そして僕は走り出す「賢者、居るか?」
コンコン、とノックをしたら、室内から控えめな返事が聞こえた。入っていいですよ、とのことだったので、ドアを開けたら、鍵がかかっていなかった。
「失礼するよ」
「こんにちは、ファウスト」
いつもの笑顔で迎えてくれる、そんな、当たり前とも言えることが嬉しい。
「ああ、こんにちは。ところで、昼間でも鍵はかけるように言わなかったか? 二階のメンバーは大丈夫だと思うが、他の階にはいきなり入ってくる者も居るだろう」
賢者の書を書いていたところなのか、彼女は机の前の椅子に座っていた。その肩にはサクリフィキウムが乗っている。双子たちの使い魔だが、彼女の好みを反映して、見た目は随分と可愛らしい。
「そうでした。すみません、うっかりしてて」
「まあ、鍵をかけても、そんなもの物ともしない連中もいるけれど……気を付けた方がいい」
「はい、ありがとうございます」
軽く、ぺこりと頭を下げる。寒いのかもしれない、彼女は上着のフードをかぶっていた。膝掛けも掛けている。温かい飲み物でも魔法で出してやろうか。いや、話がひと段落したら手ずから淹れよう。きっと喜ぶし、僕も、彼女と話がしたい。
「それにしても、どうしました? 今日は、お出かけって言ってませんでしたか?」
「ああ、急に来てすまないな。ついさっき帰ってきたんだ。今、少し時間をもらえないか?」
「はい、もちろん」
晶はにこりと笑って立ち上がり、膝掛けを待って、ベッドに腰かける。気を利かせたように、サクリフィキウムは姿を消した。無論気配はあるが、色々な意味でそこまでしなくても、とも思う。いくら恋仲だと言っても、獣ではないのだから、昼間から何をする気もない。
ぽんぽんと、隣に座るようにベッドを叩いている彼女にも、そんな気はないだろう。朗らかで邪気のない笑顔を見ていると、のんびりした気分になってくる。
「今日、街で見つけたんだが」
ぎし、とベッドを軋ませて隣に座り、懐から包みを取り出す。藤色の包装紙に、白いリボンがかけてある。
「きみに」
にわかに気恥ずかしくなって、それだけ言って差し出す。晶は優しいブラウンの目を見開いて、その包みを受け取った。
「もしかして、プレゼント……ですか?」
「ああ。その、今日はきみが言っていた、バレンタイン、っていう日なんだろう? 日頃世話になっている人や……愛する人に、プレゼントを贈る」
「ありがとうございます! 開けてもいいですか?」
「どうぞ。気に入ってもらえるといいんだが」
「うわ、ああ、可愛いー!!」
包みを綺麗に開けた晶は、目をきらきらさせて僕を見上げてきた。猫の形をした箱。ずっとそのまま眺めているので、開けてみなよ、と声をかける。
ぱか、と蓋を開けると、その中には形や色も様々なショコラが詰まっていた。晶は弾かれたように顔を上げて、紅潮した顔で礼を言う。
「すごい、可愛いし美味しそう……!! ファウスト、ありがとうございます!!」
「いや、きみの嬉しそうな顔が見れて、僕も嬉しい」
ふふ、と笑って返すと、彼女はさらに嬉しそうに口元を緩ませる。丁寧にぺこぺこと頭を下げるので、ぽろ、とずっとかぶっていたフードがとれた。
その下に隠されていたものを見て、僕は、腰を抜かしそうになる。
「晶、きみ、それは……!?」
晶の頭には、三角の耳がふたつ、ぴょこんと生えていた。つんと立っているそれは髪と同じブラウンで、まるで、びっくりしている時の猫のようだ。
晶は頬をぽりぽりと掻きながら、あははと苦笑いした。それにつられて猫耳もぴくぴく動く。人間の耳もなくなっていないが、無論動いてはいない。
「実は、ムルに魔法をかけられてしまいまして」
「は? どうして?」
「実は私も、バレンタインだから、ファウストにプレゼントがあるんです。でも、ファウストだけにあげるわけにはいかないから、義理のものをみんなに配っていたら、ファウストにもあげるんでしょ? 可愛くしてあげる! って……」
彼女によるムルの真似は意外と上手かった。いや、それどころではない。僕はティコ湖よりも深い溜息をついた。気配を探ったところ、呪いの類ではない。時間の経過で消えるだろう。ムルに文句を言いにいこうか。でも、あの西の魔法使いは神出鬼没だ。僕の行動を予想して新たな悪戯を仕掛けている可能性もある。
「どうですか?」
思考を巡らせつつ、ずり落ちたメガネを直していたら、晶が顔を覗き込んできた。
「どうって?」
「可愛いですか?」
ああ、そうか、肝心なことを言っていなかった。
「可愛いよ」
笑顔で言ったつもりだったが、上手く微笑めていただろうか。手を伸ばして、頭を撫でてやる。すると、晶が顔を真っ赤にして肩を揺らした。
「にゃ……!」
にゃ?
膝掛けの下から、ぴん、と尻尾が出てきた。尻尾もあったのか。
「ふぁ、ファウスト、あんまり触られると……」
目を伏せる晶の声が、甘く掠れている。かすかに息が荒い。
──まさか。
それは、特別な夜、僕にしか見せない、彼女の顔だった。