僕たちの失敗僕たちの失敗
予習は完璧だった。
必要な知識は全て叩き込んだし、ローションやスキンやら、セックスに必要なものは一通り準備した。欠けているものは何もなかった。
だから、今夜は最高の夜が約束されたも同然だった。ただ、一つ未知のことがあるとすれば、セックスが自分一人では成り立たない相互間のコミュニケーションだということだけだ。
まずそもそも、アズールは自分の容姿を特段気に入っているわけではない。他人に見られるのは尚更苦手だ。
特別人を不快にさせる容姿ではないという自覚はあるが、他者に自分の姿をじろじろと見られる嫌悪感は幼少期の体験と紐づいていることなので、一朝一夕にはどうしようもないことである。しかし、愛する人と番うことと自身の過去を引き合いに出した時に、保身を取るような繊細さをアズールは持ち合わせてはいなかった。
イデアを手に入れるためにアズールは全力でアプローチした。
内心アズールを憎からず思っていたイデアだが、自分からモーションをかけるほどの思い切りはなかった。そんななか、イデアは自分から言い寄ってくる後輩に押し切られて、という都合の良い言い訳を手に入れたのだった。がっついていたわけじゃなく言い寄られて仕方なしにという体裁を保ったまま、アズールと交際できることに味をしめ、イデアはアズールの告白を受け入れた。快楽に弱くプライドが高くその上面倒くさがりなところのあるイデアらしい選択だった。
しかし、それからが問題だった。
付き合って何日もたたない内から、イデアはアズールに手を出す機会を窺い始めた。イデアの奥手ぶりをよく理解しているつもりだったアズールは、その手の早さにすっかりペースを崩された。アズールとて先に進むのはやぶさかではないが、心の準備というものが必要なのである。折に触れてアズールと二人きりになる機会を設けて近づいてくるイデアに対して、アズールはやんわりと拒絶を示した。こんなに早く体の関係を持ちかけられるなど、アズールには全く想定外のことだったのだ。
しかしアズールの拒絶の方が、イデアにしてみれば想定外だった。
そもそも、自分の有用性をしたり顔でプレゼンしたり際どいボディタッチをしたり、激しくアプローチをしてきたのはアズールの方だ。当然体の関係もすぐ結べるとイデアは期待していたのだ。それが、まさかお預けを食らわされるなんて。イデアはガッカリするやら小憎らしいやら、それでも惚れた弱みで無碍にできず悶々とするやらで大忙しだった。
しかし、拒絶も回数を重ねられると流石に堪えるものがある。自分はそんなに魅力がないだろうか、とイデアはしょげ始めていた。
いかに厚顔なアズールといえど、そんなイデアを見て彼を弄ぶことができるほど、世間擦れしているわけではなかった。だから、イデアの望みを叶えるべく、初夜への対策に打ち込んできたのである。
それも、今日で最後になる。
二人はイデアの自室のベッドの上で向き合っていた。
お互いに童貞同士。
本懐を遂げるのに、それなりの思い入れを二人それぞれが持っていた。男はそういうプライドを大事にする生き物である。
いかにムードを壊さず、相手のやる気を削がずに、ピロトークまで持ち込むか。数々のトラップをくぐり抜けて、二人は初夜を貫徹しなければならなかった。いわば、セックスとは共通の目的に向かって二人で試行錯誤する、ある種の共同作業ゲーだと言える。
「あ、あじゅっ、…る氏…」
「……」
早速噛んだ。
二人して冷や汗を掻いた後、こほんと咳をしてイデアがもう一度口を開いた。
「アズール氏、シャツのボタン外す、ね」
「アッ、ハイ、喜んでっ」
居酒屋かな??
絶対に笑ってはいけないイデアズ初夜がすでに勃発してしまった。これには慎重にならねばならない。不用意に笑って運悪く相手のコンプレックスを刺激したら、笑われた方はプライドを挫かれて再起不能になりかねない。
「あ、アズール氏、さ、触っていい?」
「……」
「アズール氏?」
セックスとはプレッシャーだ、という言葉はどこで耳にしたものだったか。
アズールはその意味が今、痛いほどわかった。誰かから奇異の目を向けられるのには慣れていた。けれど、こんな風に期待を込めた目で見られるのは初めてだった。それを受けてアズールが初めに感じたのは、恐怖だった。
彼が抱いている期待を、自分が叶えることが出来なかったらどうしよう。気味の悪いノロマなグズと思われたらどうしよう。
それも、何より尊敬して恋焦がれている、憧れの先輩に……。
「あ、ああ、大丈夫です……」
アズールはほとんど無意識のうちに返事をしていた。何も大丈夫ではなかった。
ただ、先に進みたがっているイデアの機嫌を損ねないために、反射的に出てしまったからっぽの言葉に過ぎない。GOサインが出たので、イデアはアズールの肌をするすると撫で始めた。
イデアに触れられるのは、少しむず痒いが心地よい。しかし、されてばかりなのはアズールの性に合わない。こちらも愛撫したいがいいだろうかと、アズールはイデアの方をチラリと伺った。アズールが見やったイデアの目は据わっていて、ギラギラと光り輝いていた。その熱量に気圧されて、消えかかっていた「プレッシャー」の一言が、アズールの頭の中で再燃した。
まるで皿の上に乗せられて、口に運ばれるのを待つ料理にでもなった気分だった。逃げ場を求めるように、アズールはシーツを手繰り寄せると、ベットの上方へ伸び上がるように逃げようともがいた。それを許さないとでもいうように、イデアがアズールの手を上から握り込み、シーツから引き剥がす。そして、そのままベッドに縫い留めた。
青い長髪がアズールの体を覆い、まるで檻のように彼を閉じ込めた。一対の金色の瞳に射抜かれて、アズールは高まる緊張感で身じろぎひとつできなかった。
「や、嫌だ…」
アズールは確かに拒絶を口にしたはずだった。しかし、イデアはそれを拒絶とは取らなかったらしい。熱っぽいため息を吐きながらアズール…と耳元で呼び返した。
耳元に流し込まれた声にびくりと怯み、アズールは胸の内から不随意に迫り上がるものを感じた。途端、痛いくらいにイデアを胸を押し返し、咄嗟に顔を背けた。
「げぇっ……!」
イデアは一瞬、何が起きたか理解できなかった。
アズールが突然自分を押しのけて上体を起こし、何やら嘔吐したらしいとしばらくして理解した。アズールの口元を覆う指の隙間から、だらだらと黒い液体がこぼれ落ちていた。
イデアはさあっと顔を青くさせて、アズールの身に取り縋った。
「アッ、アズール氏!?何、どうしたの!?」
「み、見ないで、イデアさん…」
苦しそうにえづきながらも、イデアを押しのけようとするアズールに、イデアは少し腹が立った。だがそれ以上にショックだった。何より大事にしようとした恋人を、ベットの上で嘔吐させたことが、だ。イデアは失意の中でなんとかタオルとミネラルウォーターと洗面器を持ってくると、彼に差し出した。
「まずはこれで汚れ拭いて…。口濯いで、ここに吐き出していいからね…」
この期に及んでじっとイデアの方を見つめ返すアズールに、深いため息をつくと、イデアはくるりと背を向けた。
「見ないようにしてるから、…ね?」
アズールが汚れを落としている間、イデアはもんもんと考え込んだ。恐らく、アズールが先程吐いたのは墨だ。蛸が外敵に襲われた時に、撹乱のために吐くという墨。自分で想像した「外敵」という字面に、イデアは勝手にダメージを負ってしまった。
そこまで怖がらせるようなことをしただろうか。イデアは先程までの自分たちの言動を反芻する。
ああ、「嫌だ」と。
アズールは確かに嫌だと言った。それを嬌声の一つだと安易に捉えて、取り合わなかったのはイデアの方だ。あまつさえ彼の体を押さえつけて、自分勝手にことを進めようと…。
イデアは自分の無神経さに頭を抱えた。
「お見苦しいところをお見せしました…」
背後からおずおずとかけられた声にイデアが振り向くと、アズールの体は綺麗に整えられていた。洗面器も汚れを洗い流されて、片付けられていた。しかし、シーツに落ちた小さなシミを見つけて、イデアの胸がつきりと痛んだ。
「続きをしましょう、イデアさん…」
イデアはギョッとした。そして、にわかに傷ついた。アズールから見た自分は、恋人を嘔吐させておいて、そのあとすぐに性行為を強行するような人間に見えているのだろうか。
「まって、今日はもういいじゃない。このままゆっくり寝ようよ」
「ぼ、僕が墨を吐いたことであなたが遠慮することはありません!蛸にとって墨を吐く行為は、ごく自然な生理現象です」
それが本当のことかは怪しかった。自分が失態を犯した手前、アズールは引き下がれなくなっている。イデアにもアズールの焦りはよくわかった。自分がアズールの立場なら、挽回したいと思うはずだ。
だから乗り気ではなくてもイデアはなんとか続きをしようとした。しようとしたのだが。
どうしても勃たなかった。
イデアは何とか行為に集中するが、苦しげに墨を吐くアズールの姿が頭から離れなかった。そうするとさらに焦りが先立って、ますます集注力を欠くといった有様だ。
アズールはアズールで、それが自分のせいであることも痛いほどわかっていた。
こうして、彼らの初夜はさながらお通夜の様相へと変わり、夜もふけて疲れ果てた彼らはお互い背中合わせになって眠りについた。
あれから、かれこれ一ヶ月の時が過ぎた。
その間はというと、二人は部活動では顔を合わせたのだが、恋人同士としての触れ合いは一切してこなかった。
このまま、自然消滅に似た流れで友人同士に戻るのだろうか。それもいいかもしれない。イデアはぼんやりと考えた。あのまま付き合っていても、いずれは別れが訪れるのだ。それなら、まだ関係が浅いうちに別れれば、その分傷も浅くて済む。
イデアは全てに予防線を張り巡らし、期待値を下げることで自らの心を守ってきた。自室で一人感傷に暮れるイデアの心境に、水を差す機械音が突如鳴り響く。来客用インターホンの音だ。モニターを映すと、寮服を着込んで、重たそうなアタッシュケースを抱えたアズールが、画面いっぱいに現れた。まるでこれから大事な商談にでも向かうかのような格好だった。
「ヒュッ…」
それを見たイデアは、驚愕のあまり音を立てて息を呑んだ。
「イデアさん、ご無沙汰しております、アズール・アーシェングロットです!
今お暇ですか?お部屋に入れてください!」
恐れ慄くイデアのことなど全く意に介さず、アズールは溌剌とした声でそう言った。イデアは取り付く島もなくこう言い放った。
「うちにテレビないんで帰ってもらっていいですか!?」
「誰がNH●の料金取立てだ。
アポ無しで来たのは悪かったと思っています、でも絶対に損はさせません!お願いです、ここを開けてください」
「詐欺師の常套句なんだよなぁ!そう言って開ける奴が居ると思う?無理だから帰って」
「イデアさん…」
急に心細げに言い募るアズールの声に、イデアははっとした。
「この前は粗相をして…すみませんでした…。汚してしまったシーツの対価もそうですし、今日は前回のことをお話しするために来たんです」
「対価なんてそんな…君が謝ることじゃない。寧ろ、僕の方が君を傷つけて…否、終わったことだね。そのことはもういいよ。」
「まだ終わってはいません。何なら、始まってもいないじゃないですか、僕たち。
今日がダメなら、それは仕方がないですけど。その代わり、次にお会いできる約束を取り付けてくれないと帰りませんよ」
その強引な口ぶりに、イデアは思わず笑ってしまった。
そうだ、アズール・アーシェングロットとはこういう男だった。感傷に浸りすぎて忘れていたが、たった一回の失敗程度で、彼が諦めるはずがない。転んでも、タダでは起き上がらない男だ。
「お願いなんて、ぬけぬけと良くいうよ。帰る気なんて最初からないだろ」
アズールがクスリと笑うその勝ち誇った顔に、イデアは滅法弱いのだ。勿論、アズールにはそんなことはお見通しである。
そうして、イデアの部屋に通されたアズールは早速アタッシュケースを広げると、その中から数冊の冊子を取り出して、ゲーミングチェアに腰掛けるイデアに手渡した。
アズールはすっくと立ち上がると、ジェスチャーを交えて突然講釈をぶちはじめた。
「と、いうわけでこの一ヶ月寝る間も惜しんで僕が『対策』してきた、この『初夜貫徹PDCAサイクル※初夜失敗を事例研究(ケーススタイディ)したカイゼン報告書付き』
をプレゼンいたします。お手元のスライド資料の一枚目をご覧ください」
「なんて?PDCA?」
「だからですね、業務改善です。PDCAサイクルとは品質管理など業務管理における継続的な改善方法です。Plan→ Do→ Check→ Actionの4段階を繰り返して業務の完了ごとにその工程等を見直してフィードバックし…」
「違う、そうじゃない。そうじゃないのよ。言いたいのはさ、それと…僕たちの夜の営みの失敗がどう関係してるのかってことで」
よくぞ聞いてくださいました!アズールは聞いている側が恥ずかしくなるほどしたり顔でこう言ってのけた。
「継続的な業務において常に計画の見直しと業務効率化を図るのは当然のことです。性交に至ってもそれは変わりません。一回の失敗で撤退するには、僕たちは市場(セックス)を開拓していなさすぎる。
そこで、市場(セックス)のセグメントをコミュニケーションのツールとして絞った上で、前回の言動の問題点を洗い出した結果、僕は四つの改善点を提案したいと思います」
「提案って…」
アズールは腰掛けるイデアの膝に手を置いて、ずいっとイデアの方へ上体を寄せた。そして、人差し指を口元に立てて、あだっぽく微笑みながらこう言った。
「実地で、教えて差し上げます」