雨に囚われてぱたぱたと何かを叩いている音が耳に入り、ディックはゆっくりと瞼を開く。薄暗く、まだ夜中だということが分かった。
全身に布団の温かさを感じながら、視界に捉えた光景をじっと見つめた。
(まただ…)
目の前には、うつ伏せになって枕の上に両肘を立て、両手の上に顎を乗せてカーテン越しに窓を見つめるトムの姿があった。
このところ、トムはこうして窓を見つめることが多くなっている。そして、決まってその日は雨が降っている。
ぱたぱた、ぱたぱた
少しずつ、雨が窓を叩く音が大きくなっていくのが聞こえてくる。
にこりともせず、かといって悲しんだ表情もせず、ただじっと一点を見つめているのだ。どんよりと浮かぶ暗い雲とは真反対の、曇りのない澄んだ蒼の瞳を向けて。
この時に限らず、時折トムは表情を無くすことがある。
普段は喜怒哀楽をはっきりと出していて、その度にコロコロと表情が変わっていくのをいつも傍目で見ている。嬉しいことがあれば満面の笑みを浮かべ、悲しいことがあれば顔をくしゃりと歪ませ、不愉快なことがあればカッと目を見開き頬を紅潮させ相手を睨み付ける。その時に出てくる言葉も、表情同様に分かりやすく明確なものだ。
恋人になって間もない頃、トムと喧嘩したことを思い出していた。きっかけはほんの些細なものだったが、互いに譲らず言葉をぶつけ合い段々とヒートアップし、案の定トムは怒りの表情を此方に向けていた。普段の声が大きめな分、怒鳴り声は鼓膜が潰されそうだと当時は本当に思った。ヒステリーじみた金切り声が交じり、罵詈雑言を浴びせてきた。これにはディックも我慢の限界だった。そして、これ以上何を言っても無駄だとでも言うように息を吐き捨て、踵を返しトムに背を向け早足で歩き出した。後ろからトムの叫び呼び止める声が聞こえてきたが、一向に無視して部屋から出て行った。
声が聞こえなくなるまで離れると、その場で立ち止まり、鬱憤を吐き出すかのように口をすぼめ長く息を吐いた。
これまでも幾度か喧嘩はしたが、今回ほど激昂したことは無かった。そして、この怒りは当分収まりそうにもないと感じた。
先程のようにヒステリックに叫ばれるのはこれが初めてではない。大抵はしばらくすれば互いの怒りは収まり、どちらからともなく謝るのが常である。だが、積もりに積もった憤りは怒りを鎮めるどころか、顔を思い浮かべるだけでも爆発させそうになっていた。謝ろうと思えなくて、例え謝られても、到底許せそうにない。少なくとも、今は。
(しばらく、距離を置こう)
そう心に誓い、顔を上に向ける。そしてまた息を吸い、吐いた。
あれからトムと会わず過ごし、幾日が過ぎた。
離れて間も無い頃は傍にいないことに若干不安を抱いたりもしたが、日が経つにつれこの状況にも慣れてきた。寧ろ、一緒にいる時よりも何だか晴れ晴れして気分が良いと感じている。傍にいることが多くなっていて、その感覚をすっかり忘れていた。
思い返してみれば、トムは感情の起伏が激しく、自分の思い通りにならないとすぐに表情に出て不機嫌になっていた。今でも──喧嘩したあの時もそうだった。
正直言うと、疲れていた。不機嫌になる度宥めたりすることに。
今思うと、何故自分達は恋人同士になれたのだろう。他の友人達と一緒になって遊んだりしている時は楽しいが、互いは元々そこまで性格が合っていなかった。些細なことで口論している記憶ばかりが思い出されていく──今にして思えばこの時は感情が昂っていたからなのだが、気付いたのは大分時が経った後だった──。
ディックはこびり付いた汚れを振り払うかのように首を横に振り、強く息を吐いた。空を見上げ、友人達と遊びに行く約束の時間が迫っていることを思い出し、道なりを歩き出した。
それから数日後、日が沈みかけた頃に空がどんよりと暗くなり、ゴロゴロと音が鳴り始めた。一瞬、黒い雲が光ったかと思えば、水滴がぽたぽたと頭と顔に当たり、次第に大粒の雨が降り出した。ずぶ濡れになる前に、ディックは持っていた傘を差した。
手に持っている傘の手元から、降り注ぐ雨の振動が伝わってくる。上を見上げると、傘地が石粒程の大きさの水滴を弾いている。まるで本当に石粒が降っているようで、それが尚のこと気分を重くさせていた。
(早く帰ろう)
一刻も早く家に帰るために、ディックは大股で足を踏み出し早足で歩き出した。途中で首を横に向けると、普段は穏やかに流れている川が大雨で荒れている。曇り空を吸い込んだかのような暗く濁った川面から、ごうごうと唸り声のような音を立てている様は何とも言いようの無い不気味さがあった。
ふと、斜め下の川辺を見た。その向こうに、人がいる──ように見えた。荒れ狂う川に近寄る人間など普通ならいる筈が無い。危険だからだ。
人のような何かは、その場から一歩も動かず豪雨に打たれていた。ディックは目を細め人のような何かを見ようとしたが、壁のように塞ぐ大粒の雨でよく見えない。このまま通り過ぎて帰ればいいのだが、目に付いてしまった以上どうしても気になってしまう。もし本当に人だったとしたら。ここで放ってしまったら──と。
ディックは息を吐き、意を決して坂を下った。濡れた坂は一段と滑りやすく、転ばないように慎重に下っていく。そして、どうにか平地に辿り着いた。体勢を立て直し、人らしき何かに顔を向ける。忍び足でそっと近寄り、今度はしっかりと見えた。やはり──人間だった。こんな場所で何をしているのかと訪ねようと、覗き込むように首を横に傾けた。顔を見ると、ひゅっと息を呑んだ。
何故なら、よく知っている人間だったから。
背丈はディックよりも十数センチほど低い青年だった。青年は、身動き一つせずに荒れ狂う川を、丸い瞳を向けてじっと見つめている。真っ直ぐに打ってくる豪雨をものともせず──
ディックは、青年に恐る恐る声を掛けた。
「…トム?」
巻き毛が雨に打たれてしなだれていた。ふんだんに水分を含んだ前髪から、降っている雨とは別に水がぽたぽたと地面に落ちている。顬から顎へと雫が垂れ落ち、衣服は当然ながらぐっしょりと濡れていた。
だが、その何もかもを気にもせず見向きもせず、青年──トムはディックの方へと振り向いた。無表情で、しかし無垢にも思える表情と澄んだ蒼の瞳を向けて。
降り続いている雨を、トムはあの時と同じ表情でじっと見つめている。
その度に、あの時を再現しているようだと思わせられる。今は寝室の中で、雨に濡れることは無い。それなのに、あの雨の中に立ち竦んでいるような感覚に陥ってしまう。
激しい音を立てて降る雨、黒く染まった荒れ狂う川。そして、無表情で佇むトム。まるで、雨と黒い空に同化したかのように──
ディックはシーツから腕を出し、窓越しの雨を見つめるトムに向かって伸ばした。
無防備な白い身体を捕らえるのは容易かった。トムはされるがままにディックの胸の中に吸い込まれていった。
「ディック…?」
咄嗟のことで反応出来ず、気が付けば身体を抱きすくめられ、顔を胸板に押し付けられている状態になっていた。
肩を抱き抱えている右手がなだらかな肩から這うように上へと動き、右耳に触れる。そして、外気で冷たくなったそれを手の平で塞ぐように覆われた。それによって雨の音が聞こえなくなったが、今のこの状況に脳内が追いついかず、只疑問しか浮かばないトムにはそこまで理解しきれなかった。顔を上げようとするも、完全に固定されて満足に動かせなかった。
見せたくない、一粒たりとも。
聞かせたくない、一滴も。
このままずっと、小ぶりの耳を塞ぎこの腕の中に閉じ込めておきたい。
何処にも、行かせはしない。
こうして、己だけを見て己の心臓の音だけを聞いていればいいのだと願いながら、腕の中の小さな身体を包んでぎゅっと目を瞑った。