僕だけを見て【Side T】
近頃、ディックの様子がおかしい。
と言っても四六時中というわけではなく、普段は何事も無く一緒に過ごしている。ただ、前よりもスキンシップを仕掛けたり細かに話し掛けられたりとが、体感的に多くなっている──と思っている。
例えば、椅子に腰掛けて寛いでいたりすると数分と経たず話し掛けてきたり──ぼーっとしている時には特に──、買い出しに出掛けようとすると駆け付けて一緒に行ったり。
恋人同士なのだから別段おかしい部分は無い。無いのだが、少し前まではここまで細かく気にかけていなかったような気がする。一体どうしたのだと一度本人に聞いてみたりもしたが、首を傾げながら「そうかな?」とはぐらかされ結局答えは分からずじまいである。
心当たりがあるとすれば、この間ディックと大喧嘩して暫く距離を置いていたことがある。それからどうにかよりを戻し、こうして一緒に暮らしているのだが、それとディックの態度がどう関係しているのか見当が付かなかった。
ここまでを脳内で思い返しながら、トムは顔を上げ空気を吸い、口をすぼめて息を吐いた。視線を斜め下に戻し、ケトルを見つめた。今何しているのかと言うと、コーヒーを飲むための湯を沸かしているところだった。昼過ぎの休日、2人で家中の掃除をし終え、本を読みながらゆったりと部屋で寛いでいる内に無性にコーヒーが飲みたくなり、今に至る。
ケトルからぴゅうぅ、と小さく音が鳴り始めたその時、外から何か落ちる音が聞こえた。目の前の窓から外を見ると、いつの間にか空は雲に覆われ、水滴が落ちてきていた。水滴は徐々に多くなり、窓を叩いていく。
トムは窓の外をじぃ、と見つめた。ただ雨が降っているだけなのだが、丸い蒼の瞳はその光景に釘付けになっていた。
更に大粒の水滴が降り注ぎ窓を、地面を叩き付ける音が小ぶりの耳の中に入り込んでくる。視覚や聴覚だけでなく、その全身が雨に囚われたように身動き一つ取らなくなっていた。そして、トムの脳内でとある出来事が思い浮かびつつあった。
あの日も雨だった。激しい雨。空の下に覆われた薄暗い灰色の雲。荒れ狂う川。そして、そこに佇んでいる──
「トム」
不意に名前を呼ばれ、トムははっと我に返った。
ケトルがぴゅうぅぅ、と先程より音を鳴らしているのに気付いた。慌てて火を止めようとした時、ぬっと背後から手が伸びツマミを切った。火が消えたのを確認し、トムは背後を振り返った。予想通り、そこにはディックがいた。
「あ…」
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
首を傾げながら問い掛けるディックを、ぽかんと見つめる。その仕草が、あの時と重なっていたから。そうしていると、ディックは苦笑を浮かべながら口を開いた。
「僕の顔に何か付いてる?」
「え…あ、いや」
戸惑っていると、ディックがトムの傍に移動し、沸騰したばかりのケトルの取っ手を持ち上げた。
「お湯注ぐから、粉用意てくれる?」
ディックはトムに穏やかな笑みを向け、テーブルに予め置いておいたドリッパーを指差した。トムはディックの優しい笑みに胸を高鳴らせ見惚れそうになったが、どうにか堪えてマグカップの傍に置いてあるコーヒーの粉の袋を取りに行った。
(ほら、あんな風に)
予め用意しておいたドリッパーの上にフィルターを広げ、フィルターに適量のコーヒー粉を入れていきながら、湯を注ぐディックをちらりと横目で見る。
こんな風に、一見何てことのないやり取り。けれどもやっぱり、前までは無かった気がする。こうして、台所まで来て気に掛けるなんてことは。
ドリッパーに湯を注ぎ終え、出来たコーヒーを2つのマグカップに入れていく。ディックはそれをじっと見守っていたトムに片方を手渡した。湯気から漂う香ばしい香りが鼻を擽る。トムはコーヒーを淹れてくれた礼を言い、台所を出ようと歩き出した。すると、ディックの手が伸び腰をそっと引き寄せられた。突然のことに目を見開き横を見上げると、変わらず穏やかな笑みを向けているディックがいた。
「早く行こ」
表情と同じく穏やかな声色。しかし何か、いつもと違うような感じがする。態度が優しい──否、そういったものでは無く。そう、纏っている空気がどことなく──
まるで正体の掴めないそれに、トムはディックに連れられながら、ただ疑問を浮かべることしか出来なかった。
【Side D】
粗方家内の掃除を済ませ、ディックは居間の椅子に腰掛けた。
トムがコーヒーを淹れてくれるらしく台所へと向かっていくのを見送りながら、両腕をぐっと真上に伸ばす。そこから外側へアーチ形に降ろしていき、ふっと口をすぼめて息を吐いた。
台所から水の音がする。ケトルの中に水を入れているのだろう。沸かした湯の入ったケトルの取っ手を手に取り、コーヒーを淹れるトムの姿を想像し表情が綻んだ。
そのまま暫く待っていると、僅かに部屋の中が暗くなった。窓を見ると、僅かに水滴が付いていることに気付く。水滴が徐々に窓に張り付いていくのを見て、ディックははっとなり台所の方へと振り向いた。そして椅子から立ち上がり、トムのいる台所へと向かった。
小さく、ぴゅうぅと何かが鳴っている音が聞こえてくる。おそらくケトルの中の水が沸騰しているのだろう。台所へ入ると、そこには案の定沸騰の合図として鳴っているケトルを他所に、目の前の窓の外を見つめるトムの姿があった。
「トム」
名前を呼び、ディックはトムの方へと駆け寄り、背中越しに料理用レンジのツマミを回し、火を止めた。
火が消えたのを確認し息を付く。トムははっと我に返ったように肩を震わせ、背後を振り返った。
「あ…」
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
首を傾げながら問い掛ける。此方を見上げぽかんと見つめるトムが可笑しくも可愛いと思い、頬が緩みそうになるのを堪える。
どうにか苦笑を浮かべるところで留め、口を開いた。
「僕の顔に何か付いてる?」
「え…あ、いや」
戸惑っているトムの傍に移動し、ディックは沸騰したばかりのケトルの取っ手を持ち上げた。
「お湯注ぐから、粉用意してくれる?」
ディックは穏やかな笑みを浮かべ、テーブルに予め置いておいたドリッパーを指差し、トムに言った。トムはディックの指示に従い、マグカップの傍に置いてあるコーヒーの粉の袋を取りに行った。ぱたぱたと鳴る足音に、愛しさが込み上がってくる。
適量のコーヒー粉が入ったのを見計らい、ケトルの中の湯をフィルターの中に注いでいく。茶色の液体がドリッパーに溜まっていくのを、トムは屈んでテーブルに突っ伏して丸い蒼の瞳を真っ直ぐに向けて見つめている。湯を注ぐ合間に、ディックは不自然にならない程度に視線を移し、その愛くるしい姿をこの目に焼き付けた。背後からの、窓越しの雨の音を憎々しげに聞きながら。
ドリッパーに湯を注ぎ終え、出来たコーヒーを2つのマグカップに入れていく。ディックはそれをじっと見守っていたトムに片方を手渡した。
「ありがと」
トムは笑みを浮かべながら礼を言い、台所から出ようと歩き出した。ディックもトムの後に続いて足を踏み出す。トムが前を見ている隙に、ディックはトムの細腰の背後へと腕を回し、そっと掴み引き寄せた。突然のことに目を見開き見上げるトムに、ディックは優しい笑みを向けた。
「早く行こ」
トムの腰に手を添えたまま連れ立って、台所を出ようとする寸前。ディックはそっと背後を振り向いた。
目に入ったのは窓。正確には、窓越しの雨。
嫌でも思い出す、あの時の大雨の光景。
街中を叩き付けていく豪雨、透き通る透明からどす黒く変化した荒れ狂う川。そして、その黒に同化したかのように佇む最愛の──
(渡してなるものか)
見る者を震え上がらせる程の凍る視線を向けた後、ゆっくりと顔を戻し最愛の人を見下ろす。そして、慈しみに溢れる優しい目線を向け、台所を後にした。