明日の朝も君におはようが言いたい 日本にいた頃、唯一嫌いな季節が『梅雨』だった。毎日雨が続くし、湿度が高いと肌がベタベタするから、くっつくと割り増しで岩ちゃんに怒られるし、髪の毛ぶわぶわになって毎朝岩ちゃんに笑われるし。
ただ、雨の続くその季節でも、俺の記憶にある限りこの日だけは毎年晴れる、という日が存在する。それが、六月十日。岩ちゃんの誕生日だった。
岩ちゃんは超晴れ男である。幼少期から行事ごとで雨が降ったことは一度もないし、天気予報で雨予報を叩き出していても、岩ちゃんが楽しみにしているイベントであればあるほどその天気はうまいことズレて、最終的には晴れになることが多かった。
「わ、めちゃくちゃ晴れてら」
アパートの窓を開け放つと、昨日までどんよりと曇っていた空には突き抜けるような青が広がっていた。
現在、アルゼンチン。六月十日、午前十時。岩ちゃんの恩恵はアルゼンチンにも届いているのか、本日のアルゼンチン、ばりばりの晴天である。
もとより日本に比べて降水量の少ない国だけれど、それでも昨日の時点で今日の天気は曇りのち雨だった。だけど、まあ岩ちゃんの誕生日だしな、と予報を無視して洗濯機をまわしてみれば本当に晴れるんだから笑ってしまう。
バルコニーに出て、洗いたての洗濯物を干す。今日はオフだった。今月のスケジュールが公表された時に、岩ちゃんの誕生日がオフだと知った俺はアメリカ弾丸旅行を企てたけれど、当の岩ちゃんに「アホか」とたった一言で却下されたのである。わりと本気だったのに。
妥協案として「俺が一番にお祝いしたいから誰からの電話もメッセージも受け取らないで」と頼んだら、それには「わかった」と返してくれたのに、アメリカ時間で0時を超えたあたりから何度かかけた電話は「電源が入っていない」とアナウンスが流れるし、送ったメッセージに既読はつかないし、いや俺からの連絡まで受け取ってくれないってどういうことなの と、この澄んだ青空とはうって変わって俺はどんよりしていた。
誰からの電話もメッセージも受け取らないでとは言ったものの、まさかスマホの電源を丸ごと落としているとは思わんでしょ。というか、社会人としてそれは大丈夫なんだろうか。俺が俺より先に他の人から受け取ってほしくないのは「誕生日おめでとう」の言葉だけで、言ってしまえは今日は岩ちゃんの誕生日であれどド平日である。岩ちゃんは当然仕事だろうし、そうなれば連絡手段が不通になるのはこの現代社会において死活問題だ。
「まあ、俺に対する誠実さの方向性がずれてると思うと可愛いっちゃ可愛いんだけどさ〜……」
タオルを干しながら、そう呟いて一人で笑ってしまった。いくつになっても素直で可愛いひとだと思うけれど、それで結局俺からのおめでとうも受け取ってくれないってんなら話は別である、マジで今日一日連絡取れなかったら、次会った時めっちゃ拗ねてやろ。俺の機嫌をとろうとする岩ちゃんは世界で一番可愛いので。
「つってもなぁ〜……やっぱ今日中に岩ちゃんにおめでとうって言いたいしなぁ……」
岩ちゃんがアメリカの大学に所属するようになってから、日本にいた頃よりも時差が縮まったこともあって、俺たちの通話の頻度はかなり多くなった。というか、基本的に予定がなければこっちの時間で毎晩二十二時頃に十分程度の通話をしている。
ちょうど岩ちゃんの仕事が終わった頃で、俺が寝る少し前。もしやその時間まで電源切りっぱなしにするつもりじゃないだろうなあの子、と、岩ちゃんならやりかねないその強硬手段に、大きくため息を吐き出した。だとすればあと十二時間は岩ちゃんの声が聞けないということである。
こんなことなら岩ちゃんとこの大学の関係者あたりにも交友関係を広げておくべきだった。そうすれば、俺が連絡取りたがってるからスマホの電源入れろって伝えてもらえるのに。っていうか、スマホの電源切ってようが大学に行っちゃえば生徒だの教授だのに誕生日祝われちゃうんじゃない? 奴らは岩ちゃんに直接おめでとうが言える立場にあるだけでも、羨ましいことこの上ないってのに。
「岩ちゃんのバーカ。単細胞。なんでスマホの電源切っちゃうんだよぉ」
めそめそと泣き言を言いながら洗濯物を干し続けていると、アパートの正面玄関のブザーがビーッと鳴り響いた。このアパートの入居者は基本的にうちの選手およびその親族だ。今日はオフだから、誰かの恋人でも遊びに来たのかな、と、完全に野次馬心でバルコニーからひょいと下を覗き込む。俺は岩ちゃんと連絡もとれないってのに、いいご身分ですこと。
「……ん?」
バルコニーの真下が正面玄関だ。オートロックがついているから、居住者の解除がなければ訪問者は中に入れない。どうやら相手がなかなか呼び出しに応じないらしく、訪問者はまだそこに突っ立っていた。
「んん?」
見覚えのありすぎる、真っ黒いトゲトゲ頭である。デイパックひとつ担いで、アパートの前に仁王立ちしている。居住者がなかなか反応しないことに苛立っているのか、腕を組んだ指先がイライラと二の腕を叩いていた。
そして──何かに引き寄せられるように、唐突にその訪問者が顔を上げる。
「いっ、岩ちゃん」
「あ、そこにいたのかよ。開けろ」
「えっ、あ、えぇ」
干したばかりの洗濯物をかき分けて、慌てて室内を振り返る。壁に取り付けられたモニター付きのドアホンには、愛しの岩ちゃんがはっきりと映し出されていた。どの家にコールしてもそれなりに響くインターホンだから、バルコニーにいたこともあって、うちのが鳴っていると気づけなかった。
ドタバタとバルコニーを這い出て、玄関ドアをぶちあけ、階段を駆け下りる。ほとんど飛び出すような勢いでアパートから出てきた俺を、「まぁ、こうなるわな」みたいな顔をした岩ちゃんがしっかりと受け止めてくれた。現役選手が飛びついてもびくともしない体幹は、さすがとしか言いようがない。
「え、何、なんで岩ちゃんがここにいんの……?」
「アルゼンチン弾丸旅行」
「俺にはアホかっつったくせに」
「いーんだよ。誕生日の男は法律と常識の許す範囲内ならなんでもしていいことになってる」
「初耳ですけどぉ〜?」
「アメリカはそうなんだよ」
「絶対嘘じゃん……」
ぎゅうっと抱きしめると、それを嗜めるようにぽすぽすと背中を殴られた。しぶしぶ少しだけ腕を緩めて岩ちゃんの顔を覗き込むと、悪戯が成功した悪ガキみたいな顔をしてやがる。可愛いなぁ、もう。アラサーでこの可愛さは奇跡だわ。四十日間俺より年上になる男がしていい顔じゃない。
「で? 俺になんか言わなきゃなんねぇことあるんじゃねーの」
「今日もかわいいね」
「そうじゃねぇだろ」
「愛してる」
「知っとるわ」
「今日会えてうれしい」
「からの?」
「っ、誕生日おめでと!」
「あはは、」
もうちょっと引っ張ってやろうかとも思ったけど、今日も今日とて俺の負けである。たまらなくなって叫ぶようにそう伝えると、岩ちゃんはけらけらと笑った。
「おう、さんきゅ。それ聞きにきた」
「マジでびっくりしたんですけどぉ……」
「だって俺もお前に一番に祝ってほしかったんだもんよ」
「ちょ、やめて……マジ久しぶりの生岩ちゃん破壊力抜群すぎて俺今泣きそうになってるから……あんま可愛いこと言うのやめて……」
「徹、愛してるぞ」
「おうコラ、調子乗んじゃねーぞ。お前の誕生日を俺の命日にしてやろうか」
「脅し文句が独特すぎるわ」
だはは、と爆笑する岩ちゃんを、とりあえず自宅に連れ込むことにする。というか、今日はひとり寂しく岩ちゃんを想いながら過ごす予定だったので、俺はまだ朝食を食べて軽く走りに行って洗濯物を干すということしかしてない。なんなら思いっきり部屋着である。
「岩ちゃん、飛行機何時? サプライズがすぎるけど、せっかくこっちにいるんだから全力で祝うからね! 岩ちゃんの時間が許す限り!」
「俺今日ここ泊まり」
「泊ま、と、泊まり マジで」
アパートの玄関に入る直前、岩ちゃんからのさらなる衝撃告白の追加にまたしても足が止まってしまった。ぐるんと振り返ると、岩ちゃんはゴソゴソとバックを漁って、スケジュール帳を取り出す。
「ん。今日からしばらくこっちにいる」
「しばらく なんで」
「研修。こっちの大学で勉強させてもらうことになってんだわ。ついでに出張で講演も何個か」
「待て待て待て待て」
ほれ、と岩ちゃんが俺に見せてくれたのは、こっちで一番有名なスポーツ系の大学の資料だった。うちのチームに出身者がいるからなんとなく話は聞いたことがあるけれど、確かにトレーナー課程も受講できたはずだ。岩ちゃんのとこの大学と何かしらの縁があったのか、それとも岩ちゃんが自分で繋いだのか、若手のトレーナーが集まって行う研修会があるらしい。
「いつまでいると思う?」
「いつ、え、待ってマジで、俺さっきから全然理解が追いついてないんですけど、」
「四十日間」
「よんじゅ……えっ、それって、」
ぱっと顔を上げると、岩ちゃんはふわりとやさしく微笑む。
「お前の誕生日も俺が一番に祝ってやっから。誰からの電話もメッセージも受けとんじゃねぇぞ」
「っ、」
びしっと言い切った岩ちゃんの腕を引いて、再び抱きしめる。勢いそのままやわいほっぺたにキスを落とすと、岩ちゃんはくすぐったそうに笑った。
「ほっぺでいいんか」
「岩ちゃんの口から〝ほっぺ〟なる単語が出ただけで勃ちそうなんですが」
「燃費良すぎねぇ?」
「一応外だから可愛い方のチューで我慢したんですう」
はあ、と、つい数分前とは事情がまるで異なる大きなため息を吐き出す。人間、たとえ嬉しい話であったとしても衝撃がデカすぎるとため息しか出ないんだな、なんて、どうでもいい新発見があった。
「あっそ。じゃ早く中入れろや」
「その岩ちゃん語を俺的に都合よく解釈すると、早く俺とチューがしたいですになるってわかってる?」
「わかってる」
「わかってんのかーい」
素直にこくんと頷いた目の前の男が可愛すぎてどうしようかと。もともと真っ直ぐな子ではあったけど、年々素直さに磨きがかかるというか、照れたり逆ギレしたりが少なくなって、その分甘えるのが上手になった気がする。遠距離恋愛ってすごいや、と、しみじみ噛み締めていると、法律と常識の範囲内であれば何をしても許されるらしい本日の主役である誕生日の男は、さっそくワガママを呟いた。
「いいからさっさと入ろうぜ。俺朝飯まだだから腹減ってんの。なんか食わして。それから──」
可愛くない方のチューしようぜ。
◆◇◆◇◆
「ん、」
ふわりと意識が浮上する。東側の窓にかかるカーテンの隙間から、きらきらとこぼれ落ちる陽光は透き通っていて、早朝の爽やかな明るさが滲んでいた。
最近は体内時計が正確になりすぎて、目覚ましのアラームが鳴る少し前に目が覚めるようになった。もともと朝には強い方だったし、一人暮らしもこれだけ長くなると、例外の生まれにくい規則的な生活になってくる。
「……あ、」
ぽつりと乾いた声が漏れてしまったのは、今日はその例外がすぐそばにいたからだ。人よりも恵まれた体躯をおさめるのに買った、少しお高めのクイーンサイズのベッド。アスリートにとって睡眠はとても大切だからと、邪魔しないようソファーで寝ると言って聞かないストイックな恋人に「いや恋人が同じ部屋にいるのに隣で寝てくれない方が精神衛生上良くない」と真顔で説き伏せて、一人分の体重しか乗せたことがなかったここに招き入れた。
寝具に妥協しなくて本当に良かったと思う。俺たちが二人で寝てもまだ余裕のあるベッドは、二人分の重さを当たり前のように受け止めてくれた。すよすよと気持ちよさそうに眠る岩ちゃんの寝顔は、何よりの安眠アイテムだと思う。実際昨日はものすごくよく眠れたし。
法律と常識の範囲内ならば何をしても許されると豪語した昨日の岩ちゃんは、とはいえ俺に朝食を振る舞わせたあと、いわゆる可愛くない方のチューをたくさんして、ランチには俺のお気に入りのカフェに連れて行って、ショッピングモールで買い物をして、夜ご飯は二人で狭いキッチンでぎゃいぎゃい騒ぎながら料理を作って食べた。ありきたりな、だけどだからこそ幸せな岩ちゃんの誕生日だった。俺の方が嬉しくなっちゃってどうしよう、と思ったけど、俺が嬉しいと岩ちゃんも嬉しいことを、俺はよく知っているので問題ない。
岩ちゃんがこっちに来ることを知らなかったので、誕生日プレゼントはアメリカに送っちゃったと眉を下げた俺に、大学の寮に住んでいる岩ちゃんは「たぶん寮母さんが受け取ってくれてる」とあっけらかんと笑った。なるほど、俺の送ったリザーブドリングは寮母さんに受け取られちゃうわけか。まあ、去年の夏の大会で岩ちゃんが地味に有名になってしまったせいで、今結構なモテ期に入ってるなどという情報を宮侑から流されて、とりあえずその左手薬指を予約せねばと大慌てで買ったやつだから、本人が四十日間こっちにいるならば、その間にどうとでもしてやろう。
岩ちゃんの薬指のサイズ、たぶん間違ってないと思うけどなぁ、と、その指をきゅっと握っていると、目の前の可愛い顔がむぎゅりとしわくちゃになった。あらやだ、ぶちゃいく。
「んん……おいか、あ……?」
「うん、おはよ岩ちゃん」
意外と岩ちゃんは朝が弱かったりする。完全に目が覚めてしまえばきびきび動けるけど、覚醒までの数分間は、普段の凛々しさが嘘みたいにふにゃふにゃしていて可愛い。この岩ちゃんを知っているのは、岩ちゃんの家族を除けば俺ぐらいである。まあ、俺ももはや家族みたいなもんですけども。
「んん〜……なんじ、」
「今? まだ六時半」
「おまえ、きょうは、」
「練習は午後からだよ。でもその前に日用品とか色々買いに行こうと思ってて、」
「そーか……」
しぱしぱと瞳を瞬かせた岩ちゃんは、ちらりと俺を見上げると、くふ、と小さく笑った。
「寝癖やば」
「マジ?」
「まぬけ」
「んもー、最悪。せっかく岩ちゃんのお目覚め一秒から超絶イケメン浴びせてやろうと思ったのに」
「寝言は寝て言え」
「事実なんだな、これが」
けらけらと笑った岩ちゃんは、それでようやく目が覚めたらしい。がぱりと起き上がって、ぐっと伸びをした。
「午前中買い物だっけ。んじゃ、俺もそれに合わせて出るわ」
ふわ、とあくびをもらした岩ちゃんに、「えー」と残念な声を出す。
「買い物付き合ってくれるんじゃないの?」
「大学の方に挨拶行かねーと。こっち来てまずここ来ちまったから」
礼儀に厳しい岩ちゃんが、俺を最優先してくれたらしい。もしかすると、自分の誕生日に合わせて一日前倒しでアルゼンチンに飛んだのかな。それを許されるくらいの人望の厚さは、アメリカでも健在なんだろうし。
「それに今回大学の寮の空いてる部屋貸してくれるっつーからさ。物置状態だったらしいんだけど、掃除は自分でするって言ったら好きなように使ってくれって」
「えっ」
「あ?」
「岩ちゃん四十日間俺とここで同棲するんじゃないの」
「しねーけど」
「しねーの」
さらりと言われて、思わず唖然としてしまった。俺はてっきり、こっちの大学に研修でいる間はずっとここで過ごすと思ってたんですが 午前中に行こうとしていた買い物もまさにそのためのもので、岩ちゃんのための食器とか歯ブラシとか、そういうのを買い揃えようとしてたわけで。
「なんで その大学だったらここからでも通えるじゃん」
「いやまあ、そうだけど」
「研修だったら宿泊先は別にどこでもいいんじゃないの」
「俺みたいに寮の部屋借りるやつもいれば、ホテルに泊まるやつもいるって聞いてるな。友人の家に泊まるってやつもいたような……」
「友人の家に泊まるやつがいるのにどうして恋人の家に泊まらないわけ」
「だってお前も忙しいだろうし」
「忙しいよ だから何」
「えぇ……勢い怖……」
「そりゃ怖くもなるでしょうが 降って沸いた同棲チャンスを俺が見逃すとでも」
キシャー と猫の威嚇がごとく岩ちゃんに反論しまくってると、岩ちゃんの瞳がふと小さく泳いだ。なんだその顔。どういう顔だそれは。ちょっと動揺してる?
俺の勢いに困ってるわけではない。嫌なことは嫌だとはっきり言う男なので、研修期間をここに過ごすことによって互いにおいて何かしらの悪影響が及ぶようなら、一も二もなく断られるはずだ。だけど、岩ちゃんはダメだとも嫌だとも言ってない。だとすれば、これは押せばいけるやつである。
「岩ちゃんは何がご不満で?」
きゅ、と、握ったままだった指先を滑り込ませて、大きな手のひらに触れる。指を絡めて繋ぎ止めれば、「んんー」と、低い唸り声が上がって、せっかく起き上がっていた岩ちゃんが再びぼすんとベッドに倒れ込んだ。
「不満、じゃなくて、」
「うん?」
「…………ぎゃく」
「逆?」
「…………テンション上がりまくりそうでやだった」
「は?」
──え? は? なんか今とんでもなく可愛いこと言わなかったか? この男。
すん、と真顔になった俺を、岩ちゃんがちらりと見上げる。
「っ、なんか言えや」
「いってぇ」
ぼすん、と思いっきり枕でぶん殴られて、痛くはないけど衝撃で脳がチカチカした。いや、枕に殴られた衝撃というよりは、岩ちゃんの発言による衝撃の方がでかいんだけど。
「お、おま、っ、はあ〜〜〜〜〜」
「んだよ、ガラじゃねぇのはわかってんだわ」
「ガラじゃねぇとかそういう問題でもねーわ かっわいいなぁもう 俺昨日から『岩ちゃん可愛い』が止まらんのよ」
「止まることあんのか、それ」
「いやよく考えたらないわ」
「真顔やめろ」
ぽいっと俺の手を振り払って、岩ちゃんがぎゅうっと枕を抱きしめる。顔は隠れてしまったけど、耳まで真っ赤だもんな。ちょい、とその耳先に触れると、びっくりするほど熱かった。
「ねえ、岩ちゃん。四十日間ここ住んでよ。まあ四十日後に寂しすぎて俺ギャン泣きするかもしれないけど」
「余計住みにくいわ……」
「ねえってば。お願い。岩ちゃんってば」
ねえねえ、と、その体を揺すっていると、もぞ、と、枕が少しだけずれて、岩ちゃんの猫目がじっと俺を見上げた。少しだけ目尻が赤くなっているのがものすごく可愛くて「だめ?」と首を傾げた俺は、自分でも引くほど甘ったるい声が出たと思う。
「…………朝起こせよ」
「そりゃもう。及川さんの目覚ましボイス毎朝撮り下ろしでお届けしちゃうよ」
「ふは、うぜ」
「そこはキュンとするとこなの!」
ぽいっと岩ちゃんが抱きしめていた羨ましい枕を奪い取って、代わりにそこに自分の体をねじ込む。枕にしていたみたいにきゅっと抱きしめてくれたので、「でへへ」とだらしない笑い方をしてしまった。
「お前はプロの自覚があるから大丈夫だと思うけど、俺と一緒に住んでコンディション落とすようだったらすぐ出てくからな」
「わかってますう。むしろ絶好調すぎて惚れ直すなよ。いや嘘、惚れ直して。毎秒好きになって」
「うぜ〜」
「そこはキュンとするとこだっつってんでしょ!」
ぺちりと丸い額を叩くと、岩ちゃんがけらけらと笑った。
「んじゃ、まあ……しばらくの間、よろしく頼むわ」
そう言って、珍しく握手を求めてきた恋人の右手をぎゅっと握り返す。
「ん。こちらこそ」
こうして、俺たちの期間限定の同棲生活が幕を開けた──と、同時に、俺はこの四十日間でどうにかして岩ちゃんのその左手薬指に予約済の指輪をはめるべく、奮闘することになるわけである。