はじめての艦内の整備をあらかた終え、工具を持った方の肩を腕を曲げて後ろに回し、デントは降車デッキへと戻り壁に腰を下ろした。
ふぅ、と息を吐き、ぐっと腕を伸ばした。
「今日も頑張って働いたなぁ〜…っと」
誰もいないデッキに声が響き渡る。
任務から帰還した機動班を始め、各班のクルー達は次のミッションへの準備に取り掛かるため各自の持ち場へと戻っていた。
「暇だなぁ…」
もしここにクルーの誰かがいれば相談に乗るなりゲームに誘うなり出来るのだが。
壁に寄り掛かりながら頭の後ろに両手を組んで天井を仰ぎ見た。
暫くじっとしていると、先程までは感じていなかった疲労と心無しか身体の節々に若干の痛みが鈍く襲ってきている。
(一旦自室に戻るか?)
艦内の動力のメンテナンスを終え、本来なら次のミッションに備え仮眠なり何なりして身体を休めるのがベストだろう。
だが、すっかりもう1つの自室のような場所になっているこのデッキから離れるのも億劫だし、何より身体の怠さが進行しているように思える。
仮眠するだけならここでも出来る。それにもし万が一トラブルが発生した時ここならすぐに駆け付けることが出来る。
そうと決めたら、デントは壁に背を預けた上半身を更に下げた。段々と全身の関節の痛みが気になり出してきたが、眠れば治まるだろう。
後頭部に組んだ両手はそのままに目を閉じた。
※
「…ト」
今正に夢の中へ入ろうとしているその時、何処からか声が聞こえてきた。
だが声よりも微睡みの方が勝っているのか、身体を横に向け再び夢の中へ没入しようとする。
「デント」
今度は1回目よりはっきりと声が聞こえてきた。
折角の眠りを妨げられて眉を顰めゆっくりと目を開けると、見知った顔が視界に映った。
「ヒトナリ…?」
デントは目を軽く擦り、数回瞬きをして頭上にいる男-ヒトナリを見上げた。
普段と変わらない男の意志の強さをそのまま表した表情、そして眼差し。
そんな男が俺に一体何の用なのか。わざわざこうして起こしてまで。
億劫だと思いながらも休めていた上半身を起こす。
「どうした?俺に何か用なのか?」
「あぁ。少し気になることがあってな」
そう言って、ヒトナリはその場に屈んだ。
いやに神妙な面持ちで此方を見つめてくる姿に、眉を顰めた。
動力のどこかにトラブルが出たのか…?だが、それならば他の動力班のクルーが交代で随時点検を行っているからその可能性は低い。
なら何か相談事か?それこそ見込み薄だろう。
レッドスプライト号の機動班のエース。国連のビジター隊員の名に恥じない強さと統率力を持つ、クルー達の希望の象徴となりつつあ る男が一クルーに過ぎない俺にそんなことで声を掛けるとは到底思えない。これまでに何度かこの場所で話し掛けたり私事でミッションを依頼したこともあるが、ヒトナリからそういった事で声を掛けられたことは1度も無い-挨拶程度ならこれまでに何度かあったが-
同じ機動班クルーにならまだしも、だ。
考えを巡らせていると、ヒトナリが膝を擦らせながら此方に身体を近付けてきた。
「すまない、少し触れるぞ」
まだ覚醒しきっていない目が開き切る前に、ふっと視界が暗くなった。
段々と意識がはっきりしてきて、目に写ったのは透き通るような青だった。
額に硬い感触。その下にある瞼がゆっくりと閉じられる。
そして、ようやく自分が置かれている状況が分かってきた。途端、身体が緊張で強ばった。
それはそうだろう。先程声を掛けてきた男が、額同士をくっ付けてきているのだから。
何故?どうして?喉から言葉が発せられないまま、ヒトナリはゆっくりとくっ付けた額を離し、また此方を見つめてきた。先程よりも神妙な面持ちをさせながら。
「デント、熱あるんじゃないか?」
発せられた言葉に、デントは目をぱちくりとさせた。
熱?熱とはどういうことだろうか?
聞いておこうと思い身体を動かそうとしたら、眠りに付く前よりも節々が動かしづらくなっていることに気付く。心無しか痛みも増しているようだった。
「あまり無理をするな」
背中をそっと支えられる。スーツ越しに伝わる手の感触は硬いが軍人の、何より機動班らしい頼もしさがあり、支えられる側に安心感を与えてくれる。
身体を起こすのが億劫になっている。眠れていないからなのか、頭がぼんやりしている。
「顔が赤い。医務室に行っておいた方がいいんじゃないか?」
「かお…?いむ…?」
いまいち回らない頭で先程この男が言った言葉を思い出した。
「あ〜、大丈夫だって。寝転がってれば治るから」
「駄目だ。ここで寝たら更に悪化してしまう」
元々吊り上がっている眉を更に吊り上げ咎めるように言ってくるヒトナリに、デントはぽかんと呆けてまた目をぱちくりとさせた。
「ていうか…アンタ何で…」
「?」
此方の問いかけに首を傾げるヒトナリに、デントは更に言葉を繋げた。
「何で、そんなに俺のこと気にかけるんだ?」
これまでそんな素振りを見せたことなんて無かったのに。
こっちもこっちで普段通りに整備を行っていた。というより自分もついさっきまで気付いていなかったというのに。
ヒトナリはあぁ、と短く発し、形の良い唇から言葉を続けた。
「帰還してデッキで見かけた時、若干様子がおかしかったから少し気になっていたんだ」
発せられた言葉に目を見開いた。
確かに帰還してきた時にヒトナリとすれ違ったのは覚えている。声を掛けたことも。
だが、他のクルーに続いて一直線に作戦司令室へ行ったため顔を合わせたのはほんの一瞬だった筈だ。
あの一瞬だけで、この男は分かったというのか。その上、それだけのためにこうして自分のところへ来たということが何より1番の驚きだ。
誰も彼もが自分のことで精一杯になってきている中、特に機動班のクルー達は常に最前線で死地に向かい悪魔と戦う日々が続いている。そしてヒトナリはその中心と言っても過言ではない。
とても他人を気にする余裕など無いだろうに。
こんな時、何て話せばいいのか分からない。いつもは此方から声を掛けているというのに、擽ったさと不甲斐なさを交差させながら、何とか言葉を発した。
「いや本当に何てこと無いからさ。そんな大袈裟にならなくても」
「何を言ってるんだ。さっきよりも息が苦しそうだぞ」
「さっきも言ったろ?少し寝れば治るって」
「デント」
言葉を遮り真っ直ぐな眼差しでデントを咎めるヒトナリ。だが、不思議と煩わしさは感じなかった。
こんな風に誰かに心配されるのは何時ぶりだろうか。
ふ、と口端を上げ、降参とでもいう素振りでデントは両腕を上げた。
「…分かった。後で医務室に行くよ」
「本当か?」
「ほんとほんと。アンタにそこまで言われちゃあな。薬なり貰って自室で安静にするさ」
「…そうか。それなら良いんだ」
本当だということが伝わったのか、僅かにだが安心したようにほぅと息を吐き吊り上がった眉を下げるヒトナリを見て驚愕した。
態度にこそ出さなかったが、その表情を見つめているとヒトナリは立ち上がりデントを見下ろして言った。
「じゃあ俺はそろそろ行くが…自分で行けるか?」
「あ、あぁ。そのくらいの体力はあるから心配なさんな」
「そうか。無理はするなよ」
そう言って、ヒトナリはくるりと背を向け、司令室に続く通路へと歩き出した。
揺るぎない意志をそのまま表した背筋の伸びた背中を、デントは完全に見えなくなるまで見つめていた。
「はぁぁ〜」
緊張の糸が解けたように長く息を吐きながら、壁に凭れ掛かった背中をずるずると下ろし仰向けに倒れ込んだ。
(あんな表情、初めて見た)
デントは、先程までのヒトナリが見せた姿を思い巡らせた。
真剣な表情で額を合わせた時の透き通るような青い瞳。ゆっくりと伏せられた時の長い睫毛。厳しい表情を浮かばせながらも釣り眉を僅かに下げて綻ばせる口元。
何もかも知らない姿。
そして深く頭に刻まれた姿。
右腕で視界を覆い、身体の熱を追い出すようにデントは再び長い息を吐いた。