14 エンペラー・クリムゾンの秘密十四 エンペラー・クリムゾンの秘密
ブルーノとオランチアが崖の上にから戻ると、潮がひきはじめていました。オランチアは、リル・ボマーのレーダーで周囲を警戒しています。けれど、あやしい呼吸の反応はありません。ミシェレも、シックス・バレッツの半分を出して監視させていますが、人っ子一人猫の子一匹いません。
しばらくして、ブルーノが声を上げました。
「やっぱりな。『道』が見えてきたぞ!」
潮が引き、水位が下がったことで徐々に隠されていた道が現れ始めました。まだ海水が被っていますが、歩くには十分な浅さです。『道』は、数百メートル先にある小島に繋がっているようです。小島というよりはもゴツゴツとした大岩があるだけで、風景としてもそんな物珍しさはありません。だからこそ、見せたいと思うだけの『何か』があるはずです。
「よし、アバティーノ。再生を開始してくれ」
ブルーノが言うと、アバティーノは「ああ、準備万端だぜ」と笑って、再生を開始しました。ムーディー・ジャズはネイサスの姿になって、海に現れた道の上を走ってゆきます。やはり、トリシアのお母さんとの待ち合わせ時間前に見に行ったのです。小島にプレゼントか何かを隠していて、それを確認しに行ったのかもしれませんが、ともかくブルーノ達もネイサスを追って小島に向かいました。しかし、近づいてみても、やっぱり岩しかありません。
しかし、ネイサスは何もない岩の前に立つと、割れ目に金属の棒を差し込み、こじ開けます。すると、岩の表面がきれいに剥がれるように外れて、石の板が現れました。明らかに自然にできたものではありません。人間が作った石の板――いいえ、扉です。その扉の表面には絵と文字が彫られています。ネイサスは興奮した様子でいいました。
「よし、誰にも見つけられていないぞ! 古代の皇帝の墓だ! 僕と彼女が第一発見者になるんだ。でも、彼女に見せる前に、中を確認しないとな。悪い空気が入っていたらいけないもの」
ネイサスは力いっぱいに石の扉を開けます。ズズズ、と重い石同士がこすれる音がして、細かな砂や小石がパラパラと降ります。ブルーノたちも、固唾をのんで見守りました。扉が完全に開けられると、石室の中に月の光が差し込みました。ブルーノたちも、ランタンで内部を照らします。石室は奥行き数メートルほどで、壁にはさまざまな古代文字や絵が描かれています。けれど、みんなは違和感を覚えて眉を上げます。
「なんか、不気味だなあ。皇帝のお墓って、もっとピカピカで豪華だと思ってた」
オランチアが呟きました。
一方、ムーディー・ジャズが再生しているネイサスは、うっとりとした顔で墓の中を見ています。けれど、オランチアの率直な感想は、もっともなのです。
古代の権力者のお墓というものは、大抵、死後の楽園の様子や、星空や、神々の神々しい姿や、あるいは死から復活する様子が描かれているものですし、金銀財宝が山のようにあるものです。死者が死後の世界で楽しく不自由なく暮らすことや、神様の仲間入りをして、この世に生きる者を見守ってくれるよう願うために。でもこのお墓は随分と様子が違います。壁に描かれている絵は地の底に住む怪物や、冥界の囚人や、いかめしい顔をした地の底の神様ですし、財宝などこれっぽっちもありませんし、墓泥棒が荒らしたような形跡もありません。壁だって岩肌を削っただけで、大理石や、白い凝灰岩で覆われていません。奥にぽつんと、石の棺が置いてあるだけです。壁に書いてある文字を読むことはできませんが、少なくとも死者への祈りでないことは文字の感じからわかります。祈りの詞(ことば)なら、丁寧に、美しく書かれるものですが、この墓の壁面文字は力みすぎているのです。強い怒りと恨みの感情で書かれているのが見て取れます。
「呪われているんだわ。この墓に埋められた皇帝は」トリシアは腕をさすりながら言いました。墓の中は、ひんやりというか、ぞっとするような肌寒さでした。「誰も祈ってくれない。それどころか、死後の苦しみを願われている。何千、何万もの人を殺した重罪人の墓のよう!」
一方ネイサスは、興奮した様子で壁の文字を見てブツブツと呟いています。考古学好きで、解読もできるようでした。
「やっぱり本当にいたんだ! あの伝説の『暴帝』は! そして、あそこに眠っている!」
ネイサスは、墓の奥にある石の棺に気がつきました。そして、棺の上にあった『何か』をそっとどかすと、蓋に手をかけ――ほんの好奇心だったのでしょう――中を覗いたのです。
その時でした。ネイサスが突如雷にでも打たれたかのように、もんどりうってひっくり返ったのです。白目を剥き、全身を痙攣させたかと思うと、仰向けに倒れた姿勢のまま、まるで身体の下に見えない板でもあるかのように、立ち上がりました。『ネイサス』は手足の感触を確かめると、凍り付くような笑みを浮かべ、墓の外に出て行きました。
「アバティーノ、再生を一時停止だ」
ブルーノが指示を出すと、『ネイサス』は石の扉を閉めようとしたところで動きを止めました。
「な――なんだったんだよ、今の!」オランチアは声を震わせます。「なんなんだ!? ここに埋められてた皇帝ってのは!」
衝撃的な出来事に、みんなは顔を見合わせます。ネイサスが棺を開けた瞬間に出てきた『何か』が、ネイサスの肉体を乗っ取ったことはわかります。その『何か』が、ネイサスの身体を使い、おそらくは、本物の王様を弑(ころ)して成り代わったのでしょう。そう考えると、王の不審な点や、不可解な点がすべて説明がつきます。すべてのつじつまが合うのです。王が突然姿を隠すようになった理由も、トリシアを始末しようとする理由も、ペリラスさんが「人が変わったようだ」とこぼしていた理由も、ブルーノの聞いた王の声が、即位年からすると若すぎる理由も、これですべて説明がつきます。
けれど、いったい『何』が乗っ取ったのかは、ムーディー・ジャズの再生ではわかりません。そもそも、棺の中にいた『皇帝』とは何者なのでしょうか?
すると、ジョジョが静かに口を開きました。
「僕はこの三日間、この島の歴史について調べてきました。二千年ほど前、サトゥルーニャ島がサンダリーナ島と呼ばれていた時代、スラージエ遺跡に見られるような豊かな帝国がありました。土地の恵みと海の恵みで、人々は豊かな暮らしをし、優れた文明がありました。中でも操船技術に長け、皇帝の支配は周辺の小さな島々だけでなく、コルーシャ島や、ラティニア沿岸や、シセルリア島にまで及びました。しかし、その豊かな帝国は、一代の皇帝によって滅んだのです」
「ええと、つまり、自分で自分の国を終わらせたってこと?」と、オランチアは口を挟みました。
「……正確に言うと、英雄ロマティヌスを盟主とした連合軍によって攻め滅ぼされました。ですが、連合軍が攻め入ったのは、皇帝の悪政によってサンダリーナがあまりにも乱れており、人々が苦しんでいたからです。飢えと病と恐怖に支配されたサンダリーナの軍勢は、あっという間に総崩れとなり、皇帝の宮殿は焼け落ちました。そして、皇帝はなだれ込んだ兵士達に全身なますのように切り刻まれて絶命しました。その兵士の中には、サンダリーナ兵も多くいたそうです」
ジョジョは棺の中をランタンで照らします。蓋の隙間からは人骨が見えましたが、骨には異様なほどたくさんの傷がついていました。
「そ……そんなヤバい皇帝だったのか? 味方からも見捨てられたんだろ?」ミシェレが言いました。ジョジョは頷くと、話を続けました。
「元々、美貌の持ち主で、武芸にも、学問にも――あらゆることに秀でた人物だったようです。ですが、皇帝になってから次第に精神が堕落し始めた。歴史書にはそうなった詳しい経緯は書かれていませんが、周りの人間が、『劣ったもの』にしか見えなくなって、価値を感じなくなったのかもしれません。彼は政治への興味をなくし、自分の興味と欲望に忠実になりました。毎日贅沢な食事をしたり、重税をかけて、巨大な宮殿の建造に民を駆り出したり、魔術に傾倒し、人間を実験台にして殺した……などなど、例を挙げればキリがありませんが、そんな皇帝を象徴するような二つ名があります。後世の歴史家がつけたあだ名がね」
「あだ名?」アバティーノがききました。
「自分を諫める者、逆らう者、気に入らない者、ちょっとしたミスをした者、特に理由はないけれど、目についた者――とにかく皇帝は、すぐに人を殺すようになりました。その衣が、返り血で赤く染まらない日がないほどに。その逸話からついたあだ名が、『エンペラー・クリムゾン』なのです」
「『エンペラー・クリムゾン』!」ブルーノたちの驚いた声が、墓の中に響き渡りました。
「ただし、これらの記録は、滅ぼした側が記したものだったので、真実かどうかは長く疑問視されてきました。それどころか、実在すら怪しまれていたそうです」
「なるほど。『攻め滅ぼす』ってのは印象がよくねえからな。ロマティヌスの功績を称えて正当化するために、話を盛ったってわけだな」話についていけずにぽかんと口を開けているオランチアに助け船を出すように、アバティーノは付け加えました。
アバティーノの話にさらにわかりやすくしますと、ただ喧嘩して相手をボコボコにするのと、いじめ現場を見つけて、いじめっ子に立ち向かってボコボコにするのとでは、同じ喧嘩でも印象が変わりますね。そして、そのいじめっ子の行いがひどければひどいほど、いじめっ子に立ち向かって喧嘩をする『大義名分』が立つということです。でも、そのいじめっ子の行いが人間とは思えないほどひどければ、「自分の正当性を主張するために、百倍に話を膨らませているんじゃあないか?」と疑いを持たれる、ということです。さて、説明はこれくらいにして、みんなのお話をきくことにいたしましょう。
「だが、二千年前なら、乱行はともかく、実在までは怪しまれないんじゃあないか?」ブルーノがききます。
「皇帝が殺された後、残された人々は徹底的に彼の痕跡を消して、忘却したのだそうです。そして、ロマティヌス側が書いた歴史書でも、その名は意識して伏せられていましたから。死してなお、人々に恐れられていた。僕が調べた範囲はそれだけです。名前は僕もわかりません。もしかすると、この壁面文字に書いてあるかも。恐らく、永遠に死者の国に押し込めるためのまじないの言葉か何かが書かれているんだと思います」
「解読できるの?」トリシアがききました。「名前がわかれば、あいつを倒す突破口が見つかるかもしれないわ」
ジョジョは肩をすくめます。解読するとなると、古代のサトゥルーニャ島の言葉を習得しなくてはならないでしょう。何日かかるかわかったもんじゃありません。
すると突然、
「その必要はありません」
と女性の声がしました。ブルーノたちは一斉に、いつでも戦える体勢をとります。女性の声は続けて言いました。
「どうか、警戒しないでください。私は長い間、ここであなた方のような者を待ち続けていました。『ティラブロス』を倒そうとする者を」
「『ティラブロス』? それがあいつの……この皇帝の名なの?」
謎の声に尋ねるトリシアに、ブルーノは「しっ!」と口元に指を立てます。声の正体がわからない以上、うかつにこちら側の情報を与えるのは好ましくありません。
「姿を見せてくれ。あんたは何者なんだ?」
ブルーノは慎重に聞きました。
「私は、かつてこの墓にティラブロスを縛り付けていた者です。肉体はとっくに朽ち果てて、精神しか残っていません。あなた方に語りかけることしかできないのです」
声は言いました。澄んだ泉のように清らかで、陽だまりのようなあたたかい響きが、心の中に直接しみいってくるようでした。
すると、ジョジョが墓の隅に人骨があるのを発見しました。
「あの時、ネイサスが蓋の上から動かしたのは、ひょっとして……」
「はい。私の骨です」ジョジョの言葉に、声が答えました。「生前、私は炉女神に仕える神官でした。連合軍によって討たれたティラブロスでしたが、邪悪で、強大な精神の力は残っていたのです。強い恨みの念を糧に。そのため、ティラブロスの遺骸がこの墓に葬られたとき、その力を押さえ込むために私は自ら墓に入りました。以来、ずっとここにいるのです」
その言葉に、墓の中は静まりかえりました。互いの心臓の音が聞こえてきそうなほどに。つまり、彼女は自ら生き埋めになったのです。それが正しい、自分の歩むべき道だと信じて。その道の先が、断崖絶壁だと知っていて歩んだのです。どれほどの覚悟を要したことでしょう。けれど声の主は、淡々と続けました。
「ですが、あのネイサスという青年が私の骨をどかしてしまったので、ティラブロスの封印が解けてしまったのです。ネイサスの身体を乗っ取ったティラブロスは、ロマティヌスに向かい、本当の王様を殺して成り代わった。あとはあなた方もご存知の通りです。今のティラブロスは、『未来を予知』し、『時間を吹き飛ばす』ことができます。その力に弱点はありません。不意打ちしても、返り討ちになるでしょう。ですが、『可能性』はある。その『可能性』を伝えるため、私は待ち続けていました」
「可能性? いや、それより、あなたの時代から、ティラブロスは『エンペラー・クリムゾン』を持っていたのか?」ブルーノは聞き返しました。
「いいえ。ティラブロスはあの青年の身体を乗っ取った後、その精霊を得たのです。『星の鏃(やじり)』――あなた方もきっとご存知のあの『矢』によって」
「『矢』って!」オランチアが声をあげました。
みなさんは、ポリープスの精霊が持っていた『矢』を覚えていますか? 忘れていた方は今すぐ思い出してください。ポリープスの精霊が持っていた『矢』は、精霊保持者の素質のある者からその才能を引き出すことができます。事実、ジョジョとトリシア以外の四人はこの矢の力によって精霊の保持者となったのです。
「あの『矢』は、かつては星女神よりの賜物として神殿に収められていましたが、長い年月の中でいくつかは散逸してしまいました。きっとその失われた『矢』の一つを手に入れ、利用したのでしょう」
「そして、ポリープスに渡して、精霊使いの役人を増やしたのか。自分に都合のいい『道具』を増やすために……」ブルーノは言いました。
「本来は、『矢』が素質のある者を引きつけるのです。無差別に刺して『選別する』のは間違った使い方です」声の主はため息をつきながら言いました。「その矢にこそティラブロスを倒す可能性が秘められているのです。ですが、その可能性について、私は詳細を知りません。詳細を知る方は、王都ロマティヌスにいます。私はその方に、近い将来、ティラブロスを倒す志を持ってこの墓を訪れる方々に伝えてほしいと頼まれたのです。私にティラブロスのエンペラー・クリムゾンの力について教えてくれたのもその方なのです」
「つまり、ロマティヌスにいけば、その矢の持つ真の力がわかるということか。だが、一体何者なんだ? なぜ矢のことを知っているのだ?」ブルーノはまたききました。
「その方も、あなた方と同じ精霊使いで、あの矢とティラブロスを追い続けていました。ですが、もう戦える身体ではないのです。同じ意志を持つ者に、希望を託すために、私に伝言を頼んだのです」
「わかった。しかしひとくちにロマティヌスといっても広い。どこに行けばいいのだろうか?」
ブルーノが言いました。王都ロマティヌスは、ラティニアの都というだけあって、もっとも大きい都市です。人口はおよそ七十万と言われ、その中から一人を捜し当てるだなんて、小麦倉庫から一粒の米粒を見つけ出すようなものです。
「円形競技場(トゥルレウム)へ。私のペンダントをお持ちください。炉女神に仕える者の証であり、私たちの希望を託された方のしるしです」
ジョジョは骨の中にペンダントを見つけます。ペンダントには火のように赤い石が嵌められていました。
「さあ、私の話はこれがすべて。あなた方は王都ロマティヌスに急がなくてはいけません」
声は、凜とした調子でいいました。
「そうだな。さあ、急ごう! もしかすると王――いや、ティラブロスの刺客も海の道に気がついて見に来るかもしれないからな」
みんなが向きを変えて足を踏み出そうとすると、トリシアは骨のある方を振り返って言いました。
「あの、ありがとう。いろいろなことを教えてくれて。あなたの名前を教えてくれる? あなたのことをずっと覚えていられるように」
「いいえ、お礼を言うのは私の方ですよ、私たちの道と希望を受け継いでくださる、勇気ある方々。私の名はベルティナといいます。どうか、あなた方の道行に輝ける火の導きがありますように。幾久しく炉辺(ろべ)に賑わいのありますように」
みんなは墓から出ました。外は変わらず月と星が輝いていて、さっぱりとした夜の風が渡っています。すると、トリシアがはっと顔色を変えました。
「今一瞬、アイツがいるのを感じたわ! ほんの一瞬だけど――こっちに向かう意志を!」
「ティラブロス直々に来たのか! だが、今はロマティヌスに急がねば!」ブルーノは言いました。
「だけど、あの道じゃあ鉢合わせる可能性が高い。泳いで逃げるか?」
と、アバティーノが言うとジョジョが足元の大きな石を拾っていいました。
「僕に考えがあります。みんな、亀の中にはいってください。この石を魚に変えて、遠くに引っ張って貰いましょう」
ジョジョは石をマグロに変えると、みんなが入った亀を抱えてマグロにしがみつきました。マグロはぐんぐんと波を裂くように泳いでいきます。マグロは魚の中でも大きく、引っ張る力も強ければ、長時間泳ぎ続けることもできるので、ジョジョがひっついていようとお構いなしで泳ぎ続けられるのです。
そういうわけで、ジョジョ達はあっという間に港にたどり着きました。そしてロマティヌス方面に向かう夜行船を見つけると、迷わず飛び乗りました。
一方、トレッポは海の道の先に、岩を掘ってつくった小さな墓があることに気がつきました。けれど、もう誰も、どこにもいません。
「王様がいうには、このあたりに裏切り者がいるはずだけど」
すると、トレッポの頭に王の声が響きます。王はいつもこのようにトレッポに声をかけ、命令を下すのです。
「トレッポ、周囲に残った足跡を調べるんだ」
トレッポは言われたとおりに周囲を調べます。すると、足跡がひとつ、海に入っていったようでした。
「王様! 海に入っていった足跡があります! でも、一つだけです」
「なるほどな。トレッポ、お前の存在に勘づいて、他の者を亀の中に入れて海を泳いでいったのだ。おそらく裏切り者たちは港までいって、船に乗るはずだ。お前もすぐに港にむかえ。捕まらずとも、どこにゆく船に乗ったかは絞れるはずだ」
「わかりました、王様!」
トレッポの言葉は、海風に溶けてゆきました。トレッポはくるりと向きを変えると、一目散に、港に向かいました。
船が港を離れ、陸地もすっかり見えなくなると、トリシアはこっそり亀の外に出て、さわやかな風を胸いっぱいに吸い込みました。空には大きな月と、月の光に負けまいと輝く星々が、いちめんにちりばめられています。ずうっと見ていると、上も下もわからなくなってきそうな、吸い込まれそうな星月夜でした。船は半日ほどで、ロマティヌスより四十キロメートルほど北にある港に着く予定です。けれど、その港で降りれば、王の刺客に待ち構えられているかもしれません。ですから、陸地が見えた時点で船から下りて、ボートで別の岸辺に向かうことになりました。
「トリシア、危ないから亀から出ない方がいいよ」
オランチアが言いました。トリシアは少し申し訳なさそうにわらうと、
「ごめんなさい。綺麗な夜空だったから」
と、言いました。オランチアもトリシアにつられて夜空を見上げます。オランチアの紫色の目も、月と星の輝きでいっぱいになり、顔がぱっと明るくなりました。
「本当だ。こんな大きい空、俺はじめて見たよ。ナープラじゃ、建物や木に邪魔されてこんなに大きく見えないもの」
「ええ、本当。それになんだか不思議な気分。母も、祖母も、ずっとずっと昔の人も、こうやって夜空を眺めてきたんだわ。それに今も、うんと遠くにいる人が、きっと同じように夜空を眺めてるの。この夜空の下に、広い世界があって、たくさんの受け継いできた歴史があって、たくさんの人生があって、私もその世界の一部なんだって、そう思えてくるの」
「じゃあ、フラゴラも、見てるのかなあ」オランチアはぽつりと呟きました。
「それはわからないけど……空はフラゴラにつながってるわ。同じ月と同じ星がきっと彼を照らしてる」
トリシアがそう言うと、オランチアはほっとしたような笑顔になりました。
「……フラゴラが前に教えてくれたんだ。今見える星の光は、うんとうんと昔の光なんだって。俺、ばかだから、その時は言ってる意味がわからなかったけどさ。今度星を見るときは、フラゴラに教えてもらおうかな」
「そうね。私もその話、詳しく聞いてみたいわ。そのためにも、私たちがあいつを倒さなくちゃいけないわね」
「倒せるよ。俺たちがあの大きい大きい夜空のほんのちいさな星みたいなものなら、あいつだってそうなんだよ。ほんのちょっぴり大きいかもしれないけど。だから、力を合わせればきっとあいつより大きく、強い星になるよ」
オランチアが言うと、トリシアは、おかしそうにくすりと笑いました。オランチアは、自分がまたおかしなことを言ったのかと思って、ばつの悪い顔になりました。しかし、トリシアは「ううん、おかしかったんじゃないのよ」と、お母さんとよく似た笑顔で言いました。
「オランチアってとってもいいことを言うのね。元気がでてくるわ」
オランチアはなんだか面はゆくなって、指でほっぺたをかきました。空では、二人をあたたかく見守るかのように、ほほえみかけるかのように、ちらちらと星々がまたたいていました。
「王様、裏切り者はロマティヌス方面の船に乗ったとみて間違いありません」
こうこうと明かりの灯る夜の港で、トレッポが独り言を言いました。すると、王の声がすぐに答えました。
「やっぱりな。用心深いあいつらのことだ。到着する港ではまず降りないだろう。途中で船をおりて、付近の岸辺から陸にあがるはずだ」
「しかし、どこにいくつもりなんでしょう?」
トレッポはききました。
「先ほどの墓で、あいつらは私に関する何かを知ったに違いない。しゃくなことだが……」王はしばし口ごもりました。王の正体については、トレッポにも教えていません。「だが、奴らは王都ロマティヌスに現れる! それは確実に言える!」
「じゃあ、ロマティヌスに網を張りますか?」
「いや、それじゃあ切りがない。それよりもっといい方法がある」
王はぞっとするような声で言いました。
「予定よりも随分早いが、かまわん。あの忌々しい、ロマティヌスごと奴らを葬ってやるのだ。ゼッカラータとセッカートに命令を下せ。やつらを始末しろとな。だが、お前もゆくのだ! あいつらにも首輪は必要だからな」