さんざめく心臓オー晶
目が覚めた時には、中天に月が昇っていた。
腹を触ってみる。もたれた木の幹には、指が触れない。完全に貫通していた穴は塞がって、血も止まっている。ミスラの魔力の残滓を感じながら、呪文を唱えた。血のにおいがようやく消える。
「ちっ……」
舌打ちをして立ち上がる。血が足りないから、足元がふらついた。瞼の裏、記憶に残る閃光。あの忌々しい髑髏。
もう一度呪文を唱えると、魔法舎に戻った。既に夜中だから、暗く、静まり返っている。ひょっとしたらバーは明るいかもしれないが、足を向ける気にはとてもならない。
足を引き摺るように歩いていくと、キッチンから明かりが漏れていた。ネロが仕込みをしているのだろうか。そう思って覗いてみたら、見えたのは、もっと小さな背中だった。
「晶」
「ひゃあっ」
耳元で囁いてやると、賢者の肩が大きく跳ねた。気配を消して近づいたのだから当たり前だが、喉奥から笑いが溢れてきてしまう。
「ふふ、色気のない悲鳴。こんばんは、賢者様」
「オーエン、こんばんは……もう、心臓が止まるかと思いました」
冷や汗をかいて振り返る晶を見ていると、少し気分が良くなった。甘いにおいがすると思えば、彼女の前ではミルクパンが火にかけられていて、その中ではミルクが今まさにふつふつと泡を立てている。
「ホットミルク、僕にも頂戴」
「はい、もちろん。少し多く温めてましたから、良かったです」
「誰か、他の奴にあげるつもりだったの?」
彼女の、穴の空いていない腹部に腕を回し、僕の方に引き寄せる。彼女の背中に、僕の心臓のない胸が触れる。温かい。
「実は、オーエンが夜中くらいに帰ってくると思います、って夕食の時にミスラが言ってたので、そろそろ、あなたが来るかなと思っていたんです」
「ふうん」
ミスラはやっぱり変な奴だ。人を殺しておいて、人にホットミルクを飲ませようとする。
「それで、おまえは起きて待ってたの?」
「そうできたらよかったんですが、実は、お風呂の後に本を読みながら寝てしまって。さっき目が覚めて、今ここにいます」
「そう」
そこで、晶は火を止めた。
「オーエン、ホットミルクでいいですか? ココアもありますよ」
「……ココア」
「ココアですね。あっ、そういえば、オーエン、お腹は大丈夫なんですか!?」
振り返った晶がこちらを見上げてくる。洗いたての髪が僕の頬に触れて、どこかで嗅いだ花のにおいがした。
「心配が遅いね」
「あ、すみません。オーエン、顔が真っ白です。ココアだけじゃなくて、できれば、何か食べたほうが……」
「ミスラは、なんて言ってたの」
「オーエンのお腹に穴を空けてきたって……一度死んだから、夜中くらいに帰ってくるだろうって」
くるりと体も振り返って、晶は僕の帽子から爪先までを見た。ゆっくりと視線を上げて、さっきまで穴の空いていた胃のあたりをじっと見る。臭くて汚いから綺麗にしてしまったが、血まみれで帰ってきたほうが、心配してもらえただろうか。
「だ、大丈夫ですよね……」
晶はそうっと手を伸ばして、ぺたぺたと上着の上から腹部に触れてくる。少しくすぐったいが、悪くはなかった。
「よかった……」
ほっと息をついたタイミングで、上から声をかける。
「ねえ」
「はい」
「穴が空いたから、お腹がすいてるんだ。ココア、早く作って」
「あ、はい! そうですよね。オーエンが無事で、安心しちゃって……」
カップの用意を始めた彼女が、目元を袖で拭うのをみて、よくわからない感情に襲われる。別に、いつものことだろうに。いい加減に、慣れればいいのに。これが僕たちの、当たり前の毎日なんだから。
目眩がしてきたので、食堂まで歩いていって、椅子に座って待つ。やってきた晶は、ココアが入ったカップと、ビスケットがのった皿を持っていた。
「よかったら、ビスケットも食べてください」
「へえ。賢者様にしては、気がきくね」
す、とカップの上に手を伸ばす。握った手の中からシュガーが溢れ、ココアに落ちていく。晶はそれを黙って見ながら、自分のココアに口をつける。何か言いたそうにしているが、それを敢えて無視して、美味しくなったココアを飲み、ビスケットを手に取った。
二枚のまるいビスケットの間に、茶色い泥のようなものが固まって挟まっている。甘いにおいがしたので、口の中に放り込む。固まった泥は、やはりチョコレートだった。サクサクと咀嚼していくのが小気味いい。温かいココアが、文字通り空になっていた胃を満たす。途端に空腹感を覚える。
「オーエン、昨日が何の日か、知ってますか」
晶が聞いてきたが、今はココアとビスケットとチョコレートの消費で忙しい。ちらりと視線を送って首を横に振ってやる。
「バレンタイン、ですよ」
微笑んで言う、その単語を、以前に聞いたことがあった。大切なひとに、お菓子などのプレゼントを贈る日。そう言っていた気がする。
嬉しそうにも、哀しそうにも見える彼女の顔を時々見ながら、腹を満たしていく。腹だけでなく、他のどこかも満ちていく気がするのは、気のせいだろう。
だって僕には、心臓もないのだ。
「……おかわり、頂戴」
「はい」
破片しか残っていない皿を持って、晶が立ち上がる。チョコレートと同じ色の髪が揺れるのを見て、どうしてあれは食べられないのだろう、そんなことを思った。