ここは花道、また来て奈落冗談のように美しいおとこだと思った。どこかでズルでもしているみたいに。
初めて会ったとき、ほんの一瞬だけそう考えたことを思い出す。あっという間に覆された第一印象だったから、今まですっかり忘れていた。忘れていたから、目を奪われてしまった。だから私は、壁に貼りたくられたポスターをただ見つめる。
写真の中でゆらりと微笑む彼は、すっかり一般名詞として膾炙された顔をしていた。印刷されているからだろうか。切り上がった目尻だって、人に害のないようすっかりやすり掛けされて見える。春の訪れを囁く淡い髪色に、濤乱刃の虹彩。脱色された皮膚の上で、持ち上げられた唇の端にだけ赤が滲んだ。赤だ。その色はほんの少しだけ意識をささくれ立たせるけれど、それだけ。殺傷能力なんてとんでもない。
ここにあるのは無害な虚像だ。いくつものレンズとたくさんの眼差しによって濾過されたそれは、正しく鑑賞されるための彼の姿だった。
ズルでもしているみたい。今はもう、そんなことは思わない。いっそズルでもしていた方がまだ良かったなァ、なんて、甘ったれた感慨が脳裏を過った。本当は良いことなんて、ひとつだってないだろうに。
「見惚れてくれてるんだ」
男がいると、知っていた。振り返りもせず、私は応える。
「はい。写真だと、綺麗なお顔に見えますね」
「それはありがとう。実物は?」
開演前の楽屋裏。人通りは絶えて久しい。どこにも観客もいない薄暗い廊下を、男がひとり、塗り替えた。
「倒し甲斐のある顔」
阿良川魁生が私を見る。
だからここは、地獄の花道。
よれたビニル皮の床は、山と積まれた骨の白。天井で、古ぼけた電熱灯がジィと鳴いた。それはまるで、焼かれるために飛んだ蠅が死ぬ音のようだった。舞台上のスポットライトには存在し得ない、炎に似た揺らめきを抱く光。けれど、だからこそ、この灯こそが今の私たちに相応しい。焦げて、焦がれた、世間様に笑われる愚かしいものどもを、芸事に身投げした私たちを照らすのに、うってつけ。
ぬるい業火の下で彼は、煙草を吐き捨てる仕草で嘲笑した。ぎらり。虹彩の刀身が光を帯びる。ひずんだ唇の陰で、糸切り歯が黒く塗りたくられた。ぐいと引き絞られる目尻は何を動力としているのだろう。悋気だと嬉しい。今の私ならそれくらいしてもらえると、自惚れても良くないかな。
「誰に口、利いてるんだか」
彼のまとう羽織の裾は落ち沈み、緞帳のように強制的なおしまいを示唆した。嫋やかでありながらも優しさは駆逐された撫で肩。顎は既に引かれている。それはまあ、受け身の基本ではあるけど。春の花を散らすように私の髪の毛先まで眺めて、ぴたりと彼の目が据わる。こちらを見て、必ず殺してやると突き付ける瞳。石突きのない片刃は振りかぶられ、ただ私の喉へ狙いを定めた。光栄なことだ。光栄なことでしょう? いちばんに喉を、私の言葉を奪うと示してもらえたのだから。だから、笑う。
「私の噺に目をかけてくれた人に、です」
今、丸くなった、彼の瞳がいっとう好きだ。
正しく研磨された刃物の両目。芸事に魅せられて、これまでにどれほどの熱を帯びてきたのだろう。幾人の観客を、落語家を刺し殺してきたのだろう。何度限界を超えて叩き延ばされたのだろう。いつから天秤じみた底冷えを湛えているのだろう。
どうやったら、私だけを見てくれるだろう?
なんて、答えはもう分かっているのだ。だから挫かせたいと思う。膝をつかせたら、背の高いこの男は私を見上げる。彼の運命を切り替えた師匠よりも、同率を煽り立てられる男すらも忘れて、きっと私だけを見る。でもどれだけ圧倒的に負かしても、絶対に惚けた顔はしないんだろうな。彼は抜き身の刃に似ているけれど、折れても曲がってもそれを肥やしとすると知っている。というか、そうでなきゃ倒し甲斐がない。
「あァ、そう。確かに僕は、芸を見る目は昔からあったんだ」
負ける気はない、なんてもう眠たい。お前を取り殺してやると望まれたのだ。ならば、それ相応のもので応えなければ。
いい加減、と彼は言う。今日こそは、と私は応える。
「死んでおくれよ、あかねちゃん」
「殺してあげます、魁生兄さん」
奈落に落として差し上げましょう。そのときの私は微笑みながら高座に座り、舞台袖から落ちていくあなたを見つめる。数多の噺のなかで情欲に溺れた阿呆共よりずっと熱心に、一心に、本当の恋でもしているように。
だからあなた、いつまでも、私を殺しに来なさいね。