中で部屋へと帰されたのだろう。
酒とは適量であれば気分を向上させたり、良薬にもなるが。多くの量を摂取しすぎれば、それは逆に毒にもなりうる。急に倒れてしまう事だってあるのだ。
どこの誰がそんな風に酒をすすめてきたのかはリンクには分からなかったが。自分がもしその場にいたならば、姫様にそのような無茶など決してさせなかったのに…と思ってしまう。
ここは忍びの任務は少し控えさせてもらい、姫様のお側に仕えさせていただく時間を多くしてもらえるよう、掛け合ってみようか…
などと真面目に今後の仕事の在り方について考えていると、何だか自分の体がぽかぽかと暖まってきている事に気付く。
熱は主に、胸や腹のあたりから広がってきているようで。
…そう言えば姫様が抱きついてきてからずっと、くっついているままである事を、思い出した。
「あの……姫様、そろそろ離してくれませんか?」
「…イヤです」
「姫様、お水飲みましょう、お水」
「お水ならたくさん飲まされました。もうお腹がちゃぷちゃぷです」
ちゃぷちゃぷになるくらい水を飲まされるほど、体内に残る酒は強かったのだろうか…と思いながらも。それでも姫様に水を飲ませた者が置いていった水差しなどが側にないかと首を巡らせていると。
頬に指が伸びてきて、グリン!!と首を戻された。
「ーーーッ!??」
「ダメです、こっちを向いてください。リンクのお顔を見ながらお話したいんですッ」
(ち、近い……!)
顔を見ながら話すとは、そういう事なのか…?と突っ込みたくなるほど、姫様は顔の造形の細部まで確認する勢いの至近距離で覗いてこられて。
ともすれば、鼻と鼻とがぶつかってしまいそうで。吐息ですら、肌の上をふわり撫でて掠めていくようで…
リンクは今、己が忍びの装備であった事に心から感謝した。
まさかこんな形で、顔の覆面の布地が役立つ時がくるとは思わなかった。
直で姫様の吐息を感じてしまっていたなら脳はあっという間に沸点を越え、どうなっていたかも分からない。
そんな状況であるから、心を無にして必死に平常心を保とうしているのに。真正面から見据えざるを得なくなった姫様は、満足そうに、へにゃり…と無邪気に笑われたのだ。
「えへへ…リンクが来てくれて、嬉しい。リンクに会いたいと思っていたんです」
リンクは1日の大半を姫の側で過ごす。今日も、いなかったのは夜の時だけで、夕方までは普段通り姫様の元にいたはずだ。それなのに、姫様は会いたかったと仰られる。
リンクにはそれが不思議すぎて、ついいつもの癖で、疑問に思ったままの言葉を口に出してしまった。そして言った事を、後に悔やむ事となる。
「どうして、そんなに俺に会いたいと思ってくれるのです?」
「だってリンクの事、大好きですもん」
「……………、は??」
姫様は、リンクの今までの人生で知り得なかった様々な知識や、頭の中では理解しきれなかった難解な事柄をいとも簡単に説明し、とても分かりやすく教えてくれた。
でもたった今返された答えは、リンクにとってあまりにも不可解すぎて。だからたっぷりと十秒ほど沈黙してから、は??と、聞き返してしまったのだ。
「好きな人にいつでも会いたいと思うのは、普通の事ですよね…?」
まるで丁寧に生徒に教え説くように、姫様は語られる。その表情はあたかも、あなたの答えはいかがですか?と問い掛けられているようで。
好きな人に会いたいと思うのは、普通の事…、なのだろうか。
まるで、なぞなぞのようだ。
それに対する答えを、自分は待ち合わせてはいないように思えた。
姫様の仰るその「好き」が、一体どういった範囲のものを指し示しているのかすら、分からないというのに。
問いかけに答えられず、閉口してしまった自分に、仕方ないですね…と言うように、姫様は答え合わせをされた。
優しい教師のような顔で。
「私はリンクのいると、とっても幸せになれるんです。側にいてくれると、張り詰めていた気分が和らいで、もっともっと一緒にいたいと思うようになって」
1つ1つ、気持ちを込めるように、姫様は語られる。
本当に、酔っていらっしゃるのだろうか…?と疑ってしまいそうになるほどに。
「これからも、ずっとリンクと一緒にいたくて。そしてリンクもそう思っていてくれたら、もっともっと嬉しいんです」
…それが「好き」、という事なのだろうか?
分からない。分からないが、いつもの姫様ならばそんな事を口にされないであろう事は、分かる。
酔っぱらっているからこそ、そんな風な真っ直ぐな好意を示してくれるのだ。
だが、酔いとは。普段の時では表には出ない、心の奥底の本音が零れるものだと聞く。
これが、本当に本当に、姫様の本音なのだとしたら?
……嬉しい、と思った。
視線と視線とが絡み合ったその先で、姫様がそっと瞳を閉じられる仕草が、網膜に焼き付く。
(嬉しいって、なんなんだ……?)
分からない。自分には何1つ、正解の答えなど見つからないが。
目を閉じ、ずっとそのままの状態で待っている姫様に。
こうするのが、正しいのだと…その時は思った。
覆面を取らなかったのは、せめてもの罪逃れの思いからなのか。
薄く開いた柔らかそうな唇に、引き寄せられるように自らの唇を近付けた。
「……………、姫様?」
布越しにほんの一時掠めただけの唇から呼び掛ける声に、反応はなかった。
うなされている時にはいつも苦し気に寄せられている眉も、今は安心しきったように緩み、薄く開かれたままだった唇は幸せそうに笑みさえ湛えている。
こてん、と胸板に転がってきた姫様は、とても満足そうな顔をして、眠っておられた。
ゆっくりと体を離し、それでも目覚められない事を確認して、慎重に寝処の上に横たえる。
肩まで布団を掛けてやり、安らかなる寝顔を確認して。リンクは部屋から立ち去った。
そのまま、屋敷の中に戻る事なく、リンクは夜空の中を駆け抜けた。
どこまで、走っただろうか。
いつしか街からは遠く離れ、人影など見当たるはずもない真暗な草原に、ポツンと浮かび上がる小池を見つけた。
リンクは池の水際まで歩き、跪くと。何の迷いもなく、その冷たい水面の中へと顔ごと頭を突っ込んだ。
池はリンクの頭を飲み込んだ後、しばらくの間ゆらゆらと揺れていたが、やがてまた元の状態に戻った。
そして、かなりの長い時間が経過した後。入った時と同様、またザバリと音を立て、ようやくその頭は引き抜かれた。
水中に頭を投じた時に、覆面は首の方にずれて落ちてしまったようだ。
ポタポタと髪から伝い落ちる雫は波紋を作り、何度も何度も水面を叩く。
水鏡に浮かび上がっては、掻き消えていくのは。情に流された、卑しい男の顔。
ただ…姫様を、護ってさしあげたいと思っていたのだ。
恐ろしい経験をされて、心塞ぎこんでしまったあの人を。
なぜ、暗闇を恐れられるようになったのかを、知っている。なぜ、夜中にうなされるようになったのか、その原因を。
ずっと側に寄り添っていれば、嫌でも知れる。歯を食い縛り、それでも震える唇から漏れ聞こえるその悲痛な声で。
あのお方は夢の中でずっと、知らない誰かに陵辱され続けているのだ。
そして彼女は、リンクの名を呼ぶ。
助けて…と、頬を伝う涙と共に呼ばれる己の名に、ギリ…ッと奥歯を噛み締めて。
大丈夫です。ずっとお側におります、と。白くなるまで固く握りしめられた手を包み込み、目尻に浮かぶ涙を掬ってさしあげると。す…っと力が抜け、千々に乱れておられた呼吸はやがて、穏やかになるのだ。
敵の拠点から助け出した後、すぐさま姫様を専属の医者の所に連れて行った。体の隅々まで調べあげられた姫様には、傷や痣などは1つも見当たらず、乱暴な行為などは受けていないようだという診断だった。
姫様本人も何もされていないと言っていたし、真相を隠している風でもなかったので、恐らくは未遂だったのだろう。
しかしながらリンクは、幾晩も姫様の夢の中に現れ、姫様を苦しめ続けるその男を探しだし、姫様の目の前で葬ってやりたいとさえ思う。
あの高貴で清らかな方の体で、そのような下衆が欲にまみれた想像をし、あまつさえ心に深い傷を残すなど。考えただけでも、燃え盛る憎みの炎で腸が焼き尽くされるようだった。
あの方に危害を加えようとする者は全て排除し、降りかかるあらゆる災難から護ってやりたい。
そんな思いを持ってお仕えしていれば、姫様はリンクを頼ってくれるようになった。
他の誰でもなく、リンクをと。求めてくれるようになったのだ。
だから、加護欲が湧いた。
しかし少し考えれば、分かったはずなのだ。そんなものは、まやかしでしかないと。
姫様が自分に絶対の信頼を寄せてくれるのは、刷り込みと同じようなもので。
命を脅かされる。またはそれと同等の危機に瀕した極限の状態で、最初に助けに来たのがリンクだったから。
だから姫様は、リンクに救いを求める。
リンクだけを、心の拠り所にする。
厳しい自然の世界の中で、この世に誕生したばかりの何の身を守る術も持たない雛が、最初に見たものを親だと思い込むように。
それが本当の親でなくとも、雛は親だと思い込みずっとついていく。
それと、同じだ。
そんな姫様の傷心につけ込み、姫様のお心を欲しいままにしていたのは、他の誰でもない。この自分ではなかろうか。
酔った姫様から思わぬ本心が聞けて。姫様が自分に臣下としての信頼だけではなく、姫様自身の心から好意を寄せてくださっていると知って。自分は確かに、嬉しいと思ったのではないのか。
何が、加護欲だろうか。
なにが、あの人に危害を加えようとする者から、護ってあげたい、だ。
最も近しい場所で、無害な振りをしながら。弱った獲物がこちら側に転がってくるのを計算高く待つ、姑息な蛇。
姫様にとって最も危険な存在は、この俺だ。
(…心乱されるな。冷徹であれ)
己を保てと、自らに強く言い聞かせる。己のせいで姫様が傷付かれるその様を、未来永劫見たくないのであれば。
(忍びの心を、取り戻せ)
いつの間にか、髪から雫はこぼれ落ちなくなっていて。夜のしじまが還った水面には、青く冷たい月がその姿を映し出す。
覚悟を決した青き双眸は月のように、冴え冴えと耀いていた。
翌日姫様は、前日のお酒が悪さをする事もなく元気に起きてこられたようだった。
きっと最初に介抱した者がちゃぷちゃぷになるまで飲ませたという水が、良い具合に酒を薄めたのだろう。
泥酔した者によくある、記憶がごっそりとなくなっている、という現象はなかったようだが。しかしそれも所々覚えているという風で、当時の事はかなり曖昧なご様子だった。
部屋でリンクと会った事も忘れてはいなかったが、何だか一緒に話をしたような気がする…といった程度であるらしく、良かった…と、リンクは内心ほっとした。
妙な事に心靡かされず、護衛に必要な感情だけを保持する、と決意はしたが。しかしながら姫様自体が事細かに昨夜の事を覚えておられたら、それはそれでどういった顔をしてお会いすれば良いのか分からなかったからだ。
不自然によそよそしい振る舞いをする必要もなく、今まで通り付かず離れずの距離感を保ってお仕えできる事に安堵していたある日の事。
姫様がまた、体調が優れないので今日は1日部屋で休みたいと仰られた。
もう嘘をついて勝手に1人で外出されるような事はないと思いはしたが、念のため今回はちゃんと部屋で姫様の具合を確認するようにした。
熱はないようであったが、いつもの元気さと覇気はなく気怠そうであったので、大事をとって休まれた方がいいだろうと判断し、今日1日の姫様の予定をぐるりと頭の中に巡らせる。
今日は、とある豪族の家からの招待を受け、午後から先方の屋敷へと赴く予定であった。
リンクはすぐに他の遣いの者に事情を話し、ロームとインパへの報告を依頼した。
その後はきっと、彼らが先方に断りの一報を持った遣いを向けるよう手配してくれるだろう。
リンクもそこについていく予定だったので、空いてしまった時間はちょこちょこと姫様の部屋に伺っては様子を見つつ、昼食に滋養のある料理をお運びして。午後はちょっとしたお使いを頼まれたので、街へと出掛けた。
昼一番、そこそこ人通りが多い街中をヒョイヒョイと人を避けながら歩いていると。見知った人物がふと視界に入ってきて、おや…と思う。
気になったので目で追っていくと、その者はリンクが今いる場所からはやや距離がある、1つの屋敷の中へと消えていった。
(あそこは…)
リンクが記憶している通りであれば、あそこは今日姫様が招かれて向かわれる予定だった豪族の屋敷のはずだ。
姫様が酔ってしまわれた事件の後、人伝いに聞いた事だが。姫様に酒をたくさんすすめていたのは、どうやらここの屋敷の跡取り息子であったらしい。
姫様が今興味を持たれている「からくり」の内容にも精通し、姫様の事をいたく気に入っているらしい、婿候補の1人なのだそうだ。
屋敷に入っていった人物は、つい最近に姫様の側に配属されたばかりの女性の世話役だった。
姫様の体調が優れない事を伝えに来たのかと思ったが。しかしそれにしてはもう時間が遅すぎたし、大切な伝言の遣いに新人を向かわせたりもしないだろう。
(何か、別の用事を言いつけられたのだろうか)
気にはなったものの、それ以上踏み入った詮索もできないので。
心の中に一旦留め置く事にして。リンクは自身の用事を済ませるため、その場を立ち去った。
それからもずっと、姫様が体調不良を訴える日々は続いた。
最初は問題なかった熱も、高熱までいかないが微熱が出てきだして、何となく怠そうだし食欲もあまりない。さらには、一時は鳴りを潜めていた悪夢も復活してしまったようで、また姫様は夜な夜なうなされるようになった。
姫様は一体どうされてしまったのだろうか…?あんなに元気になってきていたのに…と、姫様に仕える者達が不安の声を上げる中。
門番から急な来客を告げる声があり、屋敷内は不意に慌ただしくなった。
何の事前連絡もなしに突然やって来た客とは、この前に姫様が体調不良を理由に約束を断った豪族の跡取りであるらしく、姫様に会わせろと言ってきているらしい。
どうやらせっかくの招待を突っぱねられたのが気に入らなかったらしく、その後も埋め合わせが一切ない事についての文句を言いに来たという事で。
姫様は体調が優れないからと説明しても、なかなか引き下がらないようであった。
どうにも厄介な案件だが、自分が引き止め役として出ていくよりも、その辺りはインパなどに任せておいた方が事は上手く運ぶだろう。
なので、リンクは姫様の部屋へと向かう事にした。
部屋の中は物音1つせず、奥に進み御簾を払うと、もう昼も間近だというのに姫様はまだ眠っておられた。
額に手をやる。
さほど熱くはないが、倦怠感が残っていらっしゃるのだろう。
姫様は起きていらっしゃる時も、近頃はずっとぼんやりとされていた。
実は、姫様のご結婚の話が最近トントン拍子で進み始めている事を、リンクは知っている。
お相手は、今まさに屋敷内を騒がしている例の豪族の御曹司であり、姫様がそれをあまり快く思っていない事も。
表面上は元気でいらっしゃるが、姫様はあの時の心の傷がまだ癒えていらっしゃらない。
だがあれはくれぐれも内密にと、外部には隠し通された事件だ。
姫様の結婚相手にはもちろん、屋敷の中でも一部の者しか知らない。
もしかしたら、一生引きずっていかなければならない傷かもしれないのに。
それらを理解し、全てを包み込み、一生をかけてでも癒し続けてくれるような伴侶であれば良いが。
姫様の近頃のご様子を見ている限り、とてもそうだとは思えない。
そもそも、具合が悪いと言っている者の所へ押しかけ、話をさせろと怒鳴り散らす事自体が。仮にも将来の伴侶になろうとする者に対しての、配慮された行動とは思えない。
さらり…と、枕の横に広がる金糸を掬い取る。
姫様を起こさないようにと、わざと髪の先端部に触れたのに。姫様は、ふるりと睫毛を震わせて目を覚ましてしまわれた。
「……リン、ク?」
「はい、リンクです。お加減はいかがですか?」
「う…、ん……まだ少し、眠っていたい…かもです」
「どうぞ、休まれてください。起こしてしまって、申し訳ありません」
「でも……、そろそろ起きないと。それに何だか少し、外が騒がしくないですか…?」
「姫様の心配なされるような事は…、何も。それよりも、後で食事をお持ちします。その時にまた起こしますので、今はもう少しだけお休みください」
姫様からの質問を誤魔化すように、食事の準備のためその場から立ち去ろうとすると。くぃ…、と控えめに袖を引かれた。
視線を落とすと、姫様は何かを訴えるような目でこちらを見ている。
それに、ふ…と微笑んで、返す。
「大丈夫…もう少し、側にいますよ」
そう言って、手を伸ばし頭を撫でてあげると。
姫様は安心したように目を細め、素直に瞼を閉じられた。
姫様の、安らかな寝息が聞こえてくるまで、ずっとずっと。姫様の髪をすき続けた。
…何と、役立たずなのだろうか。
自分の無力さに、心が苛まれる。
俺には何も、してあげる事はできない。
彼女の心の痛みを取り除く事も。彼女を取り巻く厳しい現実を覆してあげる事も。
こうしてただ、一時の眠りを与えてさしあげる事以外は、何も……
その後、かなりの長い時間駄々をこね続けたと聞いたが、例の婚約者候補の男はようやっと引き下がり帰っていったらしい。
いずれまた日を改めて来るのだろうが、今日彼の者が来た事を姫様の耳に入れずに1日を終える事ができて、ひとまずリンクはほっとする。
姫様はあの後食事をされて、しばらく起きておられたが。寝床で数冊の本を読まれていたため、部屋からは一歩も出られていない。
読まれていた本の中に、植物の図鑑を見つけたので。そう言えば最近まためっきりと外に出掛ける事もなくなってしまったな…と思い。今度何か用事で出る事があれば、姫様の気晴らしになるような花でも摘んでこようかと。何となくそんな事を考えながら、夜の見回りも兼ねて屋敷内の廊下を歩いていると。
ふと、視界に入ってきたものに首をひねる。
姫様の部屋の前に、人が立っていた。
見張りの者なのかと思ったが、そうではない。
立っていたのは、姫様の世話役の女性だ。
それだけでは、不審な点など何もない。何か用事があって姫様に呼ばれ、部屋にやって来たのだろうと自分は考えただろう。
しかし…他にも姫様の世話役の女性は幾人かいるが、あの女性の顔には、特に覚えがある。つい最近の、記憶に新しい出来事として。
あれは、リンクがこの間使いで街中に出た時に見かけた、あの豪族の御曹司の屋敷に入っていった女だ。
彼女は、昼時間帯の勤務のはずだった。屋敷に住み込みで働いているわけでもなく、いつもならば夕方頃に仕事を終え、帰宅している。
それが、なぜ夜もかなり更けたこの時間に、こんな場所にいるのか。
ざわり…と、全身の毛が逆立つ。
この感覚を、知っている。悪い事ほどよく当たる、直感というやつだ。
長年培ってきた忍びとしての勘が、体中の細胞を通してリンクに警告する。
あの者を、見過ごしてはならないと。
わざと気付かせるように、正面から堂々と女に近付いていく。
するとこちらの姿を認めるなり彼女はビクリと体を震わせて、そしてリンクを警戒した。
真っ直ぐに姫様の部屋へと向かってきたリンクに対し、部屋に入られるとまずいと思ったのか、女はすかさず扉の前に立ちはだかった。
そのあからさま過ぎる行動に、リンクは嘲笑さえ浮かべそうになる。
そのように分かりやすく振る舞えば、疚しい事をしていると自ら主張しているようなものなのに。
「失礼…姫様の様子を見に来たのです。そこをどいていただけませんか?」
努めて冷静に、しかし有無を言わせない口調でリンクは言った。その威圧的な態度に女は一瞬怯んだが、しかしすぐに気持ちを立て直して、言い返してきた。
「姫様はご気分が優れないので、今は誰も部屋に入ってほしくないとの事です。だから私が、見張りを」
今度こそリンクは、ふ…っと息をこぼし笑った。
確かに姫様は近頃ご気分が優れず、誰にも会いたくないと仰る時がある。しかしどんなに体調が悪くとも、リンクを部屋に通さない、と言う事などない。
この者は、そんな事も知らないのだろうか。
「『姫様』がそう仰っているのなら、指示に背いた罰は俺自身が受けます。あなたがお咎めを受ける事は、ありません」
姫様の意思に背く行為だとあなたに指摘されても、自分は部屋に入る事を優先させる、と暗に示して。失礼…と一言告げてから、彼女の横をすり抜け扉に手を掛ける。
すると、二の腕に強い力を感じた。
振り返ると、必死の形相でこちらの腕を掴む使用人の姿がそこにあった。
「何か部屋に入られると、まずい事でも…?」
女の動揺が、掴まれている腕から直に伝わってくる。
この女が何を隠しているかは知らないが、何か姫様にとって良くない事が起ころうとしている事は明らかだ。
ここでこれ以上この女と生産性のない会話をしていても、意味はない。こいつはただ、時間稼ぎがしたいだけなのだ。
掴まれた腕を振りほどき、女を無視して部屋に入ろうと、今度こそ扉に手をかけた。
すると、そこで女は告げたのだ。
リンクには到底理解し難い、不可解なる一言を。
「姫様は今から、未来の夫となられる方と、契りを交わされるのです」
耳を打ったその声に、再びゆっくりと女を振り返る。
何?今…こいつは、何を言った?
「正式な婚約は、まだのはずだが……?」
「そうですね…」
だがそれが、何だと言うのでしょう…と。もはや思惑を隠し通す事はできないと悟った女は逆に開き直ったのか、ペラペラと喋りだした。
「いずれは、お2人の間で成される事です。それが早くなるか、遅くなるか。ただそれだけの事でございましょう?」
何か問題がございますか?とでも言いた気な女の頭の正気さを疑いそうになる。
何を、バカな事を…
いくら婚約者候補なのだとしても、していい事と悪い事くらいあるだろう。それこそ、この人とは将来を共に歩く事はできないと判断され、姫様が突っぱねれば、トントン拍子で進んでいた婚約の話も、白紙に戻されるかもしれないのに。
……いや、だから…なのか
彼の方の人柄を、姫様はあまり快く思われていなかった。
それに加えて、近々の姫様の体調不良を理由に顔見せすらも認められない日々。
正面から攻めても効果がないならと、新たに側付きになった女に目をつけ、そいつをうまく使ってここまで手引きをさせたのか。
あの者はハイラルの姫君に見限られたらしいと噂を立てられれば、瞬く間に婚約者候補から引きずり下ろされ、ここぞとばかりに次なる座を狙っている新たな候補者達が、名乗りをあげてくるかもしれないのだ。
だから、そうなる前に既成事実を作ってしまえば、姫様とハイラルは我が物になると…?
「バカな…そんな同意のない行為など、許されていいずがない。姫様の気持ちは、どうなる?」
未だに、毎夜毎夜悪夢にうなされ続ける姫様。
それなのに、そんな行為が無理矢理に成されたら…姫様は、姫様は……
今度こそ、完全に壊れてしまうかもしれないのに。
ギリ…ッと噛み締めた奥歯の音が。この握り締めた拳の強さが、目の前の女に届いたのかどうかは分からない。
だが煮えたぎるリンクの臓腑とは裏腹に、女の反応は淡白で冷め切ったものだった。
「例えそうだったとして、それがあなたに何の関係があるのですか…?」
怒りに震え、俯きがちだった視線をのろのろと上げる。
女の目は、真っ直ぐだった。
そこに裏切りの後ろめたさなど、全く感じさせないほどに。
「これが姫様のお心に沿うものであったとしても、なかったとしても、わたくし達ごときに一体何ができましょう?位の高い方々が決められる事など、卑しい身分の者には関係のない事でしょう。ハイラル家が安泰であるならば、私は何だって良いのです」
そうだ…そう、なのだ。
全ては、彼女の言う通りであった。
この唇から出る言葉に、何の権限も影響力もない。
これは姫様の望まれる事ではないと。この婚礼の話をもう1度よく考え直してほしいと、リンクがいくら声を限りに叫んだところで。決定は覆りはしない。
それが、現実だ。
ほら…だから
姫様が今まさに、男に花散らされようとしていると耳にしても、自分は。
まるで根が生えてしまったかのように、この場から足を動かせないでいるではないか。
何が、あの人の忍びであろうか。
あの人が苦しまれているのを、危機が迫っているのを目の当たりにしながら、身動き1つすらできない自分はもはや、忍びの資格すらない。
例えばあの人がこの理不尽な現実から逃げたいと望むのならば、自分はどこまででも彼女を連れ去っただろう。
けれどあの人は、そうはされない。
決して逃げず、ただひたすら一族のためにご自身ができる事を、足掻きながらも必死に模索されている。
そんな健気なあの人の努力を、無に帰すわけにはいかない。
御身をお護りするだけの忍びにとどまる事もできず、かと言って救いの手を差し伸べる救世主にもなれない。
結局…何者にもなれはしないのだ、自分は。
…もう、いいではないか。
諦めよう。
何を選び取ったところで、あの人の隣に並び、共に歩める道は開かれない。
(結局、俺には…なにも)
全てを悟ったような虚ろな瞳で、ずっと握り締めたままで忘れていた拳をゆっくりと開く。
なのに、忍びの心を捨てきれない自分の耳は、微かな音を拾ってしまったのだ。
扉の向こう側から。
ぃやッ……と、拒絶を示す短い悲鳴の後に。リンク……!と名を呼ぶ、小さな声を。
気付けば、立ち塞がる女の体を乱暴に押し退け、扉を開け放っていた。
部屋に足を踏み入れた瞬間に、目が合う。
手で口を塞がれ、男に力ずくで押し切られ、褥に沈みゆこうとする、恐怖に引き攣れた姫様の目と。
瞬く間に、リンクはその場から消えた。
強く床を蹴り、一瞬のうちに寝床まで飛び、男と姫様の間に割り込んだ。
姫様にのしかかる男の体を強引に引き剥がし、男からは手が届かぬよう自分の体の後ろに姫様を完全に隠す。
「な…っ、あ…!?」
突然強い力で押し退けられ、男は驚きの声をあげた。
そして、いつの間にか目の前にいた第三者の存在に、目を剥く。
「な、んだ!?誰だお前、どこから来た!!」
「…姫様は体調が思わしくなく、現在静養中でございます。このような乱暴は、姫様の御体に障りますゆえ…どうか、お引き取りを」
「なんだと!?お前、誰に向かってモノを言っている!そこをどけ!!俺はこのゼルダとの、将来の……ッ」
うまくゼルダを手篭めにできそうだったところを、どこからどう見ても小間使いの身分にしか見えない若造に邪魔をされ、男はいきり立った。
しかし、その言葉は中途半端なところで途切れる事となった。
己の首に、刃の切っ先が向けられていた事に気付いたからだ。
「な………、!?」
「私は、ゼルダ様の忍びです。何者であろうと、ゼルダ様に危害を加えるモノからお護りするのが…私の使命です」
「し…、忍び……!?」
忍びという言葉を聞き、狼狽え、後方へと身を引く男から。構える刃は動かさず、射殺すような勢いで相手を見据える。
「どうか、お引き取りを」
今一度、警告する。
警告を無視し、それでもなおこのお方に触れるのならば…その首を掻き切る事も厭わない、と。
それが、偽る事はできない、己の心の内の答えだった。
次の日、リンクはロームに呼び出された。
部屋の前で名を告げると、入りなさい…と返答があったので、失礼しますと一言告げ、入室した。
ロームはいつものように、机で書類整理の業務をこなしていた。
1枚の紙から目線を上げ、部屋に入ってきたリンクを見る。
あの姫様拉致事件が起こった事により、リンクが単身敵のアジトに乗り込み、イーガ一族をほぼ壊滅状態にしたため。世間を騒がし、ハイラル家の中でも大きな悩みの種になっていた厄介事の1つはなくなった。
しかしこのお方の目の下にある皺は、さらに深くなったような気がする。
「リンクよ…なぜ呼ばれたのか、その理由は分かっておるな」
「はい、分かっています」
潔く答えられた返答に、ロームは1つ息を吐き。
そうか…と呟いて、静かに目を閉じた。
そして再び開かれたそこには、厳格たる盟主の顔があった。
「ならばリンク、ハイラル家の主として、そなたに命じる」
朗々と響く声に、リンクは居住まいを正した。
これからリンクには、昨夜姫様の部屋であった出来事についての処分が言い渡されるのだ。
例えそれがどんな内容であっても、全てを受け入れる覚悟であった。
「これからそなたには、任務に赴いてもらう。先日そなたが壊滅させたイーガー族の、残党狩りだ」
ロームは一旦そこで言葉を区切り、息を整え、そしてリンクに告げた。
「そして…そこでそなたは、命を落とす」
「!!?ローム様、それは……」
リンクに下されたのは裁きではなく、忍びとしての任務だった。そして、その後に続けられた言葉の真の目的。
「そなたは身分をわきまえず娘の婚約者となる者に無礼を働いたため、あちら側はそなたの身柄を引き渡すように言ってきておる。しかしそなたは娘の側付きとして今まで尽くしてきてくれた者。こちらとしては最も穏便に済む方法として、そなたをハイラル家から追放する、という形を取りたいところだったが…そなたは、忍びである事を明かしてしまった。戦闘と隠密に長けたハイラル家が誇る忍びの中で、しかも有能であったそなたを世に放ち自由の身にしたとなれば、それはそれで騒ぎが起こるだろう」
「………申し訳、ございません」
聞けば聞くほど、自分の取った行動の所為でこの家にどれ程の迷惑がかかってしまったのかを知らしめられて、リンクは身を縮ませるようにして謝罪した。
「いや…よい。そなたが忍びである事を明かさなければ、あの者は止まらなかっただろう」
リンクから視線を外し、ロームは窓の外を見る。
一族の一人娘として仕方がない事があるとは言え、婚約前にその対象の男に娘が襲われそうになったと聞いた時の、このお方の心情はいかなるものであったのだろうか。
未だに、あの場で止めに入った事が正しかったのかどうか、リンクには分からない。
ただ自分は、姫様が苦しまれると分かっている事を、見て見ぬふりをする事はできなかった。それだけだった。
ゆっくりと、ロームがこちらに視線を戻す。
「すまない、リンク。こんな形でそなたを追い出す事しかできない儂を…許してくれ」
「いいえ、そんな…!情けをかけていただき、ありがとうございます」
いくら姫を護るため相手を強く威嚇する必要があったとはいえ、特に指示を受けたわけでもなく独自の判断で、姫の将来の伴侶になるかもしれない男に刃物を向けたのだ。
その場で取り押さえられ、首を跳ねられていてもおかしくはない案件だった。
これでリンクは実質ハイラル家から追放となり、死んだ者として扱われるが。どこか…ハイラルの名の届かない、リンクの事など誰も知りもしない遠い、遠い地で。再び新たなリンクとして生まれ変わり、生きる事はできる。
「今まで、お世話になりました。俺みたいな人間に、ここの人達はみんな本当に良くしてくれて…感謝しかありません」
「いや…そなたはハイラル家のために、充分すぎるほど尽くしてくれた。礼を言わねばならぬのは、こちらの方だ」
「…身に余る、お言葉でございます」
今ここで、リンクがロームと会うのは最後となる。リンクがこの屋敷の敷居を跨ぐ事は、もう二度とない。
「……それでは、行って参ります」
でも、さようならとは、言わなかった。
あくまでも、主からの指令を忠実に果たす臣下として。
くるりと背を向け、目的を果たすため、扉に向かう。
そのリンクに、後ろから声がかかった。
「リンクよ…娘を救ってくれて、ありがとう…」
少し掠れた声色で伝えられた素朴な感謝の言葉に、リンクは会釈だけを残して。
もうくぐる事はない扉を、通り抜けた。
軽く自室を片付け、忍びの装束に着替えて。
リンクは屋敷の屋根の上にいた。
持っていく物は、何もない。
役目を果たすための武器と、この装束だけがあれば、それでいい。
後悔は、何もないはずだった。全ては、自分で決めて行動を起こした結果だから。
しかし、たった1つだけ、心残りがあるとすれば、それは…
リンクは足下にある西の棟をチラリと見た。
そしていつかのように、するりと屋敷内に入り、先にある部屋を目指す。
本当は、会わない方がいいのかもしれない。
でも、あの人が、真相を知らされる事もなく。こんな俺なんかのために心を痛めたりしたなら、それは辛い事だと思ったから。だから最後に会いに行く事にした。
騒ぎが起こってから、丸1日が経っていた。今この時も、夜遅くだったにもかかわらず姫様は起きておられた。
「リンク…!?」
まるで来る事を待ってくださっていたかのように、窓辺に立たれていた姫様は。部屋に入るなりすぐに気付いて、こちらに駆け寄ってきてくださった。
「リンク、リンク、無事で良かった…!ごめんなさい…わたし、わたし…」
リンクはゼルダの危機を助けたのだが、イーガー族の時と違い、今回はかなり相手が悪かった。
場合によってはリンクが罰せられる事態も十分起こりうると、姫様は気が気でなかったのだろう。
涙をポロポロとこぼしながら、リンクに縋りついてきた。
「俺は、大丈夫です。それよりも姫様のお加減はいかがですか?」
こんな時までも自分の事は二の次なリンクに、ゼルダの涙はとどまる事を知らず、どんどんとあふれてくるばかり。
「私は、大丈夫…だって、リンクが、助けてくれたから…でも、でも、私のせいで…リンクが……!」
きっと真相は、姫にも知らされていたのだろう。
このままこの屋敷に留まっても、リンクのためにはならない。よってリンクは忍びとしての任務に赴き、そこで命を落としたという事にして、ハイラル家から実質追放という処置を取られたという事も。
リンクは、泣きじゃくるゼルダの髪を、緩やかに撫でた。
きっとこの方は、あの時リンクの名を呼んでしまった事を、悔いておられる。
自分があそこで名を呼びさえしなければ、リンクが追放される事はなかったと。
でも。でも、そうではないのだ。
「俺は、あなたがご無事でいらっしゃるならば、それで十分なのです。最後まであなたをお護りする事ができて、本当に良かった…」
婚約候補の子息をここまで手引きした女官は、暇を出された。
きっと彼女も、姫様の身がどうなろうと関係ないと、本気で思っていたわけではないのだろう。
何の身寄りもないリンクとは違い、彼女にも家族がいただろう。
もしかしたら、ここで協力をしなければ自分だけではなく、家族にも害が及ぶと思ったのかもしれない。
例の子息は、まだ諦めてはいなさそうであったが。ロームも、インパも、これからはこれまで以上に相手の動向を監視すると言ってくれた。
婚約相手はあの男ではなく、また別の者が新たに候補として選ばれる事になるだろう。
その方が、どうか、姫様を幸せにしてくれるお人であれば。俺はもう、それで……
ただ1つ、もうこの人を側でお護りできない事が、唯一の…未練。
「姫様…俺もう、行きますね」
後ろ髪引かれる思いを断ち切るように、姫様の肩に手をかける。
見上げてくる姫様の瞳と頬は、もうずっと濡れたままで。そんな風に、俺なんかのために泣かないでほしいと。この涙が乾くまで、ずっと拭い続けてあげたいと、そう思うけど。
俺にはもう、そうしてあげられる資格も時間も、ない。
姫様から体を離そうと、手に力を込める。
でも姫様は、離れてはくださらなかった。
「リンク…最後に、最後に私の望みを叶えては、くれませんか…?」
「望み、ですか…?」
「はい…最後に、最後に私に口付けを…してください」
「……ッ姫様、それは」
彼女が望む事ならば、何でも叶えてさしあげたいと思う。
でもそれは、してはいけない事だ。
「なりません、姫様…それは、姫様にふさわしいお方と、なさる事です」
それにふさわしい相手は、俺じゃ…ない。
なのに、姫様はイヤイヤと首を振るばかりで。
「いいえ…私は、リンクと…!」
「姫様……ッ」
ダメだ…それ以上は言ってはいけないと、姫様の言葉を遮ろうとしたのに。しかしどこまでも自分は、このお方に流されてしまう者なのだと、今さらになって思い知らされた。
「いや……ッだって、だってリンクは前に1度、私に口付けをくれたじゃないですか…!」
「ーーーーッ!」
ギクリと肩を震わせる。
一体、何の事でしょう…?と、シラを切る事ができれば良かったのに。そうはできなかった事を、目敏く姫様に見抜かれてしまった。
「やっぱり……あの時、リンクが口付けてくれたと感じたのは、夢ではなかったのですね…」
姫様は、あの宴の夜の日の事をあまり覚えていないと仰っていた。それについて嘘をついている風ではなかったので、本当に当初は思い出せなかっただけなのだろう。
でも…きっと後から思い出されたのだ。
たった1度、己が忍びの心に反し過ちを冒した、あの日の出来事を。
「私…嬉しかったのです、本当に……」
「姫…様……」
ダメだ、それ以上は聞くなと、冴え冴えとした月と共に水面に顔を映したあの日の自分が、頭の中で警鐘を鳴らすのに。
この体は、木偶の坊のように役立たずになってしまったのか、指先1つさえ動かそうとはしない。
どんどんとお顔が近付いてくる姫様を、押し退けようとも、避けようともしない。
やがて、頬に伸びてきた姫様の手は、忍び装束の覆面に触れた。
「これ…イヤです、取ってください……」
「ひめ、さ……ま…」
ダメです…という言葉は、唇の中で掻き消えてしまった。
お互いが触れ合い、重なり合い、最初は姫様の方から懸命に。何度も何度も唇を合わせてこられた。
だがピクリとも動かせなかった手が。いつの間にか姫様のお顔に伸び、頬に指を滑らせ。気付けば自分の方から食らい尽くすように、姫様の唇を求めていた。
布越しではなく、直に味わった姫様の唇は甘く、柔らかく。酔いしれるような香りを立ち上らせていた。
何度も、何度も甘美な蜜を味わって。
やがて、名残惜しむように、唇を離す。
「っ…………」
目の前にある姫様のお顔を、見る事はできなかった。
きっと、瞳を潤し、熱い吐息を洩らしながら、蕩けるような表情をしているのだろう、その顔を。
決して見ないように下を向き、姫様の肩に手を乗せ、血反吐を吐くような思いで、絞り出す。
最後に、姫様に伝える、別れの言葉を。
「……さようなら、姫様。どうか、どうか…」
どうか、幸せに…と、言ってあげる事はできなかった。
そのまま姫様の体から手を離し、背を向け、逃げ出すように。
屋敷の外へと飛び出し、リンクは夜空の中に跳ぶ。
その耳をすり抜ける、冷たい風の音の中に。
誰かがすすり泣くような声が、聞こえたような気がした。