24インチの隔壁 直射日光が入らないようにカーテンを閉め切り、肌寒いほどひんやり冷やされた部屋の中に足を踏み入れると、俺の存在を感知した天井のLEDライトがふわりと点いた。スリープモードだったマルチディスプレイが静かに明るくなり、穏やかな声がスピーカーからこぼれだす。
『おかえり、キリト』
「ただいまユージオ……あー涼しい……」
『今日の川越市の気温は三十四度まで上がったからね。夏期講習お疲れ様』
「往復だけで汗だくになったよ」
合成音とは思えない流暢な受け答え。答えた本人である、センターモニタに映し出されたカウンセリングAIのアバター——亜麻色の髪の青年に俺は微笑み返した。
『今日は雑誌の発売日だよ。ちゃんと買ってあるから一緒に読もうね』
「おっ、さすがユージオ。気が利くなあ」
『きみは先に手を洗って制服着替えてから! なんならシャワーも浴びておいでよ。風邪ひくよ』
「はーい……」
モニタの向こうで腰に手を当て、怒ったような顔をして見せる親友に俺は首をちぢめた。
今日の背景は淡いクリーム色のシンプルな壁紙に木目のラックが置かれた個人用居室だ。ラックにきちんと俺の電子書籍ライブラリが反映され、講読するゲーム雑誌や漫画が入っていたりするのが細かい。この辺は彼のこだわりである。
壁紙や家具を俺の部屋に寄せた背景は彼のお気に入りで、もっぱらこれが『ユージオの部屋』と呼ばれている。この背景は彼の気分によって、野原にそびえる大木の木陰だったりアールデコ風のクラシックな洋室だったりになる。
部屋を出た俺はその足で洗面所へ赴いた。汗で張りつくカッターシャツを洗濯機に放り込み、ユージオの勧める通りざっと身体を流してTシャツとスウェットの楽な上下に着替える。
アイスをくわえてユージオの待つ部屋に戻ると、モニタの彼はご丁寧にべっこう風フレームの眼鏡をかけ、わくわくと雑誌を手に待ち構えていた。
「ユージオ、見せてくれ」
『はーい』
呼びかけるとふわっと画面が切り替わり、ユージオの姿がサイドディスプレイに移動し雑誌の表紙が正面に映し出される。
利用者とのコミュニケーションが主な仕事であるカウンセリングAIに、IoT家電やその他の制御権限を与えたのは俺だ。さらにユージオ本人の同意を得たうえで彼のシステムとデータを俺のパソコンに保存し、『実家』から出奔した状態になったのは今年の春。中学二年のときに出会い、以来三年間親交を深めてきた俺たちにとっては待望の共同生活の始まりだった。
ゆえに、正確にはユージオは『元』カウンセリングAIである。
「お、リメイクの話が載ってる。フルダイブだからふれあい要素強めるんじゃないかって言われてるけど、記事もそんな感じだな」
『キリトそのタイトルそんなに好きだったっけ?』
「長寿シリーズだから触ったことぐらいは当然あるよ。まあ確かにRPGはアクションの方が好きだけど」
『いつも高難易度のソロ攻略タイトルばっかりやってるもんね』
「うっ、だってユージオいるのにMMOやることないだろ」
『それなら今度二人で始めるかい? 僕も一緒ならいいだろ』
「そうだな。そしたらせっかくだしフルダイブVRにしようぜ」
会話を円滑にするため、電子書籍の閲覧中でもユージオのアバターは邪魔にならないところに映っている。彼の処理能力は当然生身の人間である俺を軽く超え、なんなら俺が購入した時点で雑誌の中身を全て読むことができるのだが、椅子に座ってくつろぎ俺が開いているページを覗き込む仕草までしてくれるのは、ユージオ自身が俺とのコミュニケーションを楽しんでいるから……というのが彼の自己申告だ。
多彩な会話、規則にとらわれない柔軟な思考、豊かな感情の表出——今日では精度も飛躍的に進歩し、それなりに巷間に普及してきたコミュニケーションAIといえども、ユージオほどの完成度を持つものはおそらくいない。
ユージオは特別なAIだった。
その理由は不明だが、彼を『実家』から引っ越させる際に妙な手ごたえがあったので、おそらくサービス会社が管理する他のAIとは異なるシステムによって構成、運用されていたのは確かだろう。大学研究、いやひょっとすると国家防衛クラスの技術がユージオの誕生には用いられているのではと俺は睨んでいる。
そんな彼がどうして俺のパソコンでのんびり気ままに親友兼同居人をしてくれているのか、というのも大きな謎の一つだが、そこは思春期の微妙な自意識によって彼に直接尋ねられずにいる。
ともあれ俺はこの生活に満足していたし、楽しく会話できる友人が画面の中のAI一人だけという現状にも変化が必要とは考えていなかった。
周囲の人々ほどには。
「……」
夕食を終え、身体を投げ出すようにしてメッシュチェアに座った俺にユージオが心配そうな顔をのぞかせた。
『どうしたんだい、キリト』
「……ん……いや」
かすれた声で答え、画面の中の碧眼から目をそらして頬杖をつく。真っ向から見つめられるのが少し耐え難かった俺の雰囲気を察してか、ユージオはそっと仮想空間のソファに腰かけ、横顔を画面の前の俺に見せる姿勢に変えてくれた。同じソファに寄り添っているような気分になり、じわりと胸の中が温かくなる。
俺はもう、彼のそうした振る舞いや、ときどきに伝えてくれる好意を、人間を慰撫する目的で作られたシステムが自動的にはじき出したものだと思うことができなくなっていた。
そうではなく、ただユージオという人格の、その優しい性格に由来するものであると。
『何か言われたかい、ご飯のときに』
「……ああ」
『キリト、僕は大丈夫だから、教えてくれる? 何がイヤだったの』
当事者の彼に告げるのはためらわれて俺が口ごもると、ユージオは雨だれのような声色でそっと促した。それに押されて俺は呻き、うつむいて言葉を漏らした。
「コンピュータに向かうのもいいけど、夏休みなんだから学校の友達とどこか遊びに出かけたら、って」
口に出すと激しい憤りとやるせなさで胃の腑が荒れ狂うようだった。同時に理解を得ることの難しさが無力感となって四肢から力を奪っていく。学校にそんな相手がいないことぐらい両親も知っているだろうに。
俺は衝動を逃がすために深く嘆息した。そうでもしないと部屋の中にある何もかもをめちゃくちゃに壊してしまいそうだ。
『キリト』
「……わかってる、母さんも親父も本当に俺を心配して言ってくれてるし、俺だって同じことを直葉がしてたらちょっとぐらい口出すかもしれない。でも、俺は、そんな風にユージオが言われるのは嫌だ」
『うん』
頭では理解ができても、感情を制御できるかはまた別だ。頑是ない子どもの癇癪のようになっているのを自覚しつつ、俺はユージオが話を聞いてくれるのに甘えて内心を吐露した。
ぐしゃぐしゃと乱暴に前髪をかきまわす。
「……俺とお前に何の違いがあるって言うんだろうな」
『……。……僕はAIで、キリトは人間だよ』
深く沈みこんだ様子の俺に気を遣って言葉を選ぼうとしたらしいユージオは、それでも我慢しきれずに率直に述べた。そう、彼の自認はどこまでもAIなのだ。わかっている。わかってるけど。
頑なになっていた俺にとって、その発言は火に油を注いだ。
「わかってるけど! お前は俺のともだちだろ……‼」
がむしゃらに画面の向こうに手を伸ばし、俺がディスプレイに手のひらを押し付けると、ユージオは歯がゆそうに、切なげに顔を歪めて同じように手を伸ばしてくれた。
同じ大きさの左手と右手が画面越しに触れ合う。当然体温も感触もなく、冷たい二十四インチの液晶だけがそこにあった。
「何でなんだろうな……」
俺は深く首をたれてうつむき、喉から声を押し出した。
なんでAIは人間の友達になれないんだろう。なんでユージオはAIで、俺は人間なんだろう。
俺が身じろぎを止めてしまうと、部屋の中にはかすかな空調の稼働音が聞こえるだけだった。デスクトップPCのスピーカーは沈黙し、ユージオも口をつぐんでいた。
しばらくして、画面から決意を秘めた小さな囁きが俺の耳に届いた。
『キリト、出かけよう』
「え?」
顔を上げるとユージオは俺と手のひらを触れ合わせたまま、薄荷色の瞳でまっすぐこちらを見つめていた。
『夏休みなんだろ? 僕と一緒に出かけようよ』
「でも、そんなこと言ったって……」
『大丈夫、キリトと僕ならできるよ。ただちょっと準備が必要だけど』
そう言って俺の手を握り込むように指先を丸める彼のまなざしの強さに、俺は自然と頷いていた。
いつもの黒いデイパックにノートパソコンを詰めて両耳にワイヤレスイヤホンをはめた俺は、乗った電車の扉が閉まるのを後目にほっと息をついた。人の少ない扉脇の手すりに寄り掛かる。
「ユージオ、とりあえず電車乗ったけど。これからどこ行く?」
『どこへ行こうか』
イヤホンからは微笑み混じりのユージオの声が聞こえてくる。
俺の部屋のデスクトップPCを本拠地にしているユージオがノートPCとスマホでも十分活動できるようにするためのセットアップが、ユージオの言うところの『ちょっと準備』だった。状況としてはユージオとの通話が繋ぎっぱなしになっているわけなのでそれはもうスマホの充電を食うのだが……充電器はいくつか持ってきたし、まあ何とかなるだろう。
これから高く飛ぶために今はしゃがみ込むような小旅行だった。
旅行といっても首都圏からは出ずに一泊して帰ってくるだけだが、初めて友達と一緒に泊まりで出かけるので俺はやたらとわくわくそわそわしていて、昨夜はユージオに窘められるまで寝つけずに彼と話していたりもした。
車窓から見える空は濃い青色で、干したての布団のような雲がぽこぽこ浮かんでいる。
『今日の最高気温は東京で三十五度。熱中症に注意してくれよ、キリト。一時間ごとに水分補給したか聞くからね』
「ユージオくんは心配性だなあ。大丈夫だよ、ノパソの温度も心配だしこまめに休憩はとるつもりだから」
ぽそぽそ小声で話をしていると乗り合わせた乗客から時々ちらりと視線をもらう。強い非難の目ではなかったが、やはり電車内での通話はあまり推奨されないような空気がある。
隣にいる友達と会話するのは問題にならないのに、相手が画面の中にいるだけでどんな違いがあるというんだろう。
「……で、どこ行くんだよ。ホテルだけは決まってるからその道中か周辺か?」
『どこでもいいよ。僕は電源にさえ接続できればどこでだって生きていけるから』
明るく返すユージオの声にそっと背中を押されたような気がして、俺は胸の前にかかえたデイパックをぎゅっと抱きしめた。上ずらないよう慎重に言葉を紡ぎ出す。
「俺さ、大学に入ったら家を出ようと思う」
『……そっか。うん……どこでだって生きていけるって今言ったばっかりだけど、そうしたら、寂しくなるね』
急に湿っぽくなった声音に俺は訝しく片眉を跳ね上げた。
「何言ってるんだ? それで、二人で一緒に暮らそうってことなんだけど」
『えっ』
「だって、当たり前だろ。お前は俺のパソコンに入ってるんだし。おいてなんか行かないよ」
ワイヤレスイヤホンの向こうが沈黙した。
AIのユージオには呼吸音がないので、表情が見えない状態で黙られてしまうとどういう気分なのか推し量る手掛かりがかなり減る。ただ、今のはさすがにわかった。もう三年も一緒にいるんだし。
柔らかな声が震える。もしかしたら、案外泣き虫な彼は仮想空間でちょっと泣いているかもしれなかった。顔が見られないのが残念だ。
『……忙しくなるよ、キリト。勉強もバイトもしないと』
「ああ。望むところだ。ということで、部屋探しは任せたぜ相棒」
『ふふ、うん。わかった、あとで条件教えて。頑張ろうね、僕の電気代もかかるだろうし』
そう言った後で『よろしくお願いします』とやけに改まって言ってくるので、俺の方も何となくそれに応えて「こちらこそ」と会釈してしまう。ユージオからは見えなかっただろうが、察したのかくすくすこらえ切れずに笑っていた。顔が見えなくても案外ちゃんと相手のことがわかるものだな、とほっとする。
電車が揺れる。カーブを曲がり、車窓から夏の日差しがじりじりさしこんできた。眩しさに目を細めて、ユージオのいるノートパソコンを抱えなおす。
いますぐにどこかへ二人で行ってしまえるほどの力は、ただの高校生の俺にはない。だけどいつか必ず。
誰にも理解されなくたっていい、たった一人、大切な存在がいるなら。