相似の瘡蓋【相似の瘡蓋】
季節外れに葉を落としてしまった大樹のように、彼はひとり立っていた。
日陰のうちに固い樹皮を晒す、寒々しい黒。陽射しのなかへ自ら動くことは許されず、光を受けるための青い葉も既に持たない。枯死することを厭わないどころか、淡い納得すら覚えているような立ち姿であった。それでも本当の森の内であれば、ただの景色に埋没できたであろう。けれどここはアスファルトの上だから、彼は根も下ろせない。ひとり、ただそうすることしかできないように、立っている。
休日の温泉街の駅前でも、彼は周囲からは遠巻きにされている。改札を出た私は、それをみとめて足を速めた。
「お待たせしました、カイさん」
私を見つける視線が、カイさんを解凍する。目尻と唇がほどけ、伏せられていた黄金の瞳が光を帯びた。いつもより丁寧に、目立つところのないように撫でつけられた黒髪は、首を傾けたところで揺れもしない。
「……立花。すまない、急がせたな」
「いいえ。予定より少し早く着く予定だったので、むしろ都合が良かったです」
「そうか。それなら良かった」
言葉の終わりに、綻びかけていた唇が固着する。固く引き結ばれたそこには、ありありと悔恨の色が浮かんでいた。
「ああ、いや。良いことは、ないか。こんな日に」
寒々しく、固い、終わってしまった黒をまとって、カイさんは首元のネクタイに触れた。指先に力が込められたからだろうか。抹香の匂いが鼻についた。お焼香だ。拾い上げられ、僅かに留め置かれ、手放されるもの。白く、赤い炭は櫁の粉末を燃やすばかりで、きっと彼の指先を暖めることはしなかったのだろう。そこにある熱はただ死者のために、平らかに香りを広げるだけのものだ。同様に炭に宿る火の明るさだって、何かを照らすために灯されたものではない。当然だ。当然の、ことばかりだから。
「行きましょう、カイさん」
だから私は、たまらなくなる。
悲しくて、悔しくて、寂しくて、カイさんを連れ去ってしまいたくなる。
「立花?」
まだ惚けている、けれど少し慌てた声には返事をしない。言葉の代償とするように、予想通り冷えていた彼の指先をきつく握り締めた。
今日はもう、彼をひとりにさせたくない。そう思ったから、私は来たのだ。
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いつか、少しだけお世話になっていた家の方に不幸があったと、彼は言った。
「すまないな。揃って休みが取れる週末は久しぶりだと、話をしたばかりだったのに」
薄曇りの瞳は、正面に座る私を上手に眼差せない。ふたりきりの部屋に、ひたりと夜の気配が迫った。私たちがひとりと、ひとりだった頃の、夜の記憶。相似のそれらは、だからこそぴたりとは重ならない。ただ彼の染み入るような寂しさの気配だけを、理解してしまえる。私は無理に、口元を和らげた。
「そんな、謝るようなことではありませんよ。カイさんも出席されるんですね」
「ああ。告別式だけだが、出席するつもりだ。ユニヴェールへの入学の際も、書類に名前を貸していただいたからな。それにしては随分と、不義理を働いたが。それでも、だからこそ、出なければならない、と思うんだ」
浅い息でぶつりぶつりと断ち切られた文章は、理性による塗装が間に合っていない。けれど言葉は澱みなく紡がれ、血も滴りそうな剥き出しの感情が私には見えにくい。
カイさんは義務や、役割で動けてしまえる人だ。それがあまりに窮屈な鎧であっても、どれたけ高い踵であっても、自分がひとたびそうすべきだと思えば逡巡せずに身につけられる。そして彼はお仕着せられたものに肉を食い破られながらも、周囲にとって賞賛に値する結果を残せる。そう振る舞わなければ、カイさんはここまで歩んでこられなかった。だから湿った瘡蓋も歪んだ骨格も、迷いなく愛すべき彼の一部だ。
「……それなら」
けれども、カイさんの型に嵌ろうとする微笑みを見るたび、心がすうと冷めることを自覚する。この感情の正体に、私はまだ追いつかれていない。だって寂しさは長い友人だ。悲しみに浸りきるにはもう遅い。憤りとするには熱が足りない。望みを絶つ必要はここにはない。
追いつかれていない。奪われていないのだから。
「せっかくのお休みでもあるんです。式の終わった後で合流するのはどうでしょう? 私は午後にそちらへ着くようにしますから、そのまま近くで1泊しましょう。カイさんが、良ければですけど」
気づけばそんなことを提案していた。今になって思えば、少し意地になっていたのかもしれない。何故って、私はこの話を聞かせたときの彼の顔を憶えていないからだ。だからきっと、逃げるように屁理屈を並べていたのだろう。
「旅行をしましょう。一緒に」
忍び寄るやるせなさに、追いつかれないために。
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チェックインまではまだ時間があるからと、先に少し遅い昼食をとることになった。
駅から少し歩いたところにある緑茶の専門店は、2階で喫茶店を営んでいるという。電車の中で調べておいたことと、そこへ向かいたいことを伝えれば、カイさんはいつもより少しだけ言葉少なにお礼と肯定を口にした。昼下がりの商店街を通って目的のお店に入ると、ちょうど昼食と喫茶の切れ目の時間だからかお客さんは疎にしかいない。
「わ、本当にお茶の葉の緑ですね」
「そうだな。いただきます」
カイさんは茶蕎麦、私は緑茶の葉を使ったクリームパスタを頼んだ。まだ湯気の立つスパゲッティをフォークで巻き取る。
「……美味しい!」
「うん」
見た目や味付けはジェノベーゼのようだけど、こっくりとしたクリームが口当たりをまろやかにしている。平打ちの麺はもちもちと、振り掛けられたあおさに絡む。口からパスタがなくなった後で、不思議とすっきりするような緑茶の香りが鼻を抜けた。美味しい、美味しいけれど、何がどう美味しいのか悩ましいお味だ。
「すごい、どうやって作っているんでしょう……。あ、カイさんもぜひ一口食べてください。空いた小鉢のところに入れてしまっても良いですか?」
「あ、ああ。それは構わないが、そんなに美味しいのなら立花が食べれば」
「だめです。一緒に食べてください。でないと家で再現できないじゃないですか」
わざとらしくはならないくらいに、私ははしゃいでみせる。きっとこんな薄い演技は、彼にならたちまち見抜かれてしまっているだろう。そんなことは十全に理解した上で、重ねて笑った。つられてくれたように、カイさんもほんのりと笑う。高く通った鼻筋は、彼が小さく首を傾げると淡い影を頬に落とした。それだけで、角張った輪郭が少し柔らかく見える。
「それなら俺も、お返しに。流石名産地だな。香り高い、とても美味しい蕎麦だ」
演じて、装って、そうあれかしと体現した感情に、本心と呼ばれるべきものが存外引き摺られることを、私たちは身をもって知っている。いいや、こんな言い方は少し格好つけすぎているのかも。
ただ、微笑みたいの。あなたに、微笑んで、いてほしいの。
そう願って、私たちは食事を進める。いつもよりは少し、賑やかに。
ああ、そうだ。
食後の柔らかに温まった声を上げ、カイさんは鞄を膝に乗せた。
「あの家の娘さん、と言っても俺より歳上なんだが、その方にこの辺りの観光地の案内などをいただいたんだ。クーポンが付いていると言っていた。せっかくこんなところまで出てきてくれたのだから、あんまり何にもないところだけど、良ければゆっくりしていってくれと」
食器を端に寄せた木の机に、ぱらぱらと色鮮やかな観光用パンフレットやチラシが散らばった。私はそれをひとつずつ目で追う。
近隣の山のトレッキングの案内の隣に、湾内を巡る遊覧船の写真が並ぶ。水墨画に重なるのはテディベアの微笑み、それからきらきらしいステンドグラス。よりどりみどりだ。山も、海も、美術館もある。パンフレットたちには普段の街では見ないような景色が切り取られ、いかにも行楽地といった風情だ。
「これからどこかへ出かけるなら、一度旅館で荷物を置いてからの方が良いかもしれない」
「はい。それにしても、こんなにたくさんあると目移りしてしまいますね!」
「そうだな」
長い指が紙を撫でる。彼がパンフレットをなぞるほど、その指に色が移るように思われた。ううん。そうあってほしい、のかも。カラフルに、鮮やかに、色めいたものに、可能な限り触れてほしい。あくまでさりげなく、彼の顔を窺う。白皙にかかる黒髪は、朝日に透かされる稲穂の瞳を額装する。見るだけでみしりと骨と筋の質量すら感じさせるほど太い首、その喉仏が確かに上下する様にどきりとする。彼に、それから自分にも言い聞かせるよう、私は深呼吸してから口を開いた。
「楽しみですね。カイさん」
「……ああ。楽しみだ」
演じて、装って、彩って。
ふたりで願ってそのように振る舞うのならば、そこにあるものが本心でなくとも踊らされていたい。
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「お土産、ちゃんと買えて良かったですね」
「そうだな。郵送できて助かった」
喫茶店を後にした私たちは、荷物を旅館へ預け、着替えてから近隣の道の駅へ向かった。なんでも東洋1のスケールだというそこには、日帰り温泉施設や遊覧船の発着所、各種お土産店が集まっている。加えて休日だからだろうか、フリーマーケットまで開かれていた。私とカイさんはいただいたクーポン券を使い湾内の遊覧船に乗ってみて、それから友達へのお土産を選ぶことにした。
それぞれの今の座組の方には抹茶の小さなタルト。スズくんと創ちゃんにはしらすのジェノベーゼソース。白田先輩にはニューサマーオレンジのジャム。フミさんと根地先輩にはクラフト焼酎。そしてあおにはサブレ缶。それらをまとめて私たちの住む家まで郵送の手配をする頃には、もう日が暮れる時間となっていた。
晩秋ではあるけれど、今日は暖かな日だった。潮の香りはもの珍しくて、吸い込むほどに旅行へ来ている気分を新たにする。駅に戻る海沿いの道をゆっくりと歩けば、遠くに鳥の声が聞こえた。空はもう暗くなりつつあるから、目を凝らしても姿は見えない。この空のどこかには、先ほど乗った遊覧船に遊びにきていた子もいるのかな。私はしばらく夕暮れを眺めて、彼を仰ぎ見た。
「そういえばカイさんって、海の鳥にも好かれるんですね」
「俺も知らなかった。ただあれは、俺というよりかっぱえびせんの力だと思う」
「どうでしょう。私よりもたくさん集まっていましたし、トンビまで近づいてきていましたし」
「……それはきっと、立花より俺の方が木に似て見えたから」
少しだけ芝居がかって、おどけた響きが忍び込んだ言葉。持ち上げられた口角に、いたずらに成功した子供の輝きが宿っている。いたずらなんて、したことあったのかな。私には分からないけれど、でも。私は唇を覆って笑ってみせる。つんと痛んだ鼻の奥を庇うように。
「きっとそんな理由ではありませんよ。ああでも、あの子たちも今頃はお家の木に帰って」
惹かれるように、海へ視線を向けた。太陽はもうすっかり地平線に落ちている。空と海は溶けて、混じって、暗く黒く、底を無くす。
「ああ」
海原には、こがねの光が落ちていた。その道筋を辿れば、空に。
「今日は、満月なんですね」
海に、空に、浮かぶ月を見る。月を見る。つきをみる。
「見てください、カイさん。ムーンロードですよ」
つき、に、魅入ってしまったら。
「初めて見ました。ア、それとも」
もう、たまらない。
「忘れてしまったのだっけ」
意識は吹き飛ばされ、記憶だけがここに残る。それはぼろぼろのリボンのように首元へ縋りつくので、乱暴に振り払うことすら躊躇わせる。思い出の欠片を塗された、擦り切れた輝きの名残が自我の淵を侵食した。どれだけ表情を繕っても、傷口に毛布を被せても、生者と体を寄せ合っても、遺影の面影は折り重ねた日々を一瞬で剥がしてしまうのだ。違う。私が自分で、それらを剥ぎ取ってしまう。いなくなってしまった誰かの顔を思い出したくて、記憶にしか、もういないあなたを。
あなた。ここにいない。あなたは。
「立花!」
「……カイさん」
私を呼ぶ、大きな声がした。意識的に瞬きをして、胸中の日焼けた写真を裏返す。
「はい。どうかしましたか?」
「あ、ああ。急に、すまない」
カイさんは立ち止まっていた私の腕を引き、少し強引に私と自分の位置を入れ替える。海から、月から私を隠すように。そのまま私の手を取った。強いと呼ぶより、熱いと呼ぶ方が正しいその力が私を引く。
カイさんは、怖いものが増えたと言う。
例えば、車が怖くなった。見通しの悪い道も怖い。急ブレーキの音も、他人行儀な病院の廊下も、身動ぎをひとつもしない布団の丸まりも、ひどく恐ろしい。振り返らない背中が、小走りに離れていくその姿が、怖くて仕方ない瞬間があると言う。彼の腕の中にいたから、私はそう囁いたカイさんの表情を知らない。ただ力の込められた腕や、冷えた指先、浅い呼吸、速くなる鼓動の音ばかり憶えている。
ひとつだけ、教えてくれない、けれどカイさんがとても怖がっているものを私は知っている。
「すまない。だが、しばらく、手を繋いでいてくれないか」
カイさんは、月が怖い。
いつか私を連れて行ってしまうのだと、そう思っているから。
私は横目に、海原で揺れる光の道を眺める。信じてはもらえないかもしれないけれど、私がその道を行くことは決してないのだ。
それがどれだけ綺麗であっても、もう選ばない。
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山に行こうと、カイさんは言った。
それが随分と久しぶりであるような、今となっては珍しくさえあるように思えて、私は七輪の上の鯵の開きを返し損ねる。干物の魚は背骨から、綺麗にふたつに分かれてしまった。
「あ、半身」
「俺のと取り替えよう」
「いえ、私が食べますから」
目の前に並ぶのは、物語に見るような、いかにも旅館のものらしい朝食であった。ご飯に海藻の味噌汁はもちろん、地物の干物と味付けのりに、可愛らしい小鉢に添えられた季節の野菜のお漬物が並んで、牛肉のしぐれ煮ときちんと巻かれた卵焼きが照り映える。それを挟んで、カイさんは静かに言い切った。
確かに今日の予定は決めていなかったけれど、普段の彼ならばこういうときに提案の形の言葉を選ぶことが多い。どこか、どうしても行きたいところができたのだろうか。私からの返答がなかったからか、彼は小さく肩をすくめた。整えられた眉がきゅうと気弱に八の字を描く。
「すまない、思いつきではあるんだ。だから立花が他に行きたいところがあるなら、無理にとは言わないが」
「ありません。ただその、久しぶりに聞いたなと思って」
「久しぶり?」
「カイさんが、山に行くって」
緞帳が上昇するように、まっさらの目蓋が持ち上げられる。甘い金の瞳が細かな光を取り込みきらきらと輝いた。いつかの思い出を遡るような煌めき。光が帯びる熱によってか、彼は頬を和らげた。唇がやわい弧を描いていく。
「確かに、そうかもしれない。懐かしいな。俺がひとりで山にいると、お前が迎えに来てくれた」
山と言えば、あの懐かしい大伊達山を思い出さずにはいられない。出会いの場所はユニヴェールだけど、私とカイさんがお互いをきちんと認識したのはあの山の中だ。あの場所には、いくつもの思い出がある。晴れた時も、雨の時も、暑い夏も、寒くて寒くて叫びたくなる、叫び声すら凍るほどの冬も、私たちはあそこにいた。楽しかったことも、苦しかったことも、あった。
「カイさんが、私を迎えに来てくれたこともありましたね」
「……ああ」
「梅を、一緒に、見ました」
「ああ」
楽しかったこと。苦しかったこと。どちらも共有して、私たちは今ここにいる。思い出は光として、熱を伴って、私と彼の眼差しの合間を漂う。
「行きましょう。山に」
私たちはここにいることを選び、ここにいたいと、願っている。
「えっと、どこか目的地があるんですか? 何か見たいとか」
なんだかこそばゆい朝食になってしまった。いそいそとお茶碗の米粒を掬いながら、私はカイさんに尋ねてみる。同じようにそわそわした雰囲気の彼は、手にしていた味噌汁のお椀を盆へと戻した。そうして小さく断って、荷物の中からパンフレットをふたつ持ってくる。
「初めは一碧湖に行こうと思う。それから、タクシーでの移動になるんだが」
一碧湖は確か、山の中腹にある美しい湖だったか。昨日に海を見たから、今日は山に行きたい気分になったのかもしれない。パンフレットにはスワンボートや、湖の内にあるらしき神社の写真が載せられていた。私はそれらに視線を落とし、彼の声が続かなかったのを訝しんで頭を上げた。
「ステンドグラスを、見に行きたい」
カイさんは何千万年も見つかり損ねた琥珀ように甘い、金色の瞳を伏せていた。だから彼が何を見つめていたのか、私には分からない。
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一碧湖は麗らかな陽射しのうちで、その水面を輝かせていた。けれどカイさんは、どこかうわの空。湖の周りを歩きながらも、神社へお参りしながらも、心は既に次の目的地のステンドグラス美術館へ向いているようだ。そのくせ急ぐ素振りはない。私が落ち葉に足を取られた時には、すぐさま体を支えて、足取りを更に緩めてくれたほどだ。
初めは何か、恐れているのかと思った。次は浮かれているのかと推測し、すぐに打ち消した。では何かと考えて。
「カイさんは今、なにか、緊張していませんか」
美術館の前でタクシーを降りたカイさんは、ぐきりと足を止める。随分と分かりやすい、彼らしくはない仕草に見えた。私は荷物をまとめ、彼の隣に立ってその顔を仰ぐ。カイさんは私からの視線を拒まなかった。けれど速度と回数を増した瞬きのせいで、その眼窩にばらばらと夕立めいた暗雲が落ちる。瞳だって夏の終わりの稲妻みたいに、どこにも留まらずに消える黄金だ。
「……心当たりは、ある」
数拍の間を開けてから発された言葉は、質問への回答にしては随分と弱々しかった。私は思わず目の前の建物を見た。英国のマナーハウスを模した美術館は瀟洒で、壁に纏う小さな薔薇のような華やさはあれど、緊張を覚えるほどの荘厳さはない。もしかして、いつか彼はここに来たことがあるのだろうか。美術館に行こうと提案したのもカイさんだったし、何か思い入れがあるのだろうか。
「だが今は、着いてきてくれないか」
私が質問を重ねるより早く、彼は入口へと足を踏み出した。そのまま立ち止まり、私へ手を差し伸べる。その表情には確かに苦しみがある。でもそれが過去に胸を締め付けられているためなのか、それとも、未来への興奮を抑えているためなのか、私には分からない。分からずとも、カイさんの手を取らないという選択肢を選ぶはずがなかった。
「はい。もちろん」
お互いの職業柄、こうした接触を外でするのはとても珍しい。私は何度か質問のために口を開きかけけて、何も言えずにまた唇を閉じた。何故ならカイさんの私と繋いでいない方の手が、固く握り締められているのが見えていたからだ。
握り締められた掌。ステンドグラス。溶けた鉛によって繋がれた色硝子。神聖さの担保であり、教義の担い手であったそれは、窓や洋燈の装飾に用いられた。光を背に、輝きを人々に。仰ぎ見る者のために、幾つもの色を、神話を、生活を、祈りを纏った。あんまり貴石のように煌めくものだから、それを見る者は硝子はとても脆いのだということすら忘れてしまいそうになる。傷つくことなんて、ありえないと錯覚してしまう。握り締められた掌。
何かを手に入れたいと、望むことすら諦めたあなた。きっと彼が自ら開いて、手放したと思っているその掌の、反対の手は今のようにきつく握り締められていたのだろう。爪が立てられているのは耐え忍ぶためではない。ただ、欲しいと思った自分を罰するため。とっくに癒えたその傷の、そのいたみを、私も知っている。
ああ。それでも、傷は乾くのだ。たとえ癒えずとも、いつか必ず血は止まる。傷口は薄く瘡蓋に覆われ、裂けた肉は僅かずつ盛り上がる。体が生きようとするのを自覚するほど、どうしようもない幻肢痛に見舞われる夜があった。こんなにも悲しいのに。悲しかったのに。私はまるで何もなかったことのように全てを置いていく。変わっていってしまう。だって変わらないのは、変われないのは。
不意に、場が開ける。教会を模した空間の、大きなステンドグラスの窓の前に、マリア像が建てられていた。数多の受難を表した硝子を背負い、聖母は立つ。日差しを透過する眩い断片は、悲しみを、痛みを、慈しみを、信仰を、刻む。彼女はそれを知ってか知らずか、胸に手を添え、淡い微笑みを携え、空を眼差していた。私たちは像の前で立ち止まり、語る言葉を持たなかった。聖母に縋れるほどの痛みを、最早持ち合わせていないから。繋いだ掌ばかりが暖かかった。私たちはただ、生きているだけで、熱を手放せない。
展示のルートを辿っていくと、小さなエレベーターホールに着いた。彼は目の前にあるそれに迷わず乗り込んだので、その足取りに続く。カイさんの抱える緊張は、ここに来て一層強まって見えた。反面、私は心がひどく凪いでいくのを感じる。沈黙は溶かしきれない飴玉で、振れる意識の幅を滑らかに研磨した。
小さなベルの音がした。エレベーターはゆっくりと開き、冷たい風が頬を撫でた。風? 視線を巡らせば、すぐそばにバルコニーへ抜けるドアがあった。けれど奥には演奏室とプレートの提げられた、今は閉じた扉もある。カイさんは迷わず、バルコニーへと向かう。大きくて、重たい木の扉を押し開けて。
「わあ……」
「……良い景色だな」
目の前には青々とした山が、その向こうにもっとあおい海が、広がっていた。晩秋の日差しは遠い光源から放たれた光に似て、遍く全てを仄光らせる。それを受けて美術館の庭園が、森が、もっと向こうの海に浮かぶヨットが、輝いて見えた。思わず石畳のバルコニーへ歩み出て、柵に手をつきながらその見事な眺望を脳裏へ焼き付ける。標高があるので風は冷たいけれど、そんなのはあまりに気にならなかった。
ここに来たかったんですか。
そう尋ねようと顔を上げて、体が震えた。視線は彼の背後を通り越し、今出てきたばかりの建物を見遣る。
「パイプオルガン、でしょうか」
「ああ。ここは、俺も昨日知ったんだが」
道理でどこか聞いたことのある響きだ。私は漏れ聞こえる音色に耳を傾けながら、カイさんの方へ振り返る。
「教会でもあるんだ」
教会。それはいくつもの、本当に数えきれないほどの私と彼の、思い出の場所。頭が、心が、震える。立花。カイさんは私を呼んだ。その声はスイッチのように、緞帳を跳ね上げる。彼の立つ場所以外の光源を失わせる。ピンライトを投射させる。些細なBGMすら掻き消す。ここが彼の望む世界となる。カイさんが、私を呼んだ。
「この旅行から帰ったら、聞いてほしいことがある」
パイプオルガンの音色が、冷たさで研磨された空気を抱く。同じ空間にないというのに、麗しい響きは体の芯を強く揺さぶった。動かされる。呼び起こされる、ものがある。
「連れて行きたい、場所があるんだ。どうか共に、来てはくれないか」
冷たくて、美しい大伊達山の風が梅の花を揺らしていた。いつか彼を見下ろして、そっと告げられた言葉があった。今目の前にあるのは、私を見つめるあなたは、その時と同じ顔をしている。けれどあの時より、強い声だった。誠意と切望、期待と緊張、そして何より年月の塗り込められた声。考えるより早く、私は応えていた。
「連れて行ってください、カイさん。私を、抱き上げて」
返事は鼓動だった。抱き締められた私の耳へあたる胸の、その奥から響く早い音。ああ。分化する前の感情が、小さく吐かれたふたつの母音の内で降り積もっていく。目が、喉が、胸が潰れそう。ああ。ああ!
「生きていると、こんなに幸せなことが、あるんだな」
惚けたような声だった。自分の口から溢れた言葉を、いちばん自分が信じられていないような、声。
「あります」
だめだな、私。
「これからも、もっとたくさん、ありますよ……」
笑いたかったのに。本心でなくとも、演技をしてでも、笑いたかった。きっとあなたはこの瞬間を生涯憶えていてくれるから。ならば笑っていようって。笑わなくちゃって。それなのに、これじゃあ泣いているようにしか聞こえない。どうしても、涙を抑えていられなかった。せめてカイさんの服は濡らさないよう身を引くけれど、それ以上の力で強く抱きすくめられる。
「そうだな。知っている、分かっているよ」
彼は少し身を離し、私の頬を撫でた。ばかな私はあなたが遠のいたことが少し悲しくて、けれどカイさんの笑顔ですぐに忘れてしまう。今見えているものも、聞こえていた音も、幸せ以外の何もかもが、霞んでしまう。
「今の俺は、それを心から信じられるんだ」
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どうしてもあの街に行きたかったわけではなかった。ただ逃げるように、逃がすために、提案した旅行だった。それでもこうして私たちの住む街が近づくのが少し惜しくなるのだから、旅行としては大成功と言って良いだろう。カイさんのおかげだ。
昼過ぎの街は平日であっても賑やかだ。近所の小学校から、ころころと小さな子供たちが飛び出してくる。近所の小さな商店街では、夕飯用に揚げたてのコロッケ、唐揚げ、煮付けの白身魚などが出来たてだという声がする。その中を、少しだけ日常より大荷物な私たちは歩いた。どちらともなく歩みは緩やかになり、どちらもとなく、手が繋がれた。その重さを、温もりを、胸の内に沈める。宝物のガラス玉を掌でくるむように。
マンションのエレベーターを降り、3つ目の扉が私たちの暮らす部屋だ。当然だけど、家の扉は閉まっている。というか、私が閉めてきた。明かり取りの窓の奥は暗く、この家には誰もいないことは明白だった。馴染みのある、霧雨に似た寂寥が胸を打つ。いつもならば足を止めないまま扉を開けるけれど、でも。
「カイさん、鍵借りますね」
「あ、ああ」
ひとつ、思いついたことがあった。今の私なら、言えることがある。貰ったのだ。
カイさんの背負うリュックサックからキーケースを抜き取り、私は身振りで彼にそこで待つよう伝えた。そのまま扉を開け、私にとっての2歩、彼にとっての1歩先で、振り返り微笑む。
「ここはあなたの家です。ここは私の家です。ここは、今の私たちの家」
玄関の中から、外で立ち竦むカイさんへ両手を伸ばした。昼下がりのふやけた金の光を背負って私を見る彼は、僅かに口を開く。そこから声が出ることはない。ただはく、はくと唇が引き攣った。望み、望まれた言葉は確かに舌の上にあるのに、理性が、記憶が、足枷となる。いつもより大きな荷物を持っているからだろうか。カイさんが相対的に小さく、幼く見えてしまった。放浪に処された殉教者のように足を引きずり、懺悔すらできぬよう己の首を絞める子供。
本当はもっと早く、母親を亡くしたばかりのあなたに会いたかった。あなたのいちばん寂しかったときに、私が隣にいられなかったことが、どれほど口惜しいか。でもね、その代わりにはならないかもしれないけれど、これからはずっと言いますから。あなたのことを、私たちの家で、待っていますから。だから、ねえ。
「おかえりなさい、カイさん」
待っていた私に、ただいまと、言ってくれませんか?