嘘つきだらけの白昼夢嘘つきだらけの白昼夢
今日のオーエンは、どこか変だ。
「あ、オーエン……っ、待って……」
「待てない。キス、したい」
囁いて唇を落とされると、頭の下で枕がはずみ、ベッドのスプリングがきしんだ。
今日は、王都に新しくできたカフェでケーキを食べた。ずっと行きたかったんだけれど、任務が立て込んでいたり、ミスラと喧嘩したオーエンの機嫌が悪かったりで行けなかった所だ。甘すぎない上品なクリームに、フルーツがたっぷり乗ったケーキ。評判通りの美味しさを味わっていたら、オーエンが私のお皿にフォークを伸ばしてくる。
あ、また、フルーツを何かとられる、この間も一番美味しそうなメロンをとられたのに、と思ったけれど、彼がやったことは逆だった。
「あげる」
からん、と小さな音を立てて落ちたのは、オーエンが注文したケーキを飾っていたチョコプレート。
お皿から視線を上げると、彼はケーキよりも甘く笑っていた。
それだけじゃない。
いつも私がお金を払うのに、今日はオーエンがお金を払ってくれた。ちなみに、オーエンが支払いをするのを初めて見た。実は、お金を持っていないのかもしれないと思っていた。
これは、今日は雨どころか雪とか槍が降るかもしれない、とお店を出て見上げた王都の空は、眩しいくらいの晴天で。遠くにはグランヴェル城が見えていて、そこにいるはずの王子様の、綺麗な目を思い出す。
「なに、考えてるの」
隣に並んだオーエンが、私の手をそっと握る。いつも冷ややかに見下ろしてくる眼差しが、ふわりと優しい。
「すごくいいお天気で、お城までよく見えて、そういえば、今日の空はアーサーの目の色に似てるな、って思ってました」
「……そう」
オーエンが歩き出したので、手を引かれるようにして私も一歩二歩と踏み出す。こうして彼と手をつないで街を歩くなんて、初めてかもしれない。私たちは一応恋人同士と言える仲だけれど、私が今までしてきた恋愛と、オーエンとのそれはまるで違う。
ゆっくり歩いてくれているオーエンが、不意に手をぎゅっと握る。どうかしたのかと思って見上げると、彼は握りしめた手を口元へ持っていき──そして、私の手の甲に、キスをした。
銀灰の、長めの前髪の下から、色違いの目に見つめられて、頬がぼうっと熱くなる。すっと通った鼻筋に、薄めの、かたちのよい唇は、よく見ると桜色。ちょっと怖いけれど、いや、怖いくらいに、オーエンは綺麗な顔をしている。
「僕とデートしてるんだから、他の男の名前を出さないで」
「ど、どうしてですか?」
「嫉妬してるに決まってるだろ」
嫉妬。
オーエンにも、そんな感情があるのか。
ふ、と小さく笑った彼の、口もとの艶やかさは、まさに目の毒だ。
それから、珍しく喋らなくなったオーエンに、雑踏の中、腕を引かれ、普段は行くことのない方角に歩いた。川の向こう、なんとなく後ろぐらい雰囲気がある、大人の二人づれしかいない街並み。
もしかして、と考え始めたやさき、オーエンは白壁の大きな、二階建ての、お屋敷とも呼べるような建物に入っていく。昼間なのに薄暗い中に入ると、カウンターがあり、口ひげをたくわえた太ったおじさんがパイプをふかしていた。
「いらっしゃいませ」
「一番いい部屋」
オーエンが短く言って、おじさんの前に、懐から取り出した白い布の袋を置く。ちゃりん、と袋の中で硬貨が鳴った。かなりたくさん入っていそうだ。
「はい、ありがとうございます。二階の西、奥の部屋です」
おじさんはにやにやしながら袋を受け取り、オーエンに鍵を渡す。手を引かれたまま、階段をのぼり、西の突き当たりのドアを開ける。
シャンデリアみたいな照明、小さな窓、小さなテーブル、その上に置かれたフルーツが盛られた籠、お酒らしき瓶と二脚の華奢なグラス。そして、大きなソファに、天蓋付きの、大人が五人は並んで寝られそうなベッド。奥のほうには、ガラス張りのバスルーム。
「オーエン、ここって……」
いわゆる、ラブホテルみたいな場所のようだ。この世界にも、あったんだ。いや、そうじゃなくて。
「あの、私……」
「いや?」
端的に尋ねてくる彼は、厄災の傷の彼のような、幼い瞳をしていた。でもなんだろう、今日の彼は、傷のそれともまた違う。
「いや、と言いますか、心の準備が……」
また、かあっと頬が熱くなる。どくんどくんと、心臓が騒ぎ始める。
すったもんだの紆余曲折あって心を通じ合わせた私たちだが、実はまだ、キスも、それ以上のこともしたことはない。私は好きだと彼に告げたけれど、彼からは好きだと言われたこともない。よく考えると、付き合っているのかそうじゃないのかわからないような関係だ。
正直に言うと、私は、オーエンと『そういうこと』をしたいとは思っている。でも、恥ずかしくて自分からは言えないし、そもそも、長生きの魔法使いに性欲はあるのだろうか、彼は特に潔癖症っぽいし、などと考え、もしかしたらずっとしないのかもしれない、でも、無理になんてもちろんしたくないし、できないだろうと、半ば諦めていた。
「準備なんて、いらない」
オーエンが、ふ、と片手を振る。私と握っていない、右手。彼の肩からふわりとコートが浮き上がり、そばにあったコート掛けにかかる。次いで、帽子も同じように。魔法というものは、やっぱり便利だ。
「オーエン……」
おりてきた手が、私の頬を撫でる。手袋越しに感じる熱。
「僕は、晶が好き。晶も僕のことが、好きだろう?」
親指がゆっくりと唇をなぞっていく。人形のように端整な顔立ちが、近づいてくる。舌の上の紋章が見える。綺麗すぎて、どきどきして、見ていられなくて、目を閉じる。
「っ……」
拒む理由は、なかった。
受け入れた唇は、少しひんやりとしていて、意外にも柔らかい。そっと押し当てられたあと、角度を変えて、何度も、何度も。
「ふ、うっ……」
うまく息ができない。苦しい、と思ったときには、いつのまにか抱き上げられていた。軽々と運ばれて、内心びっくりする。細身な彼に、こんな力があったのか。てっきり魔法で運ばれるのかと思っていた。
頭から足先へ、壊れ物を扱うようにベッドにおろされて、ほっとする。
「軽いね、晶」
「そ、そうですか……」
彼も上がってくると、少しだけベッドがきしんだ。銀の髪の向こうに、白い天井が見える。
「赤くなってる。可愛い」
「ひゃっ……」
耳元で囁かれ、そのまま耳にキスをされる。低く甘い声に、胸がきゅんとする。
可愛いなんて、言われたことあったっけ。
なんだろう、今日のオーエンは、どうしてこんなに優しいんだろう。からかわれているんだろうか。もしかしたら、もう少ししたら、いつも通りにやって笑って、意地悪を言ってくるのかも。
「んっ……」
今度は首元にキスされる。次に、鎖骨の上。あれ、そうだ、今日はいつもの賢者の服じゃなくて、クロエが作ってくれたノースリーブのワンピースなんだった。首周りもあいてるし、これじゃ、すぐに脱がされちゃう。
オーエンの手が、髪を梳くように撫でる。とろけるように甘い、ケーキみたいな微笑み。
「晶、可愛い。大好きだよ」
「オーエン……」
私も、大好き。そう言いたかったのに、告げる前に唇を塞がれる。薄く開いていた隙間から、彼の舌が入ってくる。歯列をなぞられ、口蓋をくすぐられ、舌を吸われると、ひどく幸せな気持ちになった。気持ちいい。
長いキスのあと、オーエンは今度は頬にキスをしてくれた。
「あの、オーエン……お願いがあるんですけど……」
「何?」
「だめかもしれないですけど、先に、シャワーを浴びたいです」
今日のオーエンだったら、許してくれるかもしれない。そう思ったけれど、彼は私の上で首を横に振った。
「だめ」
「だめ、ですか……?」
「可愛くお願いしてもだめ。待てないから」
そう言って、彼は私の胸元に顔を埋めた。
「あ、オーエン……っ、待って……」
「待てない。キス、したい」
囁いて唇を落とされると、頭の下で枕がはずみ、ベッドのスプリングがきしんだ。ワンピースの上に着ていたカーディガンのボタンが外される。意外と熱い彼の手が、胸の横にあるファスナーを探り当てる。
『背中にあると着替えにくいから、サイドにつけておいたよ。何回も着てね!』
クロエの笑顔を思い出す。まさかクロエも、このファスナーをオーエンがおろすとは、思っていなかっただろう。いや、意外とふたりは仲がいいから、いや、だけど、でも……。
やっぱり、なんだかおかしい。このワンピースのファスナーは、背中のはずだ。
「オーエン、あの、」
「《クアーレ・モリト》」
ドアが開くと同時に、よく通る声が響く。
どうして、遠くから。
彼は私のすぐそばにいるのに、遠くから、声が聞こえるの?
ザシュ、という、包丁で何かを切ったときのような音。オーエンの体がもたれかかってきて、ぐったりとしていて重い。
「ひ……っ」
自分の悲鳴が、どこか遠く聞こえる。
彼の背中に、氷の刃が深々と突き刺さり、白い、ストライプのジャケットが、みるみるうちに血に染まっていく。
身体の中で燻り始めていた熱が、急速に冷えていった。
「この僕を放っておいて浮気してるの、賢者様?」
ドアの前に立っているひとを見て、愕然とする。
白い軍帽、白いコート、白いスーツ、黒いシャツ、紫のネクタイ。銀灰の髪、青白い肌、氷の彫刻のような端整な顔立ち。紅と黄色の目。
「オーエン……」
「おまえがそんな淫乱なんて、知らなかったよ」
「そんな、じゃあ、オーエンは……」
私が今キスをしていた、オーエンは。
「あ、」
支えていた肩が、ふ、と軽くなる。ざあ、と音がして、“オーエン”は、石にもならず、煙のように消えた。
呆然としていたら、ドアの前のオーエンがつかつかと歩み寄り、乱暴にベッドに腰を下ろした。ベッドがぎしりときしみ、私は慌てて体を起こす。
「おい」
顎をつかまれ、至近距離で顔を覗き込まれる。紅色の目には視線だけで人を殺せそうなほど剣呑な光が宿っていた。その目を見ていると、なんだかほっとしてしまう。
「ああ……オーエンだ……」
「何された」
「えっ」
「偽者に何されたの?」
「あ、ああ、偽者って、オーエンの……」
「呆けた顔。あんな紛い物に騙されて、おかしいって思わなかったの? 好きな男のこともわからないなんて、おまえの脳味噌は、本当にこの中に詰まってて、ちゃんと機能してるの? 実はもう、死んでるんじゃない?」
「えっと……なんだか、いつもと違うなとは思ってましたけど、優しくて、優しくされて、嬉しくなってしまって……その……」
「その?」
オーエンの視線が怖い。つかまれた顎も痛い。ああ、オーエンだ。本物の。口が悪くて、皮肉っぽくて、怒ると怖い。
甘くて苦い、でもどこか爽やかな香りがした。何度か感じたことのある、オーエンのにおいだ。
「す、すみません……」
「で?」
「助けてくれて、ありがとうございます。きっと、悪い魔法だったんですよね」
「そんなことはどうでもいい。何されたの」
「ああ、ええっと……」
思い出すと、頬が熱くなってくる。だって、私にとってはあれは、紛れもないオーエンだった。なんとなく恥ずかしくて、肩から落ちかかっていたカーディガンを着直す。
「キス、されました……」
「それだけ?」
「耳元で、晶、可愛い、大好きって言ってくれました」
オーエンの細い眉が、きりりとつりあがった。私が偽者の彼に絆されてしまっていたのが、面白くないんだろう。どうやって謝ろうか。どうしよう。もしここにひとりで、置いていかれてしまったら、帰れるだろうか? 魔法にかけられていたなら、帰り道は無いかもしれない。行きと同じ道からは、帰れないかもしれない。
そのとき。
不意に、生ぬるい風が吹いた。
窓もないのに、それは私とオーエンの髪を揺らし、頬を撫でる。
突然、電気が切れたように、私たちの周りが暗くなった。
オーエンが私の顎を離して立ち上がり、チッと舌打ちをする。
「甘い夢を壊したから、悪夢になったか」
「悪夢……?」
ざわざわと、背中から悪寒が這い上がってくる。鉄の、いや、血のにおいがした。ぬるりと、鼻の奥から、何かが垂れてくる。指で拭うと、赤い液体がついていた。鼻血だ。どうしてだろう。ぶつけたわけでもないのに。
ポケットを探ったが、ハンカチがない。仕方なくカーディガンの袖を鼻にあてる。せっかくクロエが作ってくれた、白い、綺麗なレースのカーディガンなのに。
頭の上から、ため息が聞こえる。
「これ、かぶってろよ」
オーエンが軍帽をとり、私の頭にかぶせる。小顔だなと思っていたけど、頭も小さいらしく、サイズはだいたいぴったりだ。
「オーエン……?」
「行くよ。死にたくなければついてきて」
ばさりとコートを翻して、オーエンが私に背を向ける。慌てて立ち上がって後を追う。
彼がドアを開けると、廊下の様子は一変していた。薄暗く、天井には蜘蛛の巣が張っている。右側にあった他の部屋に続くはずのドアは一つもない。窓はあるが割れていて、カーテンはびりびりに破れている。窓の外に見える空は、血のように赤い夕焼けだった。
──何だこれ。まるで、ヨーロッパのホラー映画だ。
猫背になって、身体の震えをおさえながら、いつも通り背筋を伸ばして歩き出したオーエンについていく。私の後ろで、ドアが勝手にバタンと閉まった。
「振り返るなよ」
「はっ、はい。あの、オーエン……手をつないでもいいですか?」
「嫌。片手が塞がると、戦いにくい」
「た、戦うような、敵が、出てくるってことですか? もしかして、お化けとか……」
「下らないことを喋るなよ。概念に名を与えるな」
「え……? でも、怖くて……」
オーエンは足を止めない。その靴音が、コツコツと廊下に響く。まっすぐな髪が、一歩ごとにふわりと揺れる。窓の外から、カラスが鳴くような声と、はばたきの音。びくりと、身体が震えてしまう。誰かがいるような、誰かに見られているような感覚。足元から、冷たい空気が上がってくる気がした。寒い。指先が、冷たい。
オーエンが、はは、と愉しげに笑う、その声が、不気味な鳴き声に重なる。
「さっきまで、生臭いおまえの欲情で、胃もたれしそうだったけど、今は、おまえの恐怖が心地良い」
「そんなぁ……だって、怖いんです……サクちゃんがいればよかったのに……」
「あれは、ここまでは来られない。だいたい……いや、まあいい。僕がいるだろ」
「頼りにしてます、オーエン……どこまで行ったら、出られるんですか?」
入ってきた時は、そんなに長く感じなかった廊下は、今は、オーエンの前に、どこまでも続いているように見える。
彼は前を見たまま、肩をすくめた。
「さあ?」
「さあって……」
「情けない声。震えて歩けないなら、僕のコートの端っこでもつかんでたら? そして、前だけ、僕の背中だけ、見てろよ」
「は、はい。失礼します」
お言葉に甘えて、長いコートの端を掴む。
「余計なことは考えるな。ここでは、おまえの心の有り様が周囲に影響する。それから、帽子を落とすなよ」
「が、頑張ります」
どうしてですか、と聞く余裕もない。いつのまにか鼻血は止まっていた。右手でオーエンが貸してくれた帽子を押さえ、左手で長いコートの裾をつかみ、そして、意外と大きい背中を見つめる。大丈夫。きっと、オーエンがいれば、大丈夫。怖くない怖くない怖くない。
少し前の廊下が、右に折れ曲がっている。見た覚えのない曲がり角だ。その先が、なんだか暗く見える。
「賢者様」
「は、はい」
「怖いなら、目をつぶってたら?」
「そ、そうしたら、歩けません」
「ああ。人間は不便だね」
「オーエンの背中、見てます」
「そうしなよ。──《クアーレ・モリト》」
オーエンが魔道具のトランクを取り出し、それを開ける。廊下じゅうに響き渡るような咆哮。ケルベロスが飛び出した。
「さあ、おまえたち、餌の時間だよ」
私は目を伏せて、オーエンのコートの裾をじっと見つめた。ケルベロスの声、何かの断末魔、ごりごりと、骨を砕くような耳障りな音。
正直言ってめちゃくちゃ怖い。でも、オーエンは歩みを止めないし、ついていくしかない。角を曲がると、窓の外が少し暗くなったような気がした。気のせいか、いや、ケルベロスのせいか、床にいくつか血溜まりがある。
「《クーレ・メミニ》──ケルベロス、戻れ」
オーエンがトランクを閉めると、あたりがしんと静まり返った。
「階段がある。降りるよ」
「わ、わかりました」
そういえば、部屋は二階だった。オーエンに続いて階段を降りる。両手が塞がっているので、手すりが握れない。どうしよう、急に階段がなくなったら。いや、階段が増えているかもしれない。そういう、学校の階段──じゃなくて、怪談があったな。あと、踊り場に何かいるとか、そういう──。
あれ?
踊り場の鏡に、私が映っている。その後ろに、何か、黒っぽい影がある。
「……っ」
息を呑む。あまりに怖いと、悲鳴も出ない。私の後ろにいたその何かが、天井のほうに動くのが見える。そして、天井から、黒と赤の何かが降ってきた。肉が腐ったような不快なにおい。長く黒い髪の間から見える、どろりと血走った目、黄色くて長い牙。
「見るな」
視界が遮られる。オーエンが、軍帽のつばを引っ張ったらしい。
「目を閉じてろ。潰れる」
低く鋭い声に従い、ぎゅっと目をつぶる。
「《クアーレ・モリト》」
呪文と共に、瞼の裏で光が弾ける。何があったのかわからない、目を開けられない。
オーエンの声が前の、少し上から聞こえる。
「はあ……最悪。余計な手間が増えた。僕の背中だけ見てろって言っただろ、下らないことは考えるなよ」
「す、すみませ──うわっ!」
ぐちゃ、と足元から音がする。何かを踏んだ、今、きっと。見たくない、怖い、もう泣きたい。
「はあ、どうして、こんな、弱くて、臆病で、甘ったれた奴のこと──」
聞こえてくる声は、明確な呆れを含んでいた。うう、ごめんなさいごめんなさい。
ふわ、と体が浮き上がる。ぱちりと目を開けたら、作り物のような美貌がすぐ近くにあった。背中と腰に、温もりを感じる。
オーエンに、抱き上げられている。ゆらゆら揺れて、一歩ごとに、階段を降りている。
「お、オーエン……? 本物ですか?」
「賢者様、重いね。ネロのパンの食べ過ぎじゃないの?」
「よかった、本物ですね」
細い眉をしかめて、オーエンは口元を歪める。笑っているのか、怒っているのか、よくわからない。
「僕の紛い物も、こんなことしてたの?」
「はい」
「……ふうん」
階段を降りた後も、オーエンは私を抱えたまま歩き続けた。意外にも危なげない。
「オーエン、そろそろ降りますよ、私。また何か出てきたら、魔法、使いにくいですよね」
「ケルベロスに食べさせるから問題ない。それに、腰抜かして泣いてたくせに、自力で歩けるの?」
「腰は抜かしてません。でも、その……ありがとうございます」
涙は、驚きと、彼の温もりのおかげか、すっかり引っ込んでいた。一階も、二階の通路と見た目は変わりないが、心なしか、窓の外が明るくなったように見える。
「お礼は、新しくできた店のケーキにしろよ」
「ふふ、はい。メロンもチョコプレートも、オーエンにあげますね」
色違いの両目が、びっくりしたように見開かれる。
「いっぱい食べましょう、ふたりで」
「……はは、賢者様のお財布、すっからかんにしてあげる」
「うう、たくさんお金持っていきます……あれ」
少し先に、“オーエン”がおじさんにお金を払った、受付カウンターのような、広い空間が見える。その向こうには、両開きのドアが。
「あ、オーエン、ドアが……」
「遅い。早く、外から開けろよ」
「外から……? 私、降りますって」
「うるさい。どうせ、もう少しだ」
ぎゅう、と、抱えられている腕に力がこもる。オーエンの、甘いにおいが強くなる。借りたままの軍帽が落ちそうになったから、急いで片手で押さえた。
強く引き寄せられて、彼のスーツの襟のあたりに、私の耳や頬がくっつく。それでも、心臓をどこかに隠している彼の鼓動は聞こえない。でも、速くなっている私の鼓動は、彼にも聞こえてしまっているかもしれない。
「このままでいい」
囁いた、オーエンの表情が、近すぎて見えない。
目を開けたら、枕元にいるサクちゃんが見えた。窓の向こうの空は、明け方なのか、紫色だ。
「あ、賢者様、目を覚まされたんですね!」
穏やかな若草色の瞳に見下ろされる。ルチルだ。
「よかった……ご気分は? どこか、痛いところはありませんか?」
「わたし、は……」
ここはどこだろう。今はいったい、いつだろう。
「ここはフィガロ先生のお部屋ですよ。賢者様、不思議な魔道具に取り込まれていたんです。もう、半日以上目を覚まさなかったんですよ」
「魔道具じゃない、呪具です」
気だるげな声がして、顔だけをゆっくりそちらに向ける。足元のほうに座っていたミスラが、大きなあくびをした。その隣にはファウストもいて、難しい顔で私のほうを覗き込んでいる。
「面倒くさい呪いでした。蚤の市で、変なものを買ってきたんでしょう。あなたのせいで、俺は昨夜一睡もしていないんですよ」
ミスラの言葉に、ぼんやりと記憶が甦る。任務の後に訪れた、泡の街の蚤の市。そこにあった、持ち主の願いを叶え、美しい夢を見せてくれるという、魔法の木箱。蓋に、猫と星の可愛い模様が彫られた、小さな箱。あれ、それを買ったのは、どんなお店だったっけ。お店の人は、どんな人だったっけ。
軽く嘆息して、ファウストがゆるく首を振る。
「それは、今に始まったことじゃないと思うが……ルチル、僕とミスラで賢者の様子を見ておくから、フィガロを呼んできてくれないか」
「はい、わかりました、ファウストさん」
ルチルがぱたぱたと部屋を出ていく。彼がいた場所までファウストが歩いてきて、私の顔を覗き込んだ。
「賢者、気分はどうだ? 解呪に手間取ってしまい、申し訳ない。夜になって、オズも魔法を使えず、スノウやホワイトも絵の中に入ってしまって……」
「気分は、少し眠いですけれど、大丈夫です。痛いところも、ありません……ファウスト、ミスラ、ご迷惑かけて、すみません」
「それは、隣で寝てる人にも言ったほうがいいですよ。ああ、オーエンが目を覚ますまで、手は離さないでください。あなたも彼も、魂に傷がついてしまうかもしれないので」
「え?」
そういえば、右手が温かい。右側を向くと、仰向けになって、オーエンが目を閉じていた。私と手を繋いで、魔法で広げたのか、大きくなったベットの上で、同じ毛布をかぶって。
「賢者、大丈夫。オーエンは生きているよ。彼が、きみの夢の中に入って、きみを助けてくれたんだ」
ファウストの声は落ち着いていた。オーエンの枕元に、少し汚れたように見える軍帽が置いてある。じっと見ていると、彼の胸元が規則的に上下している。眠っているようだ。
「オーエンが……」
「あなたの夢にも、あなたと同じ布団にも、自分以外のどの魔法使いも入れたくなかったみたいですよ。愛されてますね」
「その言い方はどうかと思うが……きみの夢に入るのは彼に任せて、僕とミスラは、呪いを解く方法を探っていたんだ。最も危険な役割である、呪いに侵されたきみの夢に入り込むのは、きみの心に一番近いオーエンが適任だろうしね」
さあ、水を飲んで、とファウストがガラスの水差しを差し出してくれる。ごくり、と冷たい水を飲むと、不思議と頭の中がクリアになる。
そうだ、魔法舎に戻ってきて、自分の部屋で、木彫りの小さな箱を開けて──私はそのまま、眠ってしまったのか。そして、優しいオーエンと、夢の中でデートをして。つまりはあれが、私の願い、私の夢。
ファウストがさっき言っていた『きみの心に、一番近いオーエン』──ほんとうに、そうだろうか。心の奥の願いさえ、オーエンに伝えることができないのに。
じっと私を見ていたサクちゃんが、足のほうに歩いていってまるくなり、毛繕いを始めた。ふわああ、と、ミスラがまた大きなあくびをする。
「それにしても、オーエン、起きませんね。まるで死んでるみたいだ」
「……起きてるよ。勝手に殺すな」
ミスラの声に応えるように、オーエンが長いまつ毛を上げて、目を開く。そして、だるそうにゆっくりと、こちらを向いた。色違いの目と、視線が交わる。
「オーエン……! 目が覚めて、よかった……体は大丈夫ですか? あの、それから、ごめんなさい、あ、ありがとうございます」
「落ち着けよ。それに、お礼はもう聞いた。ケーキでいいって言っただろ」
「よかった、私、オーエンがいなかったら……」
「眠り続けて、衰弱して死んでたんじゃない? あの箱、おまえの魂に巣食ってたみたいだし。まあ、甘ったるい夢の中で、色ボケしながら死ねたんなら、幸せだったかもね」
「うっ、それは……言わないでください……」
こほん。いきなり、ファウストが咳払いをして、ミスラを引っ張って立ち上がらせた。
「いきなり何するんですか、ファウスト」
「フィガロもなかなか来ないし、ふたりも元気そうだから、少し部屋の外へ出ていよう」
「はあ? ちょっと、この俺を引っ張らないでくださいよ、殺しますよ」
「浄化できた呪具を分解して、分析してみないか」
「……へえ。それは、なかなか面白そうですね。いいですよ、行きましょう」
「賢者、何かあったら大声で呼びなさい」
ファウストとミスラが、振り返らずに部屋を出ていく。ミスラはともかく、ファウストは気を遣ってくれたんだろう。ぱたんとドアが閉まると、オーエンがくくくと笑った。
「何この茶番。みんな、馬鹿みたい。あはは、でも、賢者様が一番愚か。僕とケーキを食べて、手を繋いで、キスされて、犯される。あれが、おまえの夢なの?」
手袋をしていないオーエンの手は、意外と温かい。その指先が、布団の下でするすると動き、手を繋ぎ直す。互いの指を絡めて、ぴったりと掌を合わせる。
窓の外がだんだん明るくなってきた。カーテンの向こうから、目を覚ました小鳥たちのさえずりが聞こえる。
夢の中のように、ベッドがぎしりと音を立てた。寝返りを打って、こちらを向いたオーエンが、息がかかりそうなくらい近くにいる。火がついたように、私の頬が熱くなった。
ちょっと怖いし、不安だけれど、どきどきしながら口を開く。
「はい、夢です。オーエンの……もっと、近くに行きたい。オーエンのことが好きだから、大好きって、可愛いって、言ってほしいって……思ってます」
「わがまま。さっきまで、死にかけてたくせに」
「う……ごめんなさい。オーエンが嫌なら、諦めます。助けに来てくれただけで、大感謝です。あなたは、私の命の恩人です」
「別に、おまえの夢に潜るくらい、僕には大して難しいことじゃないし、それに……嫌だなんて、言ってないだろ」
「えっ……?」
ぎゅっと、痛いほど強く手を握られる。オーエンは、いったん斜めに目を逸らしてから、ゆっくりと私を見た。宝石のようにきらめく瞳に、私が映っている。まるで、心の奥底を射抜くような眼差し。
「じゃあ、まずはこの手で、僕の頭を撫でてよ……晶」