めくるめく春「もしもこのケーキの中に、惚れ薬が入っていたらどうする?」
そう言うと、女──今代の賢者──は、ごほごほと大げさに咳き込んだ。彼女の前に置いてあるルージュベリーのショートケーキは、既に三分のニほどがその胃袋におさまっている。
「おっと、大丈夫? お茶飲んで」
ポットを取り、温かい紅茶をカップに注いでやる。ぬるくなってきていたのだろう、彼女はカップを取ると、それを一息に飲み干した。
「ほ、惚れ薬って、そんなの、この世界にはあるんですか?」
尋ねてくるベリー色の唇のそば、柔らかそうな頬は赤くはなく、どちらかというと青い。
やれやれ、と内心溜息をついて、肩をすくめた。籠絡という言葉が聞きすぎたようで、どうもこの賢者は、俺に心を許してくれない。前途多難だ。
「そんなもの、ないよ。冗談、冗談」
「はあ、よかったぁ……」
胸を撫で下ろした彼女が、背もたれに背を預けた。俺の前に置かれたミルフィーユの一番上の層が、かすかな音を立てて皿の上に落ちる。潰れたルージュベリーが、カスタードクリームに埋もれた貧相な顔を覗かせた。何かに似ているな、と思ったけれど、その何かが、どうしても思い浮かばなかった。
そんな、今は遠い日のこと。
「もしもこのケーキの中に、惚れ薬が入っていたらどうする?」
そう言うと、賢者、真木晶は、咀嚼していたケーキを飲み込んでから、にっこりと笑った。
「フィガロ、以前にも同じこと言ってましたよね。こうして、お茶を飲みながら、ふたりでケーキを食べていたとき」
「そうだね」
軽い相槌を返す。あの時と、場所も同じだ。中央の老舗のカフェの、一番奥の窓辺の、陽当たりがいっとういい席。時間も、十五時前後。天気はまさに行楽日和の快晴。
違うのは、紅茶がコーヒーであり、ショートケーキがガトーショコラであること、俺も彼女も同じ種類のケーキを食べていること、店内の選曲、周りの客の顔触れ、そしてそれから。
「あのとき、私はびっくりしましたけど……でも今は……」
ミルクをたっぷり入れたコーヒー、もはやカフェオレと言ってもいいかもしれないそれをひとくち飲んで、ショコラ色の目で、彼女は周りをちらちらと窺った。
俺はコーヒーを飲んで、口の中の甘みを中和する。そんなに甘くないと聞いていたが、自分にとっては存外に甘い。夕食はとらず、酒だけにしようかなんて、ふと考えた。
彼女の世界では、今日はいわゆるバレンタインデーという日らしいが、この世界ではありふれた平日である。店内はそこそこの混み具合で、女性客が七割強と言ったところ。ほどよくしぼられた音量で、クラシックピアノの落ち着いた曲に、周りの客のお喋りが乗っている。
「今は?」
促せば、彼女は少し俺のほうに身を乗り出した。その柔らかい頬は、あの時と違って、かすかに色づいている。
「今はもう、惚れ薬なんかなくたって、フィガロのことが大好きですから」
ひそめた声でそう告げる。
俺は手を伸ばして、テーブルの上にあった晶の左手の指と、自分の指をそっと絡めた。温かい手だ。指先で指の間を撫でてやると、彼女がきゅ、と優しく手を握り返してくる。晶と過ごしていると、胸の奥が温かくなる。まるで、遅くきた春のように。
「俺も、晶が好きだよ」
同じくひそめた声で伝える。
変わったのは、俺なのか、彼女なのか、ふたりの間に流れる空気か。
恋人のはにかむような笑みは、街で評判のガトーショコラよりも、よほど甘い。