それはきっと神様のきまぐれでそれはきっと神様のきまぐれで
10年と少し前、アメリカで男性が妊娠、出産したと大ニュースになった。
男性妊娠と呼ばれるようになったそれは、一種の奇形のようなものでいうなれば奇跡。望めば得られるものではなく、偶然の産物で、唯一の奇跡なのだと思われた。
しかし、それは唯一の奇跡なんかじゃなかった。報道により検査を受ける同性カップルが頻出し、中国、ノルウェー、ブラジル、ありとあらゆる国から子宮や卵巣のある男性がごぐごく稀にだが見つかった。そして男性妊娠は『起こりうる稀有な出来事』として瞬く間に世界中に広まった。
とうとう日本でも北海道でとある男性が妊娠し、途端にアジア人における男性妊娠の研究とそれに伴う早急な法整備が進められたのである。
それでもやはり『奇跡』には違いなく、同じ男性同士の同性カップルであってももはや他人事なのが実情であった。望んで出来るものではない、それはきっと神様のいたずらなのだと誰もが思っている。だけどもそれを、ぼくたちESアイドルはすぐそばで目の当たりにしていた。
それもそのはず、七種茨はその当事者のひとりである。
数年前のある日、ぼくたちは小さな女の子に出会った。それが茨の娘で、ぼくたちESアイドルは茨の娘をマスコミに報道されないよう、ネット記事にならないよう、SNSに書かれないよう、ずっとずっと見守ってきた。今思えばどうしてその秘密が守りきれたのか不思議でしょうがないのだけど、おかげで特にスタプロとコズプロのアイドルたちは男性妊娠というものを身近に触れてきていた。
茨の娘、ユリカちゃんに出会ったものは誰もが一度は考えた。あの大ニュースになったアメリカ人の男性妊娠の報道よりも、彼女が生まれた日の方が早いのでは?と。もれなくぼくも真っ先にそう思った。
本人曰く、男性妊娠は普通に古来からあったことらしい。忌み嫌われ、畏怖され、そして今より医療も発達していない頃は母胎が持たずに亡くなることがとても多かったから包み隠されてきただけだと。だから、なにも別に驚くことでもないのだと。
とある内々の飲みの席で、ウーロン茶を飲みながら茨はそう言っていた。
閑話休題。
過去を思い出すなんてぼくらしくないね。らしくないことをしちゃった。
今日は茨の産休明けはじめての出勤日である。
出勤日とはいえ、まだ赤子は一ヶ月検診を終えたばかりで保育園に預けられる月齢にすらなっていない。この子の兄は1学年年上なのだけど、その子が生まれたときに思うように生活できないストレスから茨が爆発してしまったので、コズプロの副所長室を清潔にした上で茨が籠ることで勤務を可能にしたのだ。
執事くんも可能なかぎり育休を取るらしいけどアイドルである以上がっつりお休み、というのも難しい。茨もプロデューサーとして、『だったらコズプロで自分がみますから弓弦は仕事をしてください』ということになったらしい。先週、ぼくたちに菓子折りを持ってきた執事くんが言っていた。
朝、産休前と同じように出勤してきた茨は大荷物だった。
つい今朝は早起きをしてしまって、特に予定もないけどふらりと早めに事務所にきて暇つぶしをしていてよかった。ちなみに茨は産休中だろうとおかまいなくぼくたちにメールで仕事を送ってくるので、暇つぶしには困らない。
「おはようございます、殿下。お早いですね?」
「ああ、うん。なんか早く目覚めちゃったんだよね」
なんだかえらく大荷物だね?なんて言いながらまだ首も座らない赤子を横抱きにして一直線に副所長室に向かう茨を追う。
「手伝っていただけるんですか?」
「うん?なんでぼくが?」
「……ま、そうですよね」
はなから期待してなかった、というように茨は一昨日スタッフが準備していたベビーベッドに赤子をそっと寝かせた。
やけに手慣れているのは、一つ年上のこの子の兄のときも同じことをしていたからである。
ぼくがふんふんと鼻歌を歌いながらベッドのそばでかがみ込むと、茨はぼくがみていてくれると判断したのか大きな荷物をあけておむつだのおしりふきだのを整えはじめた。
茨は淡白で毒蛇と呼んでいたくらい性格が悪いけど、子どもたちに対しては人が変わったかのように基本的には案外過保護でわりとちゃんと母親である。
「ちっちゃいねぇ……」
その小さな頬を人差し指で撫でる。
「ちょっと殿下、まだ起こさないでくださいよ」
苦言を呈してくる茨にはひらひらと手を振って返す。
目の前にいる生後二ヶ月の赤ん坊は、執事くんと同じ深い青色の髪をしてすよすよと眠っていた。
その執事くんは、今日はテレビ局で一日ロケらしい。他事務所で特に関わりもない彼のスケジュールなんて知る理由もないんだけど、隠すべきスケジュールでもないかぎり執事くんも茨も最近は特にあけっぴろげだからなぜか知っている。と、いうか菓子折りついでになんとなくお世話になりそうな忙しい週はあらかじめ執事くんが自ら教えてくれていた。人の面倒を見るのが職業の執事くんは、報連相に抜かりがない。まあ、プロなんだから当然だけどね。
空調の風が当たって、赤ん坊の前髪がなびく。青い髪はふわふわと動いていた。
「ねぇ、セイくんより髪が薄いんじゃない?」
「ああ、ユリカに似たんですかね。ユリカも猫っ毛でしょう」
自分と同じ、と茨は言った。
業務が溜まっているのだろう。茨はこちらをちらりと見やっただけでカバンの中からいそいそと粉ミルクの缶と哺乳瓶を取り出した。
「ミルクを作ってくるので、見ていていただけますか」
「うんうん、構わないね!」
術後一ヶ月だとは思えないほど軽々しく動く茨は、相当痛みに強いらしい。小走りで部屋を出て行った。
改めて赤ん坊の顔を見ると、色は執事くんだけど目のぱっちりしたところだとか口元だとかはなんとなく茨に似ている、ような気がする。茨の幼少期なんて知らないから、比べようがないけども。
一番上の長女であるユリカちゃんは茨の生き写しかと思うほどそっくりで、それでも中身は毒蛇の娘だとは思えないほど愛らしくて優しい。二番目の長男であるセイくんは容姿だけは執事くんそのままである。しかし中身はあの茨が「間違いなく自分似です」と言い切るほど毒蛇の息子に相応しいなかなかのやんちゃ坊主だ。
三番目のこの子は何になるのだろう、はじめての場所でもこんなに危機感もなくすよすよ眠って、母親の不在にも気が付かないのだから両親からは考えられないのんびりした子に育つのだろうか。
しばらくすると、扉が開いた。
ノックがないので茨かと思ったが、現れたのはよぉく見知った、さっきぶりの顔。
「ジュンくん」
ここにいると思わなかったのか、ジュンくんが軽く目を見開いていた。
ジュンくんとぼくは、ES近くのタワーマンションで二人で暮らしている。仕事でもプライベートでも、毎日一緒にいるので見慣れたどころかみるとホッとする顔だ。
「おひいさん、ここにいたんすか」
「うん、まだちょっと時間があったから」
「茨は?」
「ミルク作りに行った」
「ああ」
そろり、とジュンくんも赤ん坊に手を伸ばす。
セイくんが赤ん坊のときは、まあよくぼくもジュンくんも泣かせたものだ。あのときは凪砂くんが抱くとどうして泣かないのか不思議だったけど、2回目ともなるとどのくらいなら起きないのかという加減もわかってくる。
あったかくて、やわらかくて、ふにゃふにゃしている。ぼくもジュンくんも、赤ん坊とはあまり関わらずに大人になったので小さい子は少し苦手だったのだ。今は、こうして二人で眺めてられるくらい慣れたし、可愛いとも思えるけども。
ぱちり、と赤ん坊の目が開く。執事くんと同じ、紫色の瞳。
生後二ヶ月にも満たない赤ん坊はほはら目が見えていないと聞く。部屋が静かなのもあいまって、ぱちぱちと瞬きをしてあたりを見渡しながら足をばたばたと動かしていた。
「あはは、起きちゃったんすか」
「ちょうどいいんじゃない?茨がそろそろミルクを作って戻ってくる頃だろうし」
起きたから安心したのか、もう一度ジュンくんが赤ん坊の頭に手を伸ばす。
ドーナツ枕に寝たその頭をジュンくんが優しく撫でた。
「ずいぶん泣かないっすね。セイくんとか、起きたら大泣きだった気がしますけど……こんなんでしたっけ、赤ん坊って」
「さぁ?でもそれは茨も言っていたね、個人差ってやつじゃない」
よく知らないけど。
年子ですぐ上にお兄ちゃんがいるこの子は、自我が芽生えはじめてイヤイヤ期に片足を突っ込んだ兄でよく慣れているので多少の大声には動じないらしい。
あんなに家の中が騒がしいのに一人で勝手に寝るんですよ、この子。なんて言った茨の言葉通りにこの子はさっきまでひとりですよすよと眠っていた。むしろ家よりもこの事務所の方が静かなのかもしれない。
「こうしてみると、やっぱり赤ちゃんって可愛いもんなんすね」
自分の指を小さな手に握らせたジュンくんが小さくそんなことを言った。
俺とおひいさんがいわゆる『恋人』だってことは、茨とナギ先輩には完全にバレている。茨には真っ向にそう言われたし、ナギ先輩もときたまお土産を買ってきては「二人で仲良く食べてね」なんて渡してくるので。
実際、ESには同じようなカップルが珍しくないし、なんなら外の女性と付き合っているアイドルの方が俺は知らない。とはいえ大声で「付き合ってます!!!!」というわけにもいかない。ESアイドルが星奏館を出た後よく暮らしがちなマンションがいくつかあり、同じとこに住んでいたり、一緒に暮らしていたり、そのマンションの住人じゃないはずなのにやけによく見かけたり、なんかそういうところで勘づくものである。同じように俺たちの関係に勘づいているアイドルはたくさんいるだろうが、それについて言及されたことは一度もない。
そんな、恋愛に関しては極力話題に上がらないESであるが例外として茨と伏見さんだけは『ふうふ』として知れ渡っていた。
羨ましいとは最初は微塵も思わなかった。結婚発表のあと大火災にならないよう、余計な火消しに奔走する茨や天祥院さんをみていたし、娘ちゃんがいなければ結婚発表なんてする気がなかったことも隣にいた俺はよくわかっているつもりだ。しばらくは俺もマスコミに追われたり一挙一動のたびに二人についての質問がついて回っていたりして、羨ましいなんて思う余裕もなかった。かと言ってこそこそと生活する3人のことも見ていたから、あの頃は素直に喜んだものだ。
だけど、それとこれとは別にして、『家族になる』ということに憧れをつい持ってしまうのも実情だった。
世界的には極めて稀で望んで得られるものではないとされている男性妊娠だが、ESで働く人々は七種茨という前例を知ってしまっている。もちろんその先でどんな苦労をしたかとか、そんなことを唱え出したらきりがないのだけど、茨のおかげで「自分もできるんじゃないか」と思うアイドルが後を絶たなかったらしい。
絶賛男性妊娠は研究真っ最中で、男性妊娠可能かどうかの検査は保険外であるが予算が出るので実費無料で受けることができた。だけど結果はことごとく惨敗。惨敗っていう言葉もおかしいけど、検査を受けた人たちは全員ただの男性だったという話である。
数年前、茨がユリカちゃんを産んだと聞いたとき、信じられなくて俺はネット記事を見漁った。子宮のある男性は一千万分の一、さらにその男性が同性愛者で、しかもいわゆるネコである可能性なんて限りなくゼロに近い。奇跡以外の何者でもない、茨という前例がいる以上確率はすべて茨に吸われている。
だから、俺は検査を受けなかった。俺は茨とは違っておひいさんと家族になれない。そんな、本来なら分かりきっていることを、わざわざ検査してまで現実を直視して落ち込む気はさらさらなかった。
「ジュンくん、ただいま」
「あ、おひいさんおかえりなさい」
午前中は一緒になって茨のところの赤ん坊といたけど午後からは仕事が別だった。
俺は久々に衣更さんとアニメ関係のコラボの仕事、おひいさんはピンでモデルの仕事だ。茨がこんな状況なので、Edenの仕事ができないのは当然だし、そうなると当然一人の仕事が増える。
住んでいるマンションは、茨たちが住んでいるマンションとは駅を挟んで反対側にある。あっちは最上階の伏見さんのとこだけだだっ広いワンフロアになっているが、あとは割と単身者用の間取りが多い。それに対してこっちはファミリー向けのタワーマンションだ。ファミリー向けとはいえ都心にあるので部屋は少なめ。夫婦だけで暮らしている人や、一人暮らしの人も珍しくない。そのため、おひいさんの私物は入り切らずに厳選して持ってきている。
「さっきね、帰り際ESに立ち寄ったら偶然伏見くんと一緒になったんだけど。これ、もらっちゃった」
がさっという音とともに差し出されたのは、プリンだった。
「お、いいっすね」
コトン、コトンと瓶入りのプリンが二つ、テーブルの上に置かれる。
最近はよくあることだった。赤ん坊はオフィスにいるときといないときがある。いないときは伏見さんが休みの日で、家で見ている日。そういう日は半分くらいの確率で茨も在宅なので、副所長室は空っぽになる。いるときは伏見さんが仕事のとき。茨が手配したシッターや、手の空いたオフィスのスタッフやアイドルたちに見守られているわけだけど、まあ、影響がないといえば嘘になる。伏見さんも休み時間に顔を出したりしてるからそんな状況が見えてしまうだけにこうして差し入れが止まらないのだ。
「……別に伏見さんも、そんなに気にしなくていいのに」
「仕方がないんじゃない?コズプロのアイドルは全員未婚だし、子どももいないし。『お互いさま』だと言うわけにもいかないからね」
ふんふんと鼻歌を歌いながらおひいさんが洗面所に消えていく。
『お互いさま』か、とプリンを見つめながら思う。スタッフやP機関のプロデューサーの中にはもちろん既婚者もいるし、子持ちもいる。産休やら育休やらを取るとなっても、「いつか自分も迷惑をかけるかもしれないから」と思うかもしれないがアイドルではなかなかそうもいかないだろう。
メンバー一人が一時的にとはいえ抜けるというのはかなり痛手だし、それによって事務所や同グループのアイドルにはかなりの負担がのしかかる。アイドルが子持ちになるなんて簡単なことではないし、基本的には許されないから。一方的に相手に負担がのしかかってしまうのだから、こうして詫び品を都度持ってくるのも理解できる。
戻ってきたおひいさんが、定位置の椅子を引いた。
「もちろん、いらないとはぼくも流石に一度は断ったんだよ。でも、ユリカちゃんは食べたというし無駄になるだけだって言われたら、断る理由もないじゃない?」
瓶入りのプリンをぱきんと開けたおひいさんがそう言った。
「……そうっすねぇ……」
家族が迷惑をかけたお詫びのプリン、なんて、俺は一生渡すことがない代物である。
これを渡せるのが羨ましいと思うくらい、なんだか今日は妙に落ち込んでいた。
ご存知の通り、巴日和は巴家の次男である。兄上がきちんとやってくれているからぼくは自由なんだよ、なんて言って俺と同棲なんてしてるわけだけど、それでも結婚して跡取りを持たない理由にはならないと思う。ド庶民出身の俺だから思ってしまうのかもしれないけどさ。
ジュンくんが気にすることではないというから、まあ確かに他人の家の事情に口を出すのも違うかと思って考えないようにしていたが、冷静に考えるとやはり罪悪感を覚える。俺なんかがおひいさんの隣にいるせいで、おひいさんは結婚もできないし子どももできない。
はじめて身体を重ねたあの日から、おひいさんは何度もジュンくんがいればいいと言ってくれたけど、俺がもし茨のように妊娠できたらよかったのに、と思わずにはいられなかった。
だって、仕方がないだろう。七種茨があまりにも身近すぎたのだから。
「おひいさん」
「ん?」
「……俺、っ」
「ちょ、なになにどうしたの」
向かい側に座っていたおひいさんがガタリと立ち上がった瞬間、耐えきれず視界が滲んだ。俺がいくら望んでも得られないものを、望まずに手に入れた茨が羨ましかった。それだけ、なのに。
「なにかあったの、ねぇ」
「なん、にも」
「何にもじゃないでしょう、そんな。ああ、目を擦らないの」
腫れちゃうのはジュンくんもわかってるでしょ、と言っておひいさんはティッシュを二、三枚取ると俺の涙を拭った。
だって、羨ましいなんて、言っちゃいけないのだ。得られないのが当たり前なんだから。アイドルだという立場の上でも、何よりも男同士では子供は生まれないのが当然。
「……茨と俺は何が違うんすかね」
「……」
「わかっ……てるんですけど。でも、なんか、やっぱり、上手くいえないんですけど」
はは、と誤魔化したように笑ってみせる。
おひいさんは眉を寄せて、何かを考えるような顔をしていた。
「ジュンくんが……ジュンくんが、家族が欲しいなら、養子を取ってもいいんだよ。幸い、ぼくは次男だし、法律的にも何の問題もないんだから」
日本で最初の男性妊娠が広まって以降、即急に法整備が開始され、今は男性同士で結婚するのも珍しくない。ESアイドルでは流石にいないけど、知っている人にも数組いる。
「だけどぼくたちはアイドルだし、ぼくは二人でも幸せなんだよ、ジュンくん」
そんなの、俺だって一緒だ。
だけど、一緒にいればいるほど、直視すればするほど、慣れていく心の一方でふとした瞬間に劣等感に襲われるのだ。
「……おひいさんは、羨ましいって思ったことないんですか」
「あるよ」
即答だった。
え、と顔を上げる。やっとこっち見た、とおひいさんが笑って俺の頬を撫でた。
「だけど……そんなこと言えるわけないじゃない、ぼくには産めないんだから」
そんなこと願えるわけがないでしょ、とおひいさんは言った。悲しそうな笑顔だった。
ES内でのレッスンを終え、打ち合わせの現場に向かうために廊下を歩く。
今日は昼過ぎには予定通り仕事が終わる見込みなので、その趣旨をカチカチとホールハンズで茨に連絡をする。不意に目の前に気配を感じて顔を上げると、そこには巴日和さまがいた。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様。レッスンだったの?」
「はい」
娘が生まれてからというもの、コズプロに顔を出す機会が増えてしまったのでおのずと顔を合わせる機会が増えた。元々不仲ではないし、最近はそれぞれ大人になったこともあって談笑する機会も増えた。
駅前のケーキ屋さんが美味しかっただとか、この間外商に見せてもらったアクセサリーがお気に入りだとか。そんなたわいもない話をするうちに、こうして廊下で会えばああ、と顔を綻ばせて挨拶をする程度の仲にはなったわけだけども。
「あ、ねぇ執事くん。ちょっと聞きたいことがあったんだよね」
今日は巴さまから呼び止められる。
時間大丈夫?と聞かれたので、三十分ほどは。と返す。
何かご迷惑を?と、娘か息子のことだろうとあたりをつけたわたくしが聞いてみるが、巴さまは「ううん、二人ともとってもいい子だから問題ないよ」なんて笑ってみせる。
娘はまだ赤子だからいい子もなにもないかもしれないが、息子はたまにコズプロのフロアに降り立った瞬間わかるような大音量で泣き叫んでいることもあるので『いい子』とはとても言い切れないだろうと思いつつ、はあ、と続きを促す。
「一体なんのご用で……」
「うーん、まあこんなところで聞くことでもないんだけどね?」
キョロキョロと辺りを見渡した巴さまが、廊下の向こう側まで覗き込む。
誰もいないことを確認した巴さまは、こいこい、とわたくしを手招きするので二人で並んで自販機の目の前にあるベンチに座った。
スマートフォンを胸ポケットから取り出した巴さまが、カチカチとメモ帳に何かを打ち込んでいる。
横顔をじっくりみる機会など久しぶりだが、こうしてみるとこの人は若返っているんじゃないかと思う。年は一つ上、もうとっくにアラサーなのに二十歳前後の頃よりも肌が綺麗な気がするし落ち着きも出て、むしろ若々しい。あ、このピアスは先日ちょうどお気に入りだと言っていたやつだ。
そんなことを思ってると、目の前にスマホを差し出される。
ん?なになに?
『ジュンくんがお腹をくだして困るんだけど、何かいい方法知らない?』
一瞬、胃腸が悪いのかと思った。
でも違う、そんなこと自分に声を潜めてたずねる必要がない。
はい?と笑顔で応えてみる。
「きみくらいしか聞ける人がいないんだから仕方ないでしょ?」
こんなことで頼られたくなかった。
ニコニコと笑う巴さまを横目にそんなことを思う。
男性は一般的に、性行為の際に肛門を使うわけだけど、そこにいわゆる『中出し』をすると腹を下すのだ。
「……さすがに、場所を移しませんか」
「あ、やっぱり?」
あはは、と笑った巴さまに、反省の色は見えない。
そもそもこんな話をする間柄ではなかったし、そういう間柄になる予定もなかった。一応漣さまとは同い年なので、なんとなく想像するのも気まずいのだけどそういった配慮は巴さまにはなさそうだ。
じゃあカフェでも行こうか?と巴さまが立ち上がる。今日は土曜日で、時刻は昼前。まあ、人は少ないだろうしいいだろうとわたくしはその後ろに続いた。
場所を移した喫茶COCHIで、巴さまは紅茶とケーキセットをふたつ頼む。店員が奥に入っていくのを見てから、でね。と話を続けた。
「流石にぼくもそれくらいのモラルはあるよ?でもねぇ、嫌がられてごらんよ。ぼくには無理だね」
だから困るんだよねぇ。となにがとは言わずに話を続ける。
「しかもね、これ、ぼくに隠すんだよ。気にしてない様子だし、なにかないのかなぁって思っただけで」
と、巴さまは苦笑する。
わたくしは、あれ以来というか割と徹底して避妊具は使うようにしているし、使わなかった経験がそう多いわけでもない。ただ、それをわざわざ告げる理由もないし、それはわたくしたちの話なので。
「まあ……それは、本人に聞いてみないことには」
「うーん、まあそっかぁ。でもねぇ、理由はなんとなくわかるし、聞き辛いんだよねぇ、仕方がないけどね」
理由、と繰り返しても巴さまは頷くだけだった。
心当たりはもちろんある。憶測であまり決めつけるものではないが、家族のことだろう。
希少な男性妊娠の適性を持つ茨と、それにおそらくいちばん近しい漣さまが気にするのは当たり前のことだ。別に、男性妊娠などひとつのきっかけでしかない。今の日本では同性婚ができるようになっているし、養子だって取ることができる。家族になることも、子どもができることも、少し前に比べたら実現できないことではなくなった。
だけどそれは当事者であるわたくしだから言えることで、そうではない人にいうべきことではない。
「……巴さまは結婚なさらないのですか?」
「誰と?」
「もちろん」
漣さまと、とは声に出さない。
「うーん、一応両親は結婚はしてほしいみたいだから。相手は関わらずね?だから、生涯独身ってつもりじゃあないね。……つもりじゃあ、ないけどねぇ?」
君たちみたいに世間を騒がせるつもりはないけどね?とでもいいたげに巴さまはジト目でこちらを見られる。
「わたくしは事務所も違いますし、わたくしがこんなことを言ったと知ったら茨に怒られるかもしれないですが。……してもいいんじゃないかなと思いますけどね、婚約とか」
「お、茨にチクっちゃお」
「やめてくださいまし」
冗談冗談、と巴さまが笑っている。
婚約、くらいまでなら法的にもきっちり残らないし結婚とは違って世間に公表したり事務所に打ち明けたりもする必要ない。
「うーん……まあ、執事くんに言われるのも癪だけどそれもそうだねぇ」
指輪ひとつで変わるものなのかなぁと巴さまがわたくしにだけ聞こえるくらいの音量でぼやく。
「さあ」
「さあって」
わたくしは誠実な恋愛をして結婚したわけじゃないので、そのあたりはよくわからない。実際、指輪も買ってはいるが二人分家に置きっぱなしだし、揃いのピアスを買って耳につけてるくらいだ。指輪なんて絶対につけられたもんじゃないので、つけられないものをもらったとて何を思うかまではわたくしにはよくわからない。が、
「しかし。巴さまが買うようなものは、誰がもらったとしても日常的につけられる人の方が少数派でしょう」
うん、と言い切る。
結婚報道のあと、姫宮家のおかかえの人が指輪を持ってわたくしに見せにきたことを思い出す。当たり前だが、ゼロがひとつふたつ違うどころではないので丁重にお断りした。
「そう?」
「そうですよ」
わたくしが巴さまと漣さまが交際していると知ったのは、そう最近のことではない。
わたくしがfineのホテル管理が四室もあると面倒で、と茨になんとなくぼやいたときに『ああ、うちはEveが一室でいいので楽ですよ』と言っていたのだ。『あの二人、付き合ってるらしくて』とサラッと言われた。守秘義務どこ行った。
まあ別にそれを他言する趣味もないし、あの二人がいつも一緒なのはわたくしではなくても周知の事実なのでこれからも知れ渡ることはないだろうと思って今に至るわけだけど。
あれは何年前だ?まだ娘は小さくて、わたくしもまだ茨と結婚する前だったから5年以上昔のはずだ。
「いいですねぇ、相変わらず仲がよろしいようで」
「へぇ、嫌味?伏見くんにだけは言われたくないけどね!」
ご機嫌になった巴さまがふふんと笑う。
学生のころは少し苦手だったが、今はこの人も少し明るいだけの自分と同じただの人なのだとわかる。
そろそろ行こうか、と時計を見た巴さまが伝票を持って立ち上がる。支払います、と伝えるが、ぼくが一応先輩なんだから構わないねと制される。自由気ままな人に見えて、そういう上下関係みたいなものはしっかりしているお人だ。また、コズプロに行くときは手土産を持参しなくてはと思いながら巴さまのあとを着いていく。
会計をブラックカードで終えた巴さまが振り返る。
「ああそうだ、ユリカちゃんは元気なの?」
「元気ですよ。茨から聞いてませんか?」
「うーん、あんまり?仕事以外のことって話さないよね。セイくんとレイラちゃんのことはともかく。……まあいいや、今度また遊びにおいでと伝えておいてね」
「ええ、きっと喜びます」
そう言った巴さまがひらひらと手を振って、領収書を片手に立ち去っていく。
はじめて出会ったときよりもずいぶん親しみやすくなったなぁ、なんてその後ろ姿を見ながら思った。
あ〜喉が痛い。
ふぁあふ、とあくびをしながら出勤する。
体調管理も仕事のうち、とはいえ、体調を悪くすることだってゼロではない。まあ、体調管理の鬼みたいなアイドルだって珍しくないし、そういう人に言わせれば俺は甘いんだろうけど無理なもんは無理だ。
昨日はボーカルレッスンで、ちょっとやりすぎただけだと思っていたのだがなんだか身体もだるい気がする。完全に風邪の引き始めだ。
「おや、ジュン遅いですね」
「ああ茨、おはようございます」
ウォーターサーバーの前でコーヒーを淹れる茨に挨拶すると、茨は途端にあからさまに顔を顰める。
「……なんですかその声」
「いやぁ」
「いやぁじゃないんですよ、いやぁじゃ」
悪化させないでくださいよ、絶対に。と茨が続ける。
三日後には大事な雑誌の撮影がある。早いうちに直してしまわないとどうにかなるものもどうにもならない。
「風邪ですか?」
「……かもしれないっすねぇ」
はあ、と茨がため息をつく。
「自己管理は徹底してくださいよ。ボイストレーニングだって、過剰だと言ってるのにジュンがどうしてもというから入れてるんですからね」
む、とカチンとくる。
プロである以上、アイドルでいる以上、高みを目指したいからやったことだ。
茨だってそんなに強く止めなかったくせに。
「俺そんな強く止められた記憶ないっすけど」
「っ、あの時期は、すこし……忙しくて」
そりゃあそうだ、俺がボイストレーニングのスケジュールをぶっ込んだのは茨の予定日の翌日。まあ、この日なら多少の無茶も通るだろと思ってある意味戦略だったんだけど。
「今回はちょっと気を抜いただけです」
「その気を抜いた一瞬程度で体調を崩すようなスケジュールはやりすぎだと言ってるんです」
茨は至極真っ当なことを言っているが、どう考えてもブーメランである。
「……茨こそ」
ついて出た言葉だった。
「茨こそ、自分を大事にしてるんすか?産後一ヶ月で働いて、なんならその間にも俺たちに仕事振って。休んでないでしょ。アンタに言われる筋合いはないです」
「なっ……」
わかっている、心配をかけている相手に返す言葉じゃないって。だけど、一刻も早くあの口を黙らせたくて咄嗟に出てしまった。
「……ああそうですか」
「茨が気にする必要ないっすよ」
「俺は家族なんて持てない。わかるでしょう?」
ああ、ペラペラと淀みなく言葉がでてくる。
言葉に詰まる茨を見て、頭の片隅でああやってしまったと思う一方、せいせいしている自分が大部分を占めていた。ああ、相変わらず性格悪い。
「
案外、おひいさんは甲斐性だった。
そもそもがなんでもできる人だ。掃除炊事といった家事全般、やらせたらできないわけがないし、それ以外の細々した名もなき家事も、意識が変わった瞬間気がついてしまうらしい。
「だから別に、ジュンくんは寝てて構わないね」
「……っすね」
もはや俺が動く理由を奪って行ったおひいさんがやれやれと首を振ってそんなことを言った。俺はもちろん、否定できない。
気まぐれではあるもののなんだかんだ甲斐性であるのは昔からだ。ナギ先輩にこの世の常識みたいなものを教えたのはおひいさんらしいし、幼馴染に近い腐れ縁らしい天祥院さんもそんなことを言っていた。
「前までホームキーパーを毎日入れるとか言ってたくせに、変わりましたねぇ」
「だってジュンくんは嫌なんでしょ?まあぼくも譲れないから大変なお掃除は人を呼んでるけど……まあこれくらいならぼくでもできないことはないね」
うんうん、とご機嫌そうなおひいさんが冷蔵庫から牛肉をおろす。俺が冷蔵庫にあんな高そうな国産牛を入れた記憶はないから買ってきたのだろう。
「ねぇ、茨と喧嘩したの?」
「……喧嘩、はしてないっすけど」
喧嘩というか、俺が一方的に捲し立てて茨を傷つけただけだ。
今日も俺は結局コズプロの奥には足を踏み入れなかった。副所長室は奥にあるので、茨と顔を合わせることはない。こんなとこでも茨が副所長である恩恵を受けたというわけだ。
「へえ、茨は喧嘩したって言ってたけどね」
「ああ……じゃあ喧嘩なのかもしれないっすねぇ。茨がそういうなら」
「ふぅん、そう」
おひいさんはそれ以上何も言わない。沈黙が責められてるようでつい口を開く。
「……なんか言ってました?」
「何で喧嘩したのかとかは全く聞いてないけどね。ああでも、自分が悪いんでジュンにはなにも言わないでくださいね、とは言われたね」
まあ、言っちゃったけどね?なんておひいさんが続ける。喧嘩したの、と聞かれただけで責められたわけでも理由を聞かれたわけでもないのだから、別にノーカンだろう。
「……それ、違いますよ。俺が茨に一方的に捲し立てただけで。茨は俺になんも言ってないんで」
悪いのは、俺なんで。
そして、気まずいのも、俺。
喧嘩なんて、気まずい思いをしてる方が悪いのだ。茨は今日も平気な顔で、なんなら『自分が悪い』とも言い張って、俺も所属するコズミックプロダクションの副所長室で働いていたのだ。つまり、気まずい思いをしてるのは俺だけ。悪いのも、俺だけ。
「別にお仕事に支障がないなら喧嘩してても一向に構わないけどね?そうやってウダウダして、お互いのこと庇いあってるくらいなら、さっさと謝って仲直りした方がいいと思うけど」
う、ごもっとも。
Edenとして4人一緒にいるようになって、もう十年以上が経つのだ。お互い何を考えているのか、どう思うのか、ぱっと顔を見ただけでわかってしまう。だからおひいさんも気付いたのだろうし、ナギ先輩もたぶん気がついている。なんなら茨に同じようなアクションを起こしている可能性まである。
それなのに、誰も俺を責めてこない。無力感が募る。
俺は、茨が家族の愚痴を言っているところを聞いたことがなかった。
様子を聞けば、昨日はあんなことがあって大変だったとか、今日はあれをしなくちゃいけないとかそれっぽいことは言ってくるけども、聞かない限りはなにも言わないのだ。
てっきり俺はそういうものだと思っていた。しかしある時、コズプロの女性社員と愚痴を言い合っているのを聞いてしまったのだ。内容はたわいもない、伏見さんが帰るのが遅いと一人で風呂に入れなきゃいけないからろくに自分の身体も洗えない、だとか、夜泣きをするともう一人も起きて困る、だとかそんなことだったんだけど、俺はそんな流れるような愚痴、茨の口から一度も聞いたことがない。
ショックを受けたわけじゃない。ただ漠然と、「茨は言わなかっただけなんだ」と気がついただけで。
コズプロの女性社員も、所詮は茨にとっては部下にあたる。たわいもない愚痴は言えても、飲みに行ってストレス発散できるような仲ではない。茨には愚痴を言う相手がいないのだ。同い年で同じような立場だったはずの俺にまで。
これだけ男性妊娠が大ニュースになって、検査する同性カップルの取材もよくテレビに取り上げられているのだからいやでも気がつくはずだ。『自分は周りが望むものを持っている』と。
そんな状況で愚痴なんて言えるわけがない。望んで得られるものでもないのだから、自慢できることでもない。俺になんて、尚更言えるわけがない。
だからあんなことを言った俺を、庇っているのだ。自分は持っている側で、俺は持っていない。俺を責めたところで現状が変わるわけじゃないから。
あーあ、気持ち悪い。そういうところ、ムカつくし反吐が出る。
「……ジュン、病院行った方がいいんじゃない?」
「ナギ先輩まで……大丈夫っすよ、今日仕事上がりに薬局にでも行こうと思ってるんで」
何でもないように答えるが、ナギ先輩の表情は変わらない。長い付き合いだ、なんとなくわかる。これはナギ先輩が全く納得いってない顔。
「……でも」
「はは、おひいさんになんか言われたんすか?別に大丈夫だって、ずっと言ってるんすけどね〜?」
おひいさんを出してそう続けた途端、ナギ先輩の目がスッと細まった。
「_____……違うよ」
「へ?」
「……私が相談されたのは日和くんじゃない。……茨が、心配してたから。もちろん、私も」
「、茨が。」
「……これも気になってたんだけど、茨とジュンは喧嘩でもしたの?最近は二人とも仲が良くて、私は羨ましいなぁと思っていたんだけれど」
「喧嘩……は、してないっすけど」
「ふぅん?……でもなにかあったんだね」
う、と気まずく目を逸らす。
昨日おひいさんにも聞かれたばかりだ。やっぱり年上組の目は誤魔化せない。
そのとき、エレベーターのドアが開いて見知った若草色が顔を出した。
「あれ、凪砂くん?」
「……日和くん」
「なになに、どうしたの?二人で何を話してたの?」
「……ジュンを茨が心配してたよって伝えてたんだ」
「っ、ナギ先輩……」
「……日和くん、茨が午後のレッスンは最悪なしにしてもいいって。あと、しばらくジュンの仕事はセーブさせるって、茨が言ってた」
「はっ!?俺それ聞いてないんすけど!」
「だってジュンくんが茨を避けてたんじゃない。こればっかりは仕方がないとぼくも思うね」
「っ、」
「……ね、だからジュン。……早く病院に行って、何にも問題なかったらそう言って茨に撤回させればいいんだから」
「そうだよ、ジュンくん」
「……わかり、ました」
こうまで外堀を埋められるとどうしようもない。
俺はおひいさんの呼んだタクシーでESアイドル御用達の大病院に向かった。
ここに来たのは一度や二度じゃない。人間ドックは大概ここで受けさせられるし、茨がぶっ倒れたときに真っ先に搬送されたのもここ。何人か知り合いが入院していたこともあるし、衣更さんなんかは花粉シーズンになると毎年ここで薬をもらってるらしい。
個室の待合室があって、そこに案内されて問診票を渡される。いつものことだ。
『妊娠の可能性はありますか』
横にある『(女性の方のみ)』という文言は二重線で消されていた。俺は迷わず『いいえ』に丸をつけた。と、いうかここで『はい』に丸をつける人なんていないだろう。いないよな?少なくとも俺は無理。
うん、と心の中で頷いて看護師さんに問診票を返した。
「ジュンくん、検査してなかったの!?」
「え?……あ、はい……なんか、わかりきってることをわざわざ検査で調べる必要ないかと思って」
「んもう、てっきり検査して、ダメだったから『あんなこと』を言ったんだと思ったね!」
だから二人でいい、なんて言ったのに。とおひいさんがぼやく。後から知ったのだが、おひいさんはなんとなく一人で検査を受けていたらしい。主治医に「見てみる?」とか言われたとのことで。検査自体は簡易ならエコー、MRIも取れば精密的に調べられるから人間ドックか何かのついでだったのだろう。
「……夢、っすよね」
「!! 夢じゃないね!夢になったらぼくが、ぼくが許さないね!」
「いやおひいさんが許さないからどうにかなる問題じゃないっすよ」
はは、と笑ってみせたのと同時におひいさんに抱きしめられる。
言葉のない沈黙。ぐっとおひいさんの手に力が籠るのを感じた。
本当に、ありえないことが起きた。
視線に迷って左の手元を見ると、ベッドサイドに放られたおひいさんのスマホが目に入る。あまり他人のスマホなんてみちゃいけないんだけど、つい見てしまった。茨とのトーク画面、おひいさんがメッセージを送ったあと、茨が既読をつけた状態でやり取りは止まっている。
茨に報告したのか。いや、プロデューサーだし副所長なんだから当然なんだけど、ただでさえ気まずいことを思い出して汗がたらりと流れるし身体が熱くなる。
「ねぇジュンくん」
「っ、はい」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。おひいさんも体を起こして俺の目を見ていた。
「……ぼくと結婚、してくれる?」
おひいさんは少しまいったように眉を下げてそう言った。思っていなかった言葉にどきりとする。そうだ、子どもができるということは_____結婚、できるんだ。
途端に実感が湧いてきて、涙腺が緩む。
「いつかはプロポーズしたいと思ってたけど、まさかこんなに早くさせてくれるなんて」
想像もしてなかったよ、とおひいさんが笑う。
アイドルである以上、責任のない結婚はできない。例えば隠して結婚したとしても、おひいさんの立場柄もあってどこから漏れ出すかわからない。
結婚なんて考えてもいなかったのだ。
「……返事は?ダメ?やっぱり日を改めようか」
「っ、い、いや!いいです!……ただ、びっくりして。そうか、結婚……できるんだって」
「そうだよ。凪砂くんと茨にも、相談しないといけないけどね」
ああ、そうか、なんて茨が結婚したときのことを思い出す。
結婚自体がアイドルとして推奨されていないのに、それに加えて中学生になる娘がいるのである。報告方法に難儀したし、しばらく茨のところのマンションには近づけないほどの大騒動になった。
俺たちも、ファンにきちんと報告しなければならない。同じような大騒動になるかもしれないけど、それでも冷静に、誠実に。お腹にいるまだ小さな命のためにも、大切なEdenのためにも、俺たちの未来のためにも。
ああ、これでおひいさんとは死んでも一緒なんだ。
「……ふつつかものですが、よろしくお願いします」
おひいさんは笑って応える。
「こちらこそよろしくお願いします」
病室でのプロポーズなんてロマンのかけらもないと言う人もいるかもしれない。
だけど、これは誰がなんと言おうと絶対に、俺たちにとって間違いなく、想像しうる限りでいちばんの幸せなプロポーズだった。
「ありがとう、ジュンくん。ぼくが出会ったのがジュンくんでよかった」
タタタタタ、という駆け足の音が遠くから聞こえてくる。病院には相応しくないその音に、「廊下は走らないでください!」という看護師の声が聞こえた。
ガタン!
「はぁ、はぁ」
勢いよく扉が開き、見慣れた紫の頭が膝に手をついて息を切らしている。こんな姿ははじめて見た。
「ジュン!」
やっとここが病院だと気がついたのか、ハッとしたように茨は後ろ手に扉を閉めた。
顔を上げた茨は、今まで一度も見たことないような顔をしている。ああ、見たことない。もちろん俺にも、おひいさんにも、ナギ先輩にも、もちろん家族にだって見せてるところを見たことがない。信じられない、嘘だ、ありえない_____……嬉しい、と。
「……知らせを、聞いて。飛んできました。自分も気になって、万が一も考えて、近くのカフェで待機していたものですから」
はぁ、と息を整えた茨が、こちらに向かって歩いてくる。
心配してくれていたのだ。
「あの、あれは本当、なんですよね?」
おひいさんからの電話を受けただろうに、探るように、確認するように茨に問われる。
「……ええ。みたいっすよ」
わざとらしく腹部に目をやるのは恥ずかしくて、顔を上げたまま答える。
自分で聞いておいて、茨はぽかんと口を開けたままだ。
「っ、ジュン」
「……はい」
「……おめでとう」
茨の声が震えている。
泣いているのかと茨の目を見るが、その時にはもう茨は後ろを向いていた。しかも、肩が震えている気がする。
「ちょっ、な、泣いてるんすか!?」
「な、な"いてま"せん」
「じゃあこっちきてくださいよ」
「い"やです」
「泣いてないのに?」
茨は即答で「はい」と答える。認める気は微塵もないらしい。
「……ありがとうございます、茨」
言われると思っていなかった言葉を言われ、言うと思っていなかった言葉を返す。ふわふわしていて、実感がなくて、ほっぺをつねってみたけど痛かった。
まさか、茨に泣かれるとは思わなかった。『産後、涙もろくなるって本当なんですねぇ』なんてセイくんを産んだ直後に言っていたのは聞いたが、実際その現場を目の前にしたことはなかったもので。それをはじめてみるのが今日になるなんて夢にも思わなかったから。
「仕事の調整は、任せてください。……元気に産まないと、承知しませんからね」
茨にそう言われて「もちろんです」と返す。