お前は自由になっていい「……なに、そう言ったの? あんたが、オスカーに?」
貸切状態の静かなバーにフェイスの声が響く。驚きと、僅かな軽蔑の込められた言葉は、常には感じない鋭さがあった。
「ああ」
そう返しながら、ブラッドは寸でのところで溜め息を飲み込む。己への呆れと情けなさを認めるためだ。他人の言動に良くも悪くも興味がなく寛容なフェイスにまでそのような反応をされるのだから、己の発言が如何に愚かだったのか推して知るべきというところだろう。問題は、表面上ではわかっていながら、一体どこが悪かったのかわからないことである。
「サイテーじゃん」
フェイスは呆れたという様子を隠さず、手元のジプシーを一気に呷った。空いたグラスをカウンターに戻し、マスターへギムレットを二人分追加するのは、カクテルに詳しくなくても伝わるであろう皮肉のためだ。
案の定、ギムレットの意味を知っているのであろうブラッドは少し眉間に皺を寄せたが、「奢り」と言えば渋々と受け取った。単純に、自分のために作られたものを無駄に出来ないと受け取ったのだろうが、フェイスからすると、その態度こそが今回の発端ではないかと呆れるばかりだった。
「最低だったか」
「当たり前」
間を開けずに答えた。当然だ、何をどう見積もっても「サイテー」と言わざるを得ない言葉だろう。大多数の人間が聞けば「何様だ」と思うような言葉だが、果たしてこの言葉をぶつけられたという彼は、一体何を考えたのだろうか。
彼のことを思い出そうとすると、「フェイスさん」という低い声が脳裏に響く。穏やかで控えめな、必死に優しさを身に纏ったような声は、いつでも真っすぐに好意を伝えてくれていたように思う。フェイスにとって彼は良き隣人であった。家族というスペースへ無理に入ってこようとはせず、しかしフェイスや父、母のことをとてもよく慕ってくれていた。もっとも、その彼が最も慕っていたはずの男は、今フェイスの目の前で柄にもなく遠くを見るような目をしているのだが。
「最低だよ」
フェイスはもう一度言ってやった。ブラッドもそれなりに自覚はあったため、何も言い返さなかった。
舌の上にキリッとした爽やかさを感じながら、フェイスは「ここのギムレットは辛いな」と頭の隅で呟いた。冷房の効いた店の中で、ジンが喉元を熱する。ああ、ついでにあいつの頭も熱してやわらかくした方がいいんじゃないか、と考えたところで、メンターの良くない部分を受け継いでしまったと眉を顰めた。
ブラッドは話さない。ブラッドが何も話さないのであれば、フェイスも、それ以上話すべきことはなかった。
結局、二人分のギムレットが飲み干され、そのまま別れるときまで沈黙は続いた。
「戻った」
帰宅してすぐの第一声は、虚しく空気に溶けていった。酒の入った頭が急速に冷えていき、思わず上を向いて額を抑える。そうだ、自分が「そう」してもいいと言ったのに、どうして声を掛けてしまったのだろうか。染み付いた習慣だと一蹴するには、あまりにも虚しかった。
電気をつけると、当たり前だが、ブラッドが家を出たときそのままの部屋がある。机の上に広げられた手紙と小切手が、空調の風を受けて微かに動いた。小切手に書かれた金額はかなりの大金だが、ブラッドの心はかえって冷え切るばかりだ。それでも、外に出したままにするのは気がひけるので、丁寧に封筒にしまった。
一緒に手紙も封筒にしまおうとして、ふと、端が曲がって皺がついてしまっていることに気付いた。持ち上げたまま親指で皺を伸ばすと、つい、その位置にあるサインが目に入ってしまう。
記されている「Bale」の名は、手紙の差出人であるオスカー・ベイルが初めから持っていた唯一のものだった。
「そんでお前は言われた通り、住んでいた部屋から荷物をかっぱらってこのアパートみたいな箱に仮住まいしてたってわけか?」
「いえ、決してブラッドさまに言われたわけではありません。あくまで自己判断で、俺があの部屋を出るべきだと思っただけです」
「けどその元凶は『ブラッドさま』なんだろ? んじゃ、あいつがやらせたって言っても違いねえだろ」
「そんなことは……」
キースは、まだ言い募りそうな様子のオスカーを「わかったわかった」と制止する。そのまますぐ足元にあったダンボールを持ち上げようとし、妙な重量感を感じてやめた。「私物」のみ書かれている中身がダンベル辺りではないかと予想をつけ、衣類のみが入っていると思われるファンシーケースを持ち上げた。
「しかしまあ、よくもこんな環境で暮らせたもんだ。四方から人の気配がして落ち着かないったらありゃしねえ」
「壁と天井があるので充分だと思っていましたが……。アレキサンダーはそういうところもストレスだったのかもしれません……」
「ああほら、ウジウジすんなって……休めば良くなるって言われてんだろ? じゃあアレキサンダーのためにも良い部屋を探すのが先、だ、っと」
荷台に詰め込み手を叩くと、続いたオスカーはキースの諦めたダンボールを手に涼しい顔をしていた。「これで最後です」と言うので、念のため部屋を確認しに行くと、オスカーの申告通りそこにはもう何もなく、ただ薄っぺらい壁で囲まれた箱になっていた。
半端な消耗品は捨てられ、ミニバンに積まれた箱はたった五つだけだ。衣類、食器、書類や書籍、筋トレ道具、そしてアレキサンダーの世話道具とその他。つい最近引っ越したばかりとは聞いていたが、人が生活するための最低限に届いていないように思え、キースは眉を顰める。ここは生活するための空間ではなく、眠って休息を取るためだけの場所であるというのが如実に現れている。アレキサンダーがいなければ何の問題もなくこの部屋で暮らし続けていたのだろうと思うと、ぞっとする気持ちを抑えられなかった。
「んで、この荷物はどこに運ぶつもりだ?」
「一旦、近くに宿を見つけたのでそこに置こうかと思っています」
「まぁた廃ビル寸前のところじゃないだろうな、ほらあそことか」
「キースさん、すごいです。なぜわかったんですか?」
「お前、……お前なあ……」
キースは渾々と話した。こういうのは向いていないってのに、と内心でボヤきながらも、倫理や常識の感度が突然後退してしまった後輩に向けて、「市民らしい生活とは」を説いた。ヒーローである以上は模範的な「市民らしい」生活を送るべきであると言えば、やや疑問を感じている表情をしていたものの納得した。酒は市民の代表的な嗜好品だ、という言葉はしっかりと「代表では無いかと」と否定されてしまったが。
話しながら車を走らせて、適当にサウスの中心街はずれにあるモーテルを確保した。セントラルスクエアにもそこそこ近いので、通勤にも困らないだろう。この男の家探し中なのだ、と飛び入り客なのに無理を言って一週間ほど融通をきかせてもらったので多めにチップを払い、その後男二人で部屋に荷物を運び込んだ。
全ての荷物が部屋に収まった後、一息ついたと鏡台の前で煙草を取り出そうとして、禁煙なのを思い出す。
「ああ、吸えないのか、今ので倍疲れた……」
「手伝ってくれてありがとうございます。よければ飲んでください」
「サンキュー、ああ〜重労働だったから水でも美味いな……ビールなら最高だったんだが」
「キースさん、飲酒運転です。それに、昼間からお酒を飲むのは市民らしくありませんよ」
覚えたての言葉を使いたがる後輩を小突くと不思議そうにこちらを見られる。ああ、どうやらこれまで小突かれることもなくたいそう大事にされていたようで、と、生ぬるい視線を向け、深くは話さないことにした。
「やっぱブラッドに言って、少しの間だけ出戻りさせて貰えばよかったんじゃないか? あいつなら何も言わず許可してくれんだろ」
「そんな! 自分の勝手で出ていったのに、また勝手に戻るなんて出来ません」
「ま、確かに勝手に出ていったなら気も引けるか。そもそも、なんだって出ていく流れになったんだ?」
キースが問うと、オスカーは言葉を探しているのか少し目蓋を伏せて唇を引き結ぶ。思春期に有りがちな、たとえば「自立のため」とか、そういった明確な目的があって出ていったのかと思ったが、どうやら違うらしい。水で喉を潤しながら待っていると、オスカーは迷いながらも口を開いた。
「その、自由になるにあたってまず、ブラッド様に頂いたものを返さなければと思い」
キースは疑問に思いオスカーの顔を見る。オスカーなりに考えながら話している様子で、話を遮ると最後まで話すのをやめてしまうかもしれないと感じ、ひとまずは口を挟まず静かに続きを聞くことにした。
「取り急ぎ出来るものから返そうとしたところ、金と、部屋と、名前になりました」
「おいおい随分と話が飛んだな」
「そうでしょうか、自分では納得した上での行動だったんですが」
キースは「その不思議そうな顔をやめろ」と喉元まで出た言葉をなんとか飲み込む。どうしてそうなったんだ、と問い詰めれば問い詰めるだけこちらが疲れる気がする。やっぱりこういった手のかかる良い子ちゃんは管轄外だと早々に諦め、匙を投げる相手を考えることにした。これまで一番の適任者と思っていた奴に投げられないのは面倒だったが、幸いヒーローという役職上、人には恵まれていた。
「お前も大概石頭ね」
他が誰とは言わねえけど、と、心の中で付け足す。キースの知る石頭代表は、特に変わった様子は無いが、やけに仕事が立て込んでいるので、あれはあれで思うところがあったようだ。どうするつもりかは知らないが、両者ともに考える時間は必要そうなので、今は放っておくに限る。
自分のやれることをやったと自負したところで、いつもの休日に戻ることにしたキースは、もらったペットボトルを振りながら「んじゃあ、そろそろ帰るわ」と立ち上がってドアに向かった。
「キースさん、今日は本当にありがとうございました」
「礼ならバーで一杯奢ってくれ」
「わかりました! 明日ご予定をおうかがいします」
「そんな堅苦しいのじゃなくて……まあいいか。んじゃまた明日」
元気の良い「お世話になりました」に車のキーを指で回して応える。車に乗り込むと、ドアから出てご丁寧にこちらを見送る姿がバックミラーにうつったので、ハザードをたいてから車を走らせた。
「『自由』ってのは何かねえ」
小さくなって消えた姿を思い出しながらキースは自問する。
オスカーは自由を求めて金、家、名前を返そうとしていたらしいが、無事に全てを返したとして、それは自由と言えるのだろうか。
ブラッドの言った自由とは、金銭や居住地の制限から解き放たれることなのだろうか。ブラッドは違う何かをオスカーに求めていたのではないだろうか。
「……あー、やめだやめだ。こういうのは管轄外なんだよ」
さっさと拗れる前に落ち着いてくれとぼやこうとして、ふと、もう拗れているのかと気づき、とうとうキースは大きな溜め息を吐き出した。
Scott、Seamus、Sebastian、Selwynーー。
オスカーは一文字ずつ指先で辿りながら頭の中で言葉の響きを確認する。ページの端まで見終えたら次を捲り、また音をなぞった。Aから始まったこの本も気付けば残り八文字分を残すのみとなり、決断の時が近付いていた。
何となく頭が重く感じ、ふと時計を見る。時刻は午後二時を過ぎたところで、休日もそろそろ半分が過ぎようとしている。役所に行っていた一時間を除くと、もう四時間以上この本と向かい合っているようで、集中力も途切れるはずだと得心した。
ふ、と一息ついて、オスカーは二度ゆっくりとまばたきをした。頭の中に滲む様々な名前の名残が少し静かになる。いつもは何も意識せずに聞いているだけの「他人を指し示す単語」が、数日後に「自分を指し示す単語」になっているのかもしれないと思うと、とてつもない違和感と言葉にしようのない胸のもやもやがオスカーを苛んだ。
このままではいけないだろうか。
疑問が浮かび、しかし、それを即座に否定する。このままではいけないのだ。「オスカー」のままでは、自由になったと言えないのだから。
オスカーはもう一度思考を反芻する。ブラッドに「自由になっていい」と言われたあの日、自由とは何で、自由になるためにはどうすればいいのか、あの時に考えた全てを、一から整理するのだ。
自由とは縛られないことだ。オスカーの生活はどうしてもブラッドに紐づいていて、それは確かに彼の言う通り「自由」な状態ではないのかもしれない。では、どうすればブラッドから離れられるだろうか。ブラッドから離れようとすると、まずこれまでの恩義を返さなければならないと思った。ただ、自分がブラッドに対して恩義に値する利益を返すことは難しい。そうなると、これまでにもらったものを返して、文字通り「恩義を返す」必要があるのではないか。そうに違いない。
役所で得た申請書を睨みながら強くそう念じると、胸のもやもやがさらに増して、気付けば息をするたびに苦しいほどになっていた。
「オスカー? あれ、今日は休みじゃなかったか?」
「……ディノさん。はい、間違いありません。今日は休みをいただいています」
覚えのある声に振り向くと、軽く手を上げながらディノが近付いてくる。もう片手に抱えられているピザ箱を見るに、かなり遅めの昼食なのだろう。テーブルの半分を空けると、ありがとうと人懐っこい笑顔で礼を言いながら、ディノが向かいの席に座った。
「オスカーも食べていいぞ。ピザはみんなで食べるのが美味さの秘訣だからな!」
「いえ、その、今は腹が減っていないので。ありがとうございます」
「そっか。ところで、なんだってオスカーはせっかくの休みに職場まで来たんだ?」
「ちょうど今夜キースさんにご馳走する約束をしていたので、仕事上がりに合流できるかと思ってこっちに来ました」
「アイツ、まぁた後輩にたかってるのか!」
オスカーはいい子だなあ、と言われるとどうにもむず痒い。何と返事をしようか悩んでいると、ディノの視線が書類の方に流れていることに気づいた。真夏の晴れの日のような突き抜ける青い色の中に映る「氏名変更許可申請書類」の文字は、ディノが眉を顰めると同時にぐにゃりと歪んだ。
「オスカー。その、嫌なら良いんだ、ただ、もしこれについて悩んでいることがあるなら、理由を聞いてもいいかな」
頼りないかもしれないけど、力になりたいんだ。迷惑なんて思ってないから。
強い意志の宿る瞳は、出会った頃と変わらずオスカーを明るい方へと導こうとしてくれている。喉元につかえていた「迷惑」という言い訳を優しく取り除かれたいま、オスカーの口を縫い止めるものは何も存在しなかった。
「……ありがとうございます、ディノさん。あの、よかったら、聞いてもらえますか」
ひとつ、またひとつ、言葉を吐き出していく。状況を正確に理解してもらうためにはまず私情を排するべきだ、という彼の人の教えに従い、このところしばらくオスカーの頭を悩ませていた問題について、なるべく事実をもとに説明したつもりだ。
自由になっていいと言われたこと。自由になるためにやったこと。自由になるためにすべきこと。
言葉に嘘はない。正しいこと、すべきことを行なった、そしてその事実を述べただけだ。そうだというのに、話が進めば進むほどにまた胸の奥へ不快感が募る。大きく息を吐き出して抑えようとすると、一緒になって目蓋が少しだけ震えた。それを誤魔化すように素早くまばたきをしたとき、ちょうど同じタイミングでディノが「そっか」と小さく呟いた。
「それは、悲しかったなぁ」
やわらかに頭の奥に染み込んだ声は、しかし、オスカーに焦りと混乱をもたらした。自由になることは一般的には喜ばしいことで、オスカーにとっても当然善いことに違いない。だから、今の話に悲しいことなど何もないのだ。どこか言葉足らずだったかだろうか。なぜうまく伝えられなかったのだろうか。目を白黒とさせながら考えるオスカーは、しかし、ディノの穏やかな声に意識を引き戻された。
「俺は、すごく悲しいと思ったよ」
眉を下げて、はっきりと苦笑いを浮かべるディノ。彼が「悲しい」と言う度に、不思議とオスカーも息苦しさを少しだけ忘れることができた。
「悲しいことなのでしょうか」
「俺はね。オスカーは、悲しくない?」
「……わかりません。どちらかといえば、苦しいです」
息が苦しい。ぽつ、と思わず溢れた言葉を、ディノはただやわらかに肯定した。
「何が苦しかったんだろう?」
「それは、よくわかっていないんです」
「そっか。じゃあ、いつ苦しかったとかは?」
「ここ最近はかなりの頻度でしたが……さっき、名前を考えているときは特に息苦しかったです。セルウィンという名前の時でした」
「セルウィンが嫌だった?」
「セルウィンがですか? いえ、特に何も思いませんが……」
「じゃあ、セルウィンって名前にしようと思った?」
「……いいえ。思いは、しませんでした」
「うん」
「……思わなかったんです。どの名前も、いえ、不満ではないんです。元々名前なんて持っていなかった。だから何だっていいと……」
「うん」
「……何でも良いと、本当に、思っていました。でも……いえ、そうではなく」
「オスカー。でも、の続きを言ってほしい」
喉まで出て飲み込んだ言葉を、ディノはすかさず掬い上げる。優しく、けれども逃げを許さない厳しさは、ずっと昔に受けた訓練を思い出させる。ディノとの訓練を積み、一つ一つ技術を学んだ日々。
そして、その報告を受けて穏やかに瞳を撓ませたひとが、声に喜びを滲ませて何度も自分を呼んでくれた名前は、世界でただひとつしかなかった。
「この名前だけは、変えたくない、返したくない、と」
そう思ってしまって、苦しいです。
震える唇を噛み締めて、オスカーは言葉を区切った。痛む眉間にはぎゅうぎゅうと皺が寄り、不要な力を御しきることができず両手を強くにぎりしめた。なんて様だろうか。自由になることを許してもらった体たらくがこれなのかと思うと、自分自身が情けなくて仕方がなかった。
一方でディノは、そんなオスカーの姿を、変わらずにやわらかな表情で見つめている。この大きな後輩の、やさしいこころを持つところが一等だいすきなのだ。悩み、苦しみ、それでも変わらない眩いその感情は、誰が見たって名前をつけることさえも勿体無いほどにきれいだ。それを一身に受け止めているはずの同期の姿を思い出し、ディノは溜め息をぐっと飲み込んだ。こういうことを何と言うんだったか。森で木が見えていない。目と鼻の下の関係。灯台下暗し。
思い出しながら、今回はあくまでかわいい後輩の味方として、ディノはとっておきのアドバイスを口にした。
「じゃあさ、ブラッドにお願いしよう」
「そ、それは」
「だってさ、もちろんそれはブラッドがくれた名前かもしれないけどさ、もう十年以上オスカーは『オスカー』だったわけじゃん。俺だって今更『オスカー』以外で呼べないし、それを変えるのって非効率だと思わない?」
だからさ、『オスカー』を貰いに行こうよ。その分いっぱい役に立つから、って。
ディノに言われて、オスカーは考える。そんな勝手を許されるのだろうかと不安がる一方で、ディノも言った「非効率」の免罪符が甘く誘いかけてくる。
許されるだろうか。非効率を嫌うあのひとならば、誰よりもやさしいあのひとならば、オスカーに名前をくれるだろうか。
「大丈夫、オスカー。行っておいで、キースには俺から言っとくから!」
ほらほら善は急げ、と、本と書類を手渡され、軽く背中を叩かれる。「走って!」と指示を飛ばす笑顔は、何年経っても変わらない頼りになるメンターの顔だった。
「ディノさん、ありがとうございます……!」
つられたように仄かな笑顔を浮かべたオスカーを、ディノは手を振って見送る。流石と言うべきか、ほんの数秒後には見えなくなった背中に向かって、頑張れよ、と、言い訳に持ってきたピザの空箱を叩いてエールを送った。
部屋の前が見えたとき、ブラッドはとうとう幻覚を見始めたのかと己の精神状態を嗤った。ほんの数週間離れて過ごしただけだというのに同居人だった男の姿が見えるだなんて、情けないにも程がある。壁にもたれ隠すこともなく大きな溜め息をつくと、男がぱっとこちらを振り返った。
「ブラッドさま! 大丈夫ですか!?」
彼が走ってくる。その声が、一歩一歩の振動が伝わって、ようやくブラッドは目の前の彼が現実であることを認めた。すっかり寒くなった中で待っていたからか、赤らんだ鼻先がかわいそうで、自制のなくなった手は簡単に其処へ指を触れさせる。つめたい。感じた通りに「つめたいな」と口に出せば、少し戸惑った声色がまたブラッドの名前を呼んだ。
「もしかして、お酒を……」
「ああ、酔っていた……少し」
当然のように肩を貸してくれることに甘えて、ブラッドは考えを巡らせる。オスカーがどういう意図でここにいたのかはわからないが、帰りを待っていたところを見るに何か直接話すべき用があったに違いない。内容が何であれ、ゆっくりと話をする絶好の機会だ。
話を聞きたい。誓って、最後まで聞くから、どうかお前と話をさせてほしい。
溢れ出そうになる懇願をとどめながら、部屋の鍵を開ける。外で一瞬待とうとしたオスカーに「入るぞ」と声をかけると、彼は緊張した面持ちで脚を踏み入れた。
「あの、ブラッドさま。今日は、お願いがあってここに来ました」
鞄を置き、スーツを椅子にかけたところでそう声が掛かる。唇を噛み締め覚悟を決めた表情をするオスカーに、ブラッドは最悪の事態を想定して眉を顰めた。正式な同居の解消、チームの解消、職場の分離。最悪、直接的に「会いたくない」と明言されるかもしれない。その前にせめて謝らせてほしいと言いかけるのを押し留めて、ブラッドは少し息を吸う。そして覚悟を固め、「何でも言ってくれ」と返した。
オスカーもまた相当な覚悟が必要なのだろう。彼は、ブラッドの返事に息を呑んだあと、両手に力を入れてぎゅうと握りしめた。視線を右に外し、そして、ブラッドを正面に見据える。その、底まで突き抜けるような真っ青な色は、ブラッドの愛するもののひとつだった。
「ブラッドさま、どうか、俺に」
オスカーをくれませんか。
言われたことが理解できず、ぱちん、と、ブラッドの目が瞬く。尽きない疑問が溢れるが、しかし、どこか泣きそうな顔で唇を開こうとしているオスカーを前に、ブラッドは唇を引き結ぶことしかできなかった。
「俺は、ブラッドさまにお会いしてオスカーになりました。ブラッドさまにいただいたこの名前を何度も名乗って、何度も呼んでもらいました。本当は、いただいたこの名前も返さなければならないのですが、でも、他の名前は嫌です。ショーンも、スコットも、セルウィンも嫌です」
オスカーは跪きブラッドに懇願する。その切実な声は、ブラッドの過去の傲慢さを浮き彫りにして、自責と後悔の念を強く駆り立てた。
「……ブラッドさまの望まれた通り、完璧に自由になれないことをお許しください。そしてどうか、ブラッドさまに『オスカー』と呼ばれることを、許していただけませんか」
**もうちょっとだけつづく**