光の人3「ま! 嬉しいですわ。私も懐かしい気持ちになりましたもの。……ところで先生、私以外の教え子のことも覚えていらしまして?」
ベレスはぱちぱちと瞬きをして、鏡台の鏡越しにフレンを見返した。
「いや……君ほど記憶に残っている生徒はいないかな。なにせ君は、学校どころかこの大修道院を巻き込んでの大事件の渦中の人だったから。あの時は驚いたしどうなることかと心配だったけれど、すぐに学級に馴染んでくれてほっとしたよ」
「そうでしたわね。あの時は私もとても怖くて不安で……でも先生や学級の皆さまが私をあの暗闇から助け出してくださいまして、とても嬉しかったですのよ」
「うん、本当に無事でよかった。一節ものあいだ、よく耐えぬいたね」
「お兄様やレア様が助けてくださると信じていましたもの。それに私が先生の学級にすぐに馴染めたのは、級長を中心に生徒の皆さまが私にとてもよくしてくださったからですの。先生も仲良くしていらしたでしょう。ほら、覚えていらっしゃません?」
「え……うーん……」
尋ねられ、ベレスは唸りながら考え込んだ。
「……やっぱり君ほど印象に残っている子はいないかな。もちろん色々なことがあって、手がかかる子も心配な子もいたことは覚えているけれど。思い出話に付き合えなくて、ごめん」
「謝らないでくださいまし。先生が覚えていらっしゃらなくても、私は覚えていますもの。先生と、学級の皆さんと過ごしたのは一年にも満たない間のことでしたけれど、とてもとても、楽しい日々でしたわ」
「そう……」
「ですから、もし先生が覚えていらっしゃらないことを知りたいと仰るなら、私がいつでもお話しいたしますわ。ですからそんな顔をなさらないでくださいまし」
さ、できましたわ、とフレンが鏡を持って後頭部部分を見せてくれる。途中からうなじがすうすうしていたからそんな気はしていたが、今日は編み込みも組み合わせて結い上げの髪型に仕上げてくれたらしい。
「うん、ありがとう……これで大丈夫?」
華美でもなく堅苦しくもない。かと言って礼を失するほど無造作でもないが、やや遊び心が前隠れしている。これから会う縁談相手とやらがどんな人物かは分からないが、侮られたと思われなければいいが。
「とってもお似合いですわ。猊下にお似合いになると思って練習しましたのよ、私。あの方もそう仰ってくださいますかしら」
「……どうだろうね」
気が重いままベレスは立ち上がり、フレンとともに応接室へと向かうと、やはり気が重いまま扉を開かれた。
大窓から射し込む光で明るい室内は、光に満ちていた。過剰な装飾はないが、白を基調に品良くかつ重厚な調度品が揃えられている。濃い木目を艶やかに照らす白々とした光のなか、しつらえのよい椅子から弾かれたように立ち上がった大柄な人影に、ベレスは「あ」と思わず声を漏らしていた。
「昨晩の」
「——覚えていてくれたのか!」
金の髪を揺らして立ち上がった人物が、精悍な顔立ちを破顔させ歩み寄って来ようとするのを見てとって、ベレスは後退りはしなかったものの、視線に警戒を滲ませていた。
「夜中に寝所に忍び込んでくるような不審者は、そうそう忘れられないかな」
声は冷ややかではないものの淡々と告げると、男はぴしりと固まった。薄青色の隻眼が大きく見開かれ、喜色に溢れていた表情が一瞬にして凍りつく。
その表情に、ベレスの胸はなぜか無性にざわついた。ベレスが抱いた不信感も警戒感も当然のものであるというのに、なぜか落ち着かない。
傷つけた罪悪感から目を逸らすように、ベレスは俯き固まった男からその向かいで立ち上がっていたセテスへと視線を向けた。
「まさか、あなたが手引きしていたとは」
規律に厳しく、それだけに信頼を置いていただけにひどく裏切られた気分だった。セテスは顔を顰めた。
「待て、ベレス。なにを言っている」
「そこの彼が、君たちが手配した縁談相手なんでしょう? だから私に話を通す前に、私に知らせることもなく寝所に招き入れたんだ」
「ま! 違いますわ先生!」
傍らではらはらと成り行きを見守っていたフレンが、飛び上がるようにしてベレスの腕にすがり付いた。
「落ち着いてくださいまし。あの方は縁談相手などではありませんわ」
「フレンの言うとおりだ。いったい、どこからそんな話が……」
「実際、大司教としてではなく一個人の私として、その人に会わさせたじゃないか」
眉間を揉んだセテスが、深々とため息をついた。
「誤解が誤解を呼んでいることは分かった。まず、彼を君の寝所に通したのは……」
「お待ちくださいましお兄様。とにかく、皆様も一度お座りになって、ゆっくりお話をいたしましょう?」
フレンの気配りもあり、ひとまずは腰をおろして話し合うことになった。
てきぱきと手早く、だが丁寧に入れられた茶から立ち上る白い湯気をベレスがぼんやりと見ていると、セテスが口を開いた。
「彼を寝所に通したのは、彼が信頼に足る人物だからだ。私にとっても、君にとってもな」
「私にとっても?」
そう言われても、ベレスにはこの金糸の髪の男に——一瞬陽の光を弾いたまばゆさに目が眩んだが、見覚えはない。
「そもそも、まず君に縁談相手を用意しているという勘違いだが、ありえない。君個人の領域に踏み入るつもりはないし、もし教団として必要に駆られてなら、君個人にではなく大司教にと話をすすめるからだ。……どちらにしても、今になって縁談相手などありえない話だが」
「今になって?」
「それは……」
セテスが口ごもる。ため息をついて、確認をした。
「君は記憶の一部を失っているというのは、理解しているな?」
「うん。あなたたちもいたけれど、先日医者に言われたからね。と言われても、そんな自覚はないのだけれども。あなたのこともフレンのことも教団のことだって忘れていないのだし……。あ、儀式での言葉を覚えられていないのは、もとからだから見逃してほしいかな」
肩を竦めて見せだが、セテスもフレンも金髪の男も、険しい表情を変えなかった。むしろセテスは険しさが増し、フレンは気遣わしげな視線を向け、その視線を向けられた金髪の男は血の気が引いて顔色を無くして呆然としている。
セテスが「宜しい」と呻いた。
「では君は自覚がないながらも記憶を失っていると事実は認識しているとして話そう」
「よろしく」
なんとなく居住まいを正したベレスに、セテスは口を開いた。
「君は忘れてしまっているが、君にはすでに夫君がいる。それが彼だ」
「は?」
あまりに唐突でとんでもない宣告に、ベレスの口から素っ頓狂な声が漏れた。
「……セテス、そういう冗談はあなたらしくないよ」
無理に笑ってゆるゆると首を横に振っていると、きらりと光るものに気がついて思わずそちらに視線が向いた。そこには見上げるような大男の光を集めたように煌めく金の髪の下から、春先の空の色を溶かし込んだような薄青の隻眼が必死さを滲ませてベレスを見つめていた。その引き結ばれた唇も、なにか言いたげに震えている。
その光景にベレス自身驚く程に衝撃を受けた。
初めて会う人だ。そのはずだ。だが……いつかどこかで、会ったことがある気がするような、しないような。
笑みを潜めてベレスは記憶を探った。もう随分前の、傭兵時代の頃だろうか。だがあの頃は他者と関わることはほぼなかったから、もし思い出せない。
金の髪。失われた薄青の瞳。精悍な相貌。大きな体躯。仕立てのよい厚い生地の袖口から伸びる手首は太く、手のひらは大きい。その左の薬指には指輪が填められていた。華美ではないが上質な身なりとはいささか不釣り合いな、やや古く趣のある意匠の指輪。
ベレスはひゅっと息を呑んだ。
「なぜ、あなたがそれを」
彼が薬指に填めている指輪は、ベレスがかつて父から受け継いだものと酷似していた。不精な父のことだから、どこかの露店で見かけた量産品の指輪を気に入って母に送った可能性がないとは言い切れない。とはいえ、あまりに似ている。いや、似ているなんてものではない。
「これは、お前が、贈ってくれたものだ……」
「私が、あなたに?」
そんな馬鹿なとベレスは思った。物への執着が薄い自分とはいえ、面識のない男に、父から遺されたものをほいほいと渡すはずがない。たとえ形式上贈り物をしなければいけなかったのだとしても、他の物を手配したはずだ。なのにこの男は、自分が彼にそれを渡したのだという。
信じられないという言葉を飲み込みながら黙りこくったベレスに、セテスが告げた。
「記憶がないから戸惑うのも仕方がない。だが、書類上でも君と彼が夫婦であることは事実だ。式には当然我々もいたし、多くのものが来席した。大司教である君に代わり、君たち夫婦に言祝ぎを与えたのはレアだ」
「レアが……」
ベレスは唸った。自分が大司教となったのは、先の戦争で帝国に囚われ心身ともに疲弊したレアに代わるためでもあった。そのレアがわざわざ隠居先から出てきて立会人になったというのなら、全く信じられないし実感もないし言われたところで記憶は蘇らないものの婚姻は事実なのだろう——セテスが嘘や冗談を言う質ではないのだから、疑うべくもないのだが。
ベレスは息を吐いた。信じがたいが、失った記憶のうちにそういった出来事もあるのだと受け入れざるを得ないようだ。
「……レアが立ち会って、式にも人が沢山いたというのなら、私とその人との婚姻はフォドラ中に知られているということなんだね」
「ああ、そうだ」
「それは、いつのことなの」
「6年ほど前だ」
「そんなに前!?」
ベレスは驚いた。同時に初めて不安を抱いた。記憶を一部失っていると知らされたときはたしか驚きを覚えたものの、日常に支障をきたすことは何もなく、忘れてしまったのもさして重要ではないことがらだからで、それならばなんとでもなると考えていたのだ。だがいざ失われた記憶のことを告げられてみれば、忘れてはいけない部類のものだ。しかも、6年分。
「フォドラ中で、私と彼の婚姻を知らない人はいない……?」
「ああ、もちろんだ」
ベレスは頭を抱えた。誰もが自分と彼との関わりを知っている。大司教とはいえおおきな式典や集まりなどでは配偶者を伴って出席してきたはずだ。今後記憶がないことを理由に同伴を断りその際の振る舞いによっては夫婦のなかを疑われかねない。教団に翻意を見せている輩などはこれを好機と突きに来るだろう。事実はどうであれ醜聞は避けなければならなかった。だが、自分の中では彼とは初対面なのだ。人見知りをするほうではないが、彼とは人前でどんな風に振る舞っていたのか、振る舞っていいのか、とんと分からない。
分からないなら聞くしかないと、ベレスは顔を上げた。
「記憶を失う前の私は、彼とはどんなふうに振る舞っていたの?」
「君と彼は……私的な部分ではごく普通の夫婦だったようにみえた」
「公的には?」
セテスとフレンが顔を見合わせた。金髪の男はなぜか視線を逸らした。
「喧々諤々の議論を交わしていたな」
「……議論?」
ベレスは驚いた。大衆の前での振る舞いを聞きたかったのだが。それより、議論とはなんだ。彼は自分と議論を繰り広げるような役職についているのか。
その疑問を察したのか、男がゆっくりと口を開いた。低い声音は心地良く耳に響く。
「俺の名は、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドと言う」
「ディミトリ……? っ」
男が名乗った名を耳にしたベレスは首を傾げ……つきりと痛んだこめかみに顔を顰めた。それに気づかず、両手を打ち合わせたフレンが「ま!」と声を上げた。
「そうでしたわ。私達、先生にまだディミトリさんをご紹介しておりませんでしたわ」
謝るフレンを宥めたあと、ベレスはディミトリと名乗った男を改めて見た。その名にはやはり覚えはなかったが、聞き捨てならない単語はあった。
「ブレーダッドということは、君はファーガスの王族?」
「ああ。今は王位を任されている」
「……国王」
なぜ、とベレスは困惑した。ファーガス国王といえば、つまりはフォドラの実質的統治者だ。またつきりと痛んだこめかみを揉みながら、ベレスは尋ねた。
「代替わりは」
「していない。俺は、お前の手による戴冠を受けた」
「そんな」
思わず言ってしまって、ベレスは口を噤んだ。
だって、この男とは初めて会ったのだ。だというのに自分はこの男に戴冠を授け、共同統治者で、しかも夫婦だという。
「ベレス?」
不躾に名を呼ばれてムッとしたベレスは、自分が手のひらで目許を覆っていることに気がついた。気がついた途端にぐにゃりと視界が歪み、キーンと耳鳴りがする。背筋を悪寒が走りぬけ、どっと冷や汗が噴き出していた。
うめいたベレスは、もう空いている方の手で不躾に名を呼んできた相手を制した。
「……大丈夫。少し目眩がしただけだから」
けれど目眩も悪寒も引かなかった。慌てて様子を見てくれたフレンが、少し声音を固くして告げた。
「ディミトリさん、申し訳ないのですけれど、先生には少しお休みいただいて宜しいですわね? 」
柔らかだが否やを認めない言いように、ディミトリは頷かざるを得なかった。そるほど、ベレスの体調が良くないのだ。
しばらくのあいだ呼吸と混乱を治めてから、ベレスは目許をおおっていた手をおろし、顔を上げた。
「……数々の非礼、お許し願いたい」
「非礼などでは……」
ディミトリの言葉は続かなかった。ベレスはディミトリのことを思い出したらしい。だが、ファーガス国王のディミトリとしてだけだ。
令和7年2月21日