夕暮れ神社でまた、会いましょう(前編) ようやく梅雨が明け、本格的な夏の訪れが目前に迫った今日この頃。窓の外を見上げれば、そこには吸い込まれそうな蒼穹が広がっている。ぽっかりと浮かぶ白雲のせいか、久々の晴れ空は随分と低く見えた。
放課後を告げる終齢を聞きながら、空は廊下を軽やかに進む。
面倒見の良い彼は、当然ながら友人が多い。声を掛けられる度に手を振ったり挨拶を交わしながら、それでも寄り道ひとつせず目的地へと向かう。
廊下の片側に延々と並んだ窓はどれも開いているのに、すでに若干蒸し暑い。
授業が終わった解放感をそのまま写したような喧騒を右から左へ聞き流しつつ、空は制服の襟元をぱたぱたと揺らした。じんわりと汗の滲んだ首元に少しでも風を送ろうと、ほとんど無意識にしたことだった。
そうして辿り着いた教室の扉をガラリと勢いよく開けた空は、慣れた様子で一歩足を踏み入れた。
「蛍、帰るぞー」
双子の妹の名を呼びながら、彼女の席がある場所へと視線を遣る。
放課後ということもあり、生徒たちはそれぞれ教室内の思い思いの場所に散っている。友人とのお喋りに夢中な者、部活動へ行く支度をする者、そそくさと家路に着く者。それらの立てる音が合わさって、室内は廊下以上に騒がしい。
そんな中、空は妹の姿を探して奥へ奥へと進んでいく。本来彼女の後ろ姿が見えるはずの場所に見知った金髪がないので、そうせざるを得なかった。
「あれ、蛍? いないのか?」
「蛍ならいないわよ」
結局どれほど教室中を見回しても、蛍の姿は影も形もない。それを認めた空が妹の名をぽつりと呟くと、代わりに別の声が応答した。
その声の主は藤紫の長い髪を左右の高い位置で結った、蛍のクラスメイト————刻晴だった。彼女は歯切れの良い口調で、きっぱりと空の疑問に答えてくれた。
同じく蛍のクラスメイトである香菱と共に窓辺に佇んでいる刻晴は、相変わらず凜とした雰囲気をまとっている。一見すると近寄り難いほどしゃんと伸びた背筋と、開放された窓から吹き込んでくる薫風に煽られ翻る艶のある髪。眩しく澄み渡った青空を背景にした彼女の立ち姿は、かつてを思わせる鮮やかさだ。
見たところ刻晴は、何やら香菱と話に花を咲かせていたようだ。
時間を無駄にすることが心底嫌いだと公言している彼女の性格を考えると、雑談に興じるというのはなかなかに珍しいことだった。
しかし彼女たち二人には、大きな声では言えない浅からぬ縁がある。それは七柱の神を戴いた、七つの元素から成る世界での繋がり。いわゆる前世にあたるその記憶が、再度友情を結んだのだ。
それを考えれば、刻晴が朗らかに談笑していることに何の不思議もない。
そして空自身も同じ世界の記憶を有しているからこそ、単なる妹のクラスメイトという関係性以上に二人と親しくしているのだ。
以前の生の話を頻繁にすることこそないが、暗黙の了解のように互いにわかり合っている。懐かしい記憶の中の姿を時折重ねては、変わらないなと笑みを深める。
そういう穏やかな追憶の仕方をする間柄は、秘密を共有しているようで何とも心地良いものだった。
風に揺られる藤紫の毛束のひとつを鬱陶しそうに片手で押さえ込みながら、刻晴は再び空に向かって口を開いた。
「蛍は委員会の仕事に行ったわ」
「委員会? そんなもの入ってたっけ?」
「ううん。うちのクラスに先月転校しちゃった子がいてね、その子が抜けた穴を蛍が埋めることになったんだよ」
引き続き首を捻っている空に、今度は香菱が事情を説明してくれた。
困ったように眉をハの字に下げながら肩を竦める香菱の様子で、次第に話の流れが見えてきた。
「なんでまた……いや、想像はつくけど」
「大方君の想像通りよ。あの子、誰もやらないなら自分がって自ら申し出たのよ」
「……やっぱり」
思わず眉間に皺を寄せながら、空は肩を落とす。それと同時に皺を押し広げるように眉間に親指と人差し指を押し当てて、呻くように吐き出した。
「それならそうと、ひとこと連絡してくれれば良いのに」
「蛍を弁護するわけじゃないけど、ついさっきのホームルームで決まったのよ」
不意に吹く青嵐に煽られないよう握り込んでいた髪をばさりと後ろに払い除けつつ、刻晴はこざっぱりと言い切った。
少しばかり緩やかになった風に身を任せた二つ結びが、波打つように揺らめいている。その動きをぼんやりと見つめながら、空は諦念も露に質問を重ねた。
「……それで、一体何の委員会なんだ?」
「美化委員だよ! 今日がちょうど活動日で、地域清掃があるんだって」
お気に入りのぬいぐるみであるグゥオパァーをふにふにと弄びながら、香菱が回答した。掃除の真似事でもしているのか、グゥオパァーの両手を揃えて雑巾掛けでもするように前後に動かしている。
そんなもの学校に持ってきて良いのか、という指摘は無用だ。
ぬいぐるみの中に竈神の魂が入っていることも、実は自分で動けることも、前世で親しかった者たちしか知らない。
今のグゥオパァーは何の変哲もないぬいぐるみ、という体で香菱のそばにいることを選んだ。事情を与り知らぬ人たちから何を言われようとも、香菱はいつも「お気に入りなの」とシンプルに返すだけなのだ。
「一応聞くけど、蛍の鞄が見当たらないのは」
「そのまま帰れるようにって、荷物も持って行ったわ」
蛍の席と蛍のロッカー。刻晴はそれぞれに視線を滑らせ、言外に補足した。
その目線を真似るように教室の中を改めて見渡していた空だったが結局、どうしようもないな、とばかりに嘆息して自分の荷物を肩に掛け直した。
どうやら諦めて一人で帰ることにしたらしい。
「あら、帰るの?」
「うん。待っていても戻ってこないみたいだし」
「それならアタシたちと一緒に帰ろうよ!」
言うが早いか、香菱は机の中の教科書やノートを一気に鞄に詰め込んだ。さすがにグゥオパァーまでは入らないらしく、腕で抱えたままだが。
一方の刻晴はすでに荷物の用意を済ませていたようで、自身の机に置いていた鞄をさっと取り上げた。先を読んで前もって行動する気質は、やはり往時と遜色ない。
そうして三人、連れ立って教室を出て家路につく。
初夏の夕方は、一年で最も日が長い。
身長の何倍にも伸びた影を追いかけるようにして、ゆるゆると歩を進める。
一面が橙色に照らされた道のりを歩くうち、ふと会話が途切れた瞬間があった。
「…………ところで、蛍の記憶は相変わらず戻る気配がないの?」
ぽつりと呟いた刻晴の横顔が、妙に寂しげに見える。
それは何も、逆光が深く刻んだ陰影だけが原因ではないだろう。
空たちがテイワットと呼ばれたあの大陸で生きていた頃から現在まで、一体どれほどの時を隔てたのか。そもそもここは、あの世界と一本線で繋がった世界なのか。
否、元素と言えば水素や酸素、という法則から成るこの世界にはどうにも連続性が感じられない。
広大な世界にこぼれ落ちた一粒の砂も同然の身の上では、世界の真理を問うようなそれらの疑問の答えは到底得られそうにない。何年過ごしたところで、未だ多くのことが判然としない。
唯一確かなことは、前の生を終えて新たな生を受けた結果、ここに辿り着きかつての仲間たちと再会を果たした、ということだけ。
空が話を聞いて回ったことには、物心ついた頃には皆、七国の記憶を取り戻していたそうだ。そのおかげか、相見えればすぐにお互いのことがわかった。
空たちが通っている学園の理事長を務める凝光も、その秘書の甘雨も、歴史教諭として勤務している鍾離も。他にもたくさん、前世の縁を持った者たちがこの世界に転生している。その全員が、漏れなく空のことを覚えていた。
それなのに何の因果か、蛍だけが前世の記憶を持っていない。
同じ母から同じ日に生まれた双子でありながら、何故こんなことになってしまったのか?
空と同じようにテイワットを旅したはずの彼女だけが、何故?
それは空がもう何百回、何千回と自問自答したことだった。
そして実際のところ、恐らくそこに大した理由などないのだ。敢えて言うならば神の気まぐれや悪戯のような、偶発的なものだろうと思っている。そうでなければ、蛍だけがこのような憂き目に遭う説明がつかない。
何も覚えていない蛍にこの事実を伝えたところで酷だろうと、誰もこのことは伝えていない。
初めてだと思っている人生を、彼女は純粋に謳歌している。そんな中、わざわざ訳知り顔で過去のことを話したところで蛍の心を掻き乱すだけだ。
蛍は今、目の前にある今生を生きている。それを邪魔する権利など、誰にもない。
幾度となく、自分が代わってやれたら良かったのにと思った。何度も何度も、自分も同じ境遇で生まれることができていたらと思った。同じ目線で生きられたらと思った。
けれども当然ながら、蛍自身は記憶がなくても何ひとつ不自由していないはずだ。
それなのにそんなことを考えてしまうのは、烏滸がましいことだと理解している。空にはきちんと自覚がある。
だからその本音は誰にも聞かせたこともなければ、口に出したこともない。前世の縁があればより幸せになれる、という決まりなどどこにもない。
それでも、空の心がそう望んでしまうこと自体は止めようがなかった。
空にとって、仲間たちに今一度会えた喜びと、妹と同じ視点で世の中を見ることが叶わない悲しみは別なのだ。
空が何かを目に映すとき、頭の片隅には大なり小なりテイワットでの知識や思い出が過っている。しかし蛍は隣でまったく同じ光景を見ていても、そうしたことを欠片も思い出さない。
それは言うならば、何ひとつ本音を共有できていないに等しい感覚だった。毎日心臓を針の筵に差し出すかのように、胸が痛かった。
お人好しな性格も、行動力のあるところも。見た目も、口調も。何から何まで、蛍の全部が前世とそっくりなのに。
それなのに、現代で空と一緒にいる蛍は。鮮烈な刺激に満ち満ちたあの七つの国を、微塵も知らない。現世での出合い頭に「初めまして」と言われた友人たちの衝撃もまた、計り知れない。
旧故たちに寂寞の念を抱かせるには、それで十分だった。
「蛍が幸せなら、俺はそれで良いよ。無理に思い出さなくても良い」
「ええ、そうね」
「うん。そうだよね」
いつか思い出してほしい、と願うのは記憶のある者のエゴでしかない。
それを理解しているから、誰もそれ以上その話はしなかった。
満天の茜色のさらに向こう。夏空の奥、ずっとずっと遠くの方を見上げて、三人は言葉もなくそこにテイワットの空を重ねた。
■ ■ ■
放課後、美化委員会の集まりに出席した蛍は、そこで早速今日の地域清掃活動についての指示を受けた。
地域清掃とは、学期に一度、美化委員で町のゴミ拾いを行う活動のことである。
その根底にあるのは、日々の学校生活を快適に送れているのは地域の皆様のおかげ、という考えだ。それに基づき、町の人たちへの感謝を伝えることこそがこの活動の本懐らしい。
無論、通学路が整っているに越したことはない、という現実的な側面もあるだろう。それに加えて学園の将来的な経営を鑑みれば、品行方正な印象を周辺住民に植え付けておいた方が都合が良い、という見方もあるだろう。
ただの成金と見せかけて海よりも人情深い、優しく見えて尋常でなく計算高い。それが学園の理事長である凝光だ。
この地域清掃はいかにも彼女の好みそうなことだった。
蛍に割り振られた清掃区域は、はっきり言ってあまり馴染みのない場所だった。残念なことに自宅とはまったくの逆方向。町外れにあたるので、どこかへ出かける途中で通りすがる機会にさえ恵まれたことのない地域だった。
地図によればそこは、田んぼに囲まれた中にちょっとした鎮守の森と神社がある程度の僻地のようだ。
くじ引きで決まったことなので仕方がないとは言え、こんなことなら荷物は教室に置いたままにすれば良かった、と蛍はちょっぴり後悔した。
持ってきてしまったものを戻しに行くのも面倒だったので、結局そのまま背負ってきたわけだが。次があれば鞄は学校に置いておくか、時間を作って空に預けよう、と密かに決意を固めた。
ちなみに美化委員を引き受けたことそのものに対しては、負の感情やそれに準ずる気持ちは一切抱いていない。面倒なことを安請け合いしてしまった、というような悔いの類は別にない。
部活動やアルバイトで忙しいクラスメイトが多く、あのままホームルームを続けたところで誰も名乗りを上げそうになかったのだ。だから蛍は自ら立候補した。友人同士で揉めたり延々救世主の如き誰かを待つくらいなら自分が、という仏心で申し出た。
それ故、やるからには責任をきっちり果たそうという気概があるだけで、他に思うところはない。押し付けられた、とは誓って思っていない。
これは説明が非常に難しいことなのだが、何かが足りない、という漠然とした不安感が蛍には常にあった。それは物心がついた頃にはすでに、蛍の心の中心でどっしりと居を構えていた。以来、その欠落感は薄れるどころか年を経るごとに色濃くなってきている。
その何某かをを払拭しようとしているのか、少しでも不足感を埋めようとしているのか。時折周りから心配されるほど、蛍には進んで面倒ごとを引き受けてしまうきらいがあった。
しかしどれほど人に頼られようとも、感謝されようとも、空虚感が消える兆しは一向に見えてこない。自分には何もない、この身はがらんどうでしかない、という感覚を拭い去る方法がわからなかった。
初夏という季節柄、太陽はまだ西の空高くに鎮座している。午後五時の日差しは依然として強烈だ。
梅雨明けに伴い存在感を増し始めた湿気が肌にまとわりつき、じわりじわりと体を火照らせる。そして、そう言えば夏というのはこういうものだった、と一年弱ぶりに思い出す。
こんなにも不快で堪らない感覚を何故忘れてしまうのだろうかと、不思議でならない。これが巷で言う、喉元過ぎれば、というやつなのだろうか。
人間の記憶力というのは自分たちが思っている以上にちんけなものらしい、と痛感せずにはいられない。
そんなことをつらつらと暇潰し代わりに考えながら、蛍はゴミ袋とトングを手に夢中でゴミ拾いに勤しんだ。
道端の生け垣の根元、蓋の開いた側溝の中、畦道に生え揃った雑草の隙間。空き缶にお弁当箱、割り箸にティッシュ、お菓子の包装紙に煙草の吸い殻。探してみれば、ゴミはいくらでも落ちていた。それこそ拾うのが追いつかないくらいに。
あまりにも集中していたせいか、当初考えていた順路は頭から抜け落ちていた。
地面に落ちている白っぽい塊を視認してはそこへ向かってせかせかと駆け寄り、掠れた印字だけが残る紙屑を摘まみ上げる。不自然に光を放つ一角を見つけては一目散に猪突猛進し、砕けた硝子片を拾い上げる。
そうしてふと顔を上げた時、蛍は夕暮れ色に染まった神社の境内に迷い込んでいた。
五十メートル四方程度の面積にぎっちりと木々が生い茂った鎮守の森。周辺を取り囲むのは長閑な田園風景で、青々とした苗が夕日を黄金色に反射している。まだ背丈の高くない早苗の隙間からは夕風で細かく波打つ水面が見えていて、まるで辺り一面が巨大な水鏡にでもなったかのよう。
雨の名残を思わせる灰色の雲が疎に揺蕩う昊天は、鳥の羽を空のあちこちに散らしたように光と陰が入り乱れ。そこから降り注ぐ金と真紅が混じり合ったような夕焼けが、あらゆるものの影をくっきりと浮かび上がらせる。
森の南側には朱色の鳥居があって、そこから奥へ真っ直ぐに石畳が伸びている。ほんの二十メートル程度の短い参道だ。
蛍が立っているのは鳥居の内側に一歩入ったところ。つまり本殿へと続く石畳の始点だった。
左右どころが頭上にまで鬱蒼とひしめく夏木立。その枝先に無数に開いた葉がざわざわと揺れて、ここが神聖な場所であることを知らしめる。それらが落とす影は刻一刻と形を変えながら、石畳の色をも変化させていく。
先ほどまで暑い暑いと思っていたのに、いつしか汗が引いていた。境内に踏み込んだ瞬間蛍の体を包む空気が一段冷たくなったと思ったのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
あくまでも蛍の感覚に過ぎないが、その冷たさに侵入者を排除しようとする拒絶の類は感じなかった。それ故、不快感はない。むしろ涼しくて心地良くて、もっとここにいたいと思うくらいだった。
そのせいだろうか、蛍の視線はそうすることが当然であるかのように石畳の目をひとつひとつ辿っていた。奥へ奥へと導かれ、あみだくじでもするように石の継ぎ目を追っていた。
昨年以前に降り積もったと思われる枯れ葉だらけの参道。どう好意的に捉えても、手入れがされているようにはとても見えない。
けれども妙に興味を引かれて、気が付けば前へ前へと足さえも勝手に動いていた。
その終着点に、彼はいた。
ほとんと荒屋と変わらないくらいに朽ち果てた社殿の前に、彼はいた。
森の木々の新緑よりも深い色、翠緑の髪の奥に輝ける金色の双眸を抱いて、彼はいた。
そのひとは薄暗い本殿の前に立ち尽くして、こちらに横顔を見せていた。蛍から見て左方向、西の方角を向いた状態で凝然としていた。
立っている場所がちょうど大木の陰になっているせいで、彼の姿はほとんど暗がりと同化してしまっている。それなのに蛍は、何故かその姿形をはっきりと認めることができた。
白い上衣に紺色の下衣。手前に見えている左腕は花色の長い袖に覆われていて、その末端には流れる雲を模したような柄が入っている。腰には竜胆の花とよく似た色合いの紐や領布が巻かれ、気まぐれに風にそよいでいる。
さらに首回りには厳つい数珠のようなものが一巡していて、独鈷杵のようなモチーフがぶら下がり、肩口には鋭い角か棘のようなものがそそり立っていた。
有体に言えば、おおよそ普通の人間とは思えない出で立ちだった。
見慣れない装いに身を包んだ彼の腰で、不意に何かが音を発した。
小さな壺のようなものか、鬼を象った仮面か、金属製と見受けられる装飾か。腰元で存在感を放ついずれかの装身具同士がぶつかり合ったらしく、澄んだ高音が境内にこだまする。
それは彼が一歩を踏み出したことで腰回りの装飾具が揺れたために、静閑を劈くように響いた音だった。
けれど、そのひとはまだ蛍に気付いていない。
彼はゆっくりと瞬きをするように目を細めると、神社を取り巻く鎮守の森の狭間から差し込む残陽を心底目映そうに見上げた。
目尻の辺りを真紅で縁取った双眸は、何とも浮世離れしている。
日向に曝け出された顔は、まるでもう二度と太陽が拝めなくなるかのような、悲哀に満ち満ちた表情を湛えていた。西の彼方に沈みゆく日輪を捕まえたそうに、やり場のない右手を宙に彷徨わせていた。
その姿に、何故か蛍は息を呑んだ。呼吸を忘れて、景色を瞼に焼き付けた。
夥多なる枝葉が落とす影が揺らめく石畳。
幾重にも積もった落ち葉と、湿った土。それらが混ざり合った独特な香り。
木々の間から僅かに残照がこぼれてくる程度の、根深い暗闇。
古い木の香りが仄かに立ち込める、静寂という名の神が坐す社殿。
そういうものに囲まれた中でひとりきり、ぽつんと佇む少年。
それはとてもとても悲しい、胸が締め付けられるような光景だった。
知らないひとのはずなのに、手に取るように彼の気持ちがわかる気がした。
それなのに口をついて出たのは、まったく別の言葉だった。
「……きれいなひと」
言葉としてまとまりきらなかった感情を総括したのは、何とも的外れな感想だった。
でも、そこには一片の嘘もなかった。
うら寂しいのに美しい。陸で溺れるように藻搔く彼が、悲しすぎて愛しい。
彼を見ているだけで胸が詰まって、何かが足りなくてずっと空洞のままだった心の隙間が埋まっていく気がした。
こんな感情は今まで知らなかったけれど、生まれる遥か前から知っている。
そんな矛盾を強く確信した。
蛍の漏らした音声はごくささやかな音量であったのに、森閑とした神域に清に響き渡った。
そしてそれは、悲しそうなひとを弾かれたように振り向かせた。
両目をいっぱいに見開いて、金色の瞳の中心にある菱形の瞳孔をゆらゆらと揺らして。息をするだけで精いっぱいであるかのように口元を震わせて。
それからいくつか呼吸を置いて、彼は絞り出すように問うた。葉擦れの騒めきで掻き消されてしまいそうなほどの、囁くような掠れ声で。
「…………おまえ、なぜここに」
話しかけられてようやく、白昼夢から目覚めたように蛍ははっと我に返った。一体自分は何を考えていたんだろう、とひどく混乱した。風変わりな衣装を身にまとった初対面のひとに目を奪われるなんて、と。
これではまるで一目惚れだ。出会い頭に愛おしいと思うなど、どうかしている。
徐々に冷静さを取り戻し始めた頭で、蛍は取り急ぎ問いに対する回答を探した。
何故ここにいるのか、と言われても。蛍はこの地区の清掃担当としてゴミ拾いをしているだけだ。その途中で神社の境内に入ったからと言って、褒められこそすれ咎められる謂れはない。自分は善良な一市民である。
ひとまずそう思考がまとまったので、蛍は首を傾げながらも自分がここへ来た理由を簡潔に説明し、逆に彼に質問した。
「あなたの方こそ、ここで何をしてるの? 神社の人? 随分変わった格好をしてるけど……」
その刹那、彼は残光を惜しんでいたときよりももっと痛ましい表情をした。ほんの瞬きひとつの間のことではあったが、蛍の虹彩にはその様がありありと映し出された。
目を瞑ったところで消せないほど色濃い残像。それが瞳の中の水晶にこびりついて、忘れることを許さない。
敢えてこの世に存在する表現を借りるならば、哀傷とでも言うべきか。
それは人の死を嘆き、悼むことだ。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、深い水底に沈みゆく者を見送るような。追いかければ掴まえられる位置にいるのに、それを千里もの遠くに感じて絶望しているような。
彼はそういう顔をしていた。失意の薄衣を眉目秀麗な顔立ちに刷いて、あたかもその内側で泣いているかのようだった。
無論、蛍が生きてきた十数年という短い時間の中で、そのような顔つきのひとを見たことは一度もない。無理にでも喩えようとした結果、そうとしか言えなかったというだけの話だ。
「……疾く去るがいい。ここはお前のような凡人が来て良い場所ではない」
彼は端正な顔から痛々しい表情をすっと消し去ると、冷淡に言い放った。瞑目し、一切感情の見えないくすんだ色の瞳をすっかり隠して、蛍と一瞬たりとも目を合わせずに。
そして即座に蛍に背を向けたかと思えば、彼は人間離れした跳躍でもって社殿の屋根上に引っ込んでしまった。
いつ崩れてもおかしくなさそうな檜皮葺きの屋根に危なげなく軽々と跳び上がったところから見て、やはり彼は普通の人間ではないのかもしれない、という確信に近い推測が蛍の脳裏に過った。
夕風が彼の花色の袂を揺らしているのか、それがちらちらと屋根の端から覗いている。
蛍とこれ以上話す気はないという意思表示なのか、何度か声を掛けてみても、彼がこちらへ降りてくる気配は些かもない。
まだそこにいるのはわかっている。
となれば、このまますごすごと帰る気には到底なれなかった。残念ながら訳もわからず追い返されて納得できるほど、蛍はまだ人間ができていないのだ。
それに彼が何者なのか、どうしてあれほどまでに辛そうな面相をしていたのか、理由が知りたかった。傲慢かもしれないが、苦しんでいるひとを放っておきたくはなかった。反射的に、どうにかしてやりたいと思ってしまった。
これまで他人に焼いてきたどんなお節介よりも強烈に、心の奥底からそう渇望した。天高く噴き上がる渓泉が如く、それは何人たりとも制止できない勢いで湧き上がった。
どれもこれも、思い浮かぶ内容が自分勝手な願望であることは否定のしようがない。
けれどもどういう訳か、蛍には揺るぎないひとつの自信があった。
彼はただ意地を張っているだけだと。誰かに手を差し伸べられるのを絶対に待っていると。
ろくに会話さえ交わしていないのに、何故そんなことがわかると言えるのか?
それは蛍自身にもわからないし、実際のところ彼が誰を待っているのかもわからない。言葉を重ねれば重ねるほど、何とも頼りない話にしか聞こえない。
しかしながらやはり、手に取るようにわかるのだ。薄布一枚で隔てられただけかのように、彼の感情が透き通って見えるのだ。
だから蛍は荷物やゴミ袋を適当に放り出すと、迷いなく土足で社の階段を駆け上がった。心の中で神様ごめんなさいと謝って、今にも折れそうな欄干に足を掛けた。
そして両腕を上に向かって全力で伸ばすと、両足で思い切り欄干を蹴った。
■ ■ ■
暮れなずむ空を見上げながら、少年は檜皮でできた屋根の上に腰を下ろしていた。膝を抱えるようにして縮こまって、視線をじっと西天に据えたまま動かない。茜色が次第に群青に侵食されていくのを悄然と眺める後ろ姿は、哀愁という重々しい影を背負っている。
振袖のように長い花色の袂が、湿気を帯びた初夏の風に落ち着きなくはためく。それだけが小うるさく耳朶を打ち、下方から響く少女の声を掻き消す。
決して意識をそちらに向けないよう、少年は全身全霊で夕空の移ろいに集中していた。
まだそこにいるんでしょ、というよく通る少女の声が先ほどまでしつこく聞こえていたが、いつしかそれも止んでいる。気を逸らしているつもりでそれを確と認めた少年はつい、彼女はもう帰っただろうか、と偲んでしまっていた。
遅かれ早かれ立ち去るに決まっているのだから放っておけば良いものを、気になって仕方がないというのが本音だった。
つまり少年は、それを誤魔化すために親の仇のように夕暮れを凝視しているわけである。
だが、じわじわと稜線の向こうに沈みゆく太陽を見送ること自体、生憎彼にとってはあまり気持ちの良いものではなかった。
日没は、かつて手の中にあった黄金の太陽が今はもう届かない場所に行ってしまったことを、否が応にも突きつけてくる。そういう存在だった。
その上、今日の日の入りは悪い意味で特別だった。言うまでもなく夕日など毎日見ているわけだが、今宵の夕間暮れにはいつも以上に憂鬱にならざるを得ない事情があった。
それは、今生で彼女との邂逅を果たしてしまったことだ。
一見しただけでは、こうした遭遇は僥倖の部類に思われがちだ。しかし実際のところ、事はそれほど単純ではない。
そのせいで、少年は太陽を取り戻せるのではないかという残酷な希望を一瞬でも見出してしまったのだ。加えてそれが単なる泡沫の夢でしかなかった、という無情な現実をも瞬時に思い知らされてしまった。
太陽は少年のことを微塵も覚えていない、という現実を。
見知った光であるはずのそれが、今やもう百億光年もの彼方にあると知ってしまった。あれほどまでに暖かかった恒星を前にしても、背筋を氷塊が滑り落ちていくだけだった。
これがどうして打ちひしがれずにいられようか。手放しに幸福だと喜べる状況でないことは、もはや言わずもがなである。
この世の儚さを手酷く痛感せしめられ、少年のちっぽけな心は押し潰される寸前だった。
ああ、一体自分は何をやっているのだろう。何とも情けない。こんなことではあのお方にも顔向けできない。
そんな自責の念まで湧き起こってくる中。それでいて、少年にはこの場から逃げ出す選択肢さえ与えられていないというのだから、非情にもほどがあるというものだ。
故に彼は彫像のように微動だにせず、狭い屋根の上で無為に時間をやり過ごすことしかできなかったのだ。他に行き場のない彼には、そこでじっと耐え忍ぶ以外の道がなかった。
「……あ、やっぱりまだいた!」
突如として背後から響いた声に、少年はびくりと大きく肩を震わせた。
風が木の葉や袖を揺らす騒めきだけが支配していた世界が、静寂が、その瞬間呆気なく打ち破られて。聞き間違えるはずのない唯一無二の音が、彼の鼓膜を震わせた。
その声音の正体は孤独が生み出した幻聴か、はたまた————。
老朽化した檜皮葺きの屋根が、それを支える柱が、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
少年は恐る恐る、音のする方を顧みた。ぎぎぎ、と関節が軋む音でもしそうな緩慢な動作で、ゆっくりと。
これ以上傷つきたくない、現実を見たくはないという逃げと、それでももう一目だけその容貌を瞳の深層にまで焼き付けたいと希う純情。どっちつかずの心情がせめぎ合い、迷いとなって体の動きを遅らせる。
「よいしょっと」
とうに予感はあった。
少年は、息を凝らした。
彼女はそういう人間だと、心のどこかで信じていた。
そこにいたのは、両手を屋根の縁に掛けて己の全身を今まさに屋根上に持ち上げんとする、華奢な少女。先ほど帰れと申し付けたはずの少女。
またの名を、少年が失った太陽。
朽ちかけの檜皮の上は、非常に不安定だ。一歩足を動かすだけで、僅かに重心を移動させるだけで、大鋸屑のような残骸がぱらぱらと眼下に散っていく。
ついに屋根の上によじ登ることに成功した彼女は、満足げにその場で仁王立ちを披露した。腰に両腕を添えて、茶目っ気のある笑みをにっと浮かべて。その視線は少年に向かって真っ直ぐ注がれている。
その姿に、これくらい余裕だと言いながら岩の国の断崖絶壁を踏破していた太陽のような少女が重なった。
見たくないと葛藤していたことなどすっかり忘れて、少年は目を逸らせなかった。
「気になったから、来ちゃった」
夕焼けをいっぱいに取り込んだ、蜂蜜色の少女の瞳。その色がうんと濃くなって、赤く紅く燃えている。
だが、そこにひとを遠ざける灼熱は一切ない。ただただじんわりと少年の目頭を熱くして、初夏の薄暮れが存外優しいものであることを教えてくれただけだった。
「そっちに行っても良い?」
「……」
白と紺の制服に大量に付着した木屑や埃をぱたぱたと払い除けながら、少女は尋ねた。
あまり返答は期待していなかったのか、否定さえされなければ肯定だと都合良く受け取ったのか。彼女は無言の少年を見てひとつ頷くと、口角をきゅっと上げて微笑んだ。
そして危なっかしい足取りを隠しもせず、よたよたと少年の方に歩み寄ってきた。
少年が記憶しているだけでも数百年、この神社はまともに手入れをされていない。何よりも伸び放題の草木と廃墟と見紛うような社殿が、それを証明している。
それ故、いくら彼女が身軽でも足元がふらつくのは当然だった。
彼女が一歩足を進める度、みしみしという不穏な音がどこかで鳴る。それと同時に眼下では、檜皮の屑やら埃やらが高欄に降り積もっていく。しきりに舞い落ちる砂塵が本殿の周囲にもうもうと立ち込める様は、まるで雲霧のよう。
あたかも二人ぽっかりと雲海に浮かんでいるかの如き光景が、暮相に照らし出されている。
「あっ……!?」
あと一歩で少年の前に至るというところで、少女は小さく悲鳴を上げた。よろけた痩躯が傾いで、切妻造と呼ばれる屋根の傾斜を転がり落ちようとしている。
崩壊寸前だった屋根の一部が、糸が切れたように力を失って大きくたわんでいるのが見て取れる。そこに穿たれた窪みが彼女の片足を絡め取り、均衡を奪ったのだ。
その様子を齣送りのようにまざまざと見せつけられて。少年は、本能的に手を伸ばしていた。近かった左手が咄嗟に宙を掻き分け、少女の右手首を力強く掴んだ。細っこい腕首を、無骨な腕が迷いなく捕らえた。
刹那、雲紋に彩られた袂がぶわりと翻る。
漆黒の手甲越しにも伝わってくる、懐かしい体温。それをぐんと引き寄せて、少女の体勢を整えてやる。
「……気を付けろ」
「あ、ありがとう」
妙なことに、助けた方の顔にも助けられた方の顔にも、驚愕の色が滲んでいた。それでも、ぎこちないながらもやっと初めてまともな会話を交わした。
少年にはもはや、少女を追い返す気骨はなかった。自ら差し伸べてしまった手が、それを許さなかった。
どちらからともなくするりと離れゆく手を名残惜しく思ったのは、少年か少女か。あるいはその両方か。
しかし少なくとも、少年にそれを繋ぎ止めるような勇気もなければ、もう一度指先を相手方に伸ばす勇気もなかった。
けれど、少女は違った。
数々の苦難を乗り越えやっとのことで少年の隣に辿り着いた彼女は、ごく自然に彼の左側に腰を下ろした。在りし日に何某かを語らったときとまったく同じ歩幅と足音で近付いてきて、すとんと少年の横の空間に収まった。
まるで、そこが自分の居場所だと理解しているかのように。昨日も一昨日もその前も、夙にそこに座っていたかのように。
一連の少女の行動に、少年は呆気に取られることしかできなかった。幽霊の類にでも出くわしたかのように情けなく口をぽかんと開けたまま、瞬きすらも忘れて、からからに乾燥した喉をひゅうひゅう鳴らしていた。
そうして浅い呼吸だけを幾度となく繰り返しながら、時を数えるばかり。何か言葉を発そうにも、思考は千々に乱れ、声帯は音の出し方を忘却している。
何かを伝えたいと心底思うのに、結局何も言うことができなかった。
だがそんな中でも、瞳孔だけは素直にその職責を全うしていた。特徴的な斜方形がぐっと大きく広がって、少女の横顔を細やかに捉えていた。
彼女の睫毛の一本一本まで見定めるかのように、彼はその横顔に見入っていた。
「……」
「ここ、夕陽が綺麗に見えるね」
少女は少年の視線をくすぐったそうに受け止めながら、今にも山稜に消えんとする斜陽を見つめている。少年に倣ったのか膝小僧を抱え、そこに顎を乗せて。何を思い巡らせているのか、物憂げな表情をしていた。
少年は思う。彼女はいつもそうだ、と。
眩しい金色の横髪をふわふわと風になびかせて、決して少年を一人にはしてくれない。振り払っても置いてけぼりにしても屈託なく追いかけてきて、放っておけないと宣う。
細やかな網目の張り巡らされた心で、いつも自分をそっと掬い上げてくれる。陽だまりのような人。
冷ややかに帰れと吐き捨てたはずなのに、何故帰らない?
本物の凡人の分際でこんなところに登ってくるとは、どういう神経をしているのか?
どう見ても人間ではない、得体の知れない自分が怖くないのか?
もしや自分は、いつからか都合の良い幻影か夢でも見ているのではないか?
————何故、昔と同じように隣に座ってくるのか?
次々に浮かんだ疑問が、次々と波が押し寄せるかのように去来する。
「ねぇ、あなたの名前は?」
空虚な憂い顔から、無垢な笑顔へ。少女はさっと顔つきを変えると、世間話でもするようにのんびりとした調子で問うてきた。
晩照の真紅を溶かした二つの双眸が向けられ、そこに少年の姿が映り込んでいる。
しかしながらその質問は、あまりにも哀しかった。いっそ地獄の業火にでも焼かれた方が楽だと思うほどに無慈悲だった。
だからだろう。彼女の瞳の中にいる少年は、真一文字に引き結んだ唇を小刻みに震わせていた。
知っているくせにそんなことを訊くな、という彼女にとっては理不尽極まりない感情が否応なしに込み上げる。無論、とても口にはできないが。
「……もしかして、名前がないの?」
黙りこくったままの少年の様子から勝手に推察したらしく、少女は腕組みをして唸り始めた。それなら何か考えないと、良い名前はないかな、などと半ば独り言の様相でぶつくさ言っている。
その様子を何とも言えない沈鬱な無表情で見遣りながら、少年は内心で反論した。
名くらいあるに決まっている。それも、世界で最も崇敬する人物から授けられたものが。我の名は————だ。
そう心の中で返したが、やはり実際には無言を貫いた。そんなことを主張したとて、彼女がその話を初めて聞いたような顔をするのを見ることになるだけだと予見できるからだ。その光景を目にするのは、あまりにも冷酷無残というものである。
それがわかっているから、少年は名乗らない。そんな地雷を好き好んで踏み抜きにいくほど、彼は阿呆でも自虐趣味でもない。
過去に縋り付くことの馬鹿らしさを知らぬほど生ぬるい前世を過ごしたわけではないのに、確かに存在した時間を否定されたくないとばかりに、そういう言葉も反応も拒否したくて堪らなかった。できることなら何ひとつ、耳に入れたくなかった。
「そうだ、今日歴史の鍾離先生から教えてもらったんだけどね」
一瞬、少年の肩がぴくりと揺れた。
しかしそれだけで、他の反応はない。
それ故、少女は不思議に思いながらも話を続けた。
「中国の伝説に、『魈』っていう鬼怪がいてね。彼はたくさんの苦難や試練を経験するんだけど、それに負けじと陰ながら人間を守ってくれるの。彼を恨んだ物の怪の呪いに蝕まれることさえあったらしいけど、最後は心から存在を認めてくれる人と幸せになったんだって」
まるでお伽噺だよね、と付け足して少女はくすりと笑みをこぼした。
彼女の語った内容は、少年がかつて彼の人から示された物語とどこか違っていた。後半に、一切聞き覚えがなかった。あの方への畏敬の念ならば誰にも負けないと自負しているくらいなので、失念したり思い違いをしているはずはない。そういう確信があった。
とすれば、意図的に伝承が捻じ曲げられている可能性が高いという話になる。直感的には、以前の生における自分の一生を語られているような気がした。
「でね、あなたのことを『魈』って呼ぶのはどう? 良い名前だと思わない? なんとなく、あなたに似合うと思うの。だってね————」
得たばかりの知識をにこにこと夢中で披露する少女に対し、少年は瞑目する寸前まで目を細めて落陽を見つめていた。あまりにも残照が眩しいからそうしているのだというような顔をして、今度こそ限界まで熱を持った目頭を必死に宥めていた。
そこに心臓が引っ越してきたかのようにじんじんしているせいで、そうでもしないと、一瞬でも油断すれば雫が流れ落ちそうだったのだ。
まさかもう一度。その声で、その笑顔で、自分が最も大切にしていた名前を呼ばれるとは思いもよらなかった。何も覚えていない風情だった彼女を見た瞬間、すべての希望は潰えたと諦めていたのに。
この世で最も敬愛する人物が授けてくれた至宝とも言える名を。あの七国の地を遠く離れた天穹の下で、己の心をいみじくも捉えて離さなかった少女が口にしてくれた。このような奇跡がこの世にあるものかと、柄にもなく打ち震えずにはいられなかった。
安っぽく感動している自分が、ひどく滑稽に思える。けれど笑い声のひとつだに漏れることはなく、こっそりと歯を食いしばって落涙を堪える程度が関の山だった。
その最中、少年の右耳から左耳へ、少女の声が軽やかに抜けていく。
あなたは私を冷たく追い返したつもりかもしれないけど、さっき助けてくれたでしょう? それで、この話の鬼怪みたいにあなたも本当は優しいひとに違いないって思ったの。
だからあなたの名前は今日から『魈』。必ずいつか幸せになれるから、安心して。
「ね、どうかな?」
夕焼けで頬を染めながら、少女が問う。その色は、往時の別世界でそこかしこに生えていた果実とそっくりだった。
少年が紅涙を絞る間際の様相を呈しているのは、他でもない彼女が原因であるにも拘わらず。善かれと思って彼女自身が少年を励ましてくるというのは、悲劇を通り越してもはや喜劇である。
とは言え、少年が口遊むべき答えはひとつしかなかった。自分が魈で彼女が蛍である限り、幾多の世を隔てようとも返事は決まっている。
耳元を掠めた残酷で情け深い調べに身を委ねることを、彼は選んだ。
「……好きに呼ぶと良い」
なんと素直でないんだろう。
でも、一番自分らしい回答だった。前の世でも、出会った頃はたぶんこんなだった。
そしてお決まりのように、一応訊いておく。
「……お前の名は?」
「私は蛍。よろしくね」
「……そうか。ほたる、というのだな」
蛍の名前くらい、尋ねるまでもなく知っている。忘れるはずがない。何に干渉されようとも、その名だけは手放すつもりはない。
そうした確固たる意志を自分自身の根底に刷り込むように、彼女の名前を噛み締めた。じっくりと咀嚼して、それひとつで分かたれた月日を埋めようとした。
今となっては蛍という名だけが魈の中に残された存在証明にも等しく、果敢ない現世の道標だった。
久しぶりに紡いだその音は、そうとは思えないほどよく口に馴染む。恐らく数百年ぶりか数千年ぶりにその名前を呼んだのに、昨日も呼んだばかりかのように違和感がない。
その事実がまた魈の首を真綿で締め上げて、泣きたくて、咽びたくて、堪らなくさせる。
一方で、互いの名を今一度呼び合えたというささやかな巡り合わせだけで、叫び出したいほど万物が華やいで見えた。今ならば視界の端で散りゆく塵埃にさえ、慈愛を注いでやれそうな気がする。
そうして人知れず、魈しか知らず。ようやくそれぞれの呼び名を取り戻した。
そしてやっと、魈は閉ざしていた口を開いた。今生の蛍という存在を、ありのままの彼女を受け入れる心づもりができたのだろう。自分のことを詳らかに語り始めた。
曰く。
この神社は数百年以上の昔、かなり古い時代に打ち捨てられた廃神社である。少なくとも、刀を引っ提げた男たちが天下を取っていた頃にはすでに無人だった。
誰も信仰せず、手入れをされなくなったこの地に神は坐さない。形ばかりの社殿が、過去の威厳の面影を残しているだけだ。
魈はこの神社の神使にあたる。
神使とは、読んでその字の通り神の使いのことである。稲荷社における狐や八幡社における鳩、春日社における鹿などがその最たる例として有名だろう。
だが彼らと違って、魈には仕えるべき神が最初からいなかった。当初からここは、神無しの社だった。
とうの昔に神が天上に還ってしまったこの場所に、何故自分は生まれ落ちたのか。
その理由はすぐに察しがついた。前世で犯した業のためにここに囚われているのだと、何らかの不可視の理で縛り付けられているのだと。言わばこれが、現世における業障なのだと。
鎮守の森を境界として一歩たりとも外に出ることは叶わないという事実が、言葉もなくすべてを物語っていた。
旧時の生を終えて次に意識が明瞭になったとき、魈は何の前触れも無くここに突っ立っていた。森の入口にそびえ立つ朱塗りの鳥居と、人気がないながらもまだ崩落の危険はなかった本殿。それらのちょうど中間、石畳の参道にぽつねんと佇立していた。
それが、終わりの見えない贖いの日々の始まりだった。
以来、常しえにも感じられる長い永い時を、魈はこの地で一人過ごしている。前世に比べればまだほんの数分の一程度しか生きていないのに、ここで過ぎ去った時間はその何倍にも感じられた。
肩を並べる同胞も尊崇するお方も、さらには情を通わせた者もいない世界。その片隅で日没の回数を孤独に数えて過ごすのは、虚無以外の何ものでもなかった。結局その行為にも早々に飽いて、己の年齢さえ矢庭にわからなくなった。
魈の一日は大抵、こんな風に流れゆく。
朝、誰一人として参拝に訪れない神社の中を、夢遊病のようにふらりと彷徨う。
昼、年々老朽化の一途を辿る社殿が、日差しや雨垂れで一層劣化していくのを観察する。
夕、檜皮葺きの屋根に腰を下ろして、ぼんやりと夕暮れを眺める。
夜、鬱蒼と生い茂る草木が夜風で揺れて、輪郭を変えながら咆哮を上げるのを聞く。
いずれも面白くも何ともない、眇眇たる暇潰しである。
魈には境内の修繕に勤しむ気もなければ、草むしりや掃除に明け暮れる気もなかった。ただ漫然と、四季の訪れを見送っては出迎えるだけだった。
人間どころか野鳥や虫すらもいない、亡霊のように鬱然と繁茂する木々が支配する環境下だ。いずれに従事したところでそこに意味を見出せるはずもない。あてどなく日暮らし微睡んで過ごす選択に至るのは、極めて真っ当な感覚というものだ。
「これでお前が訊いてきた内容にはすべて答えたはずだ」
そこで魈の語りは一区切りついた。
先ほどまで神妙な面持ちで絵空事のような話に耳を傾けていた蛍だったが、今は一変してしんみりとした表情になっている。
辛気臭く眉を下げて心配そうに魈の顔を覗き込もうとするところなど、かつての彼女とまったく同じだった。それが嬉しいやら勘弁してほしいやら、魈の精神は激しく乱高下する。
「……そっか。教えてくれてありがとう」
魈の心境など当然知るはずもない蛍は、へらりとぎこちなく笑いながら礼の言葉を口にした。自分の問いかけに対し、誠実に過去を語ってくれた魈にまずは礼を尽くさねばと律儀にも考えたらしい。
無遠慮に見えて存外そういう礼節をきちんと弁えているところが、多くの人が彼女を信頼した所以だったのだろう。身の上話を聞かせたことは誤りではなかったと、魈を安心させるのにはそれで十分だった。
しかしその一方で、憂苦を帯びた彼女の相好にさすがの魈も僅かばかり胸が痛んだ。
何故ならば、まだいくつか彼女に話していない事柄があるからだ。嘘はついていないものの、重要だと知りながら敢えて抜かした情報がある。
自分たちには過去世での縁があること、他にもそうした縁を持つ者がいること、などはさすがに言えなかった。
今世において一際異質な魈の存在にただでさえ混乱しているだろうに、さらに惑わせるようなことを軽率に吹聴するのは控えるべきだと思ったのだ。半分は————否、見栄を張った。九分九厘は単なる逃げだったかもしれないが。
「魈がここにいることに気付いてくれる人は、今まで誰もいなかったの?」
「……いないわけではないが」
歯切れ悪く、魈は言い淀む。そらきた、と苦虫を噛み潰したような顔をする手前で何とか思い留まった。
だからそれは触れたくない話題のひとつだと言っているだろう、と内心で不遜に言い返す。無論口には一度も出していないので、蛍には伝わるはずもないが。その件について口を開けば他の縁者に言及せざるを得なくなるので、明言したくなかったのだ。そのまま芋蔓式に前世の話に飛び火するような展開は、何としても避けたかった。
「今まで幽霊とか不思議なものなんて一度も視えなかったのに、なんで突然視えるようになったんだろう……?」
「……さあな」
ぼそりと相槌を打ちながら、魈は密かに確信を深めていた。
魈がここにいることに気付くかどうか、その姿を目に映せるかどうか。それには恐らく前世での縁が大きく関わっている、と。
この世界で魈のことが視えた者は全員、例外なく七国の旧縁だった。故に何かの拍子に巡り会いさえすれば、蛍が魈の姿を視認できることはほとんど必然だったのだろう。
それなのによりにもよって彼女だけが記憶喪失同然の状態であったことは、まったくもって予想外だったわけだが。
転生しても自分を覚えていると、血眼になって自分を探してくれていると。そんな淡い期待がこれほどまでに見事に打ち砕かれるとは、憂世とはげに因業なものである。
「そうだ! 私、毎日ここに来るよ」
「……………………は?」
たっぷり十呼吸ほど間を置いて、魈は胡乱げに聞き返した。
直前までどこにもそのような文脈はなかったので、何を言われているのか咄嗟に理解が追いつかなかったのだ。言語としては認識できても、その本意がうまく飲み込めない。蛍が何を思ってそのようなことを言い出したのか、予想はできても即座に内容の伴った文言は返せなかった。
けれども彼女はお構いなしに、話を続ける。
「魈が寂しくないように、明日も明後日も会いにくるよ」
夕暮れを編み込んだようにぬくもりに満ちた言葉が、ぽっかりと空いていた魈の心の隙間にするすると入り込んでくる。白魚のような手が伸びてきて、魈の両手を取り上げて。そっと包み込まれてしまえば、在りし日の光景が走馬灯のように駆け抜けて眼前の眺めと重なる。
数百年か数千年ぶりに触れた手の温度も、指の細さも肌の色も、何も変わっていなかった。
それがまた、魈の瞼をどうしようもなく腫れぼったくさせる。
お前のそういうところが罪深いのだ、と。そうがなり立ててしまえれば、どれほど楽か。
軽々しく優しくして、魈の心を雁字搦めに捉えて、気が付けば彼女なしでは満足に呼吸もできなくなっている。いくら吸っても吐いても、息苦しくて仕方がない。快と不快が入り混じった沈溺の間際の耽溺にも似たそれに、ひどく心惹かれて止まない。
そういう心情を、彼女はきっと微塵も知らない。
だから仕返しをすることにした。
これは決して、潤んだ目元を隠したいからではない。
「……ならばひとつ、約束をしろ」
「どんな?」
あどけなくこてんと首を傾げて、蛍は魈の顔を真っ直ぐに見た。物怖じすることなく、いかにも興味津々というような態度で。
その表情を乱して困らせてやりたいという深淵から湧き上がるような感情を、彼女はきっと露ほども知らない。情念ゆえに己ばかりが掻き乱されることが心底口惜しいことも、それが一矢報いてやりたいという対抗心になって発露することも、十中八九想像だにしていないだろう。
魈は蕾が花開くように指先を押し広げると、蛍の掌中からやんわりと抜け出した。
そして、はっきりと通告した。
「ゆめゆめ、今日のことは誰にも言うな」
宵風を黙らせるように声が響き、蛍の耳朶を震わせる。聞こえなかった、という誤魔化しは許さないとばかりに。
魈は言葉と共に蛍の右腕を掴むと、思い切り自分の方に引き寄せた。肩と肩が近付いたのに半瞬遅れて慣性の法則が働き、勢いよく顔と顔の距離が縮まる。あっという間に二人の間には拳ひとつ分ほどの空間しかなくなって、鼻先がくっ付きそうな、ともすれば息の掛かりそうな至近距離になった。
突然のことに驚き目を見開く蛍の様に、魈の口角は上がり、薄く形の良い唇が緩やかに弧を描く。
次の瞬間、彼は深翠色の手甲に覆われた右手の人差し指をピンと立てた。それは昔の蛍が時折していた、秘密を誓い合う時の仕草である。
しかし通常と違って、魈は真っ直ぐに天を指し示した指の腹を、自身の口ではなく蛍の口元に押し当てた。それから彼女の反応を楽しむように一呼吸置いて、婀娜っぽい笑みを花の如き顔に浮かべながら自分も食指に唇を寄せた。
「我ら二人の秘密だ」
まるで指一本を挟んで口づけでも交わすように、秘密だと念を押す。
その程度では完全に遮ることのできない漏れ出た呼気が、互いの口元を掠めていく。
夏の初めの生ぬるい空気よりも一段熱い、体温を孕んだ吐息が混じり合って。単なる体の熱なのか欲を孕んだ熱なのか判別のつかないままに、目に見えない空気が互いの唇を奪っていった。
だがそれもほんの刹那のこと。
直後に蛍が顔をぶわりと紅潮させたのを見届けて、魈は彼女を解放してやった。ようやく多少、溜飲が下がったらしい。
蛍は戸惑いと恥じらいでいっぱいいっぱいという顔つきをしている一方で、どこか物寂しげな雰囲気を漂わせている。言い換えれば、物足りなさそうな。
それに魈は我知らずごくりと喉を鳴らしながら、同時に感傷に浸りかけた。久しぶりにそういう顔を見た、という月並みな懐古の念が胸を締め上げて止まなかったのだ。
けれどそうした雑念を振り払うように、魈は頭をひとつ振って嘯いた。
「そろそろ日没だ。家族が心配するんじゃないのか?」
前世で知り合った蛍の兄の顔を思い出しながら、魈は本心を隠して促した。
蛍とお揃いの長い金髪が特徴的な、しっかり者という印象の強い少年。妹を非常に溺愛————もとい大切にしていて、これが兄妹というものかと感覚的な部分で学ばされたものだった。
空もまた以前と変わりない人格を備えて生まれ変わっているとすれば、今日も妹の帰宅が遅いことを狂ったように心配していることだろう。その慌てぶりは容易に目に浮かぶ。
彼にそういう思いをさせるのはさすがに可哀想だ、と気遣う感覚が魈にもあった。
だから名残惜しくとも、素直に家に帰してやるつもりだ。ここはテイワットではない、まったくの別世界なのだから。魈の我儘は罷り通らないと理解している。
行くな、と言えば魈のそばに一晩留まってくれた彼女はもういない。
いくら顔貌や性格がそっくり同じでも、今世においては置かれた立場も状況も、何もかもが以前と異なるのだ。
「……じゃあ、そろそろ帰るね」
「待て」
下に降りようと危なっかしく屋根の端ににじり寄っていった蛍を、魈は溜息混じりに捕まえた。
これは別に、悪足掻き等ではない。安全と、ちょっとした贈り物のためである。
魈は軽々と蛍の肢体を横抱きにすると、そのまま軽やかに夕空に跳び上がった。
下方に鎮守の森と社殿を、横には稜線の向こうに消えゆく残光を臨みながら、ほぼ全天が群青に染まった宵の空を須臾の時間浮遊する。魈の中に僅かに残された仙力でささやかに重力に抗い、ゆっくりと下降していく。
やがて魈の両足は、音もなく本殿の真ん前に着地した。
その静けさとは裏腹に、静謐な参道の各所にこんもりと積もっていた朽葉が反動で、道を開けるように大きく舞い上がっている。
その後、魈は心なしか緩やかな歩調で石畳を踏み締めながら、素知らぬ顔で蛍を神社の入口まで運んでやった。壊れ物を扱うように丁重に、そうっとだ。
下ろして、と腕の中で恥ずかしそうに呟かれる声は黙殺した。
そうして至った鳥居の前。その内側で暇乞いをして、今度こそ今日の別れが訪れる。
何度も何度もちらちらと神社を振り返りながら手を振ってくる蛍を、魈は憮然と腕組みをしながら見送った。
照れ隠しでそうしたのか、未だ完全には形の定まらない現代の彼女への想いがそうさせたのか、背景にある感情は判然としない。
蛍は頬に朱を刷きながら、自分は本気だとばかりに繰り返していた。
「明日また、夕暮れの頃ここに来るからね」
彼女が角を曲がってその姿が見えなくなってから、魈はそっと片手を上げた。もはやそこには誰の影もないのに、指を揃えて小さく手を振り返した。
そのことは、数百年来の友である杜しか知らない。
■ ■ ■
蛍が家路についてから数時間。しぶとく山際で輝いていた日も完全に落ち、余光の痕跡さえも消え失せた頃。
すっかり普段通りの様相を取り戻した、閑散とした境内の真っ只中。
朽ち果てて随所に割れが見受けられる階のうち比較的無事な箇所に、魈は深沈と腰を下ろしていた。
夜の帳とほとんど同化してしまった鎮守の森は、黒々とした無数の影が揺れる常闇だ。
崩れた灯籠の残骸はいくつか敷地内に転がっているが、そこに明かりを灯す宮司は当然いない。もちろん魈も、火の気は持ち合わせていない。
故に日が暮れてしまえばここは、生い茂る木々の間隙から差し込む脆弱な月明かりか星影しか光源のない、前時代的な晦冥と化すのである。
魈はぼんやりと暮相の出来事を思い返しながら、杜の中一人きりで過ごしていた。
すると不思議なことに、どんよりと重苦しい鉛のような暗闇だと敵視していた森が、途端に慈悲深い存在に思えてくるのだ。ついさっきまで隣にいた少女の面貌を思い起こすだけで、目に映る景色が正反対の色を持って見えた。
喩えるならそれは、森に見守られているかのような心地。
久方ぶりに安堵感に満たされた魈の胸中は、親鳥の翼の庇護を受けた小鳥の安寧とよく似ている。
まさかこのような日が訪れるとは、この地に囚われて以来終ぞ考えもしなかった。否、考えはしたものの、真っ向から信じ切ることができなかった。
だからずっと、どっち付かずの朧げで中途半端な希望を抱いて生き存えてきたのだ。蛍が自分を見出してくれるはずだと頼みに思いながら、今生で邂逅を果たすことは難しいだろうと諦めていた。
そういう矛盾が、魈の現世での数百年だった。
いつの間に自分は他者を当てにするようになったのだろう、と今更ながらに疑問が浮かんで、思わず自嘲めいた嗤いが漏れる。
遠い昔、蛍に手を貸してやるつもりで名前を呼べと、守ると言った。
けれども気が付けば、魈の方が彼女に助けられてばかりだった。今日もまた、あの細い指に掬い上げられてしまった。屋根から落ちかけた彼女の手を掴んで引き戻したのは魈なのに、本質的にはまるっきり逆なのだ。
「魈」
「降魔大聖」
不意に魈を呼ぶ声があった。
いずれの呼び声も鳥居の方から聞こえていて、そちらに視線を巡らせれば神社の入口辺りに二つの影が佇んでいる。見たところ、一方はすらりとした長身の男性、他方は平均的な背丈の女性と推察された。
カツン、カツン、という規則的な靴音が夜の森に響き渡る。四本の足が交互に石畳を打つ冴えた音が、暗晦を切り裂く。
二人は暗がりの中、迷いなく参道を突き進んでくる。魈がいる本殿に向かって、慣れた足取りで真っ直ぐに歩み来る。灯籠ひとつ灯っておらず、枯れ葉だらけでお世辞にも足元が良いとは言えない道のりであるにもかかわらず、だ。
人影を認めた魈は座り込んでいた階段からすぐさま腰を上げると、地面に片膝をつき跪いた。さらに両手を膝の両側に置き、深々と頭を垂れた。
叩頭する勢いで平伏し恭しく頭を低くする様子は、さながら王を前にした臣下のようである。
そうして最大限の礼を尽くした上で、魈は本殿の前に到着した両人を出迎えた。
正確に言えばその礼式は背の高い男の方に向けられているのだが、そのことはこの場にいる三者全員が諒解していることなので、取り立てて話題にする必要性は露塵ほどもない。
故にそのまま、何事もなく会話が始まる。
まずは男が一歩進み出て、口を開いた。
「少し日が空いてしまったが、変わりはないか?」
「はい。わざわざご足労いただき恐れ入ります、鍾離様」
「出迎えは有り難いが、今の俺は本当にただの凡人だ。どうか顔を上げてくれないか」
鳶色の長髪を首の後ろでひと括りにし、かっちりとしたスーツに身を包んだ男————鍾離は、未だ頭を下げ続ける魈を苦笑混じりに見遣った。
身分のある方の顔を直接見るのは失礼だ、という古臭い伝統を頑なに遵守するように、魈は地べたに視線を固定している。「どうか」と請われたためか、顔の前に垂れた横髪の隙間から一瞬だけ鍾離を見上げるような素振りこそあったものの、またすぐに目を伏せてしまう始末である。
「そういうわけには参りません」
魈は確固たる意志でもって、きっぱりと断りを入れた。
平伏するのを止めない彼の金色の瞳は強い光を放っていて、誰が何と言おうとも己の信条を貫くつもりだと言外に述べている。たとえ鍾離本人であろうとも、この礼節は曲げられないということらしい。
端的に言えば、つまりは気遣い無用。昔日と同様に道具のように扱ってもらって構わない、という意思をも示しているようだ。
結局、眼前の人物が神であろうと凡人であろうと、魈にとっては恐らく大した問題ではないのだ。「世で最も敬愛する相手である」という事実こそが、何よりも重要なのだろう。
礼儀を尽くすことは彼にとって、そうした宗旨を表現する唯一の方法なのかもしれない。
だが、そこには大いなる撞着があった。
「ふむ……それならこれは俺の個人的な頼みだ。顔を上げて立ってくれ」
自身の顎を撫でながらにこりと笑んで、鍾離はお願いした。
魈の言う敬うべき相手が直々に頼んでいるのだから、それには従うべきではないか、という理屈である。
この男、人好きのする優男に見えて、その正体は打算で動くことを厭わない図太い御仁である。やんわり申し出ても聞いてもらえないのなら実力行使も職権濫用も辞さない、とばかりの攻勢に転じてきた。
一見すると慎ましやかに願い出ている風だが、実際にはほぼ命令の様相を呈しているという。当人の自覚の程はさておき、最終的にそういう構図になってしまっている。
しかもこれは、鍾離が要らぬ世話を焼いた結果でもある。
魈が困ることを予見していながら、毎日同じ景色と寝起きするばかりではさぞかしつまらないだろう、と考えて敢行した悪戯。ちょっとした刺激的な体験のプレゼント、という感覚だった。
可哀想なことに、それを受け取る羽目になった魈は案の定困惑している様子だ。真正面から鍾離の発言を受け止めてしまったらしく、完全に狼狽えている。
盲点だった、とばかりに驚愕の色に染まっていく表情。それと同時に、みるみるうちに蒼白になっていく顔色。それらが彼の心境を克明に物語っていた。
自分は他ならぬ鍾離の希望を蔑ろにしていたのかもしれない、と自認してしまったらしい魈は、その非礼ぶりに今にも膝から崩れ落ちそうになっている。中途半端に膝頭を地面から浮かせつつ、中腰の姿勢で鍾離と石畳を見比べて。自身の信じる表敬の手段と鍾離の要望、両者の優劣にひどく頭を悩ませているようだ。
何か言葉を紡ぎたそうに口元がぱくぱくと開閉を繰り返しているが、結局それが何か音を発することもなく。地を離れた手のひらも、指先をわなわなと震わせるだけだった。
そんな惨状に、些か戯れが過ぎたか、と内心で思いはしたものの、鍾離はその実反省も後悔もしていない。前世の影響なのか、この辺りは依然として凡人らしい感覚になりきれていないらしい。
ただし魈を不憫に思うという感性は多少なりともあったので、鍾離は助け舟を出してやることにした。
元凶が自分自身であるということなど綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、悪びれもせず深翠色の頭髪に片手を乗せたかと思えば、そのままくしゃくしゃと撫で始める。
「そこまで深刻に捉える必要はない。気楽に構えてほしいだけだ」
かつて激しい魔神戦争を戦い抜いた堅牢な闘神も、時代を経て出自を変えた結果、これでも随分落ち着いた性格になった。今の生における年齢を鑑みれば、過剰なほどに好々爺然とした余裕を成熟させている。
穏やかに破顔する表情のどこにも、得物を蹴り飛ばすような粗暴さはない。ましてや、とぐろを巻く多頭の魔神に向かって岩槍を投げるような豪傑の面影もない。ぐしゃぐしゃと魈の髪を掻き混ぜる姿は、友人と戯れる徒人の青年にしか見えなかった。
それからしばらくの間、魈はされるがままに形の良い頭を撫で回されていた。当惑しながらも不快そうな様子はなく、どちらかと言えば気恥ずかしそうに。
「……鍾離様。お心遣い、痛み入ります」
やがて観念したらしい彼はひとつ会釈をしてから、折っていた膝を正し立ち上がった。そして慇懃に背筋を伸ばすと、伏し目がちに鍾離を仰いだ。
これ以上この件で押し問答を続けたところで、明後日の方を向いた鍾離の配慮に弄ばれるだけだと、ようやく見切りをつけたようだ。
するとそれを見計らったかのように、柔らかそうな露草色の髪を湛えた女性が遅れて挨拶の声を上げた。このようなやり取りは見慣れているのか、彼女は極めて落ち着いた風情で切り出した。
「降魔大聖、ご無沙汰しております」
「……甘雨か。鍾離様の側仕えご苦労だ」
「いえ、側仕えと言うほどでは。普段は凝光理事長の秘書ですし」
魈のことを降魔大聖という独特な呼び名で称する者は、現状この世界において一人しかいない。古き世で師弟のような関係だった名残か、彼女————甘雨は今もなお魈を師と仰いでいて、昔の呼び方が抜けずにいる。
そして彼女に対する魈の態度もまた、対等というよりも目下の者に相対した時のそれであり、二人がほとんど以前と変わりない関係性であることが窺えた。
一方労いを受けた甘雨はと言えば、両手と首を忙しなく左右に振りながら、精いっぱい謙遜している。隣にいる鍾離の視線をも気にしているのか、自分などまだまだだと照れ臭そうに慌てている様には大いに既視感があった。
かつて岩王帝君という尊称で民から慕われていた鍾離。彼を尊敬するのは何も民衆だけではない。甘雨もまた、その一人である。帝君を敬慕するあまりたまに取り乱してしまうところは、往時と何ら変わりなかった。
自身でも述べたように甘雨は平素、蛍や空が通う学園の理事長・凝光の秘書として勤務している。
偶然か必然か、鍾離の後を追うようにしてこの町で新たな生を受けた彼女は、これまで凡人として平凡に生きてきた。その過程で奇しくも鍾離や凝光と再会し、過去の記憶を確かなものにすることができたということ以外、ごく普通の人生を歩んできた。無論、魈のように咎を背負うこともなく、狭隘な暗所に閉じ込められることもなく。
鍾離と甘雨の二人がこの廃社の存在に気付いた時期は、蛍よりも僅かに早かった。桜がすべて散った頃、彼らは何かに導かれるようにしてここへ辿り着いた。
驚愕を顔中に滲ませていた甘雨に対し、まるで予想していたかのように鍾離だけが落ち着き払っていたことは記憶に新しい。
以来、二人は折に触れてこの古ぼけた神社を訪ねてきては、魈の様子を気に掛けている。外界へ行けない魈を慮ってか、何かと土産物を持参することも多い。
「ところで魈、今日の土産なんだが」
鍾離は得意満面、という表現が相応しい笑みを浮かべながら————平たく言えばどや顔をしながら、本日の手土産紹介を始めた。
魈の眼前におもむろに差し出された紙袋が視界の大半を占拠して、他には何も見えない。暗がりの中に浮かぶ薄茶色の袋は、存外よく目立つ。
そこからは新品の紙の香りに加えて柑橘のような爽やかな匂い、心凪ぐような茶の匂い、さらに嗅ぎ慣れない香ばしい匂いも仄かに漂ってきて、そこに強制的に注意を向けさせるかのように鼻腔をくすぐった。
複雑な香りの共演に何とも言えない渋面を作りながら、魈は大人しく鍾離の話に耳を傾けている。
「これは最近生徒たちの間で流行っている、フラペチーノという飲み物だ。材料と氷を細かく砕いて混ぜたものらしく、何でも目の覚めるような冷たさの中に様々な素材の風味が凝縮されていて、一杯飲めばかなりの満足感が得られるそうだ。非常に興味深いだろう」
「あの、帝君……それはもうかなり前から流行していると言いますか……」
おずおずと、言いにくそうに訂正したのは甘雨である。
流行に人一倍興味を持ちながら人一倍疎い鍾離は、大抵の場合周回遅れで流行り物に手を出している。今回もその例に漏れず、つい最近フラペチーノの存在を知ったらしい。
故に彼の中ではフラペチーノは最先端の飲み物、という認識のようだ。
甘雨としては、せめてタピオカミルクティー辺りならまだましだったかも、と思わずにはいられなかった。それならばまだ、ちょっと流行遅れくらいで済んだかもしれないのに。この調子では周回遅れどころか、二、三周は世間の流行とずれていると見做されてしまうだろう。
生徒たちの間で「鍾離じぃ」というあだ名が広まるのも無理はないと、甘雨は図らずも納得してしまった。言うまでもなく、本人にその事実は告げられないけれど。
ほくほく顔の鍾離は甘雨の指摘を不思議そうに聞き流しながら、早速がさがさと紙袋の中身を漁っている。小首を傾げる彼は見るからに楽しそうで、まさに凡人人生を謳歌していると評するに相応しい。
とてもかくても、甘雨にとってはそれで十分だった。細かいことをあれこれ意見するのは野暮だと思い直して、黙って成り行きを見守ることにした。
前世で尋常ならざる偉業の数々を成し得た彼の老後のような現世生活、その安寧こそが最も望むところなのだから。
そうして鍾離によって順に取り出された三つの容器。
茶色っぽい淀んだ色のもの————嗅ぎ慣れない香ばしい匂い。
草のような色をしたもの————心凪ぐような茶の匂い。
鮮やかな橙色のもの————柑橘のような爽やかな匂い。
鍾離はそれぞれが珈琲、抹茶、期間限定の夏蜜柑の味であることを説明し、朽ちた階段の辛うじて平らな部分に並べた。そしてどれが飲みたいかと、まず魈に尋ねた。
だがしかし魈のそれらに対する第一印象は、はっきり言って色の付いた泥だった。どろりとした内容物を見るにつけ、奇怪な色合いを見るにつけ、とても味が良さそうには思えない。それどころか、本当に飲み物なのだろうかと疑ってさえいた。
少なくとも前の世ではまったく見たことのない種類の飲料であり、現世においては神社の外の事情を知り得ない魈にとって、味を想像することなどできるはずもなかった。
まさか鍾離が、泥を飲ませるようなくだらない悪戯に興じるとは思っていない。その一方で、いずれの容器の中身も何とも不安な見てくれをしていることは否定できない。
もともと偏食のきらいがある魈にとっては、それだけで警戒するに値した。
けれども鍾離に勧められたものを拒絶するような選択肢もまた、彼にはない。
輝かんばかりの笑顔を振り撒く鍾離とは裏腹に、魈は戸惑った表情で三つの容器を交互に見つめた。慌ただしく視線を滑らせてどれかを選び取らなければと思うものの、やはりどれも色の付いた泥にしか見えず、なかなか結論が出せない。
鍾離に先に選んでもらおうにも、その鍾離が魈が最初に選ぶようにと促してくるのだから、逃げ場がない。
ややあって、最終的に事態を解決したのは甘雨だった。大真面目に考え込む魈を見兼ねたらしく、気の利くことにこっそり耳打ちして助言をくれた。
「あの、珈琲は現代的なお味ですから、降魔大聖にはあまり馴染みがないかもしれません。ですが抹茶は稲妻風のお茶の味ですし、夏蜜柑は夕暮れの実のような甘酸っぱい味です。そのどちらかにすると良いと思います。どれもきちんと飲めるものですから、安心してください」
「む……恩に着る」
有能な参謀のおかげで、魈はどうにか抹茶味とやらを選ぶことができた。そして甘雨は夏蜜柑、鍾離は珈琲とやらを取り上げた。
それから三人並んでボロボロの階に腰掛けて、ずぞぞ、と少々はしたない音を立てながら銘々に氷混じりの飲料を啜る。
魈も鍾離に倣ってやけに太いストローを容器の天辺に差し込み、恐る恐るドロドロとした流動体を吸い込んだ。
感想としては思っていたよりも口に合う、という至って拍子抜けするものだった。
好きだった杏仁豆腐にも負けず劣らずの甘ったるい飲み物でありながら、その中にはきちんと茶の風味が息づいていて。口内から喉へ抜けるひんやりとした温度も好ましく、細かな氷がジャリジャリと弾ける感触も悪くなかった。
不意に蛍もこれが好きなのだろうか、と脳裏に過ったものの、鍾離に感想を求められたのですぐに思考を引き戻した。
「魈、味の方はどうだ?」
「とても美味だと……我の身には余る温情です」
「そうか、それは良かった」
満足げに好々爺然と相槌を打ちながら、鍾離は続けた。
「そう言えば」
「何でしょう?」
「今日、蛍に会っただろう?」
「……ゲホッゴホッ! し、知っていたのですか!?」
相変わらず機嫌良くフラペチーノを啜りつつ、鍾離は唐突に話題を変えた。
空を隠さんばかりに鬱蒼と枝葉を茂らせる森のせいで、全天のうちほんの一部しか垣間見ることのできない星空。ほぼ暗いだけのそこを仰ぎ見ながら、今日は良い天気だな、とでも出し抜けに呟くかのように彼はゆるりと問うた。
それは鎌かけでも何でもなく、返答が是であることを明らかに事前に知っていた口振りだった。
ついさっき、蛍に思いを馳せていたことを見透かされたのかと思った。
というのが、魈を最初に襲った吃驚。そのせいで思わず変に息を呑んでしまって激しく咳込んだのが、第二陣。咽せているうちに冷静になってきた頭で、何故今日の邂逅のことを知っているのか、という尤もな疑問に思い至ったのが最後。
そのようにして順繰りに、魈目掛けて衝撃の波が押し寄せた。
涙目になりながら咽せ返る彼は、それでも鍾離から賜ったフラペチーノの容器を掲げ持つことを止めない。万が一にでも取り落としては事だと真剣に考えているらしく、両手でしっかりと支えている。
しかし鍾離の御前で咳くのもまた無礼に当たると思い及んだのか、俯いて極力呼気をばら撒かないように尽力している様は少々滑稽ですらある。
さすがの執念と言うべきか、方向性を間違えていると言うべきか、恐るべき敬虔さである。
とにもかくにも、鍾離が若干申し訳なさそうに魈の背を摩りながら明かしたことには。曰く。
蛍が所属することになった美化委員会の顧問、そのひとこそが鍾離である。
蛍が転校生の穴を埋めると申し出たことについてはまったくの偶さかだったが、地域清掃の担当地区を割り振るくじ引きの作成は鍾離が買って出たことであり、くじを引く際に少々細工を施したのも鍾離だった。
それらは言うまでもなく、蛍を魈と引き合わせるためにしたことである。
蛍が学園に入学してきたのは、ちょうどこの春ことだ。
教員として出席した入学式の場で、鍾離はすぐに彼女の存在に気が付いた。そして、彼女の異常にも。
蛍は確かに鍾離の姿をその目に映したはずなのに、まったくの無反応だった。それどころか近くの席にいる刻晴や香菱でさえ、その時は風景のような扱いだった。
かつてと同様に「鍾離先生」と呼ばれたところで、そこに込められている慕わしさに天と地ほどの差があることを、鍾離は直感的に感じ取っていた。
その後、空とは無事にテイワットでの繋がりにも言及した会話を交わすことができたものの、聞けば予想通り蛍には過去世の記憶がないという話だった。
七国を冒険したことも覚えていなければ、その道中で出会った仲間のことも誰一人として覚えていない。性格や為人は昔と変わりないのに、過去だけがすっぽりと抜け落ちている。
それが現在の蛍であることをどうか受け入れてほしいと、空は平身低頭請うてきた。何ひとつ自身の責任ではないのにもかかわらず、だ。
そんな所願を無碍にできるほど、当世における鍾離は唯我独尊ではなかった。
故に以来数ヶ月、鍾離は取り立てて何の行動も起こさなかった。
それからすぐ、葉桜の季節に鍾離と甘雨はこの廃神社に辿り着いた。
つまりは魈と再会したわけだが、小さな杜に閉じ込められた彼に蛍の現状を告げるのは忍びないと、両名が配慮するのは至極当然の流れだった。どれほど望んでも会えない人間の状況を伝えたところで酷いだけだと、示し合わせたわけでもないのに二人揃って一切蛍のことは口にしなかった。
しかし今日、やっと好機が巡ってきた。飛んで火に入る夏の虫、とばかりに蛍が美化委員に加入したのだ。
だからこの初夏の吉日に、鍾離は行動に踏み切った。その上で、甘雨を伴って様子伺いに訪れた。
それが、今日という日の背景にあった出来事の概要だった。
「有難う、御座います……」
魈は上擦った声で、絞り出すようにして礼を言った。
いつかの層岩巨淵でのように、またしても鍾離の手を煩わせてしまったという思いと、その類稀なる厚情に感極まる思い。両者が混ざり合っては渦巻いて、魈の胸をとめどなく震わせた。
夕刻に二人だけの秘密だと蛍と約束したところではあるが、すべての仕掛け人と称しても過言ではない鍾離相手に隠し立てをしたところで、意味がないことは明白だった。
それ故魈は内心で蛍に断って、再会の経緯と相も変わらず魈を気に掛けてくれたこと、魈という名を改めて与えてくれたこと、また遊びに来ると宣言されたことなどを一通り話した。
今更ながらに考えてみれば、蛍が魈を「魈」と呼ぶように仕向けたのも鍾離だったということだ。
もちろん、その知識を活用するかどうかの最後の選択は蛍本人に委ねられていたわけだが、結局のところすべては元岩神の手のひらの上で転がされていただけなのかもしれない。
それを頼もしくも心苦しく思いながら、魈は鍾離の紡ぐ締め括りの言葉に耳を澄ませた。
「何はともあれ、せっかく再び繋がった縁だ。大切にすると良い」
「……はい」
神妙に頷きながら、魈はその意味を噛み締めた。
鍾離は言外に、今宵のことは本当に数多の偶然が重なった結果なのだと言っている。鍾離が手を下したことなどほんのひとつの側面でしかなく、星の数ほどもある無数の運命が折り重なって、やっとあの一瞬を生み出したのだと。
それからの魈は、直近あった取り止めのない事柄について鍾離と甘雨が語るのを、下手くそな相槌を打ちながら聞くばかりだった。
彼らの話は外を知らない魈にとって空想も同然だったが、そこに蛍が暮らしているのだと思えば以前よりも随分と興味が持てた。これが愛、屋烏に及ぶということかと柄にもなく納得するくらいには、関心を高くして傾聴した。
そうしているうちに、三人のフラペチーノは空っぽになっていた。
容器に結露した水滴が、ぽたりぽたりと地面に滴り落ちては染みを作っていく。それはまるで、暇乞いまでの時間を計る砂時計だった。
その最後の一滴が石畳に触れて砕けたとき、鍾離と甘雨は漸う立ち上がった。最初からゴミだらけの境内ではあるが、二人は自分たちの持ち込んだゴミを丹念にまとめてから帰り支度をした。
魈の抱える事情に詳しい二人が間もなく去る、という状況は囚われの神使にとって少なからず寂しさを覚える場面だ。
前世ならばこのような孤独などいちいち気にしなかっただろうに、静けさしか坐さない神域でたった一人で過ごすというのは、それほどまでに寂寥を覚えることだった。
そのため魈は、口には出さないながらもどこか別れ難そうにしながら、鳥居の前まで両人を見送りに出た。
「それでは、失礼します」
「甘雨、くれぐれも我らの関係は蛍に漏らすな」
「はい、もちろんです」
一応念押ししているものの、魈は甘雨のことを決して見くびってなどいない。
彼女が強い信念を持ち、己の為すべきことを遂行できる人物だと熟知している。だからこそ、外界で生きる蛍を自分の代わりに守ってほしいという願いを込めて言い含めただけだ。
勘の良い彼女にはこれで十分。一を聞いて十を知る、を地で行く彼女に皆まで言う必要はなかった。
「鍾離様、道中どうぞお気を付けて」
「ああ、近いうちにまた来る。次のフラペチーノも楽しみにしていてくれ」
よほど気に入ったのか、また買ってくると早くも宣言をする鍾離はどことなく上機嫌に見えた。
それは十中八九、魈の勘違い等ではないだろう。そして、フラペチーノの件だけでこれほど有頂天になっている訳でもないだろう。
きっと彼は魈と同じかそれ以上に、蛍のことを喜んでいる。そういう確信が魈の中にはあった。
それが岩王帝君の備えた慈悲深さの一端であると、誰に言われるともなく知っている。絶体絶命かに思われる局面であっても、いつも最後には必ず手を差し伸べてくれるひとだと身をもって理解している。
そういうお方だからこそ、魈はこのひとを敬愛して止まないのである。
「さて、俺たちはお暇するとしよう」
「はい。ご健勝を」
「降魔大聖もどうぞ息災で」
そうして別れの挨拶を交わして、鍾離と甘雨は闇を凝縮したような森に背を向けた。
小さくなっていく二つの背中を、魈は寂しさと清々しさの入り混じった形容し難い感情を胸に見送った。
夏の夕、蛍との再会が魈にもたらした変化は、想像以上に大きかった。
物寂しかっただけの辞去の時間を、明日の訪れの前触れだと前向きに捉えられるようになった。現世に生まれ落ちてから初めて、日の出が待ち遠しいと思えた。昨日と今日、今日と明日がそれぞれ異なるものであるという常識が、やっと腑に落ちた。
それくらいにこの日、魈の瞳に映る世界は色合いを異にしたのだ。
■ ■ ■
神社を出た鍾離と甘雨は、しばらくの間畦道を黙って歩いていた。
けれども十五分も歩いた頃、ついに耐え切れなくなったのか甘雨が周囲を警戒しながら口を開いた。
人外の身である魈の五感は、仙人として生きていた頃と比べれば劣るにしても、徒人からすれば十分並外れたものであることが推測できる。
罷り間違っても彼に会話を聞かれてはいけないという心馳せから、甘雨はここに来てやっと話を切り出す気になったらしい。
何も見えるはずはないのに、辺りを見回しながら彼女がこぼしたことには。
「降魔大聖は、業から逃れられるのでしょうか……? 蛍は記憶を取り戻すことができるのでしょうか? ……私には見当もつきません」
そっと自身の胸元を押さえながら、甘雨は目線を俯けた。伏せられた睫毛越しに、朝焼けのような色合いをした双眸が名もなき小石を目で追っている。無論、その行為は何ものをも報わない。
だが、甘雨の吐き出した問いは断じて彼女一人の願いではなかった。前世の縁を持つ者ならば誰もが、多かれ少なかれ望むことである。かつての仲間の平穏を祈らない者など、いるはずがない。
虫の音や蛙の鳴き声が盛んに響く田園風景の中、鍾離は水田に視線を落とす。暗闇に加えて、逞しく成長を始めた早苗によって覆われた水面の様子は判然としない。
そこに何が映っているのか、それは凡人の目では到底捉えることの叶わない代物だった。
「さあ……どうだろうな。それは俺にもわかりそうにない」
もはや神でない鍾離には、何ひとつわからない。
過去世の知識の大半が、この世界の理には当てはまらないのだ。言い換えれば、昔の経験で役に立つものなどほとんどなかった。
そんな中、ただ唯一鍾離の中に漠然とあったもの。それは、何かが動き出したという予感だけだった。
それは単純な直感であったが、生きた時間に比例して蓄えられた経験則が、今まさに運命を左右する分岐点に差し掛かったところだと告げていた。
ゲコゲコと、蛙が唄う。ジージーと、鈴虫が奏でる。
鍾離の予覚を後押しするように、甘雨の疑問に応えるように。夏の夜を彩る虫や蛙たちの調べが、一層賑やかさを増した気がした。
■ ■ ■
美化委員の地域清掃が実施された、あの初夏の日。
その日を境に、蛍は空を置いて帰ることが増えた。と言うより、まったくと言って良いほど一緒に下校しなくなった。
気風が良く、時には空よりも男らしい一面さえ見せる妹である。彼女は白南風よりも爽やかに、呆気に取られるほどあっさりとそれを宣言した。
「お兄ちゃん。明日から放課後、ちょっと用事があるの。悪いけど先に帰ってて!」
「……はい?」
日没間際に帰宅した蛍は、リビングで寛いでいた空の前に現れるや否や、ゴミ袋片手に息を切らせながらそう言った。
一方読んでいた本から顔を上げた空は、突然のことに素っ頓狂な声を上げた。と同時に体勢を崩してしまい、座っていたソファからずり落ちた。情けなくずるずると滑り落ちていく空の口は、ぽかんと大きく開いたままだ。
「ちょっと待って蛍。いきなりどうしたんだ?」
持っていた本を脇に置いた空は、ソファに座り直しながら聞き返した。すっかり脱力してしまった両腕に力を込めてなんとか体勢を立て直す様からは、言うまでもなく動揺が窺える。
だが、それも仕方のないことだ。今日蛍が美化委員会の活動に参加することは刻晴たちから聞いていたが、それが終わって帰ってきた途端にする話としてはまったく繋がりが見えないのだから。しかも突如として兄離れらしき決意を表明されたのだ。空からすれば、これが混乱せずにいられようか、という話である。
何が何だかわからない、というのが単純かつ正直な感想だった。
よって空は改めてソファに腰を落ち着けると、律儀にも姿勢を正しながら恐る恐る重ねて尋ねた。
「……その、明日も委員会の仕事があるってことか?」
空の推測は当然であろう。むしろ今ある情報ではそうとしか解釈のしようがない。
その考えに至るまでの過程には一部、そうであってほしい、兄に嫌気が差したなどの負の事情ではない、という願望も含まれているかもしれないが。それを抜きにしても、空の予測がまるっきり的外れであるということはないだろう。
とにもかくにも、空は懇願するように、返事を求めて妹の顔をまっすぐに見つめた。
「……」
「……蛍?」
ところが、だ。さほど難解な問いを投げかけたつもりはないのに、蛍からは一向に肯定も否定も返ってこなかった。数秒間の沈黙が続いて、その間二人は互いの胸中を見透かそうとするかのように見つめ合った。
そして一瞬、彼女にしては珍しく視線が泳いだのを空は見逃さなかった。
「蛍?」
「……ちょっとね。そんなところ」
その反応は間違いなく、空に対して用事の詳細を明らかにすることを避けていた。
それは双子の兄にとって、並々ならぬ事態だった。
自他共に認めるほど、兄妹仲の良さには定評があったというのに。思春期を迎えてからも、特筆するほどの諍いもなく心を許し合ってきたというのに。二人でひとつとでも言わんばかりに仲睦まじく苦楽を共にしてきたというのに。
蛍が自分に隠し事をしたことなど、果たしてこれまでにあっただろうか?
そんな追想に駆られてしまった空の心中は、天地がひっくり返ったような大騒ぎだった。
下手にはぐらかされてしまったことで、空の脳内には様々な可能性が浮かんでは消えていく。
もしや美化委員会で仕事を押し付けられたのだろうか、とか。
ひょっとして隠れて怪しいアルバイトでも始める気だろうか、とか。
もしも悪い男に引っ掛かっていたらどうしよう、とか。
もしかして、万が一、億が一、兆が一にでも。兄のことが嫌いになった、なんて宣告されたら耐えられない、とか。
どれもこれも妹可愛さ故の想察であり、はっきり言って少々————否、かなりの被害妄想が含まれている点は否めない。
けれども二つの世を跨いで縁を紡いだ家族として、このような懸念を抱くのもまた道理と言えよう。
しかしそこには、多大なる誤算があった。
本来、そうした憂慮の類は口にするものではないというのに。空の煩悶はいつしかその唇を震わせ、意味を持つ言葉となって間隙から漏れ出していた。つまり一から十まで、蛍本人の目の前で余すところなく垂れ流されていた。
それ故、阿鼻叫喚の様相を呈して戸惑う空の心配の内容は、思うと同時にすべて蛍の知るところとなっていた。
だんまりを決め込んでいたかに思われた蛍も、杞憂に苛まれる空の姿を見るにつけ、さすがに憐れみを覚えたらしい。彼女は眉根を寄せ、何やら思案するような素振りを見せた。
まずはソファの上で恐慌状態に陥っている空を横目に、キッチンで手早くゴミ袋の処理を。それから真っ直ぐリビングに戻ってきて、改めて困ったように兄を見下ろす。最終的には片手を顎に添え、口中で小さく唸りながら逡巡していた。
蛍はただ不思議な神使との約束を守ろうとしているだけで、空が懸念するようなことは何もない。
約束とはつまり、一種の契約だ。物心ついた頃から蛍にはそういう了見があって、今回もそれを交わした以上、あけっぴろげに全貌を明かすという選択肢はなかった。
そもそもあの神使はどう見ても、万人とすぐに打ち解けられるような性格ではないだろう。当初は蛍に対しても帰れの一点張りだったことを踏まえると、空が着いてきたところで話がややこしくなりそうだった。またさっさと去れなどと冷淡に言われては、堪ったものではない。
というのは建前で実際のところは、思い出すだけで顔から火が出そうな夕暮れの出会いを説明したくなかっただけだったりする。たとえ双子の兄が相手だとしても、とても思春期の少女が真顔で語れるような出来事ではなかった。
それに、あんな風に世界の一番端っこにいるようなひとが、急に人の波に放り込まれたりしたら間違いなく困惑してしまうだろう。ゆっくりと時間をかけて蛍の周りの人を紹介して、友人を作ってあげる。そういう朧げな計画が、蛍の中にはあった。
だから結局、蛍は言葉を選びながらこう補足した。
「心配しないで、今日掃除した神社にまた行くだけだから。自主的な清掃活動みたいなものだよ」
「……それは、蛍がやらなくちゃいけないことなのか?」
「そういうわけじゃないけど……でもね、そこは歴史のある神社みたいなのに、落ち葉がすごい上に本殿も埃だらけで。ほら、私って部活にも入ってなかったし、ちょうど良いから一人でじっくりやってみようかなって。なんて言うか……私、あの神社を綺麗にしたくて。あそこにまた行きたいの!」
その瞬間、あれ、と空は思った。
まるで一陣の若葉風が吹き抜けたかのような心地がして、空にまとわりついていた不安という靄が立ち消えていく。
驚きのあまり、空は反射的に瞠目していた。眼球が乾くことさえ些事とでも言うかのように、瞬きの仕方を忘れていた。それは衝撃が青風となって前髪を掻き上げ、三つ編みにした後ろ髪さえも大きく翻らせたように錯覚するほどの驚愕だった。
だが幸いにも、吃驚の原因はすぐにわかった。
目の前にいるのは、空が誰よりもよく知っていると自負しているいつもの蛍のはずなのに。空は彼女に対して良い意味で違和感を覚えたのだ。それが理由だと、本能とも呼べる部分で悟った。
それは前世と今世を合わせれば誰よりも多くの時間を共に過ごしている空ですら、はっきりと言語化できないほどの些細な変化だった。
けれどもそんな微小な事象が、空の胸裏に絶大な安堵と希望をもたらしたのである。
敢えて文字を借りるならそれは、蛍が今の世界でこれほどまでに自分から何かに熱意を燃やしたことがあっただろうか、という疑問だった。
蛍は今も昔もお人好しで、よく誰かのために身を粉にして奮闘している。それは依然として変わらない。けれども現世の彼女自身が望んで「やりたい」と主張した事柄は、思い返してみるとひとつもなかったような気がするのだ。きっとそれは、ただ誰かを可哀想に思って、良心に基づいて手を差し伸べていたに過ぎなかった。
今更ながらに、空はそのことに思い至った。
普通ならそれを兄として家族として、慚愧に堪えないと思うだろう。何故もっと早く感じ取れなかったのかと、己を責めただろう。
しかしながら、そういう感情がなかったわけではないがそれ以上に、空の中では胸のつがえが下りたという気持ちの方が勝っていた。
口先では蛍が幸せなら記憶などどうでも良いと言いながら、空の本心は記憶を取り戻してほしいとずっとずっと願っていたのだ。
それは今の蛍に、かつてのような湧き上がる主体性がなかったからだ。兄妹で敵対したとしても己の意志を貫き通した、あの芯の強さがなかったからだ。今生の蛍を大切な妹だと思い愛情を注ぐ一方で、その在り方をどこかで認めきれていなかった。前生のような妹でいてほしいと、常に心の片隅で手前勝手に望んでいた。
淡く、けれども濃密に空虚さを孕んだ妹の姿を見るのが、空はずうっと辛かったのだ。隣で息を吸っているのに別世界で生きているかのような懊悩が、蛇のようにしつこく絡みついて離れなかった。
それが寂しくて、苦しくて、空は身勝手にも彼女の記憶が戻ることを願い続けていた。無論、そこには朝な夕な顔を覗かせる罪悪感も存在した。
でも、やっとその苦悩から解放されることができた。
思ってもみなかった機ときっかけではあったが、探していた妹が帰ってきたような気がして、空の涙腺は緩んで瀑布になる寸前だった。何が引き金となったのかは未だ曖昧模糊としているが、おかえり、と言いたい気分だった。もちろん、彼女からすれば意味がわからないに決まっているので口にはしないけれど。
そういう鼻の奥がつんとする思いを、空は次のひとことに乗せた。
泣きそうになっていることは当然ばれたくないので、さりげなくソファから立ち上がって誤魔化して。念には念を入れて蛍の旋毛辺りに手を置き、思い切り掻き回すこともした。
そうして半強制的に妹の視線を下方に逸らすことに成功したので、きっと彼女は何も気付いていないだろう。
嗚咽で震えそうな声も、目いっぱい腹筋に力を入れて補強したので大丈夫なはずだ。
「…………わかった、蛍が納得いくように頑張ると良いよ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「でも、あまり帰りが遅くならないようにな」
「うん! 綺麗になったらお兄ちゃんも招待するよ」
「はいはい、期待してるよ」
結局、空はそれ以上の詮索をしなかった。柔らかな淡光を蜂蜜色の瞳に溶かし込み、信頼を伝えるようにただただ心弛んだ笑みを浮かべることだけをした。
それは何も、物分かりの良い兄を気取ろうとしたわけではないはずだ。恐らくはようやく訪れた安寧にどっぷりと全身を浸して時を数え、これが都合の良い夢ではないと確かめることが目的だったのだろう。
それから十分すぎるほどに時計の針が巡った夜更け、兄妹はお揃いの色の双眸で一緒にテレビを見ていた。
空が隣に座る妹の顔をちらりと横目で見ると、その瞳にはテレビの中の景色がそっくりそのまま映り込んでいた。
そこで彼はやっと、自分と妹は確かに同じものを見ている、と信じることができた。そしてその確証は、翌朝目覚めて以降も揺らぐことはなかったという。
■ ■ ■
おかしな言い方かもしれないが、いよいよ夏が深まってきた。
とは言えそれは魈にとって、最も正確な表現だった。
無論、四季の移ろいというものを知らなかったわけではない。ただ、日ごとに木々の葉が色を濃くすることも、日差しが肌を刺すように強さを増すことも、ずっと意識の外にあって認知できていなかったのだ。そのためこの朱夏、数百年ぶりに時の流れを知覚した魈にとって、季節の深まりを感じるという体験は新鮮ですらあった。
時季はまさに盛夏、どこへ行けども頭上からは騒がしい蝉時雨が降り注ぐ。灼熱のアスファルトに突っ立っているだけでも汗が噴き出す、気温と湿度が最高潮を迎える時節。
幸か不幸か、蒼々《そうそう》とした杜を有する神社の境内は涼やかだ。その領域の八割以上が木陰となっているおかげで、域内の空気は昼日中でさえ夜気を孕んでいるかのようにひやりとしている。
梅雨明けから間もない夏の初め、年輪を刻むことさえ忘却したような古ぼけた神社で翠髪の神使と知り合ってからというもの、蛍は連日足繁くそこへ通った。
親切心からひとりぼっちの彼を放っておけなかったのか、もっと別の感情がそこにあったのか。そういったことに思いを馳せる瞬間さえ、蛍にはなかった。それほどまでにごく自然に、そこに足を運ぶことが日課になっていた。それこそ疑問のひとつだになく、息をするかのように。
夏の盛りの幽い森。それとよく似た色差しをした髪の少年。
蛍は彼に、毎日のように神域の外に広がる世界の話を聞かせた。木立を吹き抜ける夏風に翻る翠緑の絹糸に、幾度となく目を奪われながら。時には呼吸さえも奪われたかのように息を呑みながら、その横顔に語りかけた。
神社の西に見える稜線、そこに連なる山々ひとつひとつに名があること。
鎮守の森を囲む田園風景を抜けた先には、蛍が生まれ育った町があること。
町には勉学のために通う施設があって、それを学校と呼ぶこと。
学校には先生や友人がいて、尊敬できる人や信頼できる人がたくさんいること。
蛍には面倒見の良い双子の兄がいて、日々一緒に学校へ通っていること。
さらには政治に経済、地理に歴史など。
あくまでも学校の授業で学んだ範囲やニュースで見聞きした程度の内容ではあったが、それこそ世の中の仕組みや土台とも言うべきものまで。蛍は多岐に渡る内容を少しずつ、懇切丁寧に、時間をかけて魈に話して聞かせた。
そうして蛍は囚われの神使に、世界というものを教えていった。蛍の知り得るありとあらゆる事柄について、漣が打ち寄せるように優しく共有していった。
果たして、決して見ることのできないものについて語るのは惨いことなのか?
少なくとも蛍にとって、それは真ではない。町外れでひとりぼっちな上に何も知らない方が孤独になってしまう、というのが彼女の価値観だった。余計なことは言わずに黙って見守る、というやり方は性分に合わなかった。
だから蛍は細やかに朗らかに、隠し立てせずすべてを思うままに説明したのだ。言葉を尽くして、つぶさに物事を描写したのだ。
もしかしたらそれは、彼に構うことの言い訳だったのかもしれないけれど。
蛍は一貫して、いつか魈にも外の世界を見せてあげる、という態度でいた。
それは鍾離や甘雨とは正反対の優しさと言えた。目にすることが叶わない世界の話を伝えたところで酷だという、二人の考え方とは方向性の異なる気遣いだった。
別にそれは、どちらが正解かを争うべき話ではない。
実際、当の魈本人はいずれに対しても批判的な感情を抱いてはいなかった。
両者とも厚意故の対処であることを、魈はよく理解している。残酷な仕打ちをされたなどとは、露ほども思っていない。
そもそも崇敬する鍾離相手にそうした不届き千万な考えを起こすこと自体があり得ないのだが、それを抜きにしても、魈は他者の心中というものを十分に慮っていた。
鍾離の恩寵にも、甘雨の配慮にも、蛍の思いやりにも、彼の想像はきちんと及んでいた。いつぞやかのように、理解できぬ、とは微塵も感じていなかった。
そしてそういう情緒を今生の彼が持っていたのは、以前の生で蛍に出会ったおかげに他ならない。
あらゆるものと距離を置いていた魈を人の輪の中に連れ戻したのは、前世の蛍だ。それを機に失っていた感情を取り戻していったことは、なかったことにできるはずもない。何百年この現世で虚ろに過ごそうとも、すっかり熟した心の機微は消えなかった。だからこそ、片時も蛍の存在を敗忘したりしなかったのだ。
そういう背景があったので魈はいつも、蛍が夢中で紡ぐ言葉を穏やかに聞いていた。
かつて璃月港に興味を持ったときのように、関心を高くして聞き入っていた。
そのすべてを理解したいと心底願いながら、彼女の話に深く没入した。
崩れかけた社殿、檜皮葺きの屋根の上。そこから夕暮れ時の長閑な田園を俯瞰しつつ、ゆっくりと瞬きをして。時折蛍の横顔に目線を流しながら、じっとその声音に耳を傾ける。さらさらと夕風に揺れる黄金色の青苗を黙らせたいと思うほど、真剣に耳を澄ませる。
そうして耳朶を掠めていく声は、何度聞いても懐かしさが込み上げた。愛おしい音律が鼓膜を震わせて、この瞬間を永遠に閉じ込めたいと希わずにはいられなかった。
その時の魈の様子は、まるで小さな幸せを噛み締めているかのよう。
それと同時に、これ以上はないと己に言い聞かせているかのよう。
それでももしやと淡い夢を見てしまい、現実との落差に押し潰されそうになっているかのよう。
複雑な表情はたぶん、ひとことで言えば「切ない」だった。
ただしそれは、彼がほんの一瞬見せた翳に過ぎない。
魈は九割九分九厘の時間、表面上至って穏やかだった。平素の仏頂面が嘘のように柔らかい笑みを浮かべて、切なさは全部金色の瞳の奥に仕舞い込んでいた。それどころか燃える夕焼けの色で瞳の色さえも誤魔化して、安穏とした空気だけを器用に服わせていた。
どうやら感情に聡くなった分、その隠し方も上手くなったらしい。
しかしながらやはり依然として、蛍の方がそういう面においては魈よりも上手だった。
言わずもがな、それは遠い昔————過去世と比較して、という意味である。
ある時、蛍は話の途中で藪から棒に問いかけた。
「大丈夫?」
「……何がだ」
「辛そうだったから、何か気に障ったのかと思って」
「……………………そういうわけじゃない」
僅かな沈黙ののち、魈は蛍の心配を否定した。
当然、不快なことなどひとつもなかったからだ。
ただ、内心で何故ばれたのだろうと戸惑ってはいた。
だから魈は平静を装うために、そっと瞑目した。ほぼ透明な哀愁と困惑の色を含んだ双眸を、瞼の裏に秘めた。
すでに手遅れの感は否めなかったが、少なくとも真紅の夕映えをもってしても心の内を隠し立てできないことを悟ったのだ。
だがその反面、彼はささやかな本音を夕暮れ色の風に乗せることも忘れなかった。
そうすればたとえ須臾の時間であろうとも、自分の願いが叶うことを狡賢くも心得ているからだ。
「お前の話は……声は、心地良い。もう少し聞いていたいと思っただけだ」
「そっか、なら良かった」
柔らかそうな頬の肉を持ち上げて破顔すると、蛍は夕陽に向き直って続きを話し始めた。
魈の希望通り、蛍の声が滔々《とうとう》と流れゆく。
その際にさりげなく魈の手を握って、安心させるようにゆらゆらと上下に揺らすところ。そういうことを平然とやってのける彼女は、世を下っても相変わらず魈の心を捕らえて離さない。どれほど世を経ても、未来永劫勝てそうにない気さえしてくる。
結局いつの世で巡り会おうとも、こうして蛍に手を引かれてしまう運命なのか。
守っているのは一体どちらなのか、時々わからなくなった。
無論、そこに不満の類はない。
それどころか絡めた指を通して体温と心音を交換する時間は、魈にとって何より安らぐひとときだった。
照り付ける斜陽の熱を鬱陶しく思いながらちょっぴり汗ばんだ手のひらを合わせる感覚は、ひどく生というものを実感させてくる。体の重さ、呼吸の間隔、心臓の拍動、肌に触れる温度。次第にそういうものが身に染みて感じられるようになっていった。
ああ、一緒に生きている。
魈は澄ました顔の裏で、それを咀嚼しては飲み込んだ。
この僥倖だけで十二分に腹が膨れると。そう思い込もうとするかのように、その日の魈は刹那の出来事を幾度となく反芻した。もう二度とこうした瞬間が訪れないとしても、その時決して空腹に喘ぐことのないように。
けれど、二人の手が繋がれたのは何もその時限りではなかった。
そうすることで魈の表情が解れることを見越しているのか、蛍はしばしば魈と手を繋ぎたがった。
茜色を帯びた指先が、すっと伸ばされて。まるで柔風が吹き抜けるように、瞬く間に魈の指を絡め取っていく。
あまり素直でない彼は、唇を引き結び眉間に皺を寄せ、渋い顔をしながらそれに応じるのが常だった。如何にも仕方なく、という雰囲気を醸し出すのが規則だとでも言わんばかりに、総じて微妙な顔つきをしていた。
それでいて、彼の手には指先までしっかり力が入っているのだから、何とも不器用なことである。離したくない、という思いが言外に伝わるのは時間の問題だった。
案の定と言うべきか、彼は嘘がつけないひとなのだと、蛍はすぐに察した。ずっと昔から知っている幼馴染みでも相手にしているかのように、すとんと腑に落ちた。
魈の態度がただの意地か照れ隠しであることは、もはや一目瞭然であろう。
なので蛍は、魈と同じくらいに手のひらに力を込めて返事をした。堪えきれない笑い声を口の端から漏らしながら、手甲に覆われた魈の手をぎゅっと握り返して。それを同意の返答とした。
解く機会を失った二つの手は、大抵その日の別れ際までそのままだった。
そうして二人は、夏の深まりと共に対話を重ねていった。
離れていた数百年か数千年が、あっという間に埋まっていくようだった。
そう感じるほど、魈の心は満たされていた。
それから、彼らにはもうひとつ別の時間の過ごし方があった。
「神社の掃除をしよう!」
「無用だ」
現世で知り合って二日目の、出会い頭の会話がこれだった。
取り付く島もない、という表現がこれほど似合う状況があるだろうかと賛辞を送りたくなるほど華麗に、当初の魈は蛍の提案を即答で却下した。
箒に塵取り、バケツに雑巾。一通りの掃除用具を引っ提げた蛍を呆れたように見遣りながら、彼はそそくさと社殿の屋根上に引っ込もうとしている。蛍の来訪に気付いて自ら顕現したというのに、溜息混じりに腕組みをして、この上なく面倒臭そうにしている。
まさしくそれは、興味なしという意思表示。運命的な邂逅を果たしたからといって、一から十まで言いなりになる謂れはないという彼の在り方を如実に表していた。
そもそも魈からすればいくらこの地が神域といえども、ずっと閉じ込められているという下らない縁があるだけの、面白くも何ともない空間でしかないのだ。
神も坐さなければ、参拝者もいない。それを綺麗にしたとして、一体誰に何の利益があると言うのか。そういう考えで凝り固まってしまうのは無理もなかった。清掃という行為が無意味に思えるのは、彼の置かれた状況を鑑みれば至極当然のことだろう。
だから彼は何百年も、境内が朽ちていくのを指を咥えて見ていたのだ。有体に言えば、この場所に思い入れなどなく、どうでも良かったのだ。
しかし蛍は負けじと、懸命に魈を説得した。
魈の家を綺麗にしたいとか、魈のために何かしたいとか、一人でもやるとか。
無碍にしづらくなるような的確な言葉選びで、彼女は切々と訴えた。
本当は記憶があるんじゃないのかと疑いたくなるほど正確無比に、ひとつひとつの物言いが魈の良心を揺さぶった。
前生でもそうだったが、こういう場合、得てして最終的に根負けするのは魈の方なのだ。
結局、魈は蛍に甘い。無意識に、彼女のためならと流されている。その自覚が些かもないほど、溺れている。
とにもかくにもそういう経緯があって、二人協力してぽつぽつと境内や社殿の掃除に勤しむことになったというわけだ。
毎日小一時間、比較的日の高いうちに参道の掃き掃除や社の拭き掃除をして、終わったら崩落寸前の檜皮葺きの上で西日を眺めながら雑談をする。
それが彼ら二人の日課となった。
ちなみに前世においても魈は、掃除など一度もしたことがなかった。
望舒旅館では従業員たちが、塵歌壺では蛍を中心に世話好きな者たちが率先してやっていたのだろう。魈には箒を握る機会もなければ、雑巾を絞った経験もなかった。振るったことがあるのは、翡翠色の光をまとった愛槍だけだった。
だが今生で初めて箒を手にした魈も、続けていくうちに少しずつ様になってきた。そのうち、暇な時には蛍がいなくても自主的に境内を掃いたりするようになった。
夜闇に紛れてちまちまと境内を掃き清める魈の姿を見た鍾離と甘雨が、目を見開いて顔を見合わせていた様はまだ記憶に新しい。
実のところ魈は、ほんの僅かに残った風元素の力で落ち葉くらい簡単に吹き飛ばせるのだ。それなのにわざわざ手作業で清掃していたものだから、彼らは二重の意味で驚いていた。
ひとつ、どういう風の吹き回しで掃除を、という驚愕。ふたつ、何故せっかくの元素力を使わないのか、という疑問。それらが合わさって、鍾離と甘雨を混乱させたのである。
さらに掃拭以外にも、すべきことは山積みだった。
何しろ数百年分の汚れと損壊である。一朝一夕で片付くはずがない。
枝葉が伸び放題となった、木々の剪定。一面に蔓延る雑草の除去。割れ・欠け・穴の目立つ社殿の階の補修。傾いた本殿の柱の補強。埃と泥にまみれた形式上の御神体の拭浄。
すべき作業の例は、枚挙に暇がない。
今の世の蛍は、正真正銘の凡人だ。人外の魈からすれば、瞬きほどの寿命しか持たない儚い存在である。
その寿命を念頭に置けば、早々にまた彼女との別離が訪れることは想像に難くない。
蛍がいなくなれば、魈はまた一人になる。鍾離や甘雨も徒人なので、その頃には彼らも天寿を全うしているだろう。
つまり魈は遠くない未来、否応なしに再び孤独の淵に舞い戻ることになるのだ。
そうなった時、終焉の見えない空っぽの生を魈はここでひっそりと過ごすことになる。いっそ悲壮なほどに整然とした無神の神域で、寂然と砂を噛むことになる。
そしてまた数百年を経て、この杜も鬱々とした薄暗い森に逆戻りするのだろう。今度こそ本当に社殿も崩壊するかもしれない。
その日を思えば、この忌々しい土地を整えることなど迂遠でしかない。単にいつかの寂寞を際立たせるだけだ。
そう憂えども、魈は作業の手を止めることができなかった。
連日嬉しそうに神社に通い詰める蛍を見ていると、不確かな先行きに嘆くことの方がよほど建設的でないという気持ちになったのだ。幽けき命しか持たない生き物に寄り添うためにはそれを受け入れるしかないのだと、諦めにも似た覚悟が生まれたのかもしれない。
だから喉に支えた憂虞はこっそりと飲み下して、なかったことにした。
ただ無心で、蛍が指示するままに境内の清掃に励んだ。
そういう夕暮れの明かし方が、魈にとって最も平穏だった。