チェイロ「隣を失礼」
聞き慣れた声が右隣からして、ローはグラスを見つめていた顔をバッと上げた。驚いたのだ。その声がしたことにではない。馴染んだ声の主が知らない気配をさせていたからだ。
「白猟……屋?」
ローの片恋相手の、白猟のスモーカー。男はスモロに瓜二つだった。だがローは騙せない。
「……じゃねぇな。お前、何だ」
正体を見抜こうと、月の瞳がキロリと光る。常人ならすくみ上がる億越え賞金首のひと睨みを、男はグラスを差し出すことで躱してみせた。
「チェイサー。“煙の猟犬”、名前の通り海軍の犬だ」
「チェイサー」
ローがおうむ返しすると、チェイサーと名乗った男は律儀にこっくりと頷く。その流れでグラスをさらに少し寄せられて、ローは自然とそれを受け取っていた。澄んだ琥珀色の液体に、まん丸の氷が光っているロックグラス。一目で高価と分かる一杯に思わず目礼をする。チェイサーが口の端だけで微笑んだ。どういたしまして、とでもいうのだろうか。スモーカーの笑顔は貴重だ。あいつも、これくらい素直に笑えばいいのにとふと思う。あいつはいつも、おれを見る時にはキツく眉根を寄せている。話しかけても言葉少なに立ち去られてしまう。好かれていないことくらい、分かっていた。
「誰を追ってきたんだ?」
chase、の名をからかって訊ねる。チェイサーは肩をすくめて自分のロックグラスの飲み口をローの方に傾けた。それはローを指す動きだ。
「お前は? 誰か待っていたのなら悪いことをしたか」
「……いいや」
「本当に?」
「会えたらいいと思ってここに来たのは本当だ。が、もういいんだ」
今日会えなければ、この想いを捨ててしまおうと思っていた。そしてローは賭けに負けた。店は間もなく閉店だ。手の中の酒が今晩最後の注文になっただろう。
「お前ほどの魅力的な男を袖にする男がいるとは信じられないな。ぶん殴ってやろう。どんなやつなんだ」
「お前に激似のやつ」
ローは、スモーカーが同じ顔の男にぶん殴られる様子を想像してしまい、おかしくなった。おかしくなったと同時に、目の奥がツンとした。
「未練が?」
「まさか」
ないわけがなかった。
ローの顔をちらりと見たチェイサーは自然な動作で距離を詰めて耳元で囁いた。
「今夜だけ忘れるってのもありだな?」
スモーカーと同じ低く男らしい声と、スモーカーのものではない苦いコロン。葉巻の香りは、しない。
「海軍のワンコなんだろ」
ローは動揺を塗り潰したくて憎まれ口を叩いた。指が、行き所なくグラスの縁を行ったり来たりして撫でている。
「今日は非番だ。今晩は海兵じゃないただの」
Bowwow
スモーカーと瓜二つで、スモーカーではない男は、ローから遠い方の右手を犬の牙のように構えて、吠えるように噛み合わせてみせた。自分をただの犬だと表するそのふざけた動作と、悪戯っぽい笑いに胸がきゅんと鳴って、ローは今夜を区切りにすることに決めた。
ローは承諾の言葉の代わりにしっとりと笑って、店を出るべくグラスを干した。
忘れてやる、と、決意の気持ちとともに。
喉の奥が熱かったのは、酒のせいだと思うしか他になかった。