どうせ見るなら夏の夢 外向きの声色と笑顔で話す主の後ろに控えている。
「危険な任務であることはこちらとしても重々承知しておりますが、成功すれば歴史に残る偉業となるでしょう」
ここにいたのが俺で好かった。短刀連中なら液晶向こうの男の首は、長く見積もっても五時間以内には飛んでいただろう。この本丸、生憎と規範や規則を守る意識は平均点以下、道徳を知らないわけではないけれど、それよりも守らなくてはならないものがあれば無視できてしまう。欲望を耳障りのいい言葉で包んで、愛みたいに見せかける営みは人類史の十八番だ。ならば模して作られた自分達もやってみせるのが筋というものだろう、と、いつか主に語ったら「本丸にいた人間の先輩が悪かったかな」と眉を下げながら笑っていた。
「その栄光、我が本丸がお受け致しましょう」
政府連中の長い口上の後に主が簡潔に答える。無感情なその声は、勝ち目のない戦いにおいて我が本丸を囮どころか餌にして切り捨てるような、残虐な作戦への同意をなぞっていた。
「本気か?」
「うん」
「きみが本当に死にたがってるだなんて思ってなかったぜ」
「別に死にたがってるわけじゃないんだけど」
振り返った彼女は途方に暮れた顔をしたまま笑った。人間というのは斯くも器用なものか、と思う。或いは俺がまだ方法を知らないだけかもしれない。
「何にせよ囮になる本丸は必要だし、この話が来る時点で政府はこの本丸に存在価値を見出してないのは事実だし」
「きみは終わりを先延ばしにするタイプだと思っていたんだが、違ったんだな」
「そうしても良かったけど、わたしだけ死んでみんなばらばらとかが一番嫌だし」
あと、と不意に悪戯な猫のように距離を詰め、甘えたな恋人の空気を纏いながら彼女は俺の首に手を回した。
「今ならどこで死ぬかもわかんない鶴丸さんと絶対一緒に死ねますよって、なんか、お得商品かもって思っちゃった」
「悪い子だなあ」
「きらい?」
「すきだとも」
お約束のようなやりとりがもたらすのは甘い中毒だった。審神者が笑う。
「わたしも」
「次の」
五年が経てば虚勢でも上に立つ者の振りが上手くなると零していたことを思い出す。本心を晒さないでいれば誰にも否定されないが、肯定もされない。他傷と自傷を天秤にかけて後者を取り続けるような日々に耐え得る程ひとの心は丈夫にできてはいないのだと言う時にすら笑っていた。
「作戦でこの本丸はおしまいになります」
まっすぐに向いて見えるような目は誰のことももう映してはいない。その瞳に騙されるような刀は一振りとていなかったけれど、みな黙っていた。
「ありがとうございました。愛してます。」
その言葉が免罪符にならないことを、彼女が一番よくわかっていた。大抵の悲劇の発端は愛。誰も、誰も何も言わなかった。こういう時に騒がしくなることを厭う主であることを全員が知っている程度には、仲の良い本丸だった。
主の体の末端は一度冷たくなると中々温まらない。作戦の決行は本丸の景趣が雪景色に覆われてしばらく経った頃の予定になったために、最近は共寝をすれば冷えた爪先が脚に絡みついた。
「寒いのはきらい」
「そうだな」
「戦争はもっときらい」
何か言おうと口を開いたけれど、それよりも前に自分のそれより一回り小さな手がまぶたに覆いかぶさった。額に少しかさついたくちづけが落ちる。ドライフラワーを思い出した。
「全部嘘にしちゃおうかなって。命令聞いたふりしてみんなせーので時空のもくずになってもいい?」
泣いてしまいたい顔をしているのだろうかと想像する。あるいは、いつでも冗談にできるような平然とした顔のままかもしれない。まぶたの上の手の温度は未だすこし冷たかったが、それでも鋼よりは温かだった。
「いいぜ」
「やった。雪の中でおわろうね、命令。」
今のはわかる。わらった顔だ。
深夜、執務室の床板をこっそりと外せばアナログ式のボタンがいくつか並んだ機械が埋まっていた。
「本丸って全部実体のある幻なんだって」
「そりゃややこしいことだな」
ぷつぷつとボタンを手順通り押していけばそれで全部おしまいになるらしい。本丸は時空の海を漂って、長旅に耐えられなかった主の中身が滅茶苦茶になる。死んだ蛹のように。最後のボタンを押した指先が離れる。
「すぐには死なないらしいよ。船の錨がすぐには上がらないみたいに」
「苦しくないといいんだが」
「その時は斬ってよ」
彼女は俺の手首を掴んで縁側からそのまま一面の雪の中へと飛び込んだ。爪先が冷えてしまうことを心配する。そういう風にできていることを思い知る。
「っおい、危ないだろ」
「今更でしょ、ね、向こう行こ、向こう」
「全く……ほら、おいで」
抱き上げてやれば甘えたように擦り寄ってくるので寒かったのだろう。ある程度までもすもすと雪の中を歩き続けると彼女が「降りたい」と言い出したので降ろした。雪原に寝転がって手招きをする姿が布団で怠惰に遊んでいる時と変わらなくて妙におかしかった。
「いやあ寒いねえ」
「あったかくしてくればよかっただろ」
「や、タイムリミットがわかんないからさ」
「そんなに来たかったのかい」
「折角なら心中っぽくふたりっきりがいいかなって」
添い寝して抱き寄せてやれば幸せそうに笑うからかわいいと思った。久しぶりに見る顔だった。
「熱烈だな」
「ごめんね、こんなとこまで」
「なに、構わないさ」
「きらいにならないで」
「……ならないとも。まだそんなこと怖がってるのかい、きみ」
「うん、うーん。わかんないけど」
「しかし本当に寒いな。きみ、大丈夫か?」
「あんまり。でもほら、結構いい末路じゃん。おわりっぽくて」
キスして、と珍しくねだられたのでそっとくちづけてやれば普段より数段冷たかった。箍が外れたからか幼げな振る舞いが酷く目についた。
「今死ねたら逆白雪姫みたいでよかったのに」
「良くはないだろ」
「そんなこと言ったら最初から全部悪いよ」
馬鹿みたいに話をしていたらいつの間にか彼女の声が眠気を帯びてきて、あぁ、とだけ思う。
「ねぇ」
「なんだい」
「さむいねぇ」
不意に吸い込んだ空気の温度を意識する。なにもない場所に行き着いてしまったことに気付く。ゆるく弧を描く水平線まで、雪の結晶たちが覆い尽くして、白金の月明かりを怖ろしく反射するものだから、夜とは思えない程明るい。うつくしいが、どこかが致命的に違う。
「あ」
彼女はずっと、寒いのが苦手だった。
走り出す。深く積もった雪が足を取って思うように進めない。冷たい空気に反して体内には熱が篭り、ぐちゃぐちゃになったような感覚がした。かろうじて輪郭をとどめる肺から冷気が混じって、喉から血の味がした。
「どうして」
末路なんて言葉を選んだんだ、と八つ当たりのように思う。悪い夢から醒めたらもっと嫌なことが起きていた朝のようだ。命令に背くのは初めてだった。それでも、彼女を雪原で眠らせておくには夏の海の、ひかる水面の裏に広がる暗い海を黙って見つめる顔を鮮明に覚え過ぎていた。
本丸に着くと皆顕現を解かれていた。その様子を横目に執務室へと飛び込む。端末を操作して景趣変更設定画面を開く。
「きみが」
雪の幻が端から海の幻になってゆく。実体のある幻と彼女が言っていたことを思う。まるで現実みたいだ。思い出だけが本当のような気がする。
「どうせ見るなら」
手を引かれて飛び込んだ雪の跡が消えてゆく。朝日が昇る。
「夏の夢がいい」
水面がゆらゆらと輝いて、まろい膚のぬるさを、気に入った音楽の一節のように思い出す。彼女は無事に恐ろしい程の明るさから抜けて、穏やかな暗闇に帰っただろうか。目を閉じる。耳の中で、波の音が、ゆるやかに反響している。