たったひとつの冴えたやり方 やっぱりそうだ。
目の前にある、丁寧にラッピングされた小さな包みをまじまじと見つめながら、山南は内心でそう独りごちた。
中身はもう知っている。仕事が繁忙期だという恋人が、その合間を縫って訪れてくれた今日、少しやつれた面持ちの彼に「こないだ、手が乾燥で荒れてるって言ってたので」と贈られたハンドクリームだ。確かにそんなようなことはあったが、多忙な中でわざわざ時間を割いて買い求めてくれたのかと申し訳なく思いながら、礼を言って受け取れば、最近僕のせいであんまり会えてないからその埋め合わせですよと頭をかくのがいじらしかった。
そんなこと、気にしなくていいのに。彼はまだ若く、たくさんの可能性を持っている。そういう若者が忙しいのは、もちろん働きすぎはいけないけれど、ある程度ならよいことだ。歳上のせめてもの矜持として、それを尊重してやりたいと山南は思っていた。
「疲れてるだろう。今日はこのままゆっくりしようか、斎藤くん」
並んで座ったソファにもたれて笑いかけると、どこかぼんやりした表情で茶をすすっていた斎藤は、はっとしたようにこちらを見て湯呑を置いた。
「ありがとうございます。でも、やっと会えたんで......僕は違うことがしたいんですけど、山南さんは?」
そう言ってじり、とにじり寄ってくる彼の熱っぽい視線に、体の深いところがぞくりとする。
この目だ。光の加減で不思議に色を変える琥珀のような瞳に見つめられると、どうしても冷静でいられない。
あの時も同じだった。同僚の後輩である斎藤と、酒の席で紹介された時からなぜだか妙に馬が合って、何度目かに二人で会った別れ際、ふいに腕を引かれて振り返った瞬間。灯りを映して金色に光ったこの瞳に射抜かれて、駄目だと思った。「僕と付き合ってくれませんか」と、彼がそう口にする前に、もう山南の答えは決まっていた。
本当は、そうするべきじゃなかったかもしれないのに。他に正しい選択肢があったかもしれないのに。声も出せず頷いたら、何かかけがえのないものを見つめるように切なく歪んだ表情を知ってしまえば、全部どうでもよくなった。
今だって、彼の体調を考えれば上手に躱してやるべきだろう。でも、そうやって思いやることのできる理性を、この人と触れ合いたいとわめく欲望が食い尽くしていく。そっと頬に添えられた指を振り払えない。そのまま唇が重なって、とっさに斎藤の肩に置いた手はそれを押しのけるどころか、久しぶりに感じる体温を確かめるようにそこを撫でた。
「寝室に......」
ゆっくりとのしかかってくる身体を抱き返しかけていた山南は、すんでのところで正気に戻ってそう提案した。首元に唇で触れられる感覚に息を詰めながら顔を覗き込むと、ちらりとこちらを流し見た斎藤が軽くうなずく。
「はい。......でも、もうちょっと」
「っあ、」
良い子の返事の後に付け加えられた言葉に目を見開く間もなく、シャツの襟に鼻先をうずめた斎藤のしろい歯に、はだけたそこを甘噛みされる。こら、とたしなめたはずの自分の声が、全く説得力を持たないくらい湿っているのは気のせいではなかった。ごめんなさいと耳に吹き込まれた囁きに、抗いようもなく背筋がぞくぞくとふるえる。
気づけば完全に押し倒されていて、止まない愛撫に身体をよじった拍子に、視線の先のローテーブルに置かれた包みがふと目に入った。
なんとなく、それが妙に気にかかった。ねだるように口の端を舐められて視線を戻した山南はもう、斎藤以外のことは考えられなかったが、目の奥に焼き付いたその残像は消えなかった。
結局、彼が帰らなければならない時間ぎりぎりまでずっと抱き合ってしまって、申し訳なさそうに、名残惜しげに暇を告げる斎藤の背中を見送って、そして今。再びソファへ戻ってきた山南は、眼前に置かれた紺色の包装紙をじっと眺めている。
決して嬉しくないわけではない。でも、何かが引っかかる。その正体に、山南はうすうす気づき始めていた。
斎藤と付き合い始めておよそ一年の間、幾つもプレゼントを贈られてきた。出張のささやかな土産から、誕生日に二人で行った旅行まで、様々なものを。花を貰ったこともある。いつかの週末の夜、自宅を訪れた斎藤を迎えようとドアを開けた山南は、そこに立つ彼が胸の前に抱えるものを見て呆気にとられたのだった。
「あの、ちょっと恥ずかしいんで、入れてもらってもいいですか」
ぽかんと立ち尽くすのを見かねてそう言われ、慌てて身体をどかす。大股で玄関に足を踏み入れた男は、いっそしかめっ面にさえ見える顔で「どうぞ」と山南に向かって右手を押し付けた。
「あ、ありがとう」
慌てて受け取った山南は、間近で見るそれに思わず息を呑んだ。
シンプルな紙に包まれた、白と水色の花々がふんわりと揺れる。鼻先を甘い香りがくすぐり、殺風景な玄関の空気まで鮮やかに色づいたようだ。
呆然としたまま斎藤を見れば、きつく眉根を寄せた彼の耳が赤く染まっていることに山南は気づいてしまった。ものすごく、照れている。驚くやら微笑ましいやらで混乱していた胸のうちが、それを悟った瞬間に愛しさでいっぱいになった。
「似合わないって思ってるでしょ。僕もそう思います。……でも、......今日でちょうど付き合って半年だなと思ったら......つい......」
目を逸らしたままもごもごとそんなことを言う彼のことを、思いきり抱きしめてやりたい。でも、手の中の花束も放したくなかった。今だけ腕があと二本ほしい。そうしたら、両方できるのに。
似合うか似合わないかなんて考えもしなかった。なぜだかとても慕わしい色合いの花々は綺麗だけれど、たぶん本質的にはそれが何だって構わなかっただろう。貰った花束そのもの以上に、それを贈ろうと思ってくれた斎藤の気持ちがたまらなく胸を打つからだ。
この花束は、彼が山南のことを考えてくれた想いがかたちになったものだ。こんなに照れて恥ずかしがりながら、それでも、そうしようと踏み出してくれたことが何よりも嬉しい。どうすれば、それをきちんと受け止めて報いることができるだろう。
「ありがとう。……うれしいよ、本当に……」
けれど結局、ありふれた反応しかできなかった。せめてじっと目を見て伝えると、ようやく斎藤の表情がほころんだ。
「……よかった」
そういえば山南さんち花瓶ありましたっけ、と心配げに尋ねられ、山南は苦笑して首を横に振った。まさかこの家にそんなものが必要になる日が来るなんて、斎藤と出会わなければ夢にも思わなかったに違いない。花束と彼を交互に眺めてその得難さを噛み締めていると、困ったような顔でへらりと笑われる。
「見過ぎですよお」
「ごめんね。嬉しくて、つい」
「……なら、好きなだけどうぞ」
ふい、と視線を逸らした彼の耳は、やっぱり赤い。我慢できずにそこへ手を伸ばしてしまえば、驚いてこちらを見る琥珀色の中で、瞳孔がぎゅっと収縮するのに胸が苦しくなった。
「本当に、ありがとう」
「はい。......どうしたの?山南さん。なんか、......」
不思議そうに瞬いた斎藤の指先が、なぜか山南の目元をそっと撫でる。乾いた感触がくすぐったくて、どうしてそんなことをするのか分からないまま微笑むと、ほっとしたように斎藤も眉を下げる。
結局、花瓶の代わりになるものも見つからず、水を張った鍋にこぼれるように活けられた花束は、どこかシュールな佇まいで瑞々しく保たれることになった。
「花瓶、明日買ってくるよ」
「すいません......これはこれで、なんつうか味がありますけどね」
「確かに。でも、せっかく君がくれたお花だから、ちゃんと飾りたいんだ」
「......ありがとうございます」
しみじみとした響きでそう口にした斎藤に、礼を言うのは私の方だよと笑えば、目を細めた彼は黙って山南の前髪をやさしく梳き、こちらに向かって身をかがめた。
その時もらった花のことを、山南は今でもたまに思い出す。なるべく長く飾っていたくて工夫をこらしてみたけれど、やがて萎れていくのが寂しくて、未練がましいと思いつつひときわ綺麗な水色の一輪を厚手の本に挟んで押し花にしたものも、こっそり机の引き出しに仕舞っている。
不慣れなせいでくすんで不格好なかたちの花の名残りだが、それでも、重い身体を引きずるようにして帰宅した夜に取り出して眺めると、胸の奥で泥のように凝った暗い影を忘れられた。
しかし、そうやって形に残っているのは押し花にできたほんの一部だけだ。花束そのものは枯れたあとに処分してしまった。
思えば、他に贈られてきたプレゼントも全てそうなのだ。出張の土産はご当地のお菓子で、とても美味しかったけれど、当たり前だが食べ終わればなくなった。バレンタインにもらったチョコレートも。ホワイトデーにくれたのは入浴剤だった。肩こりに悩まされていた頃だったから嬉しくて、すぐに使い切ってしまった。そして誕生日の旅行も、本当に素敵な思い出だけれど、もう記憶と写真の中にしかない。
気のせいだろうか。ただの考えすぎで、あるいは斎藤が何らかの気遣いをしてくれたからなのかもしれない。付き合い始めの時期にものを贈るというのは、確かに少しハードルが高いだろうし。
だが、理由は分からないけれど、とても不安だった。何だかとても危ういことを見過ごしているような、ひりひりした焦燥感がある。
山南は、意を決して紺色の包みをほどいた。ころんと出てきたハンドクリームの蓋を開け、丁寧に手指へ伸ばす。
しっとりとなめらかな使い心地に、斎藤の思いやりを感じる。それはきっと錯覚ではないはずだ。でも、その奥にあるものを知りたい。もしかしたら、彼が自分には見せたくない何かがあるのかもしれないと憂う気持ちもあるが、同時に、ここで躊躇えば取り返しのつかないものを失うような気がしてならなかった。
使い始めたせいで少しへしゃげてしまったハンドクリームのパッケージを見つめて、その不安に正面から向き合おうと、山南は決めた。
そうして暫く経って、斎藤の仕事も落ち着いたある日、彼の家に招かれた山南はそれとなく機会を伺っていた。
ハンドクリームを贈られたあの逢瀬以来、斎藤にとりわけ変わった様子はない。今日は山南を自宅へ迎え入れるなり腕の中へ閉じ込めて「あ〜山南さんだ......」と謎の感嘆を漏らした時は、だいぶストレスが溜まっているのかと心配したが、嬉しげに抱きしめられると大きな犬に懐かれているようで可愛らしかった。それから後は別に疲れたような言動はないので、きっと大丈夫だろう。
夕食を終えて、一緒に映画を観る穏やかな時間。画面を見つめる横顔へひそかに気を配りながら、山南はふと口を開いた。
「この主人公が使っている万年筆、素敵だね」
「ん?ああ、確かに。格好いいですね」
リラックスした声でそう返す斎藤の目が、しっかりそれを捉えたことを確かめ、慎重に言葉を継ぐ。
「......実は、私も万年筆が欲しいと思っていて。......いつか君から貰えると、とても嬉しいんだけれど......」
「あ......そう、ですね。でも僕なんかじゃ山南さんが好きそうなのは分からないですし、どうかなあ............」
しん、と二人の間に沈黙が落ちた。映画の中で誰かが何かを話しているのが、どこか遠く無機質に聞こえる。
そういう応えを予期していなかったわけではないが、実際にそれを受けた衝撃が、じわじわと指先を冷たくする。自分の表情が凍りついていくことを自覚しながら、どこか痛みを堪えるような顔の斎藤を見返す。お互いにもう、映画なんて頭にないことは明白だった。ゆっくりと手を伸ばしてテレビを消した山南は、決定的な一線を踏み越えるような心地で、静かに尋ねた。
「斎藤くん。......君が贈ってくれるプレゼントがいつも形に残らないものなのは、どうしてか教えてくれないか」
◇
山南にそう問われた瞬間、ああついにこの時が来てしまった、と斎藤は思った。
彼にものを贈るのが好きだ。もちろん負担に思わせることがないよう頻度には気をつけているものの、彼に自分の選んだ何かを差し出すたび、くすぐったく揺れる胸の内を斎藤は自覚していた。己に貢ぎ癖があるとは知らなかったが、きっとこれは、相手が山南だからに違いない。
たとえそれがささやかな出張土産だったとしても、受け取った時にとても嬉しそうな顔をしてくれる彼は、本当に斎藤を喜ばせるのがうまい。贈ったものを大事にしてくれるところもたまらなかった。渡した時点でそれはもうその人の所有物なのだから、どうしようが自由だと斎藤は思うが、やはり自分の気配が残る品が山南の手で丁寧に扱われているのを見ると、染み渡るようなあたたかい気持ちになった。誠実な彼はたぶん誰に何を貰ってもそうするだろうと分かっているけれど、それでも、大切に思ってくれているのだと噛みしめられる。愛されているのだと実感できる。
しかし、いつしか自分がプレゼントを選ぶ際に避けているものがあると気づいてしまった。
長く残る品を、贈ることができない。そう理解して、すっと血の気が引いた。過去の記憶を引っ張り出しても、自分は必ず、いずれなくなるものを渡している。その時まで気づけなかった無意識の行動が、かえって根深さを思い知らせた。なぜ。どうして。でも、斎藤はその理由を、ずっと前からよく知っている。それは――――
――――あの人が、いつかいなくなってしまうような気がする。
ばかげた考えだった。山南が何かそんな風なことを口にしたり、そういう素振りを見せたわけでもないのに。
だが、思えば彼とこんな関係になるきっかけもまた、それに起因していたのだった。
山南は覚えていないようだが、斎藤は彼と、大学の先輩である土方に引き合わされるかたちで再会するより以前に会っている。ちょうど斎藤が大学に入った頃の昔の話で、しかも当時の自分は今と髪型も服装も違うから、彼が気づかないのも当然だけれど。
あれは平日の昼下がり、午後の講義に出席するべく大学行きのバスに乗っていた時のことだった。一番後ろの窓際に陣取って、眠気を誘うようなとろりとした陽射しのなかで欠伸を堪えていた斎藤は、バス停で乗り込んできた老人を目の端で捉えてうげ、とひそかに眉根を寄せた。
いつも気難しそうに顔をしかめたその爺さんは、見るからに高齢者らしくよぼよぼ乗ってくるくせに、親切にも席を譲られようものなら年寄り扱いするなと怒り出す厄介な乗客だった。この路線をよく使う斎藤は何度かその場面に遭遇していて、うるさい上にバスの発車も遅れるそれにうんざりしていた。今日はすんなり座れよ、と座席の空き具合を一瞥すれば、ふと誰かが立ち上がった。
「どうぞ、よろしければ」
あちゃあ、と斎藤は目を細めた。爺さんに向かって丁寧に声を掛けたのは、いかにも人の好さそうに微笑む若い男だ。気の毒に思う気持ちと、余計なことしやがって、という半ば八つ当たりのような腹立たしさを同時に覚えながらため息を押し殺せば、案の定しわがれた怒声が上がる。
俺が年寄りだってのかふざけるなよ、というようなことをいきなりまくし立てられ、その人は困惑した風に小首をかしげた。だが大人しそうな外見の割に肝が太いのか、単に鈍感なのか、気弱な人間なら面食らって逃げ出すような罵声を浴びても穏やかな顔は崩れなかった。気を悪くさせてしまってすみません、となだめる様子はとても優しいが、こういう奴はそんな風にされたら付け上がるものだ。現にわめき声がいっそう上ずって耳障りに響く。
適当にあしらえば良いのに、そのくらい分かれよ、と斎藤の中で苛立ちが強くなる。だが、本当に怒りを覚える相手は、その男ではなかった。本当に腹が立つのは、彼の優しさにつけ込んで怒りのはけ口にしている爺さんや、車内放送越しにやる気のない仲裁をするばかりの運転手や、面倒事はごめんだとでも言うように素知らぬ顔をした周りの人間たちや、――――それを黙って見ているだけの、自分に対してだ。
くそ、と斎藤は内心で吐き捨てた。乱雑に立ち上がり、唐突な闖入者に眉をひそめる乗客を無視して、爺さんと若い男の間に無理やり割り込む。
「あれえ、先輩じゃないですか。奇遇ですね〜。こちら、お知り合いで?」
「え、」
ぽかんと見上げてくる男の淡い色をした瞳を覗いて、いいから話を合わせろと無言で圧をかける。数度ぱちぱちと瞬いた彼は、こちらの思惑に気づいたのかゆっくり首を振った。
「ええと、席を......」
「ああ、なるほど。じゃあ、どうぞお座りください」
ね?と口角を吊り上げつつ促してやれば、気圧されたように後ずさった爺さんは何事かもごもごと呟いて、ようやく譲られた席へ腰を下ろす。安堵と呆れが入り混じった空気が流れる車内で、控えめに目礼する隣の男に斎藤は軽く頷いてみせ、しばらくどちらも黙ったまま並んで立っていた。
斎藤としてはそれで終わりのつもりだったから、大学前のバス停で何事もなかったように降車したのだが、キャンパスに向かって歩き始めたところで背後から聞き覚えのある声に呼びかけられた。
「あの、待ってください!」
「はい?」
胡乱な顔で振り返った斎藤は、そこにいたのが先ほどの若い男なのを確かめて片眉を上げた。わざわざ追いかけてきたのか、という疑問とやや面倒に思う気持ちがうっかり顔に出たのか、慌てたように彼は続ける。
「いや、私もたまたまここで降りたので......さっきはありがとう。助かりました」
「はあ。どうも」
礼儀正しく頭を下げられ、斎藤は曖昧に返事をした。そんなに大したことをしたわけでもないのに、こう丁重に受け取られたら調子が狂う。誠実さの滲む微笑を向けられるとなんだか胸の内がくすぐったい。だからだろうか。普段の自分ならさっさと別れているはずの相手に、つい踏み込みたくなった。
「あー、さっきの人、いっつもあんな感じなので。気にしない方がいいっすよ。ていうか、次からは放っとけばいいんじゃないですかね」
「ああ、そうなんだ。教えてくれてありがとう」
また礼を言われてしまった。いえ、と口ごもりながら、今度こそ踵を返そうとした斎藤は、彼がふと呟いた言葉に立ち止まった。
「......でも、あのお爺さん、足が痛そうだったから」
「え」
思わず彼の顔を見ると、やさしく目を細めたその人は笑って、こう言った。
「だから、君のおかげで座ってもらえて良かったよ」
「......」
馬鹿みたいに親切だな、と思う。あんな目にあったくせに、どうして理不尽に怒鳴りつけてきた相手を思いやれるのか、理解ができなかった。そんなことをする必要はないとも思った。だってこの人のそういう優しさは、あの爺さんにはきっと少しも伝わらない。ただ無意味に消費されるだけで、決して報われることはないだろう。
でも、それが価値のないものだとはどうしても思えなかった。だから何か言ってやりたくて、けれど何を言えばいいのか分からずに黙りこくっていると、それじゃあと口にして彼はすたすた歩き去ってしまった。とっさに呼び止めかけた斎藤は、すんでのところで思い留まり、黙ってその後ろ姿を見送った。やっぱり、言葉は見つからないままだったので。
その後、キャンパスを土方と歩く彼を幾度か見かけた。声をかけようと思ったこともあるが、どうしてか二人の間に割って入るのは違う気がして、サークル仲間の沖田が土方へ一緒にいた人は誰なんですかと尋ねては他大の奴だとあしらわれているのを聞くばかりだった。
土方の卒業後は姿を見ることもなくなり、斎藤もやがてその時のことは、よく分からない思い出としてしまい込んでいた。そうして月日は流れ、就職して数年が経った頃だった。彼に、――――山南に、再び会ったのは。
土方に呼び出された飲み会で腐れ縁の知り合いだと紹介され、斎藤はすぐ彼だと気がついた。こちらを見上げて目を細めた笑い方が、あの時と同じだったから。しかし、山南と名乗った彼のほうは、どうやら気づいていないこともすぐに分かった。初対面を装って隣に腰掛けながら、斎藤は以前会っていることを切り出すか一瞬迷って、そして止めた。彼にとっては良い記憶かどうかも分からないし、忘れられていたら正直気まずい。それに、わざわざ話をするほど大層な出会い方でもなかった。斎藤自身さえ、自分がここまで鮮明に彼のことを覚えているとは思わなかったくらいだ。
だから、単に初めて会った後輩として接することにした。けれど思い出の中と同じ笑顔が懐かしくて、変わらない優しい声が心地よくて、親しみが湧いた。気づけば初対面という体にしては話し込んでしまい、最近公開された映画を観たいがまだ行けていないという話題になった時、斎藤はつい「じゃあ今度一緒に観に行きましょうよ」とうっかり口を滑らせていた。
言ってしまってから、しまった距離が近すぎたかな、と後悔する。こんなの飲み会での世間話のようなもので、適当に流されたって普段は平気なのに、なぜか彼にそうされるのは少し嫌だった。苦い気持ちを腹に隠してビールを煽った斎藤に、ちょっと目を丸くした山南は、しかしほんのり赤らんだ目尻を嬉しげに下げた。
「いいね。君と一緒なら楽しそうだ」
「......はは。そりゃよかった」
返した声は、格好悪く掠れてはいなかっただろうか。その返し方は、なんだか、予想外だった。それに自分がこんなに動揺させられていることも。そうしていれば翌週の土曜日がどちらも空いていることも分かって、スマートフォンに予定を入れる彼を眺めながら、斎藤は夢でも見ているような気分だった。まさか、彼とこんな風に話す日が来るなんて思わなかった。
そして連絡先を交換して、約束通りに二人で映画を観に行って。そこで関係が途絶えなかったのは、お互いの仕事や生活上のさまざまなタイミングが良かったことも大きいが、斎藤にとってはやはり山南と過ごす時間が好ましかったからに違いなかった。かつて会った時の記憶が親近感を呼んだのは確かだが、それを差し引いても彼と話すのは不思議なくらい楽しかった。
一緒にいればいるほど、自分とは全く違ったタイプだと思う。優しいけれど頑固で、真面目なのに冗談にも楽しげに笑って、歳上だけどどこか放っておけない雰囲気の人。会うと毎回新しい一面を見つけて、そのたびに惹きつけられる。しばらく会わないでいれば、彼はどうしているかなと気になって、たまに届く控えめなメッセージが嬉しかった。こちらから送る他愛ない話にも律儀に返信してくれるのが面白くて、そのうちに、また会いたくなってくる。最初は斎藤が提案して会うことが多かったから、山南から誘われた時は嬉しかった。そうやって、知人とも友人とも名前の付けられない、曖昧で居心地の良い関係が続いていた。
けれど何度めかに会った週末の夜、二人で飲もうと約束した待ち合わせ場所に現れた彼は、なんとなくとても疲れているように見えた。食欲もあまりなさそうで、斎藤の話に頷きながらちびちびと盃を傾ける様子はどこか危うげだった。色白の顔のなかで目元ばかりが赤く滲んでいくのをなんだか見ていられず、斎藤はさりげなく早めに切り上げるよう仕向けて、今日誘ったのは失敗だったかと内心で反省していた。思えば、最近は彼からの連絡にも明るさがなかったような気がする。
帰路、乗り換えで別れるまでの同じ電車で並んで立っていても、やはり山南は普段より言葉少なで、何かの拍子に笑う顔が寂しさを含んでいるように斎藤の目には映った。だがそれを無遠慮に指摘するのもはばかられ、途中大きな駅でどっと人が増えたことをきっかけに、お互いしばらく黙って吊り革を握っていた。
金曜夜の倦んだ空気と浮かれた喧騒に苛ついた乗客は、降りるために周りをかき分ける手にも遠慮がない。そして、そういうしわ寄せというのは、見かけ上自分より弱そうな相手や、文句を言ってこないような――つまり、ひとの好さそうな人間にどうしても集まってしまうものだ。
どん、と焦った様子で閉まりかけた電車のドアへ向かうスーツ姿の男の鞄が、山南の身体に当たる。柔和な顔立ちからは意外なほど体格のよい彼は、体勢を崩すことはなかったものの、わずかに痛みを堪えるように目をすがめた。思わず大丈夫ですかと声を掛けた斎藤には、大丈夫だよありがとうと平気そうな返事をしてくれる。
そして何事もなかったように前を向いてしまった彼を見て、俺は馬鹿か、と斎藤は唇を噛んだ。あんな勢いで硬い鞄をぶつけられて、痛くないわけがない。大丈夫なんて、言わせてしまうんじゃなかった。
次の駅に着き、幾分混雑の収まった車内で、ふとドアの傍へ目を留めた斎藤は、山南の腕をとっさに掴んだ。
「山南さん、こっち」
「え?」
驚いた声に構わず、腕を引いてドアの脇に誘導した彼の前に向かい合うように立つ。これで押しのけられることはないだろうと思っていると、正面からふふ、とおかしそうな笑い声がした。
「ありがとう。気にしてくれて」
「いーえ。背丈があるとこういう時は便利なんで」
「おやおや、羨ましい」
「おっと。失言でしたか」
「......君は、優しいね」
そう呟いて、山南は目を伏せた。別にそういうわけじゃ、と返そうとした言葉を中途半端に喉奥へ留めたまま、なんとなく斎藤も口をつぐむ。
この立ち方は不自然だったか、と今さらしょうもないことが気になった。しかしこれはなんというか、いわゆるカップルがよくやる体勢かもしれない。別に誰もそこまで見ていないと思うが、山南は嫌じゃないだろうか。車窓を眺める横顔に、嫌悪は感じられないけれど。
このひと睫毛が長いなと斎藤はぼんやり思って、慌てて視線を逸らした。なぜなのか自分でも全く理解できないが、唐突に、その目元に唇で触れてみたいという衝動が腹の底から湧き上がってきたからだった。
なんだ今のは。必死に表情を取り繕いながら、斎藤は思いきり混乱していた。だって、それはまずいだろう。彼との間柄が知人か友人かは分からないが、たぶんそれらの関係性じゃ、そんなことはしない。少なくとも、斎藤の基準ではそうだ。だったら、どんな関係ならそういうことを?
雷に打たれたような気持ちでこっそり伺ったうす紫の瞳は、きっと妙な顔をしている斎藤のことなど気づいていない風に、規則的に流れる夜景を見つめている。
どうしてだろう。目の前にいるはずなのに、彼のことをとても遠く感じた。表情を覆い隠すような前髪と、じっと夜闇に囚われた眼差しのせいだろうか。
がたん、とひときわ不安定に車体が震動したはずみに、山南の前髪もさらりと揺れる。その向こうで、淡い色をしているはずの瞳が、ぞっとするほど暗く虚ろに見えた。
「っ山南さ、」
「ん......?」
やみくもに呼びかけた声に、不思議そうにこちらを伺う目は、確かに自分のことを映している。胃が引き攣れるように痛んだが、斎藤は、すいません何言おうとしたか忘れちゃいました、と下手な言い訳を取り繕った。珍しいねと追求せず微笑んだ山南が、ふとドアの上に視線をやって姿勢を正す。
「ああ、もう次だね。なんだかぼうっとしていたよ」
「そう、ですね......」
次の駅で、お互い違う路線に乗り換える。そうしていつも、彼との時間は終わっていた。今日も当然そうなるはずだ。
でも、頭のどこかでがんがんと警鐘が鳴っている。このまま彼を、山南を独りにしてはいけないと、魂の奥底で誰かが叫ぶ。自分の声によく似たそれが、斎藤の胸の内をひどく揺さぶった。だが、どうすればいい。ただの友人や、あるいは知人に過ぎない斎藤は、どこまでこの人に踏み込むことを許されるのか。そして自分は、一体どこまで彼に踏み込みたいと思っているのだろう。
客車から吐き出される人波に乗って、流されるように歩いていく山南を必死に追いかける。別れの刻限はすぐそこまで迫っていた。こちらを振り返って軽く手を上げた彼が、いつものように乗り換え先のホームへ続く階段へ向かおうとする。その後ろ姿が一瞬、雑踏に呑まれて見えなくなった。
「待って!」
「うわ、!?」
気遣いも忘れて、夢中でその腕を掴んだ。たたらを踏んで振り返った山南の瞳が、いっぱいに拡がって斎藤の姿を宿す。
この人に、何かを言いたかった。出会ったあの時からずっと。けれどそれが一体全体なんなのか分からなくて、いつまで経ってもその後ろ姿を見送るばかりだった。
だが、今だけはそうする訳にはいかない。今この手を離してしまえば、きっと彼のことを失ってしまう。根拠もないのに切迫した焦燥感が斎藤を追い立てる。それはどうしても嫌だった。まだあなたと一緒にいたい。行かないでと手を取ることを許してほしい。そのためには、後輩の立ち位置じゃ足りなかった。もっとこの人の特別になりたい。自分のことを、特別に想ってほしい。寂しい時に少しでも思い出してもらえるような、ずっと一緒にいたいと思ってもらえるような、そんな存在になりたい。そうすれば、あなたは――――
「付き合ってくれませんか、僕と」
「え......」
瞬きもせずこちらを凝視する山南に、斎藤はようやく、自分が何を言ったのか理解した。その瞬間、どっと背すじを冷や汗が伝う。俺は一体なにを口走っているんだ。だけど、これ以外に言えることなど無いような気もした。
立ち止まった二人の横を足早に人々が抜け、次第に周囲の人影はまばらになった。目を見開いたまま黙っている山南を、なんだかもう祈りに似た心境で見つめていた斎藤は、やがて彼の顔が小さく上下するのを認めて、殴られたように我に返った。
「え!?あの、え、いいんですか。僕が言ってるのは、その、友だちとかじゃなくて、って......ことなんですけど......」
自分から告白したくせに、驚きを通り越して信じられない気持ちがあふれたせいで、つい疑いじみた言葉になってしまった。失礼やら格好悪いやらで泡を食いながら、それでも、斎藤は山南の腕を離さなかった。ほとんど縋るような響きでかき消えた語尾に、山南がふにゃりと目尻を下げる。
「うん。......分かってるよ」
「......じゃあ、」
「うん......」
見つめる先で、彼の頬がじわじわと色づいていく。自分の顔も、きっと同じくらい赤い。そうやって二人して何も言えずに固まっていると、ふいに山南が斎藤の手を丁寧に振りほどいた。しかしそれに喪失感を覚えるより早く、彼の手が斎藤のそれをぎゅっと掴む。えっ、と息を呑んだ斎藤を、その手は優しく通路の壁側へ導いた。
次の電車が到着して一気にあふれる人波の傍らで、握った手を離さないまま、山南の唇がすこし震えていたのを、斎藤は今でもよく覚えている。
「......次は、いつ会えるかな」
そうして、斎藤一と山南敬助は恋人になった。
だが、本当にそれが正しかったのか、最近、斎藤はよく分からない。
◇
何しろ唐突に関係を申し出てしまったものだから、斎藤は少しだけ、自分が山南とうまくやっていけるのかどうか心配だった。
けれど、すぐにそれは杞憂だと悟った。端的に言って、彼は最高の恋人だったから。
以前からなんだか可愛いところがある人だなとは思っていたけれど、恋人になってからの山南はものすごく可愛い。べったりした愛情表現はなくても、ふとした仕草や眼差しに、一緒にいて楽しいんだなとか、安心してくれてるんだな、というのがけっこう素直に見えるのがいじらしかった。歳上らしい包容力で甘えさせてくれる時もあれば、ためらいがちに甘えられるのもたまらない。真面目で頑固なせいでなかなか見せてくれない面もあったが、少しずつ外堀を埋めて他の誰も知らない彼を手に入れていくのは、斎藤のうす暗い独占欲までひそかに満たしてくれる。
セックスについては、付き合い初めの時期にいちばんの悩みの種だった。白状すれば斎藤は告白を受け入れられて早々に、うっとりと顔をとろけさせた山南を組み敷く夢を見て早朝に飛び起きたことがあったからだ。うすうす分かっていはいたが欲望の表れすぎた夢に、斎藤は落ち着かない下半身から目を逸らしてため息をついた。
彼のセクシュアリティを尋ねたことはないが、たぶん男と付き合うのは初めてのはずだ。そして斎藤自身も。だからという訳でもないけれど、セックスを無理強いするのは避けたかった。だから斎藤に恋人ができたことをどうやってか嗅ぎつけた会社の後輩に、もうヤッたんですかと口さがない話題を振られた時は、思わず頭をはたいてやった。
いてえ!と涙目になったそいつに、放っとけと言いおいてデスクに戻る。しおしおと自分も席についた後輩は懲りずに興味津々な視線を送ってくるが、そんなことを教えてやる義理はない。セクハラで告発しないだけありがたいと思え、と舌を打ち、斎藤はパソコンの画面を睨むふりをして山南の顔を思い浮かべた。
あの人も、そういうことを考えたりするのだろうか。キスするのは嫌いじゃないみたいだけど。
恋人に手を出しあぐねて煩悶する、というのは、正直に言えば斎藤にとっては珍しいことだった。大概の物事に関して器用な質であると自負していた身としては、なかなか認めがたい事実だが、山南を相手にするとどうも思うように行かない。そもそも関係の始まりからしてあの体たらくなのだから、何もかもが予想外と言ってよかった。
しかし、それを嫌だとは思わない。格好悪い自分を見せるのは恥ずかしいし、失望されるのではないかと恐れる気持ちもあるが、同時に彼になら見られても構わないという思いと、きっと受け入れてもらえるという確信があった。どうしてそんなことを思えるのか、自分でもよく分からないけれど。
いつしか考えに耽っていた斎藤は、ふいにポケットの中で振動を感じて肩を跳ねさせた。横目で周囲を伺い、そっと覗いた私用のスマートフォンの画面には、まさに今考えていた相手からのメッセージが浮かんでいる。
仕事中にごめんねと律儀に断りをいれる一言のあと、すぐに表示された次のメッセージには、彼の今週末の予定が急に空いたという旨のことが書かれていて、斎藤は内心で快哉を叫んだ。近ごろ忙しそうだった山南に配慮して、なかなか会えていなかったので、彼が休めるのは素直に喜ばしい。加えて、こうして連絡してくれたということは、山南も自分に会いたいと思っていてくれるからに違いなかった。珍しく勤務時間中に送られてきた私的な連絡に、彼の急いた気持ちを感じて胸があたたかく染まる。
会いたいです、とすぐに返信したくなる気持ちを堪え、念のためにスケジュールを確認する。もしかして、の期待を込めて予定は入れずにおいたから、週末の欄はどちらも空白だった。先見の明を自画自賛していた斎藤は、次いで送られてきた三通目に目を剥いた。
『もしよければ、うちに泊まっていかないかな?』
マジかよ、とか、そんなこと言っちゃって良いんですか本当に、とか、これイケるんじゃねえの、といった様々な思考が脳裏をよぎる。思わず暴走しかけたそれらを、斎藤は一度頭を振ることで強制的に止めた。だが勤務中にふさわしい顔を保てる自信はなかったので、そそくさと手洗いに立つ。
個室に入って鍵を掛け、すぐさま取り出したスマートフォンの画面を斎藤はまじまじと見つめた。何度読んでもお泊りデートのお誘いとしか思えないそれを、頭の中でじっくり咀嚼する。
今までの経験では、これは夜のお誘いと同義だが、それを彼にも当てはめてよいのだろうか。というか、もしそうだとして、彼はいわゆるどちらのポジションを望んでいるのだろう。いや、ひょっとするとどちらもだったり?
全然分からない。当たり前だが、山南本人から聞いてみないと、憶測で判断できることではなかった。全てはその後の話だ。
数瞬迷って、斎藤はおもむろにスマートフォンの上で指を滑らせた。もちろんぜひ、というような返事が飛んでいくのを見届け、ポケットに戻して個室を出る。
柄にもなく速まっている鼓動に、自分で自分が可笑しくなった。こんなに誰かの言動に一喜一憂させられるのは初めてかもしれない。あの人はどんな顔でメッセージを送ってくれたのか、とちらりと考えた斎藤は、愉しい想像に緩みかけた頬を引き締めて、絶対に休日出勤を回避するべく気合を入れて自席についた。
もちろんそんな斎藤は知るよしもなかったし、今後も知らされることはないのだが、同じ頃に真っ赤な顔をした山南が部下に体調を心配されて慌てていたことは、山南だけの秘密だった。