兄弟子は弟弟子を信じすぎている 老齢の棋士が先に頭を下げた。上座に座っていたまだ年若い棋士が、続けて頭を下げる。
「ありがとうございました」
ふっと息を吐く。この瞬間は何度経験しても慣れるものじゃない。
「来年、楽しみにしておいてもらわなければのぅ」
たくさんのフラッシュに囲まれながら、下座の男が、垂れ下がった目蓋の奥の瞳をぎらりと光らせた。
どうやら、このベテラン、桑原仁はまだ諦めるつもりはないらしい。かつて自身も座ったこの本因坊の椅子を。
このバイタリティーは見習わなきゃな。
若い男は澄ました様子で、大先輩に答えた。
「また、上座でお待ちしていますよ」
たった今、本因坊を防衛した進藤ヒカルの幼顔には確かな自信で満ちていた。
塔矢一門門下生、進藤ヒカル九段。今日、四度目の本因坊防衛に成功した。
「疲れたー、早く風呂入って寝たい」
タクシーの後部座席で、進藤はぐったりと傍らの男の肩に頭を乗せた。時計の針はとっくに日付を越えている。
タイトル防衛後のヒカルを待っていたのは、取材に祝賀パーティーと目が回るような忙しさだった。後援会やスポンサー、記者にカメラマン、祝いの言葉を伝えに来る先輩等に笑顔を振り撒く。謙虚に丁寧に。でも卑屈にはならず。勧められたグラスは断らず、でも警戒は怠らずに。スタッフにも気を配って!
ヒカルはまだ二十代と若く、目立つ容姿をしている。だからこそ、生意気だとか態度が大きいだとか余計な誤解を生まないために、身につけた処世術だった。まあ、年上の弟弟子に言わせれば、ヒカルは昔から型破りで、いまさら取り繕ってもムダらしいが。
それでもタイトル防衛直後なら尚更気が引き締まる。調子にのっているなどと噂されたらたまらない。ヒカルには守るべきものがあるのだ。本因坊の椅子は勿論、世話になっている師に自分の所属する一門、隣にいる弟弟子もその中に含まれる。
「飲み過ぎか?タクシーで吐くなよ」
ヒカルに肩を貸すのは弟弟子の緒方精次だ。といっても緒方の方が二歳ほど年上ではあるのだが。
「あれくらいじゃ吐かないよ。緒方先生と一緒にしないで」
「オレだって今日は吐くほど飲んでないぞ」
「嘘つき、オレからグラス奪ったじゃん」
自分だってそんなに強くないくせに。
ヒカルが不満そうに唇を尖らせる。酒を勧めたがる連中を断れないヒカルをみかねて、緒方が「どうやら緊張で酔いが回っているようなので、ここは私が」と、ヒカルの手からグラスを取り上げたのだ。
勿論、その時ヒカルに酔いざましにと水の入ったコップを押しつけることも忘れなかった。仕方がなく水をちびちびと飲んでいたヒカルの隣で、笑顔で後援者やスポンサーの相手をしながら、緒方は結構な量の酒を勧められるがまま飲んでいたはずだ。
「安心しろ。大半は後ろにいた芦原が引き受けてくれた」
「だからあんなに早く帰ったんだ」
兄弟子から奪った酒をそしらぬ顔で弟弟子に押しつけていたと知り、ヒカルが呆れ返る。
「芦原、大丈夫かな。明日あやまらないと」
「尊敬する兄弟子二人の役に立てて喜んでいたから良いだろ」
「そういうところ、ほんと良くないって。せいじ君」
酔いのせいか、最近では使わなくなった呼び名が口をついた。まだ二人が十代だった頃に主に使われていたそれ。
「そう言うならお前も、もっと周りに上手く頼れるようになるんだな。進藤サン?」
チラリ、緒方の顔を見上げる。対向車のヘッドライトに照らされた顔は、薄い笑みに彩られていて、今日もビックリするほど整っていた。
それは、十五年前に初めて出逢った頃と変わらずで。
「ほんと!兄弟子にたいして生意気!」
「その兄弟子に似たんだろ」
「オレは兄弟子を呼び捨てにして塔矢先生に叱られたりしてないもん」
「お前、十五年も前のことをっ」
そこで緒方ははあっと、あからさまな溜め息をつき、
「本因坊戦後で興奮しているのはわかるが少し落ち着け。出来るなら着くまで寝てろ。何だったら、部屋まで運んでやるから」
肩に後から腕を回され、グッと引き寄せられる。緒方との距離がさらに近づいた。そしてヒカルの鼻腔をくすぐる、アルコールと煙草、それからトワレの香り。
緒方の匂いだ。
そう思うと安心したのか急に疲れが全身を巡り、ヒカルは急速に眠りの縁に落とされた。だからヒカルは知らない。
ヒカルの穏やかな寝顔を、タクシーが止まるまでずっと緒方が優しいまなざしで見守っていたことなんて。
****
緒方精次が塔矢行洋の弟子になったのは、今から十五年前、緒方がまだ中学生の頃だった。
「よく来たね。緒方君。まず君に紹介したい相手がいるのだが」
行洋はわざわざ駅まで迎えに来てくれて、緒方はとても緊張していた。行洋はその頃既にタイトルホルダーで、その世代では一二を争う実力者だった。
「ただいま」
「おかえりなさい、塔矢先生!」
行洋が緒方をともない自宅にはいると、元気な子供の声がした。廊下の奥からひょっこりと、小さな顔を出す。明るい色の前髪がやたらと目立つ、緒方より年下の少年だった。
「進藤くん、悪いが茶を頼めるかな」
「はい」
進藤と呼ばれた子供は、ぺこっとこちらに向かって頭を下げると、部屋を出てどこかへ向かった。おそらく台所だろう。
「進藤君がいた部屋を研究会用に使っているんだ」
スリッパを履いて、緒方が行洋の後をついていく。案内されたのは一般の住宅には似つかわしくない広い和室だった。縁側の向こうには見事な日本庭園が広がり、桜が短い命を散らしていた。
「失礼します。お茶が入りました」
襖が開くと、正座した進藤がきれいに頭を下げた。中々に礼儀正しい。後から知ったのだが、これはこの時たった一人の弟子だった進藤を心配して、独り立ちを既に終えていた行洋の前の弟子たちが教え込んだものだという。進藤が行洋に無駄な恥をかかせないようにという話だったが、塔矢行洋のたった一人の弟子、という重荷を背負うことになった進藤を慮ってのことだろう。
かなりキツくしごかれたというわりには、進藤はいつも彼らとの思い出を笑顔で話していたし、その兄弟子達も、進藤には何かと口煩いものの、仲は悪くはない。彼らにとっては年の離れた弟のようなものなのだろう。
「進藤君、こちらへ」
「はい」
茶托と湯飲み、それから茶菓子を行洋と緒方の前に配置し、進藤はしずしずと盆を持ったまま行洋の隣にちょこんと座った。
「彼は緒方精次君、今日から私の弟子になった。年齢は君より上だが弟弟子になる。色々教えてあげてほしい」
「弟弟子……」と小さく進藤は呟いた後、ハッとしたように頭を下げた。
「進藤ヒカル、小学六年生です。よろしくお願いします!」
勢いよく顔を上げた進藤の瞳はキラキラと輝いていた。どうやら弟弟子ができたことがよっぽど嬉しかったらしい。
反対に緒方は苦虫を噛み潰したような気持ちだった。
才能と実力がものをいう世界だ。とはいえ二つも年下の小学生が兄弟子というのは、納得いかなかった。
進藤がいかにも囲碁になんか興味の無さそうな、元気で活動的にみえる子供だったこともそうだ。とても、行洋が弟子にするような実力があるとは思えなかった。
緒方もまだ子供だったのだろう。見た目や年齢で中見は図れないのだということを知らなかったのだ。まあ、すぐに思い知ることになるのだが。
「緒方君、こちらの進藤ヒカル君は私の友人から預かった子でね。小学生とは思えない棋力がある。君も色々と学ぶことが多いだろう。立場としては君の兄弟子になる。そのつもりで頼むよ」
それはつまり、この子供を兄弟子として立てろということだろうか。
落胆と戸惑いと不満が入り雑じる。そんな緒方の心が見えたのか、行洋が提案した。
「さて、どうかな。まずは一局。進藤君と試してみると良い」
良いかな?と尋ねられたら、はいと頷くしかない。進藤がすばやく碁盤を準備する。気がつけば、緒方の目の前に進藤が正座していた。
「オレがにぎるね」
話ながらさっさと碁筒を渡し、進藤は小さな拳を碁盤の上に置いた。緒方は黒石を二つ置く。それを見て、進藤がパッと手を開いた。石は六つ、偶数だ。
「よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
正直、勢いに流されている気がする。けれど、これはチャンスだ。
(塔矢先生に、オレの実力を示すんだ)
今まで同世代はおろか、年上の高校生にもまず負けたことはない。小学生になんか、負けない。
緒方は気合いと共に、右上コスミに初手を打った。
「……ありません」
「ありがとうございました」
結果からいえば、緒方の完敗だった。
始めは黒石が優勢だったはずなのに、気がつけば盤上がどんどん白石に染まっていく。相手が悪手を打ったところに追い討ちをかけた、と思えば、いつの間にかその悪手は良手へと変わり、緒方の石がどんどん奪われていく。
(流石は塔矢名人の弟子!)
緒方は頭を下げたまま、盤を睨んでいた。悔しさで噛みしめた唇の皮が切れる。
そんな緒方の心中を知ってか知らずか、進藤は行洋と検討に入っている。
「……ここ、かな?」
「45手目。ここだと思います」
進藤が黒石を、緒方が置いた場所とは別の場所へと逃がして、顔を上げる。進藤は緒方の顔をしたから覗き込むようにして、目を合わせた。
「ほら、こっちに置けば流れが変わって、って、どうしたんだよっ、血が出てる!」
「あ」
強く噛み締めすぎたらしい。
かさついた指で口元をさわれば、ぬるりとした感触が伝わる。
「痛くない!?」
「大丈夫かね、緒方君」
進藤がティッシュペーパーを何枚も差し出してきた。血を拭けと言いたいのだろう。おろおろとした顔は少し青ざめているようだった。
行洋も緒方を案じているようで、「顔を上げなさい」と続けた。傷口を目視で確かめるためだろう。
「ちょっと、唇が切れたみたいで」
まさか、小学生に負けた悔しさで噛みきったとは言えない。
「顔を洗ってきたいのですが」
冷たい水で顔を洗えば少し冷静になれるはずだ。
「それがいい。進藤君、彼を洗面所に」
「はい!」
行洋への返事もそこそこに進藤が立ち上がる。なぜか緒方の手首をつかんで。
「洗面所こっち」
早く!と急かす進藤の顔はやたら真剣で、緒方はなにも言えず彼に手を引かれるしかなかった。
春の終わりだというのに、蛇口から流れる水はやたらと冷たく感じた。
鏡の中にぼやけた自分の顔が写っている。唇を手の甲で水滴ごとごしごしと擦れば、白かった顔色が少しマシになったような気がした。
「大丈夫?」
いつの間にかどこかへ姿を消していた進藤に声をかけられる。「はい」とタオルを渡されて、なるほどこれを取りに行っていたのかと納得した。
「悪いな」
「ううん。それより痛くない?」
「たいした傷じゃない」
「よかった」
緒方の返事に、進藤がホッと表情を緩めた。ずいぶんと心配させてしまったらしい。少しの罪悪感を一緒に拭き取るように、渡されたタオルに顔を埋める。ごしごしと強めに拭いていたら、進藤が口を開いた。
「あのさ、オレの大切なひとが今、入院していて」
「ああ」
進藤は廊下に出たらしい。鏡の端に、進藤の後ろ姿がはみ出ていた。
「ソイツ、いきなり血を吐いてさ、救急車ではこばれてそのまま入院しちゃったんだ」
だからか、進藤の様子がおかしかったのは。
今更ながらに合点がいった。
血を見た時の進藤の動揺も、ここまで緒方を引っ張って来た時の速足の理由も、今、進藤が緒方に顔を見せないようにしていることも。
「……早く、良くなるといいな」
「うん」
気休めにもならない、ありきたりな台詞だと自分でも思った。それでも、返ってきた進藤の声が沈んでいなかったことに、ホッとした。
「タオルは直接洗濯機にいれてくれればいいから」
言われた通り、空っぽの洗濯機にタオルを放り込む。廊下に出ると、壁に背中を預けた進藤がこちらを向く。
「戻ろ。先生が待ってる」
「ああ」
板張りの廊下を、二人並んで歩く。進藤の足並みは来たときよりもずっとゆっくりだった。
「部屋にはいる前に座るんだ」進藤がどこか得意気に言う。先輩らしく後輩に物を教えられるのが嬉しいのだろう。
(少しくらい付き合ってやるか)
緒方は大人しく進藤に従う。進藤が、襖に向かって声をかけた。
「塔矢先生、失礼します」
行洋は先ほどの対局の検討を一人で続けていたらしい。並んで入室してきた弟子たちに、表情を和らげると、
「ああ、進藤君、案内をありがとう。緒方君、体調はどうかな?」
「もう大丈夫です。進藤のおかげで」
初めて口にした進藤の名前。少しくすぐったい気持ちで、自分のすぐ横で同じように正座する進藤を盗み見た。進藤は何がそんなに嬉しいのか、ニコニコ顔だ。
兄弟子というよりは弟に近い。緒方に弟はいないが、下の兄弟は可愛いという級友の気持ちが少し分かった気がする。
ところが、そんな緒方の気持ちに水をさすような発言が、行洋から飛び出す。
「緒方君、進藤君を呼び捨てにするのはやめなさい。彼は同門の君の兄弟子だ。呼び捨ては、あまり好ましくない」
え?と緒方は固まった。今までのふわふわとした気持ちが、風船のように急速に萎んでいく。
それはつまり、進藤に敬称を付けて呼べと言うことだ。もしかしたら、話し方も気を付けなくてはならないのだろうか。
「……分かりました」
そう、答えるしかなかった。
弟子入りとはかくも厳しいものなのか。膝の上の拳にぎゅっと力をいれたとき、場違いなほど明るい声が緒方の隣から発せられた。
「はい!塔矢先生、それじゃあオレは緒方さんのことなんてよべばいいですか?呼び捨て?」
「バカ言うな!」
思わず大声を出してしまった。ああ、行洋から叱責を受けてしまうだろうか。だけど、このあからさまにオコサマな小学生から呼び捨てにされるのは、緒方もさすがに勘弁したかった。
「呼び捨てでも構わないが、進藤君は何て緒方君を呼び捨てにしたいのかい?」
行洋に尋ねられると、進藤は「うーん」と唸りながら考え込んでしまう。頼むから無難に「緒方さん」あたりで落ち着いてくれ。そんなふうに祈る緒方の心を知ってか知らずか、進藤はやがて思いついた!というように顔をあげ、満面の笑みで言った。
「オレ、せいじ君ってよびたいです!塔矢先生がオレたちのこと『君』ってつけてくれているし」
「なんで名字じゃないんだ……」
そう、緒方が呟けば、
「だって初めての弟弟子だから、ちょっと特別なよびかたしたい!」
特別。
どうやら進藤はよっぽど弟弟子というものに夢を抱いているらしい。
「そうか、どうかね?緒方君」
「……それで、いいです」
本当は良くない。良くないが、呼び捨てよりはずっとマシだ。
謎の疲労感で肩をがっくりと落とす緒方の隣で、進藤は無邪気にはしゃいでる。
「わからないことがあったらオレが教えてあげるから、今日からよろしくな、せいじ君!」
なんでも聞いて!と目を輝かせながら「せいじ君」と繰り返す進藤は子供と言うよりは子犬のようで、緒方はうっかり頷いてしまった。
緒方精次、十三歳の春のことだった。
****
「ほら、鍵はどこだ」
「待って、今、出すから」
ヒカルがのろのろとジャケットの内ポケットを探る。タクシーを降りてからここまで半ば抱えるようにして、ヒカルを連れて帰ってきた緒方は自分の内ポケットから、革製のキーケースを取り出し、
「どけ、オレが開ける」
と、ヒカルを玄関ドアの横に追いやり、合鍵であっという間にドアを開けた。
「オレだって鍵くらい開けられるもん」
「シラフの時にやれ」
酔いのせいか、それともタクシーで中途半端に眠ったせいで睡魔に負けているのか、ヒカルは幼子のように駄々をこねる。
緒方はそんなヒカルに溜め息をつきながらも、甲斐甲斐しく世話を焼いてやる。廊下に座らせ靴を脱がせてやり、自分も靴を脱ぐと軽々とヒカルを抱き上げる。
「せいじ君力持ち~」
「頼むから暴れるなよ」
いわゆるお姫様だっこに素直に喜ぶのも酔っぱらっている証拠だ。シラフの時なら「兄弟子にたいして生意気!」とヘソを曲げるに違いない。
勝手知ったる他人の家だ。風呂は明日の朝にしようとさっさと寝室に向かう。
物の少ない部屋だ。クローゼットにダブルベッベッドと、サイドテーブル。サイドテーブルの上にはライトと小型のラジオ、それからノートパソコン。
それを見たとき、緒方の機嫌が降下した。パソコンは緒方も仕事で使うが、進藤のそれは仕事とは違う。体を休めるための寝室にまで持ち込まれたそれは、ネット碁のためだ。
「おい、下ろすぞ」
わざと乱暴にベッドに下ろすと、マットレスのスプリングでヒカルの身体が少し跳ねた。その浮遊感が楽しかったのか、ヒカルが小さく笑い声をたてる。
寝たままのヒカルからジャケットを剥ぎ取り、ネクタイをほどいて、ワイシャツのボタンを数個外し、ついでとばかりにベルトも抜き取っておく。
「……メシはちゃんと食えって言っているだろう」
皮ベルトを手にして溜め息を着く。金具が差し込まれた穴は、また一つ隣に移動していた。
とりあえず、説教は明日の朝に回しておくことにして、緒方は水を取りにキッチンに向かった。
ヒカルの家の冷蔵庫にはミネラルウォーターと、賞味期限の切れた牛乳や萎びたほうれん草が入っていた。ミネラルウォーターをグラスに注ぎながら、緒方は眉間にシワを寄せた。
本因坊の椅子を守りきるのが容易でないことは緒方にも当然分かっている。
ヒカルは飄々としているようで繊細だ。そして、頑固でもある。本因坊という彼にとって特別なタイトルを誰にも渡さないために、普段よりもいっそう囲碁にのめり込む。
緒方とて、囲碁の魅力に取り憑かれた者の一人だ。ヒカルを批判できる立場にはない。
それでも、ヒカルのことが心配だった。それは兄弟弟子としてではなく、緒方精次個人としての私情だった。
「成長しないな、オレも」
緒方はグラスの水を一気に飲み干すと、もう一度ボトルの水でグラスを満たした。寝室で眠っているであろう、進藤のために。
「ほら、起きろ。寝る前に水を飲め」
ベッドに腰掛け、ヒカルの頬をぺちぺちと叩く。言葉になっていない声を出しながら、ヒカルがぐるんと寝返りをうった。
これはオレが飲ませてやらないとならないんだろうな。
緒方はグラスをサイドテーブルに置くと、座ったままでヒカルの上半身を両腕で持ち上げ、肘をつくことで何とかそれを支えることに成功した。
「ほら、水」
「だれー?」
「お前のせいじ君だよ」
誰とはなんだ。ここまで苦労して連れ帰ってきてやったというのに。
(まさか、他の人間を連れ込んでいるんじゃないだろうな)
有り得ないとは思っても、ちらりと脳裏をそんな想像がよぎってイラッとする。
ヒカルは酔いのせいだろう、幼い仕草で目元を手の甲でこすり、続けて緒方を見た。
「せいじくん」
「そうだ。ほら、水」
口までグラスを運んでやれば、ヒカルは大人しく水を飲んだ。何だかんだで喉が乾いていたのだろう。時間はかかったが、グラスを空っぽにした。そして、緒方の身体に上半身を凭れさせてくる。何が楽しいのか、ヒカルはずっとクスクスと笑い続けている。
「くわばらせんせーってば、おもしろいんだぜ」
「ジジィが何かしたか?」
「つぎもオレとやるつもりなんだって、本因坊戦」
それの何がおかしいんだと聞く前に、ヒカルが緒方の手に自分の手を重ねて言った。
「だってつぎオレとたたかうのはせいじくんじゃん」
暗い部屋の時間が止まった気がした。
「やくそく、したもんな。ふたりで本因坊戦。ずっとオレ、たのしみに」
ヒカルの頭ががくっと落ちた。あわてて首を支えてやる。どうやら眠ってしまったらしい。
「はあ、言い逃げかよ」
いつか、二人で本因坊戦を。
あれはまだヒカルが十代で、初めての本因坊タイトル戦に挑んだ時。ヒカルは善戦したが、桑原には敵わず、敗北した。
その夜、同じベッドで眠って、約束したのだ。いつか必ず、本因坊戦で対局しようと。
「信じてくれているのか、オレを」
挑戦者を決めるトーナメント戦の決勝で、緒方は桑原に負けた。今回が初めてではない。桑原は桑原で、並々ならぬ執着を本因坊というタイトルに向けている。
オレの力では、執着ではまだ足りないのか。
そんなふうに落ち込むことがないわけではない。そんなときヒカルは優しく慰めたりしない。せいぜい「惜しかったじゃん」と笑ったり、「オレだったらここはこっちに打つ」
と兄弟子らしく検討に付き合ってくれるくらいだ。
でもトーナメント戦の前には、毎回必ず緒方の背中を押してくれる。いつも同じ言葉を添えて。
「待ってるから」
その言葉がいつも緒方を奮い立たせる。
届かなければならない。並ばなければならない。ヒカルの隣に立ちたい。だから、
「ああ、次は必ずお前の前に座って見せるさ」
そうして、ヒカルの右手を恭しく持ち上げると、その指に口づけた。数時間前まで白い石を握っていた、尊い指に。