先生を失ったディミトリの話 尋問と称した拷問で爪ははがされ、はがす爪がなくなれば太い木の棒で殴られた。肉が割れ、血が噴き出る。紋章の力も、苛まれて弱った体では発揮しようもなかった。
時間間隔を狂わせるように、食事の時間はまちまちだった。人が食べるものではない、と兵がそしったカビの生えたようなパン、乾いて固くなったパンを泥水のようなスープで飲み込む。もとから味など感じていないから食べられればなんでもよかったが、腐ったものだけは受け付けず嘔吐した。そして拷問が繰り返される。
最初は同情的で暴力的な同僚を諫めていたおそらく一般の兵も、やがてコルネリアの息がかかった兵たちと同様に残虐なふるまいを見せるようになっていた。ディミトリが守ろうとした王国兵もだ。促され、鞭を振るった瞬間から人が変わっていく。術をかけられているのだと、ディミトリは思った。兵士は悪くない。だからどんな扱いを受けてもひたすらに耐えた。
先生が助けてくれる。その願いだけを胸に、悪夢と罵倒と怨嗟の声が渦巻く苦痛の日々を耐えていた。
そんな日々もさほど長くは続かなかった。おそらくひと月も経っていないと思う。なのにディミトリの体はひどく衰弱していた。粗末な食事、度を越した拷問、かと思えばまるで存在しないように放置される。なによりもベレスが現れてくれないことが、弱った体以上に心に堪えていた。それほどまでベレスの存在が大きくなっていた。
その日現れたコルネリアは心底嬉しそうに、勝ち誇った顔で告げた。「処刑が決まりましたよ。この国のことはわたくしに任せ、安心して御父上のもとに逝きなさいな」
瞬間、すべてがコルネリアが仕組んだ罠だったのだとようやく理解した。父王泣きあと王国を乗っ取るため、鬱屈したリュファスに取り入り唆し、あげくにそのリュファスを殺し、罪をディミトリになすり付けたのだ。
人を人としてではなくただ己の野望を成就させるための駒でしかないと言い放つコルネリアに、激昂したディミトリはとびかかった。けれど繋がれた鎖によってぎりぎり届かない。コルネリアが笑いながら、「冥土の土産にと思いましたが、消毒にちょうどいいですわねえ」と持っていた桶の中身をディミトリに浴びせる。一瞬の叫びのあとは、弱弱しいうめき声にしかならなかった。傷にしみ、燃えるように痛みが生じる。ぷんと漂う濃い酒精。獣に酒はもったいないと次々浴びせられる水。ぐったりと項垂れるディミトリの耳に、「いい夢を」とコルネリアの哄笑が届いた。
夜、ドゥドゥーはたった一人で地下牢を襲撃した。衛兵を打ち殺して鍵を奪い、詰め所に火を放つ。煙を背にして火事だと叫びながら、地下牢の奥を目指してひた走る。途中なにごとかと様子を見に来た何人かの兵士たちとすれ違ったが、火の勢いが強い、手が足りないと急かせば誰何されることもなかった。兵士たちが持ち場を離れ、無人になった松明に油瓶を投げ入れる。瞬く間に炎と黒い煙があがるのを背中で感じながら走った。そうしてようやく、牢の突き当り、目当ての独房にたどり着いた。
近づいてくる喧騒に、鈍く重い眠りの沼から引き上げられていく。朦朧とする意識のなかでガシャンと金属が揺れる音と擦れるした。それから、声。引き寄せられるように、のろのろとディミトリは顔を上げた。
懐かしい顔が、声が、そこにあった。
「遅くなり申し訳ありません」
「ドゥドゥー、か……」
一人できたのかと目の奥の痛みをこらえて視線を動かす。見えたのは、表情をゆがめたドゥドゥーの顔だけだった。
「殿下、先生はまだ来ていません」
「……そんなに、怪我が酷いのだろうか」
「怪我が酷いのは殿下も同じです。お辛いでしょうが立ってください」
動けない、と鎖で吊られた両腕を動かす。どこからか煙が張ってきていた。喉をひどく刺激されて全身でせき込む。あばらや肺はもちろん、体中が息も吸えないほどに痛んだ。「じっとしていてください」との声に頷き、咳をこらえる。洟や涎が垂れたことを自覚したが気にする余裕などとうになかった。立ち上がったドゥドゥーが腰に下げていた手斧でディミトリを戒める両腕の鎖をそれぞれ断ち切った。釣りあげられていた両手が自由になり、身構えていたはずなのに体を支え切れず倒れ込み、石畳に顔や肩をしたたかに打ち付けた。口内の痛みの後、もう慣れたはずの血の匂いが鼻腔に届いた。広がった。刃こぼれした斧を再び腰に下げたドゥドゥーに抱えられるようにして立ち上がらされ、足を引きずりながら牢を出た。
独房を出ると入り口に向かうのではなく、壁面に設けられた木製の扉をドゥドゥーは斧でたたき割った。下に向かう階段が延びており、暗くぽっかりと開いた闇から、ひんやりとした空気が立ち上ってくる。牢の排水溝を兼ねた通路だった。
水気と生臭さがよどむ通路を懸命に歩いた。むき出しの素足が石造りの水路に傷つく。水たまりに足を突っ込むたびに傷にしみたが、その刺激もどこか間遠になっていた。追手がかかる前に、早く逃げなければならない。もし見つかれば多勢に無勢、捕まってひどく痛めつけられるのが目に見えている。ドゥドゥーは今度こそ殺されてしまうだろう。そう分かっているのに、ディミトリは歩くのが精いっぱいだった。
突然、空気が戦慄いた。はっと振り向けば、背後から声と足音が近づいてきていた。
どうする。戦うか。ドゥドゥーは刃のかけた斧の他に剣を下げている。この狭い通路で立ち回るには不安があるが、ないよりはましだ。なにもせず捕まるよりも、抵抗して活路を見いださなければならない。ドゥドゥー、と声をかけるより早く、低い囁きがかけられた。
「殿下、これを」
言って、剣を押し付けられる。ああ、戦おう。俺たちはここで死ぬわけにはいかない。腫れて強ばった顔で微笑む。
追いつかれそうになるたび、ドゥドゥーは小さな油瓶を床で叩き割りそこに火をつけた。その度に追っ手に居場所知らせることになるが、どのみちこの通路にいることはバレているのだから気に掛けても仕方がない。油から立ち上る炎と黒い煙を目眩ましにして、逃げた。けれどもここは水路だ。いくらでも炎を消す手だてはあるし、使われる油は少なく燃えるものもないために火勢は長くは続かない。やがて油瓶も絶えようかというとき、ドゥドゥーの淡々とした声が聞こえた。
「俺がやつらを食い止めます。その隙に殿下は逃げてください」
「なにを言うんだ、ドゥドゥー」
「逃げてください。貴方はここで死んではいけない。城の外で、落ち合いましょう……行ってください」
そう言って、背中を強く押し出される。たたらを踏んでよろけ振り返ったディミトリに、行ってください、と再び声。ドゥドゥーの大きな背中が、闇の中を戻っていく。喧騒が大きくなる。反響する剣劇と肉を断つ音、濁った悲鳴、水の音。行ってください、と声が響く。
駆け寄り助けに入りたい思いをこらえ、ディミトリは視線を切って通路の先の闇を睨み付けた。逃げなければ。この先にはきっとベレスがいる。王城に不慣れでドゥドゥーと来られなかっただけで、きっと外で自分たちが脱してくるのを待っているぱずだ。逃げて、先生と合流して、囮になってくれたドゥドゥーを救わねば。先生さえいてくれればなんとかなる。その一心で、ディミトリは壁に手を付き足を動かした。
やがて闇の底に、微かながらに白い光が見えた。どういうわけだか士官学校の、食堂の前の貯水池を思い出していた。水面に揺れる月影、その手前の桟橋に腰を下ろし、釣り糸を垂らす後ろ姿――……。てらてらと煌めく光に吸い寄せられるように歩いた。水音に交じって風の音が聞こえる。樹木のざわめき。外に出られるのだと、そこにベレスが待っているのだと思うとどうしようもなく心が沸いて、もどかしい手足の痛みも幾分取れて足取りが軽くなったような気がした。
天井から光が降り注ぐその場所で、ディミトリは小さくなったともし火を壁に立てかけて腰に剣を下げると、はしごに手をかけた。萎えた手足に体の重みはつらく痛みが走ったが、歯を食いしばって上まで上がり、手を伸ばして格子が動くことを確かめると、肩で押し上げるようにして外に這いずり出た。
地面に手足を投げだし、ようやく息が整った体を起こし顔を上げた途端、槍を構える兵士の姿が目に飛び込んできた。兵士の口が大きく開く。
「くそっ」
いたぞ、と上がった声に、近くの灌木に転がり込もうとして足がもつれてへたり込んだ。いくつもの足音と甲冑がきしむ音が近づいてくる。苦痛にゆがみ目で様子を窺えば、駆け寄ってきた仲間たちに向かって先ほどの兵がこちらを指さしているところだった。
逃げた方がいいだろう。だがあの出入り口から兵が入っていけばドゥドゥーが挟撃されてしまう。ここにいる兵士を打倒し、格子を閉めてここを離れた方がいいだろうか。鉄の格子は重いが、ドゥドゥーなら一人でも開けられるだろう。けれどもあの兵士たちもファーガスの民だ。民を、王族の自分が傷つけることはできない。
「殿下、でいらっしゃいますか」
信じられない、というような響きの声に、ディミトリは顔を上げた。殿下と呼ばれた。呼ばれたからには、己には矜持がある。歯を食いしばって立ち上がる間に息を整え、動揺する兵たちに目を向ける。
「すまないがどいてくれないか」
「……なりません。あなたを捕らえるようにとコルネリア様が仰せです」
かっと頭に血が上る。
「お前たち、主は誰と心得ている」
「ファーガスが戴くは唯一ブレーダッドの血筋。ですが殿下、罪を犯し、それを恥じることなく逃げ出す人間を、王と認めるわけにはいきません」
「冤罪だ! 叔父上が殺されたのも、すべて王国を牛耳ろうとするコルネリアの企てだ。それを明らかにするために俺は奴のもとに行く。そこをどけ!」
「……残念です、殿下」
大声を張り上げられたわけではない。ため息のようなその声に、体に衝撃が走った。
頭の奥がしびれたようになりながら、ディミトリは構えられたいくつもの槍を目にして後退った。足がもつれてかくりと膝が折れる。無様に尻もちをつくことはなかったが、土に手を付き膝を付いた姿は、捕縛を待つ罪人そのものだった。異様に見開かれてぎらぎらと輝く目だけは、決して屈していなかったけれども。
戸惑ったように突き出され、揺れる穂先がわずかに引かれる。突く動作だと理解したのは自らも槍を得意としているからだった。ディミトリは咄嗟に剣で槍を払い、灌木に飛び込むと太い木に背を押し当て息を殺す。
ざわざわとどよめきが上がっていた。ディミトリの胸の内もざわめいていた。なぜ信じてくれない、という悔しさ。それから一瞬見えた槍を構えていた兵士。見知った顔ではなかったか。
裏切られた、と思った。
立ち話をするほど親しくしていたわけではない。けれど城ですれ違えば規律通り敬礼し、ディミトリが声をかければ敬礼したままは眉尻を下げ口元をやわらげていた衛兵だ。それが、槍を向けてきた。傷つける意思で、槍を振るおうとした。
ディミトリは歯を噛みしめた。ドゥドゥーとはぐれ、ベレスはいなかった。代わりにいたあの兵士たちもコルネリアの術中にはまっている。実直の物言いからまやかしをかけられた訳ではなさそうだったが、彼らはディミトリの言葉を聞いて見逃そうとはしないだろう。彼らの刃の下に下るわけにはいかない。ここで捕まれば待っている結末は一つきりだ。
ディミトリは剣の柄を握っては離した。
死ぬわけにはいかない。そう思うのに、尋問を受けている時には感じなかった痛みをちくちくと胸に感じていた。ここで捕まるわけにはいかない。城の外に出なければいけない。ドゥドゥーがそこで会おうと言っていたのだ。
感傷を振り払うように唇をかみ、ディミトリはあたりを見回した。夜明け前で明かりがとぼしく判然としないが、一応手が入っているものののびのびと繁茂する緑を見るに、城内にあるいずこかの庭ではないだろう。水路が通じていることから考えて、おそらく普段目にする機会もないような使用人たちが出入りする場所ではなかろうか。
かつて父に見せられた城内地図の記憶を掘り起こし、現在地の見当をつける。王城には当然ながら、非常時に備えて王族と限られた者のみが知る秘密通路がある。そこまで行けたならこの城も脱出できるはずだ。
通路の存在をリュファスから聞き出したコルネリアが押さえていることを考えたが、猜疑心の強い叔父のことだ。きっと自身がそれを使う事態を危惧して誰にも伝えなかっただろうと結論付けた。
ディミトリは水路のほうをうかがった。樹木と兵士とで直接見ることはできないが、ドゥドゥーが出てくる気配はまだない。
なんにせよ、ここを突破しつつドゥドゥーのために兵を引き付けなければいけない。城の外で、とドゥドゥーは言っていた。外でドゥドゥーと合流したら馬をどこかで手に入れ、フラルダリウスに向かおう。ロドリグが匿ってくれるはずだ。筆頭貴族でやり手のフラルダリウス相手にコルネリアもうかうか手出しはできないだろう。動けるようになったら精鋭の騎士団を借りてコルネリアを捕えて冤罪を証明して王城を取り返し、それから急いで帝国との戦線へ兵を派遣しなければいけない。やることがたくさんある。こんなところで捕まるわけには、ましてや処刑などされている暇などないのだ。
ディミトリは顔を上げた。
出てきてください、と威嚇しながらそろそろと灌木に分け入ってきた兵士の腕を掴んで引き寄せる。バランスを崩してたたらを踏んだ兵士にすまないと小さく詫び、勢いに任せて地面にたたきつける。鎧がへしゃげる音がして兵士は崩れ落ちた。異変を察した藪の向こうから、なにがあったと声が聞こえる。顔を押さえて転がりながら呻く兵士が落とした槍を拾い、窺うように顔を出した兵士も先ほどと同じように地面にたたきつけた。
いよいよ外が騒然となってきた。槍が群れになって突き入れられる。それらを叩き落とし、得物を落としたところを見計らってディミトリは痛めつけた兵士を押し付けるように放り出すと、兵士たちの注意がそちらに向いている間に茂みを飛び出した。
捕まえろ、と怒号が飛ぶなか、槍と剣で牽制しながらディミトリは足を引きずるようにして駆けた。甲冑がない分ディミトリの方が身軽だが、体が弱っているせいで有利とはいえなかった。すぐに追いついてきた兵士の一突きを槍の柄で跳ね上げ、勢いのままに石突で兵士の体を突き飛ばす。後ろに続いていた兵たちを巻き込んで地面に転がったようだ。少しだけ距離を稼いでたどり着いた行き止まりの思った通りの場所に石塀と門がある。かんぬきを振り回した拳で力任せに叩き割って扉を開き、向こう側へと出る。そこも先ほどと変わりないような樹木と低い灌木と、草地とあれた石畳のある広場になっていた。
ディミトリは振り返り槍を構えた。ここで兵士たちを足止めする。この部隊から知らせが出ていなければ、水路を出るドゥドゥーを待ち伏せる兵士もきっといないはずだ。けれども果たして力の萎えた今の自分で、彼ら全員を止めることができるだろうか。今かまえている槍すら重くて、穂先が揺れ続けているというのに。
(弱音を吐いてなどいられない。おとりになってくれたドゥドゥーを救うためにも――)
兵士たちとじりじりと対峙していたディミトリの耳は、ふと金属がぶつかる音を拾った。石と擦れながら持ち上がり、音を立ててぶつかり落ちる音。
ああ、ドゥドゥーが追い付いてくれたのか。
ほっとした矢先、異変に気付いた。石塀の向こう側、先ほどまで自分がいた一角。うっすらと靄が立ち上っていないだろうか。黒く、墨色の刷毛を滑らしたような靄はどんどん太くなっていく。質の悪い脂が燃える匂いが漂ってきた。不吉な黒い煙は濃さを増している。
まさか、とディミトリは血の気の引いた顔をさらに白くさせた。そんなはずはない、と必死に否定するものの、ドゥドゥーの姿は一向に現れなかった。
代わりに、声が聞こえた。聞きなれた、低く落ち着きのある声ではなかった。朴訥とした喋りではなく、姑息なダスカー人めが、とののしるファーガス訛りの入った流ちょうなフォドラ言語が風に乗って流れてくる。
やがて門をくぐって現れた、戦闘汚れをまとった兵士たち。その一人が手にしていた柄の折れた刃こぼれした斧は、城を守る兵士の装備に相応しくない。あれは、あれはドゥドゥーが腰に下げていたものではなかろうか。ざっと血の気が下がる。指先まで凍えたように震えが止まらなかった。
「なぜ、それを持っている」
震える唇からかすれた声が漏れる。なのに、幼いうちから躾けられて身に染みついていた声をよく響かせる発声法により、その兵士にまで届いたらしい。兵士は手にした壊れた斧にぼんやりと視線を落とした。
「……落ちていたから拾いました。壊れているとはいえ、ほっとくわけにもいかきませんから」
「そんなはずはない。落ちていたなんて。持ち主が、いたはずだ」
「……殿下。ダスカー人にかける情けを、なぜファーガスの民に向けてくださらなかったのですか」
「なにを……」
言っているんだ、と問うより早く、兵は呟いた。
「私の家族は国境にほど近い街に住んでいました」
はっと息を呑む。
「宣戦布告があってすぐ、家族から便りが来たんです。国境からは距離があるけれど、そちらに避難してもいいか、って。けれど私は勤めがあって、戦争が始まればいつ命を落として避難してきた家族を路頭に迷わすことになるか分からない。それよりは今の家を守って、私たち王国兵を支えてくれって。必ずすぐに行くからそうしてくれって返事をしたんです。けれどあなたも大公殿下も意見を右に左にするだけでちっとも出陣の号を発してくださらない。そうしているあいだに家族からの手紙は届き、やがてぱたりと止まりました。街が帝国の手に落ちたと上から知らされたのとほとんど同時に、なんとか生き延びた近所の人から家族がみんな死んだって手紙が来ましたよ」
兵が笑う。壊れた糸吊り人形のように体を曲げてかくかくと痙攣しながら笑っている。乾いた笑い声が三日月に歪んだ兵の口から溢れた。なのにその目はまん丸に見開いて、ちっとも笑ってなどいなかった。ひくり、とのどが震えた。
「あなたが殺したんだ」
「すまない……」
「謝るなら死んだ父や母や兄弟に謝ってください。知らせを受けたとき、思ったんです。王子殿下も大公殿下もなにをなさっているんだろうって。私たちはいつでも出兵できるのに。命に代えてもこの国を守る覚悟ができているのにって。それから、手紙にはこう書いてありました。一度は帝国の捕虜の扱いになったけれど、今ではほとんど以前と同じ生活ができている、って。私の家族は王国の助けを待って抵抗したために殺されました。抵抗しなければ、手紙をくれた近所の人みたいに生きていられたんです。いっかな来ない助けを待っていた家族はなんのために死ななければいけなかったんでしょうね。殿下が兵の派遣を大公殿下に訴えていたのは知っています。けれど、意見の合わない大公殿下を、あなたは殺した。どうせ殺すなら、もっと早く殺せばよかったのに。そうしたら国の指揮権はすべてあなたが握り、あなたが主張していた通り出兵なさってくださったんでしょう? 私の家族を助けてくれたんでしょう? ……けれど殿下、あなたは大公を殿下を殺したでしょう。唯一の家族であるはずの大公殿下を。家族すら殺す王が、民を守るわけもないですよね。民を守らないなら王はいらない。名ばかりの王族なんてもういらない。同じように家族を失ったやつはみんなそう言ってますよ。街の人もね。さあ殿下、せめてあなたたちが殺した民に謝ってください」
放り投げられた斧がガラガラと重い音を立てて回ってディミトリの足元まで滑ってくる。気を取られて奪われた視線を上げたときには、兵士が槍を構え間近に迫っていた。あわてて飛んで後ずさり、かろうじて穂先をはねのけたものの二撃、三撃が間断なく続く。ディミトリは兵士の槍を防ぐしかなかった。いつのまにか二人の周りではほかの兵士たちが円を描いて取り囲み、逃げることを許さないと言うように槍を突き出してくる。中には矢を放とうとしている者さえいて、それは近くの兵士が押しとどめている様子だった。ディミトリは追い立てられるように立ち上がり兵士と向き合う。とにかく、相手の槍を奪うか――ここを切り抜けることを考えれば奪った方がいいだろう。それが難しいなら壊すしかない。兵士から繰り出された得物を奪おうと槍を絡める。槍術の腕前ではディミトリの方が上だった。けれども苛まれた手足はもろく、兵士に力任せに振り払われてよろけてしまった。槍を剣のように大きく上段に振りかぶる影。手にした槍を突き出そうとする販社を咄嗟に押しとどめる。兵士を傷つけるわけにはいかない。おそらく槍で叩きつけようとしているのだろう。まずは避けて地面に突き刺さる槍を奪い取る。そう判断したディミトリが横に飛び退けようとした同時に、血走った兵士の目がぐるんと白目をむいた。ほとんど同時に、白い閃光が走った。
「くっ――」
突然の真昼のようなまぶしさに腕をかざして顔を背ける。視界を焼かれて目が眩み、さらに重く固いものがのしかかってきてディミトリは背中から地面に倒れ込んだ。その拍子に、弾力のあるなにかをずぷりと貫く生々しい感触が槍の穂先から伝わってきて思わず目を見開いた。
目を開けたはずなのに、見えるのは闇だけだった。突然閃いた光は消え失せていて、残光でちかちかする視界は闇が一層濃くなっている。
今の光はなんだ、明かりを持ってこい、と兵士たちがざわめいている。けれどディミトリは明かりをかざすまでもなく、なにが起きているか誰よりも理解していた。押しつぶすように体にのしかかってくる肉の重み。壊れた笛のような呼吸音。漂う血のにおい。槍を握ったままの手はぬめって、けれども柄に縋りついたまま離せなかった。
真っ赤な明かりが灯った。黒い人影が大勢、こちらを覗き込んでくる。それらは一瞬声を潜めた。身じろぎすらもなく、聞こえるのは炎がはぜる音、倒れた兵士の弱々しく漏れる呻き声、ディミトリの乱れた呼吸音。
水を打ったような静寂はすぐに破られた。
悲鳴と驚きの声、それから罵声。取り囲む彼らが口々になにを叫んでいるかは分からなかった。唯一、「殺せ」と言うことばだけは耳に突き刺さり聞き取れた。
令和4年2月9日