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    mesikue__am

    えふご、とうらぶ等雑多

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    mesikue__am

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    月夜の邂逅のパロディ似非歴史物風ファンタジー鯖ぐだ♀要素有り小説
    言ってしまえば太ぐだ♀があります
    微妙に長い

    月夜の邂逅これは、正史の中にあった物語ではない。
    枝分かれを起こした運命のうちの一つ、世界が選択しなかった道であり、微睡む世界が見たあり得ざる『もしも』である。



    月の下の国、の名を持つこの国には、世にも美しく、人柄穏やかな皇子がいた。
    名を、高長恭。
    母の姓名もわからぬ身の上の三男ながらも優秀で、戦の腕も立つ、まさに童話の中に現れる理想のような出で立ちは、王からすらも認められ、そして疎まれた。
    寓話の中の英雄がその実もっとも苦しめられるのは、幾千幾万の戦いよりも、ひとつの無理解であろう。
    父であり王である男は、何に対しても怖がりな男であった。
    それは息子たちに対してであれ、妻たちに対してであれそうで、いつでもなにかに怯えて背を丸めている、そんな風情の、王には到底不向きな男。
    そんな男が今回、隣国との戦争において戦勝の誉を上げた息子へ褒美を取らせる、という名目で、無期限の休暇を与えると言い出したのだ。
    彼の意思はないに等しかったが、彼は顔色一つ変えず、有り難く頂戴いたします、とその言を受け入れた。
    かくして、彼は長く治めた地より辺境、国境近くの地、月分へ追いやられることとなる。



    馬の蹄が地を蹴るドドッ、ドドッ、という音が辺りの森に木霊している。
    長恭の愛馬は度重なる出陣での疲れなど感じさせず、汗血馬もかくや、といった様子で嘶きひとつあげず主人を背に走り続け、空に月が降りてくる頃には長い森を抜けていた。
    さて、この国が月の下、と呼ばれることには理由がある。
    ひとつは、この国には月がもっとも地上近くまで降りてくること。
    いつ頃からか、何故、その理屈は天文学者が資料を何度ひっくり返し、頭を抱えても解けない問題であったが、この頃の民たちにはもう至極当たり前、太陽が夜は空に見えないことと同じく自明のことであった。
    ふたつめは、この国で信仰される神が月の女神であるからだ。
    月が降りてくるようになってから生まれた宗教だ、そう長い歴史は持たないが、その簡素な内容は人の口から口へ、地上に近付く月の凄絶なほどの美しさに魅せられた者たちは、皆語らずにはいられないらしい。
    月の女神は、太陽の神と夫婦であった。
    しかし、太陽の神は地上の民が日照りに苦しむのを見ても救いの手を差し伸べようとはしない。
    そのため、月の女神は彼を見限り、地上の民へと手をのばすためにこの国へ近付いているらしい。
    実のところなどわかりはしないが、この国の人々はそれを口の端に乗せて生きていた。
    信仰というのは、けして妄信ではない。
    彼らは確かに、月の女神への信仰を胸に生きている。
    そんな宗教にも禁忌と言われる物があった。なにも不思議なことはない、『月のない夜には外に出てはいけない』というだけのことである。
    逸る気持ちをどうにか押し殺しつ、長恭は手綱を握る手を不安に揺らした。
    今日は月に一度の朔の夜だ。
    幼い頃から寝物語に聞かされた禁忌を、今まさに彼は破っている。頭から信じているわけでなくとも、不安は感じる。そういうものだ。

    「長恭様、あちらです」

    案内役に徹して先導していた護衛の兵が、森の更に奥を指し示す。
    万が一に備え、いつでも刀を抜けるよう柄に手をかけて、兵の言うとおり森の奥へ進んだ。
    山を幾つ越えただろう。
    森を幾つ抜けただろう。
    たとえばここで彼が殺されたとして、気付くものがどれほどいるだろう。
    あの英傑の最期はあっけなく、山の獣に屠られたそうだと、そう噂になることも想像に難くない。
    道すらろくにない森の小道をゆっくりと掻き分けながら進むと、意外にもすぐにそれは姿を表した。
    少し小高い場所にあるその建物は、こんな辺鄙な場所に建てられているというのに豪勢で、描かれた紋様は王のいる宮であってもそう見られないほど精緻であった。
    主となる棟以外には、あまり装飾の施されていない棟が二つあるのみで、この屋敷を建てた主があまり無駄を好まない印象を受けたが、どうだろう。
    長恭は愛馬の首を軽く叩いて労い、地に足をつけた。依然手は刀の柄にかけたままだ。

    「何用だ」

    鞘走りの音。
    それらを片手で制して、声のしたほうへ向き直ると、老齢の男が闇に紛れるようにして立っていた。
    隙のない動き、を体現したような足取りでこちらへ踏み出した彼を前に、長恭は刀にかけていた手を下ろし、男の鋭い眼差しを見返す。

    「私は高長恭。この国の第三皇子だ。このような夜半に申し訳ないが、こちらの主にお目通り願えるだろうか」

    手に持った灯りを間近に掲げられ、暗闇に慣れた目がちかちかと明滅するような感覚に襲われたが、目を逸らすことなく、目の前の老獪な男に目線をやると、長恭の相貌を確認した男が目を細めて言う。

    「………それは失礼した。話は通っている。こちらへ。主人には昼に会うがよかろう」

    くるり、と背を向けた男から、警戒の色は失われてはいないが、どうやら話は通っていたらしいと一安心してその背に続く。
    しかし数歩足を踏み入れた所で、ぴたりと足を止め、男は背を向けたままに言った。

    「皇子殿下以外はこの宮に足を踏み入れさせるな、との命だ。他はお帰り頂こう」
    「………それは、何故?」
    「さぁ、主人の考えることは儂にはわからぬよ」

    持ち込んだ金を幾ばくかと食料を持たせて護衛としてやってきた者たちを送り返し、馬を小屋に繋いだ後、男の背に続いて長い廊下を進む。
    外観と同じく豪奢なつくりのここは主殿であり、客を迎えるための場所なのであろう。
    カツ、カツ、と床に靴底の当たる硬質な音がひとつ。それ以外に音はない。
    先ゆく男の背を眺めつつ、自分の足元から発されるそれを居心地悪く思いつつも主殿を通り抜け、一つ目の棟の前を通り抜けると、一番奥の棟で男は立ち止まり、簡素な鍵が差し出される。それを受け取った長恭は、手の中で鈍く光る鍵を見つめた。
    なんの変哲もない、銀製の鍵だ。

    「この棟ならば好きに使え、とのことだ。主殿も同様、ゆるりと過ごされよ。しかし、あちらの棟にはけして立ち入らぬよう」
    「あちらは……?」
    「主人と奥方の寝室よ。まあ、野暮はせぬことだ」

    予想通りではあったが、そも、この宮の主人に見当がつかない。
    なにも知らされず辺境へやってきて、一人死ぬことには想像がついたが、まさか居候の身の上になるとは考えていなかった。
    そんな疑問を読み取ったのか、男は警戒もない様子で口の端を釣り上げる。

    「大方なにも知らされずここに来たのだろう?あの王がやりそうなことだ」

    答えるよりも先に、彼が手に持っていた灯りを押し付けるようにして渡される。
    咄嗟に受け取ることもできず、手から滑り落ちたそれはカシャン、と音を立てて地面に転がり、中で火がゆらゆらと揺れた。
    慌てて拾い上げようとすると、男が言う。

    「ここの主人は姜子牙、かつて太公望と呼ばれたお人よ」

    指先が止まる。
    暗闇の中で煌々と光るその焔を見つめ、だんだんと見えなくなっていく男の足元からやはり足音のしないことを再度確認しながら、自身が闇に呑まれていくのを自覚していた。
    月のない夜には外へ出てはいけない。
    そんな言葉を反芻しつつ、大きな傷もないランプを拾い上げ、鍵穴に鍵を挿して回すと、苦もなくガチャリ、と音をたてて鍵は開く。
    暗く清潔な部屋に足を踏み入れ、長恭はその日、疾く眠った。




    姜子牙、太公望呂尚といえば、稀代の軍師と名高い人物であった。
    であった、というのは、彼が心変わりを起こしたからだ。
    以前は鷹揚で思慮深くあったらしい彼が、獣じみた振る舞いを見せるようになったのは、彼が妻を娶った頃からであるという。
    傾国の美女によって狂わされた為政者というのは歴史の中で枚挙にいとまがないが、彼については特に酷かった。
    普通であれば、軍師などという官職であれば、出来ることは限られているだろう。
    しかし、この国の王は行政においても、戦においても、指揮を取る能力が欠如していた。
    そこで、代わりに指揮を取っていたのが彼だったのである。
    罪のない者を殺し、王を蔑ろにし、遊興に税を使う。
    そんな行動を繰り返すようになった彼に全体的に依存した国家運営を危ぶんだのは国を憂う者もあれど、大半は暴利を貪ることしか興味のない亡者だったのであるが、王の目には彼とそれらの区別もつかない____いや、傍目にはなかったのだろう。
    ことを荒立てることが苦手な王は対外的に病気の療養であると理由をつけて、彼を国境の森に追放し、彼は一人の護衛と妻のみを連れて移り住むこととなったらしい。
    そんな旅の中であっても、彼の妻を見たことのある者はいなかった。
    それを人々は様々噂し、妻を娶った途端に豹変したのなら、その妻が誑かしてやらせているに違いない、いや、隣国の姫君を攫って幽閉している、元々そういう人間だったのだ……果てには妻を殺して食ったのだ、なんて話まであって、姜子牙はまるで人でなしの化物であると目されるまでになっていたのである。
    しかし長恭は幼い頃、まだ優秀な軍師であった彼を見たことがある。
    まだ道理も知らぬ幼心にも、彼の清廉さは目に眩しいものであったから、そんな噂たちを頭から信じることは出来なかった。

    「昨日は申し訳なかったね。十分なお出迎えもできず。ご不快だったかな」
    「いや、知らずとはいえ、礼を失したのはこちらです」
    「そう畏まらず、仲良くしようじゃないか。同じ島流しの身なのだから」

    だが、目の前に座った男のしどけなく乱れた黒髪をそのままに、腹まで見えるほどはだけた襟元も正さないのを、昨夜の護衛の男もさして気にする様子もないのが気がかりだった。
    己の身分など、時の運で与えられた物にすぎない。そこはさして気にしていないが、この男の無神経さは以前の彼とは似ても似つかないものだ。まさか、この場所に移り住んでからこのような姿のまま暮らしているのだろうか。
    そう思えば、昔見た彼の姿も、偽りであったのかもしれないと___いや、そう判断するのはまだ早い。
    どうあれ、賢い振る舞いが出来るものは、愚かな振る舞いも上手いものだ。
    昼食にも手をつけない長恭を見てなにを思うのか、子牙はひょいと手元の箸を取り、程近くの皿から一口摘み、それから規則性もなくあちらから一口、こちらから一口、と全ての料理に手をつける。まるで、毒見でもするかのように。

    「さあ、あなたもどうぞ。通いの料理番のものだが、味は折り紙付きでね」
    「………お気遣い、ありがとうございます」

    こちらが箸を取ったのを見て食えない笑みを浮かべている彼の見定めるような視線を受けて、微かながら長恭の胸に疑惑が去来した。
    この男はなにが目的なのだろう。
    ここへ長恭を送った父王の思惑はわかりやすく、暴虐と名高い子牙と彼を一所に置いておくことで期待できるのは、長恭の死、もしくはより少ない手勢をもって監視をすることができるようになること。
    ただそこで、結託しての反乱を考えつかないというのはいかにも父王らしいとも言えるが、子牙には長恭を殺すつもりも、まして翻意など微塵もないらしい。
    そもそも、翻意など持っていたのなら、今までの通り国を表から裏から、操ってしまえばよかったのだ。軍師としての彼には、当然それが出来たのだから。
    淫蕩な生活の証である背の傷跡を隠すこともなく、この人里離れた場所で暮らすことを望んでいるようにすら見える彼の真意は、今の所長恭には計り知れないことである。

    「そういえば、あなたの奥方はどうなさっているのですか」

    ぴたり、と子牙の手が止まる。
    その様子を不審に思いながらも、答えを待っていると、いかにも面白そうな顔をした彼が言う。

    「………才色兼備の皇子殿下にも、不得手なものがあると見た」
    「は……」
    「それは野暮、というものだ」

    しばしの沈黙の後、合点がいった長恭は失礼しました、と呟くように言って、少し赤面した。
    明確にはぐらかされたのだとわかっていても、これ以上を聞き出そうとするなら野暮天もいい所だ。
    彼にとって、彼の妻については隠すべきこと、もしくは隠したいことであるのは間違いない、それを知れただけでも良しとしよう。
    そう自分に言い聞かせている長恭をよそに、一口酒を口に含んだ子牙が思い出したように宙を仰いだ。

    「ああ、そうそう。彼にも言われただろうが、僕と妻の寝所には足を踏み入れないように。まあ、そんなことをするほど愚かには見えないが」
    「………ええ。けして入らぬとお約束しましょう。居候の身の上ですから」
    「相変わらず硬いなァ」

    はは、と鷹揚な笑い声と、気負うことなくゆるりと姿勢を崩して箸を進めるその姿が様になるのをどこか羨ましいようにも思えてしまうのだから、不思議な話だ。
    まあ、この地で彼が同じように振る舞ったとて誰も咎めはしないだろうが、大人びた衣に着られる子どものように、不格好になるのは目に見えている。自由とは、慣れていないと持て余すものであるのかもしれない。
    長恭のために用意されたらしい、飲み慣れた果実酒を口に含むと、子牙は満足気に微笑む。

    「あなたは、実に素直で宜しい。大抵の人間は僕が普通に振る舞えば振る舞うほど、疑心に落ちていくものだが」
    「もとより捨てるつもりの命です。欺かれ、死するならそれまでというだけのこと。なにより、あなたほどの方がそうされるのであれば理由があるのだろうと判断するのみ」
    「………参ったなァ。随分と買い被られたようだ」

    襟元を整え、食事もそこそこに立ち上がった彼は、隣に立っていた男に一言二言申しつけてから長恭へ向き直る。
    その視線を受け、思わず背を正した彼を見て傲岸不遜な笑みを浮かべ、言った。

    「ようこそ、御客人。今までの非礼をお詫びしよう。ゆるりと過ごして行かれよ」
    「………ああ、ご好意、感謝する」
    「ええ、今はこの場所で、英気を養うと良いでしょう」

    思わず疑念に眉をひそめた長恭に、子牙は背を向け、扉を開く。

    「いずれ来たるべき日のために」

    妙にはっきりと耳に届いたそれがいったい何を意味するのか、それを考える内に、太陽は遥か遠く、登る月に追い立てられるように、西の空へ逃げていった。




    艶々と光り輝くような芦毛の愛馬の背を磨いてやりながら、長恭は考える。
    この屋敷の主は、いったい何を思ってここにいるのか。
    何を思って、長恭を受け入れたのか。
    なぜ、頑なに妻を隠すのか。
    まだ推察するにも材料の足りない問題ばかりだ。考えても仕方のないことだと、割り切れてしまえばこの心も晴れるのだろうけれど、どうしても昨日の言葉が胸につかえているようで、考えずにはいられなかった。
    美味そうに飼い葉を食む愛馬を見つめ、行儀が悪いと知りつつも足元に転がった木の箱の上に腰を下ろし、先刻まで剣を振っていた名残の汗を布で雑に拭う。
    もう無用の長物であろうとも、習慣だ。
    やめることはできない。
    そんなことを思った矢先、長い旅を経てなお嘶き一つあげなかった彼の馬が、賢そうな面の先を興味深げに厩の入り口へと向けたのに気付き、長恭も同じくそちらへ目を向けた。
    しばしなにもないそこを見つめていると、まだ年の頃は長恭とそう変わらないであろう少女が野菜や果物がいっぱいに入った小さな籠を抱えてやってくるのが見えて、ほう、愛馬ほどの名馬といえど、お八つには負けるのか、と面白いような気になって、思わず微笑んだ。
    少女はというと、先客を見つけても動揺した様子もなく、微笑んで小さく頭を下げる仕草をした。

    「こんにちは。馬の世話をしにいらしたのですか」

    返答はない。
    おや、と目を丸くした彼を見つめ、しばし宙に目をやり考え込んだあと、彼女はたどたどしくはい、と答えた。
    どうやら、髪色が珍しいと思ったことは間違いではなかったらしい。この国ではあまり見ない、明るい色だ。

    「もしかして、聞き取りづらいでしょうか」

    ゆっくりと発音すると、彼女は少し申し訳無さそうな表情を浮かべながら頷いた。

    「私は高長恭、といいます。厩の一角を貸していただいてありがとうございます」
    「……………わたし、……りつかです」
    「リツカ殿。ひとつ、お願いしてもよろしいですか?」

    不思議そうな表情を浮かべたリツカに微笑みかけ、長恭は彼女の持つ籠の中に釘付けになっている愛馬の首を軽く叩きながら言う。

    「他の馬の世話をお手伝いさせてください。その代わりに、少し私の馬にお八つを分けてやってくれませんか」

    その言葉を聞いた彼女は嬉しそうに頷き、籠を差出して微笑む。
    その日、馬へのお八つ配給が終わった頃には、少し拙い彼女の話し方にも慣れ、彼女も彼の話す言葉に慣れたようだった。

    「あなたは、外から来ているという方でしょうか」
    「……………うん」
    「そうですか。ここまで来るのは大変でしょう。お疲れさまです」
    「いやいや」

    少し変な癖のある言葉遣いをする彼女が少しおかしいが、そこも愛嬌に見えるのだから、不思議な少女である。

    「他にもお仕事があるのでしょうか。それだとお引き止めするのも良くないですね」
    「大丈夫です。わたし、これくらいしかやってないので」
    「馬の世話ですか?」

    手を止め、柵の中に放された三騎の馬たちが思い思いに寛いでいるのを眩しそうに見つめた彼女を振り返る。
    きらきらと光を写した瞳を、なぜだか太陽のようだと思った。
    この国ではあまり重要視されない太陽だが、昼を照らすのも、草木を育むのも、太陽がなくてはあり得ないものだ。
    彼女の不思議な輝きにそれを思い出す、そんな自分がおかしく思うが、月が全ての美ではあるまいと同じ方向に目を向けた。
    忙しい数日間、もはや見えない故郷の町を懐かしむ気持ちは微塵も湧かなかったが__いや、暇がなかったのかもしれないが___子牙や彼女と話をして落ち着いた今は少し恋しく思う。
    あそこは月が一等近い。
    祭りの終わった後、快い疲れに身を任せて人々が寝静まった頃に一人、宮殿の廊下に座り込んで月を眺めた、幼少の頃のことを思い出す。
    あの時、自分は一体何を考えていただろうか。
    そんなことを考えながら、軽やかに走る、馬たちの自由な姿を眺めていた。 




    それから数日、この地での生活にも徐々に慣れていったが、主たる姜子牙は、この宮に来た翌日の食事会以来、姿を見ることすら出来なかった。
    いったいどこへ行っているのだろう、いや、どこへも行っていないのかもしれないが。
    幸いなことに、彼らの寝室棟へ足を踏み入れてはいけない、という事柄以外に行動制限と呼べるものもなく、比較的自由なこの場所での生活は、思ったよりも早く長恭の肌に馴染んでいった。
    書を読み、剣の腕を鍛え、馬の世話をし、森を抜けた外にある村を訪れたりと、それなりにやることはあるのだ。村人たちは彼がこの国の皇子であることも知らないものだから、彼を見ても不必要に畏まるようなことはないし、余計に居心地がよい場所なのである。 
    今日は書物庫で新しい本を見つけようかと足を運んだ。
    主殿の端、書物庫に足を運んだことは数回有るが、こうして隅々まで見て回ることはなかった。部屋に対しての蔵書量は大したもので、壁までびっしりと本で埋め尽くされている様はいっそ壮観な程である。
    そうして見ていくうち、奥まったところに五つだけ、様子の違う棚が並んでいることに気付き、長恭は立ち止まった。
    一つ目の棚、兵法書の並ぶ本棚を眺め、読んだことのないものをパラパラと捲っていると、流石に名軍師の持ち物であるらしく、流麗な文字で何事かを書き付けてあるのが興味深い。
    二つ目の棚はどうやら外つ国の本を買いつけてきたものであるらしい。様々な言語で書かれた本が所狭しと並び、区分も大きさもまちまちで、中には絵本まで置いてある。
    三つ目以降の棚は、どうやら小説がほとんどらしい。 
    傍から見てリアリストな子牙に、物語を嗜む一面があるのだ…と考えるよりは、彼の妻の為のものだと考えた方がしっくりくる品揃えだ。恋愛小説や伝奇小説など__前者はほとんど手つかずで、後者は幾分読み込まれているようだった__彼の読みそうにないものばかりが並べられている。
    その妙な生活感に惹かれ、普段はあまり手に取らない冒険譚を引き出してみると、ひらり、と本の隙間から落ちたのは桃の花びら。
    挟まっていたらしい箇所をなんの気なしに開いてみる。
    そして、挟まれた薄い紙に書かれた文字を見つけ、目で追って___元のように花びらと紙を挟み、本棚にしまい込んだ。
    見なかったことにしよう。
    きっとこれは、長恭が見つけていいものではなかったのだ。

    「なにをなされているのかな、皇子殿下」

    突然の呼びかけに肩を震わせ、やにわに振り返ると、そこには見慣れた仏頂面の男が立っていた。
    帰りしなにやってきたのか、上着と丸いサングラスを身につけている。

    「いえ、本を探そうかと気まぐれに立ち寄っただけです。なにか御用ですか」

    長恭がいつものようににこりと微笑むと、男はそれに応えるようににやりと口の端を上げて見せた。
    珍しい表情におや、と目を丸くすると、彼は
    呵々、と豪快な笑い声を上げ、先程長恭のしまい込んだ本を手に取り、勝手知ったるように開き始める。

    「これを見たのだろう。別に隠さずとも儂も主も咎め立てはすまいよ。………奥方はどうかわからぬが」
    「あなたもご存知だったのですね」
    「ここにいる期間は皇子殿下よりも長いのだ、知らず居る方が難しい」

    再び呵々、と笑った彼が摘んだ紙には、先程見た流麗な子牙の字が『我永远爱你』の言葉をかたち取り、応えるような小さく丸い文字が『我也是』と添えられていた。
    それはあまりにも熱烈で、子牙曰く『不得手』らしい長恭には少し、見てしまったことに対しての後ろめたさと、自分の言葉ではないというのにかっと頬が熱くなるような面映ゆさがある。
    これが子牙と奥方のものであれば、随分と噂と異なるものだ。
    内心の動揺を誤魔化すように、男に問う。

    「そういえばあなたのお名前を伺っておりませんでしたね。差し支えなければお教え頂きたいのですが」
    「これは、皇子殿下に失礼を」
    「できればそれもやめていただきたい」

    想像以上に表情が豊かな男は、かけていた日除けの丸眼鏡を上着にしまいこみ、一つ息をついた。

    「儂の名は李書文。貴殿がどう伝え聞いたのかはわからんが、かつて宮殿に仕えていたこともある」

    李書文。
    先帝に仕え、天下無双と名高い男であったが、だからこそ、現皇帝には疎んじられた男であると聞く。
    行方をくらましたらしい益荒男が、この辺鄙な山の奥深くで、天才軍師に仕えている____それこそ、恐ろしい話だ。

    「お噂はかねがね。一騎当千の勇であると」
    「なぁに、ただの喧嘩馬鹿よ…そう大層なものでもない」

    ぱたん、と本を閉じ、本棚に戻してから、書文は長恭を振り向き、なんとも言えず剣呑な視線を投げかけた。

    「儂もまた、島流しの身というわけよ」

    彼について、人知れずどこかの僻地へ送られたのではないかという噂もあった。
    それがもし本当のことだとすれば、ここは父王にとっての蠱毒のようなものか、となんともなしに思う。そうして最後に残ったものを潰してしまえば良い、とでも思うのか。
    この時、長恭の胸に初めて、父王への不信が沸々と湧き上がった。
    彼だけならばまだしも、彼はこの先もこうして気に入らぬ相手を追いやっては仮初の平穏を保とうというのだろう。
    そのはりぼてのつけを払うのは、王や諸侯ではなく、税を納め、慎ましやかに日々を月に祈り暮らしている民ではないのか。
    山外れの村では、水路の工事が滞り、遠くから足を運んだ商人に高い金を払い、家族だけであってもとても賄えないほど少ない水を買っていた。
    長恭の諌めと、父王の臆病さによって保たれていた税も、第二皇子の甘言により、その重さを日に日に増しているという。
    たとえば今、彼が王を討とうと立ち上がった所で、この身ひとつでなにができるだろうか。
    賛同する者もあるだろう。
    しかし、それは蛮勇に過ぎない。
    確たる勝算もなくただ人々を死に追いやる、それは力持つ者がすべきことではないのだ。
    考え込む長恭を見つめ、目を眇めた書文は何を思うのか、彼の肩を叩き、背を向けて部屋を出て行く。
    それから数ヶ月、ある月のない夜のこと。
    未曾有の大地震により、月下国全土が揺れた。
    被害は甚大、死傷者は国民の半数以上に渡ったという。





    崩れ落ちた家々を前に、長恭は思わず唇を噛んだ。
    今この時ほど、己の無力を恨んだことがあったろうか。
    せめて民が災害から立ち直り、元の生活に戻るまでは王宮にと嘆願した書も、依然として行方も知れぬまま、なんの音沙汰もなく。
    王が民に手を差し伸べたという話もとんと聞かない。
    できる限り近隣の村を回り、崩れた家屋からの家財の発掘を手伝い、馬を使っての近隣河川からの飲料水の確保、その程度の手助けしか出来ない己の無力を、ただ。
    そして、初めて怒りが長恭の胸を占めた。
    この災害にあたって、傷付く民を見ようともせず閉じこもる父王に対してか、それとも、己の腕の届く範囲の狭さに対してか、それはわからない。
    しかし、それは穏やかな長恭が初めて抱く、ただただ、純粋な怒りであった。




    近隣の村を回り終え、長恭が山の上、子牙の住処に足を運んだのは、次の月のない夜のことだった。
    携帯していたわずかな食料も尽き、腹は減っていたが、疲れ切った彼は少し休むことにしようと、子牙の寝室のある棟の前を通り、己に充てがわれた棟へ向かおうとして、男女の話し声に気付く。
    もし、これが耳をたてることの憚られるような声であれば、長恭は身を苛む疲れのまま、寝床に潜ったであろう。
    しかし、それはいかにも深刻で、いけないと知りつつも息を殺し、耳を澄ましてしまった。

    「………本当に良いのですか」

    子牙の少し掠れた声がそう問うと、女は迷いなく、はい、と答えた。
    小さく、袖が持ち上げられる衣擦れの音が聞こえて、驚いたような、息の詰まる音が聞こえる。
    一呼吸ののち、柔らかな声が言う。

    「私はあなたの妻です。たとえあなたが誰に恨まれようと、あなたについていきます」
    「しかし、それは」
    「四の五の言わずに連れて行ってくださいます?月に帰れなくなったのはあなたのせいですからね」

    からかうようなその言葉に口をつぐんだ子牙は一転、気が抜けたようにふは、と笑い声を漏らし、敵わないなァ、と小さく呟いた。

    「では、僕と一緒に居てください。絶対に、貴女のことだけはお守りしますから」
    「………自分の身も守ってください」
    「肝に銘じておきます」

    それ以上は聞くのも憚られ、泥のように重い体を引きずって長恭は部屋へ足を踏み入れた。
    この災害の最中、常に張っていた気が少しだけ緩んで、布団の上に横たわった彼は、子牙らの会話の意味もわからず、眠りに落ちる。

    そうして目を覚ました時、館は長恭を残し、もぬけの殻となっていた。
    早馬を飛ばし、出向いた先で聞いたのは、兄弟皇子や父王___先帝を下し、新たな帝の座につく男のことであった。
    話によれば、その男は長らく表舞台に姿を表さなかったが、秘密裏に兵を集めて帝を討ったのだという。
    第一皇子には敵国との密通、第二皇子には収賄と罪をつけ、月分とは別の、月境の村にある塔へ幽閉。
    先帝は行方も知れず、その所在は噂の域を出ないが、男の暴虐は人々の口を伝って広く語られた。
    先帝からの家臣は数名を残し切り捨てられ、雑兵も少しの禄をもって追放、中には一族郎党処刑された、などという尾ひれもついて回り、彼の悪名はここに極まった。
    その名も、姜子牙。
    稀代の軍師にして、悪逆非道の皇帝である。


    床に伏してけして頭を上げないかつての部下たちを前に、長恭はただ黙していた。
    この場所で過ごした半年、子牙の性格はなんとなくではあるが理解できたのだ。
    長恭に対してであれ、妻に対してであれ、彼が見せた姿は、極めて理性的で思いやりのある態度であった。
    そも、彼が権力に執着を見せる人間であったのなら、このような場所で、疎まれた皇子の守などしているはずもないだろう。
    ただただ考え込んでいる彼に痺れを切らしたのか、長恭の前に座した男が言う。

    「皇子殿下、ご決断を」

    先帝を殺害し、皇帝の座についた男を討つためには、追放された、優秀だが母方の血もわからぬ、皇位継承の望みの薄い第三皇子が旗頭に相応しい。
    そうして仕組まれた物語が回りだしているのを肌で感じ、長恭は眉をひそめる。
    あの男は、そうなるためにこの場所にいた。
    そして長恭を引き入れ、全ての舞台を整えるまで、ここに引き留めていた。
    正直に言えば、腹が立つ。
    全てお膳立てされたことを、『あなたの力で為したこと』だとでも言いたげに差し出されたこと。
    それ以上に、それを理解していてなお、その計画に乗るほかに、彼をどうすることもできないことに。
    組んでいた腕を解き、立ち上がる。

    「…………わかった。私が出向こう」
    「ご決断、感謝いたします」
    「しかし、その前に私が彼と話をする。その間、誰も部屋に近付かぬよう」
    「は、しかし!」
    「……これは命令だ。そうでなければ、ならない」

    男は不承不承といった様子で、は、と応え、その後ろにいる者たちも動揺を隠せないのか、長恭の表情を窺っている。
    子牙の元にいた間に影響を受けたのやも、と思うものもあったが、それを知りつつ彼は部屋を出、身支度を整え始めた。

    「…………月のない夜、外に出てはいけない、か」

    この宮に初めて訪れた日、月のない夜のことを思い出す。
    あの日も今日のように憂鬱を抱えて、馬を走らせていたのだった。
    小さな頃から、長恭は月を眺めることを好んだ。
    それと同時に、恐ろしくもあったのだ。
    長恭はしっかりと帯を締め、扉に銀の鍵を差し込み、回す。
    月が落ちそうな晩、月のもとで語らう、そんな光景を脳裏に描きながら。



    「覚悟なくば、立ち去るが良い」

    宮へ辿り着いた長恭が一人きりであるのを見て取った書文が、問うように言葉を投げた。
    その鋭い視線を受け、目を逸らすことなく睨み返した長恭に背を向け、こちらへついてこい、とでも言うように歩く彼の背を追い、廊下を歩く。
    此度は、己の足音が響くことに居心地の悪さなど感じることもなかった。
    長い廊下を抜け、賓客を饗すための部屋の扉を銀の鍵で開き、書文は部屋の中へ彼を通した。
    下座へ腰を下ろした長恭を見届け、彼は去る。
    白い魚が月を喰むように悠々と泳ぐ、水槽を嵌め込まれた丸い窓にふと意識が取られ、長恭はそちらへ顔を向けた。
    大きな月を閉じ込めたようなそれは、光を受けて床に漣を立てている。
    座して待つ間、見慣れたはずの客間の装飾のきらびやかさが目に痛く、月や、魚の揺らぎに合わせてできる波紋ばかりを眺めていると、さも面白そうに笑う、聞き覚えのある声が耳に届いた。

    「それで、若君。今宵は何用だろうか」

    ゆったりと現れた子牙は上座にどさりと腰を下ろし、その傍らには書文が立つ。

    「まさか、僕と仲良くなろうとでも言うのかい?」

    からかうようなその声色に眉をひそめ、長恭は背を伸ばす。
    この男は、悪を為すのが下手くそなくせに、そう見えるように繕うのは上手いのだ。
    騙される者も多いだろう。
    彼を知らぬ者であれば。

    「あなたはそうやって、また煙に巻くつもりか」

    心外だ、と言うように肩をすくめた子牙を睨みつけ、続ける。

    「偽りの蛮行にこの私が気付かないとでも?」
    「いやいや、気付いてくださるのはわかっていましたよ」
    「…………腹を割って話しましょう。私はあなたの企みを、あなたの望み通りに理解しました。ならば、偽る必要がどこにありましょうか」
    「ええ、あなたの望みを無視して振る舞った僕の義務でしょうね」

    酒の入った器を長恭に差出し、どうぞ、と勧める子牙に応えて、彼は猪口を差し出した。
    月の光以外に光のないこの場所でも、互いの表情ははっきりと見える。

    「正直に言って、僕は皇帝なんてやる柄じゃないんですよ。軍師くらいがちょうどいい。更に言うなら、片田舎の河原で釣り糸を垂らすだけのほうが気楽でいい」
    「………だから、私を皇帝にしようと?」
    「まぁ、そうなりますね。あなたなら軍師に政治まで丸投げ、とかしないでしょう?」

    ああ、先帝のことか、と納得して、酒をちびりと口に含む。
    桃の風味が口に広がり、甘ったるいそれは、先だって彼が長恭に振る舞ったそれと同じだった。

    「なにより、民のために怒る皇帝、というのは理想的です。あなたは僕に、その在り方を示した。しかし、あなたの血故の弊害はある」

    魚の影が、机の上を泳いでいる。
    それを見つめてから、子牙は真面目くさった表情を崩し、にこりと微笑む。

    「これはいい機会ではないですか。僕を下して皇帝に即位すれば、母方が良血でないというだけで阻まれることもなく、極悪非道の軍師を退治した、誰からも望まれる皇帝となること間違いなしです」

    いかにも良策でしょう、と言いたげな彼に目をやり、再び酒を含んで口を湿してから、長恭は猪口を机に置いた。

    「お断りします」

    えっ、と声を漏らさずとも、きょとんと開かれた紫の瞳が雄弁に疑問を語っていた。
    長恭はため息をつき、頭を抱えたくなったが、彼の目を見てゆっくりと言う。

    「最適解だけが解ではないでしょう。それで、あなたはどうするおつもりなのです。私が『皆に望まれる』ためには、あなたは処刑されなければならないやもしれない」
    「ええ、そうですね。いざとなればやむなしと思っておりましたよ」
    「奥方はどうなるのです」
    「そのために僕に拐われた、という噂を流しておいたでしょう?僕が死んだら書文殿を通じてそちらを真実だと」

    彼は今度こそ、大きなため息をついた。
    やはり、この男は理解していない。

    「私は心の話をしているのです」
    「心?」

    初めて聞いた言葉のように、拙い口調で子牙は反芻した。
    人の世は、謀ばかりで動くのではない。
    心というものがあるからこそ、傾くのが世間というものだ。

    「奥方に己が守るなどと言っておきながら、置いてゆくつもりなのですか?」
    「えっ、どこで聞いて……お恥ずかしい」
    「……どうやらそちらの方は『不得手』でいらっしゃるようで」

    ぽかん、と口を開いたまましばし固まった彼には、思った以上にその意趣返しが効いたようだ、と長恭は口の端を持ち上げた。
    気を削がれた子牙はもう悪役の仮面を無くしてしまったのか、眉を下げ、頭を掻き掻き面目なさそうな表情を見せる。

    「いや、これは参ったなァ。あなたが否、と言うならば、僕にはどうしようもない」
    「あなたが改心すれば良いのですよ」
    「反省はしておりますが…」
    「そうではなく。悪徳軍師が、月の下での語らいの末、女神の力により憑物が落ちたことにすればよろしい」

    怪訝な顔をした彼に微笑みかけ、窓に目をやると、明るい光が波間に揺れる。

    「ご存知ありませんか、女神の話」
    「いえ、流石に知ってはおりますが」
    「この国は月に支配された国ですから、そのくらいはあり得るのではないですか」
    「えぇ、ヤケになってませんか?」
    「あなたほどでは」

    打てば響くように返る言葉に首を傾げ、子牙はいまだ納得しかねているようではあるが、長恭は思う。
    誰かの犠牲がなければ為せぬものを、是とすることは己の矜持に反する。
    そして、今はそうしなければならぬ時ではないのだと。

    「そちらの我儘にお付き合いしたのです。此度は、私の我儘にもお付き合いください」

    月の下、青白い光の中、あまりに拙い語らいは幕を閉じたのだ。


    ○それからの日々は慌ただしく、しかし矢のように過ぎていった。
    かの大地震による被害の復興を、他国との貿易の強化を、と忙しく働く子牙の名誉はいまだ回復されず、一方の長恭も、いまだ諸手を上げて皇帝として認められているわけではない。そう安々といくものではない、そう知っていたが、己の選んだ適解だ。そう決めて、子牙も引き込んだのだから、投げ出すわけにはいくまい。
    そう思いながら、次々と訪れる謁見希望者と言葉を交わす。
    いまだ、平和とは程遠い国だ。だからこそ彼らの話に耳を傾け、彼らの望む平和を作り上げるのが、皇帝となった己の仕事だ。
    片田舎で釣り糸をただ垂らしていたい、と漏らしていた子牙と同じく、長恭とてこの職務を荷が勝ちすぎるものだとわかっている。しかし、望むものがいるうちは、全霊をもって遂行する。
    いずれ来たるべき日、皇帝に相応しい人物が現れたならば、その手に渡すための平和を。

    「皇帝陛下、本日の謁見は終了いたしました。…ということで、少しよろしいでしょうか?」
    「ええ、どういったご用向でしょうか」
    「僕はしがない軍師兼宰相ですので、そのように畏まった言葉遣いは」
    「あなたから学ぶところの多い私にはとても」

    そういう問題じゃないんだけどなァ、といつしかのように首を傾げる彼を見つつ、大仰な椅子から立ち上がる。
    窓から見える空は暗く、また月のない夜。
    長恭は、己はそういう巡りの中に生まれたのかもしれないと、月分の地を踏んだ日のことを思い出す。
    いつか、歴史の中で長恭の名が語られる時、あの月のない夜のことも語られることになるのだろうか。
    きっとそれは、彼を支えた名軍師の名とともに。

    「皇帝陛下を相手に個人的なお誘いをするのは気が引けるんですが、僕の屋敷でお食事でも…どうです?」
    「ええ、喜んで。友人からの誘いとあれば」
    「そう言われると面映ゆいものがありますね。こうしてお誘いしたのは、僕の…妻をご紹介しようかと」

    妻、と反復した長恭に頷いて見せて、子牙は少し申し訳無さそうに肩を落として見せる。
    その意図がわからず不思議そうな顔をしている長恭に、彼はとりあえずどうぞ、と扉を開く。
    そうして、彼の用意した車に、待機していた書文を伴って乗り込み、ほど近くにある邸宅に行き着いた長恭は、一番手前で最敬礼を取る女性を見た瞬間、先程の子牙の態度に合点がいった。
    なるほど、これは紹介しておきたいわけだ。
    面を上げさせ、微笑む。
    日の光のような色を持つ彼女は、なんと言うべきかを決めあぐねているようで、すかさず子牙から言葉が飛んだ。

    「こちら、僕の妻の立香と申します。まず、ご挨拶もさせずいた非礼をお詫びいたします」
    「いえ、ご挨拶は頂きました」
    「え?」
    「まさか、奥様が手ずから馬の世話をなさっているとは思いませんでしたが」

    ぽ、と立香の頬が少し赤みを帯び、子牙も隣の妻の様子を見て合点がいったらしい、ああ、それは…と苦笑いする。

    「こんばんは、改めて名乗らせて頂きます。私は高長恭、この国の皇帝です」
    「……姜、立香と申します。皇帝陛下。ひとつ、お詫びをしなければならないことがございます」

    簡単な言葉を選び、ゆっくりと話した彼と対照的に、初めて会った時の辿々しさはどこへやら、すらりすらりと言葉を発する彼女におや、と瞠目した長恭に、立香はひどく申し訳無さそうに頭を垂れる。

    「以前お会いしたときには、呂尚…夫から、貴方様にお会いすることのないようにと申し含められておりました。しかし…」
    「馬の世話をしていらっしゃいましたね」
    「はい…。そうして慌てているうちに、言葉が通じないのかとお尋ねになったので、これだ、と…」
    「そうでしたか。お気になさらず。今、改めて名乗ってくださったのです、なんの問題がありましょうか」

    人好きのする笑みを浮かべた長恭にほっと表情を緩ませ、再び頭を下げた立香の肩を子牙が包み込むようにして抱いた。
    その仲睦まじさに思わず赤面しそうになった彼に助け舟を出すように、付き従っていた書文の咳払いが響く。

    「睦まじいのは結構。しかし皇帝陛下の御前だ」
    「おっと、これは失礼しました」

    いえお気になさらず、そう長恭が口に出そうとしたのを見計らったように、広間の重い扉がゆっくりと開かれた。
    月の光を取り込むように設計されているらしいその部屋は青白い光を邪魔しないようにか、電気も暗く灯っているばかりで、足を踏み入れた長恭は少し驚く。
    あのとき、語らった部屋をそのまま広く作り直したような風情の部屋がそこにはあった。

    「こちらへどうぞ。果実酒や料理もすぐに運ばせます」

    ゆらゆらと電灯の光が波をすり抜け、床に散らばる。

    「では、今宵は思う存分語らうと参りましょう」

    いつか、月のない夜も吉事となるときが来るだろう。
    そんなことを思いながら、長恭は月のない空の下、襟を開き、彼らと膝を並べるのだった。

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