Shifted, but Stable Slumber 淡いレースのカーテンが引かれた寝室は静謐で、空気さえもこの部屋で眠る病人のためにじっと身じろぎをやめている。
今は目を覚ましてます、と微笑む彼の妻に見送られ、男はそんな雰囲気を意に介することなくずかずかと足を踏み入れた。その足音と気配に寝台の上の掛布の塊がうごめく。
「……ソル?」
「大したざまだな」
「すまない……見苦しいところを見せる」
ぐったりと枕の上に短い金糸の髪を散らしていたカイは億劫げに眼をひらいて寝返りを打ち、掛布から出した右手でくしゃりと前髪をかきまわす。精一杯身じまいをしようとしているらしいが、ソルに言わせればそんなものは馬鹿げている。
病人はあろうことかそのまま手をついて起き上がろうとするので、ソルは枕元の椅子にどっかりと腰掛けて舌打ちをした。
「馬鹿かお前は。よほど嫁の気遣いを無にしたいらしいな」
「あっ」
額を指で押すとその身体はぽすっと簡単にベッドへ沈んだ。一瞬触れた肌は熱い。カイはしばらくシーツの海でもぞもぞと抵抗していたが、やがて諦めたらしく動きを止める。
「体調を崩すということがあまりに久しくて、どうしたらいいかよくわからなくて」
「黙って寝てろ」
「今日はもう一生分寝たような気がする」
「お前の生活習慣についてはあいにく嫁ほど詳しくねえが、いつ寝てるのかわかんねえような生活を何週間も続けてる方が悪い。せいぜいツケを払え」
「だって、やることは山積みなんだ……執務室のエベレストが」
「それでお前が倒れてちゃ世話ねえな」
「……返す言葉もない……」
しゅんと雨に濡れた犬のようにカイがしおれる。やけに殊勝だ。そして隙だらけ。口数が多いのも熱で意識が朦朧としているからだろう。普段のカイなら、いくら長年の確執が解けて気を許しているとはいえ、ソルにここまで弱みをさらけ出すことはない。
男は唇をつぐんだ。カイが平静を装おうとしたのを阻止したのは自分なので、彼はそれに従って取り繕わないというだけのことである。それも、昔では考えられないほど素直な行動だった。
カイの目元はほんのりと赤く、常には涼しい眦もとろんとゆるんでいる。枕元に座る男を見上げるまなざしは茫洋としていまだ本調子ではない。ギア細胞に過労で熱を出す機能が備わっているとは思わなかった。あるいはカイのことだから、先月の「公表」の対応に追われた心労もいくらかその荷を重くしていたのかもしれない。
男は、自分が病室にいるのに向かない人間だということを承知していたので、肩をすくめて腰を上げようとした。
「……顔を見に来ただけだ。邪魔したな。養生しろ」
「あ」
ついこぼしたというような小さな声がベッドから上がった。
反射的に視線を向けて、男は表情を変えないまま喉の奥で息を止めた。男の赤瞳とカイの碧眼が交わる。
乱れた前髪の奥で潤んだ湖水色の眼が一心に男を見つめていた。ひそめられた柳眉と薄くひらいた唇には名残惜しげな感情がにじみ、まるで迷子の子どもに手を握り締められたような錯覚に襲われて。
刹那、ソルの脳裏に走ったのはずいぶんと昔の……彼がまだ十五歳の、正真正銘の子どもだった時の思い出だ。
「……ソル、ですか?」
「……」
——はあ、と熱く余裕のない呼吸音がかすかに薬くさい空気の中にくりかえし落ちる。くるまった清潔なシーツを握り締め、常よりかすれた囁きが男を呼んだ。
聖騎士団の白い法衣に身を包んだ男の姿をみとめ、少年の青い眼がほっととろけた。よかった、手も足も欠けていないし、酸鼻を極めた戦場に精神を病んだりもしていない。
その拍子に生理的な涙が目尻から流れたのをあわてて拳で拭う仕草はほとんど年相応の幼さそのもので、らしくもなく男はぐっと噛みしめた奥歯に力を込める。
ここは騎士団の団舎ではあるが病棟ではない。カイの自室だ。清潔なシーツは熱を出して動けない彼に今の騎士団が与えられる精一杯の処置で、こんな状態の彼ですら「軽傷」の部類に入ることを示していた。
「無事だったんですね……」
「……容体は」
「大したことはありません。脇腹の傷がもとで、発熱があるだけです。それも下がってきているから、数日中には起きられます」
男は無言で寝台に近づき、カイの頭に手を伸ばした。途中で気が付いて一度引き戻し、手袋を外す。なにを、とかすれた声で喚いていた少年はソルの分厚く硬い手のひらが前髪をかき分けて額に置かれると、意図を察したのかじっと大人しくなった。
いつもなら炎のようなソルの手にも、少年の方が熱く感じられる。それでも危険なほどの体温ではなく、一昨日の戦場で負った傷が原因で、すでに解熱しつつあるというのならば確かに大事ではないのだろう。
男が身体を引くとカイはほんの僅か惜しむようなため息をついたが、すぐに唇をつぐんだ。淡く色づいた口唇は乾いて、ギアと交戦した際に作ったと思しき小さな裂傷がある。
「……書きましたか、始末書」
「ああ?」
「あなたのことだから、また武器壊したでしょう。あの状況ですから……」
「口が利けるようになったらすぐそれか」
「あ、本当に壊したんですね。だめですよ……書類、取りまとめるのは私なんだから」
薄い胸を上下させて呼吸しながらも、つらつらとかすれた声で喋るのをやめようとしない。怪訝に眉を顰めていた男が、少年が可能な限り「平時」のやり取りを保とうとしていることに気づくのはすぐだった。
弱っているところを見せたくないのか、先の凄惨な戦いのことを思考から追い出したいのか。……聖戦の申し子のような坊やに限って現実逃避はあり得ない。とすれば、男が目の前にいることで不必要に気を張ってしまっているのだろう。
男は鼻を鳴らした。プライドだけは一丁前だが、熱で頬を紅潮させたガキにくどくど説教されるなんてまっぴらだ。くるりと踵を返す。
「帰る」
「あっ」
つん、と法衣の裾にかすかな抵抗があった。
まさかと思って振り返ると、掛布から伸ばされたカイの右腕が不自然に宙をつかんでいる。わずかにばつの悪そうな、それでも心細げに甘える碧水色の双眸が男を捉えていた。親において行かれることを恐れる雛鳥のような顔で……。
「……」
十五年分の歳月を経たカイが、いま、目の前で同じ眼をしている。
多分本人にとっては意図したことではないのだろう。あの時も今も。
寝巻に包まれた右腕はシーツの中に納まっている。彼はもう大人だから手は伸ばさない。それだけにいっそうその表情は切実だった。
目を離したらもう二度と会えないかもしれない。比類ない強さのソルですら例外ではない。戦時下の恐れが彼に刻み付けた情動が、熱に侵された身体の中から一時顔を覗かせる。
ソルは止めていた息を短く吐いて、カイを見下ろした。時間にすれば二秒にも満たない間のことだった。
「……そういうツラは、ガキの頃から変わんねえな」
「……なに?」
混濁しつつあるカイのまなざしが瞬き、蝶の羽のような睫毛が上下する。その目元を手で覆い、ソルは再び椅子に腰を落ち着けた。
「いいから寝てろ。お前が寝つくまでは、まあ……居てやる」
「……ふ」
カイが瞬きをすると睫毛が手のひらをくすぐる。形の良い口元が安堵の微笑みを形作る。既視感のある光景だ。幼いカイもあの時こんな風にして笑った。
しかし、ほんの少し面白がるような調子の混ざる囁きは強かな大人のもの。
「お前だって……そういうところは、昔から変わらない……」
「ああ?」
「すまない、すこし……眠る」
「……フン」
最後に一度睫毛がソルの手をくすぐり、ゆっくりとカイの肩や首筋からこわばりがとける。規則正しい呼吸音が聞こえてくるようになってソルはやっと乗せていた手をどけた。
それから椅子に座りなおし、足を組み、これからの時間をどうやって過ごそうか思案を巡らせはじめる。
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