Case:Wolf1
ざわざわと聞こえる人々の話声。
今、学校は昼休みの真っ只中で、人々は雑談に花を咲かせながら必死に昼食を消費していく最中だった。無論、私もその例外ではなく、自分の席に座ってつい先ほど購買で買ってきたサンドイッチを頬張っているところだ。今日はたっぷり具の入ったたまごサンド。
私の席の周りには同じクラスの女子が数人座っていて、それぞれ好き勝手にお喋りをしていた。
「絶対、主人公くんさ、ヒロインのこと好きなのに意地悪しちゃうの、すっごく可愛いよね!」
「わかるわかる! ヒロインちゃんがちょっと不貞腐れたあと見てないところで微笑んじゃうの、最高だったね!」
「は〜あ、早く来週にならないかなあ」
「あ、アンちゃんごめんね、興味のない話だったでしょ」
「……別に、大丈夫」
どうしても笑顔が作れずに、きっとむすっとした表情で返事をしてしまったのだろう。一瞬、相手の気に障ってしまったのではないかと心配になってチラリと盗み見るが、彼女たちは機嫌を悪くするどころか、「アンちゃん、相変わらずかっこいい〜」なんて言って、喜んでいる始末である。このたまごサンドのように消費期限の短い話題はすぐに移り変わり、別のクラスのカップルの今現状の話で盛り上がり始める。そんな彼女たちを見ながら、私は小さなかけらになったサンドイッチを口へ放り込んだ。
それまで彼女たちが話していたのは、今流行っているドラマの内容だ。学校一のイケメンの男の子と、そんな男の子が好きななんの取り柄もない女の話。ライバルの女の子に勝つため、男の子に釣り合う女になるため、ヒロインはどんどん自分を磨いていくような、そんな話。
恋愛に憧れる女子高校生に人気な話だった。どこに行ってもその話で持ちきりである。今日のような放送翌日の朝礼前や昼休みなど、特に。
正直な話をすると、私――――橘杏も、毎週そのドラマを視聴している。なんなら一話を見てどハマりし先が気になって仕方がなかったため、原作の漫画も全部買った。本当は彼女たちが毎週ドラマの話をしている所に、私も混ざりたくてうずうずしている。あの俳優さんの演技が良かった、このセリフがきゅんときた、切ないシーンで号泣してしまった……なんて話を。
一重に、それができないのは、私は周りにとって『そういうキャラ』だと思われているから、その一言に尽きる。
元々、私は口下手で、中々思ったことを話すことができない内気な子供だった。小学校、中学校と年を重ねてもそれは変わらず、友達ができずに苦悩した。
だから、高校こそは失敗したくないと強く思っていたのだったが、現実はそう甘くはない。
環境が変わったからといって、今まで積み重ねてきたコミュ障がいきなり治るなんて夢物語があるわけでなく、新しい学校、新しいクラスでの最初の自己紹介の時ガチガチに緊張しすぎた結果、名前と「よろしく」なんて一言しか発することができなかった。あのときほど人生が終わったと思った瞬間はない。席に座る頃には私の顔は血の気が引いてさぞ真っ青になっていたことだろう。今でも思い出すのが怖い。
ただ、自分では失敗したと思った自己紹介が、なんと功を奏してしまったのだ。口数の少ない私のぶっきらぼうな自己紹介のことを、クラスの女子は「アンちゃんはクールな子」だというキャラ付けで認識したらしい。「かっこいいね!」なんて声をかけてくれる女の子が数人いて、なんとかクラスの女子グループの一つに入れてもらうことができたのだ。
しかしそれは本来の自分の姿を認識してもらったわけでは決してなく、「アンちゃんは『きっと』恋愛ドラマなんて見ない」「アンちゃんは『きっと』他クラスの恋愛事情なんて興味がない」「アンちゃんはこんな可愛らしいグッズになんて興味がない『だろう』」なんて、クールキャラの憶測と推測で私の見方を決められてしまったのだ。誰も悪気がないものだから文句も言えるわけがない。
本当は私も恋愛ドラマも好きなんだよ、恋愛話も聞きたいよ、口下手な私はそんなことを言い出せずにずるずると……そう、ずるずると。すっかり時間は過ぎてゆき、私たちは高校二年生になっていた。
クラスが変わっても扱いは変わらない。前のクラスでの私の評判は一人歩きをしていたようで、「アンちゃんはクールだから〜だろう」の一点張りの扱いを受けている。いい意味で信頼、悪い意味でイメージの押し付けだ。まあ、もちろん女子グループに入れてもらえているだけ私にはありがたいのだが、それでも。
ここで、もし、私がみんなの思ってるような人間と違い、恋愛ドラマも好きだし、可愛いものも大好きだし、ただ人とコミュニケーションを取るのが苦手なだけの人間なのだとバレたらどうなるのか、あまり想像したくない。受け入れてもらえるのか、それとも友人たちは幻滅して離れていってしまうのか。
そんなことを思いつつ、それでも本当は私もみんなの話に混ざりたい、そんな気持ちを抱えて私は今日も静かに過ごしているのだった。
◇
「じゃあね、アンちゃん。また明日!」
「また明日」
小さく手を振るクラスの友人と別れて、二人を隔てるように電車の扉が閉まった。すっかり慣れたもので、改札を出て、家に向かって一人で歩く。夕日が丁度背中側にあって、影が長く伸びていた。
部活に所属していないため、一般高校生として考えると帰宅をするのは比較的早い時間なのだが、長いカリキュラムが終わる頃にはすっかり夕方だ。西陽はすぐに傾いて、足元の黒線を長く長く伸ばしていく。
帰宅部で同じ方面に家がある友人は先ほど電車で別れた彼女だけで、ここから二十分ほどの時間、たった一人で歩くだけだ。
元々人付き合いが得意ではない私は、この一人で歩く時間も嫌いではない。ぽけ、と考え事をしているとすぐに家に着くからだ。
一人歩く。影は、もう、ずっと先まで伸びていた。すっかり慣れてしまった、通学路。
……ふと、いつもと何かが違うような違和感を感じる。何かに後を尾けられているような、そんな違和感。足を止めて辺りを見渡しても、誰もいない。この時間、この道は人通りが少なく、いつも私は誰かとすれ違うこともなく、一人歩いているのだ。
気のせいだったのかと結論づけて、また歩みを進める。しかし、いくら歩いても、違和感が消えることはなかった。
そんなか、ふと、いつもは聞こえてこない音が耳に入る。
――――ひた、ひた、
まるで何かが歩いているような音だ。私の後ろを、付かず離れずの距離で歩いているような。
変な想像をしてしまったと恐怖に一度身震いをして、しかしその違和感を拭い去ろうと、歩くペースを早くする。
――――ひた、ひた、
私の後ろを着いてくる足音も、速度を増したような気がした。何も見ないよう、視線を落として足元だけを見て歩く。
……そう思って、足元だけを見ていたのがよくなかった。
私は気が付いてしまう。西陽に照らされて、長く伸びた、黒い影。私の足元から伸びた黒い柱に重なるようにして、もう一つの黒い線が伸びていることに。
最初は見間違いだと思った。しかし何度目を擦っても、足元に伸びている黒く濃い影は二本ある。私以外の何かががこの道を歩いているのだ。私の、後ろを。
――――ひた、ひた、
足音は鳴り止まない。誰か知っている人だったらいいな、なんて期待をこめて私が振り向くと、そこには――――
――――西陽で赤く染まる、誰もいないがらんとした路地の風景が、広がっていた。
「――――――――っ!」
声にならない悲鳴が口からほとばしる。確かに私は見たのだ、影が二本、ずっと向こう側まで伸びているのを。
一拍遅れて恐怖が全身を支配する。全身の毛穴が収縮し、鳥肌が広がる。息が詰まる。
前を向くと、もう影は、私の足元から伸びているもの以外、どこにもなった。確かにさっきまではそこにあったのに。
いつも何も考えず歩いていた路地が、西陽の赤も相まって、なんだか得体の知れないものに見えて、怖い。
こんなところに長居したくなく、まだ短くはない家までの道を、私は全速力で駆けて行った。
◇
あの日からここ数日、私は西陽が赤く染めるあの路地を通る度に、あのひたひたという足音を聞いた。毎日変なことが続くと、だんだんと精神が摩耗していくのがよくわかる。授業と授業の合間の準備時間、小さくため息を吐いて頭を抱えた。
「アンちゃん、疲れてる? 大丈夫?」
「……なんでもないよ」
幸いなことに私の不調に気がついて、心配してくれる程度の友人は私にもいるようだ。心配そうに声をかけてくる彼女に、いつものようなぶっきらぼうな返事を返す。あまり納得していないような顔をしていたが、彼女はそれ以上追求することはなく、次の授業の準備のためにしぶしぶ自分の席へと戻って行った。
誰かに相談をしてみることも思わなかったわけではない。冷静に考えると、毎日自分を尾け狙っている不審者かもしれないのだ。しかし、私が何度振り返ってみせようにも、私を追う影の主は決して姿を見せることはなく、すぐに影も消えてしまう。
こんな馬鹿げた話を、一体誰が信じてくれるのか。
冗談だと思われて終わるのが筋だろう。いや、冗談だと思われるぐらいであればいい方かもしれない。「アンちゃんってそんなくだらない嘘をつく人なんだね」なんて言われて友人グループから捨てられでもしたら…………考えるだけでゾッとする話だ。
結局、私は自分の身の安全よりも、友人関係の方が大事なのだ。小心者の、私には。
不幸なことは重なり、今日私は日直だった。普段は大した仕事はない。精々が授業終わりに黒板を消したり、教室に飾ってある花瓶の水を変えたり、そんなものだ。
しかし、今日は違った。
数学の先生に、放課後宿題のプリントをまとめて、職員室に提出するように指示をされた。そのぐらいであればいつもの日直業務だ。しかし、もう一人の日直の男子と共に職員室にプリントを届けにいくと、武道という私たちのクラスの担任に捕まってしまったのだ。
最近のクラスの様子はどうだ――――そんな話から始まって、しばらく。喋るのは隣にいる男子生徒に任せて、私はただ相槌を打って、ほぼほぼ話を聞いているだけだった。
…………正直、私はこの男子生徒のことが苦手だった。
彼の名前は星玲央という。クラスのチャラい男子グループ、その中心人物。
金髪と内に入った橙色のインナーカラー、そして目を引く桃色の瞳。制服を着崩しているため何も知らないで見ると、一般陰キャから見ると少し怖いような印象を受けるかもしれないが、彼が人気な秘密はその恐怖感を塗り潰すような愛嬌にある。
誰にでも優しく、気配りもできて、フレンドリーで調子もいい。よく回るその口は、話すときに相手を立てるのも忘れないマメなところがあり、クラスの人気者だ。あまりパッとしないような男子生徒とも仲が良いが、私には縁のない存在だ。クラスの女子の恋バナなんかでもたまに話が上がる、カーストの上位。コロコロと変わる表情は、人の心に付け入るのにうってつけな武器なのだろう。
…………苦手だ。先生と話しているその横顔を盗み見て、改めて思う。ペラペラと調子のいいことを話しているが、そこに彼本人を感じないような気がして、私は彼が苦手だ。
「いやもうクロウのすごいこと! あいつあんなにインキャだけどゲームめっちゃうまいんスよ! ゲーセンの最高記録を更新して気がついたらもう夜も遅くって、十時ギリギリで急いで店を出て帰りました」
「楽しそうだけどな、ただ、あんまり遅くまで遊んでるのはいただけないぞ」
「はーい気をつけまーす」
「時間……といえば、おっと、もうこんな時間か。二人とも、引き止めて悪かったな」
「はーい。武ちゃん先生またお話しましょ!」
「また今度な。橘も気をつけて帰れよ」
「……はい」
彼と先生の話は随分と盛り上がっていた。いつの間にか時計の長針はいつもより一周近く遅い時間帯を示しており、外はすっかり暗くなる準備を整え終わっていた。
私達は急いで 教室に戻り、荷物を取る。半ば逃げるように私は彼を置いて学校を後にした……つもりだった。
「……なんでついてくるの」
「なんでってオレも家こっち方面だし。タチバナちゃんもこっち方面なんだ? 初めて知ったわ」
私は小さくため息を吐く。すっかり外は暗くなっていた。いつもであれば長く伸びるはずの影も、もうすでに辺りを喰らい尽くす闇に呑まれて消えている。どういう訳か隣を歩く、黄色と橙の頭。ニコリと笑いながらこちらを見ている桃色の瞳から逃げるように私は顔を逸らす。
「ねえ、折角だからちょっと話しながら帰ろうよ」
「……」
「あれ、無視? っていうかタチバナちゃんは最寄りどこなのー?」
めげずに話しかけてくる男子生徒を、無視して私は歩く。
学校から歩いて十分程度の駅で電車に乗り、揺られること約十五分、乗り換えはなし。私の家の最寄駅はそんな位置の駅だった。勝手に話している情報を聞く限り、彼の最寄りも同じらしい。
嫌な偶然に私の胃はキリキリと痛んでいる。ガラガラの電車、当たり前のように隣に座った彼は私の内臓がどんなにストレスで傷んでも知ったこっちゃないのだろう。再び漏れ出たため息は、電車の音に紛れて消えた。
駅から出ても、彼は私と同じ道を歩く。同じクラスではあるが彼との関係性と言ったらその程度でしかなく、こんなに家が近いなんて、全く知らなかった。
そんなことを考えていたらふと、彼に対する疑問が湧いてくる。駅から東のこのエリアは、すっぽり覆われるように私が通っていた中学校の校区に内包されていた。この辺りに住んでいるのだとすれば、彼も同じ中学だったはず。
なのに、私の記憶には、一切『星玲央』なんて男の記憶はない。これだけ私の胃を掻き回してくれたのだから、私にも質問をする権利はあるはずだ、そう思って口を開こうとする。
「……ねえ、あんた…………」
「あ、オレこっちだから、じゃあねタチバナちゃん!」
ここまでずっと無視をしていたというのに、彼は嫌な顔一つ見せず、ニコニコと手を振って十字路を右に曲がり走り去っていった。そこには呆然と立ち尽くす私の姿だけが残る。
嵐のような人間だったと、一人私は思う。まあ、特段訊かないと夜も眠れないような質問でもない。クラスは一緒なのだから、いつかは訊く機会があるかもしれないと思い直して、前を向いた。瞬間。
――――ひた、ひた、
「…………っ!」
あの音だ。私の背中を嫌なものが伝う。全身の毛が逆立った。
すっかり彼と歩いていたため気が付かなかったが、いつもの、あの、私を尾けてくる、あの足音。
忘れていた恐怖が首をもたげて、私の前に姿を見せる。
――――ひた、ひた、
立ち止まっていた私に近づくように足音が聞こえた。ここからだと、家まで歩いておよそ十分程度だろう。
いつもと違い濃い暗晦に呑まれた路地は、等間隔で地面を照らす街灯のみがぼう、と輝いていた。ただ歩いている時間帯が違うだけで、ガラリと姿を変えてみせる。
ぽっかりと開いたその暗闇は、まるで獲物を待ち構える大きな怪物の口であるかのように、私が飛び込んで来るのを今か今かと期待しているようだった。
ゴクリ、唾を飲み込む。その間にも足音は私の背後へと這い寄っていた。
――――ひた、ひた、
「………………………………ッ‼︎」
だっ、と一気に家に帰ってしまおうと、私は一目散に駆け出した。
これでも体育の成績は悪くない。真面目に運動している学生であれば、家までの短くはない距離を、なんとか走り抜けることができるだろうと、そう踏んで走る。
――――ひた……たったったっ!
私の後ろを歩いていた足音は、一瞬戸惑うようにその歩みを止めた後、私を追いかけるように跳ねるような音へと変わった。相手も走りだしたのだ。
決して振り向かないと決意して、私は走る。『何か』が背後にいるのは明白だった。
聞き間違いでも、見間違いでもなく、其処には何かが、いるのだ。
走る。走る。恐怖を背負って走る。肩にかけているスクールバッグが邪魔だった。両親と選んだ臙脂色の帯を握って、私は走る。チャリ、とクラスの子とお揃いで買ったキーホルダーが音を立てて揺れた。
はっ、はっ、と聞こえるのは私の息遣い。……だけでなく、背後の『何か』の息遣いも混ざっていた。飢えた獣のような息遣いだ。私も、相手も。
そうしてしばらく走り続けると、見慣れた家の外観が視界に入る。ここに来るまでに体力を使い果たし、すっかり私は疲労していた。
クタクタだった私は、ゴールが見えたことで気が緩んでしまったらしい。
「――――――あっ!」
短い声をあげて、そのあと、前に付いた手と、膝に激痛。道端に転がっていた小石に足を取られて、転んでしまったのだ。鞄が地面に叩きつけられて、少し離れた場所へと滑っていく。衝撃と運動を止めたことにより襲う疲労が、私の中を駆け巡って、立ち上がることを許さない。
そのとき、どん、と背中に強い衝撃。はっ、はっ、という獣の息遣いと共に感じるのは、生き物特有の生臭さだった。
背中に、何か動物が乗っている――――!
「いや……やだ…………!」
恐怖は私の声帯を締め上げてしまったらしい。助けを呼ぶために大声を出そうとしたのだが、蚊の鳴くような音しか絞り出すことができなかった。
背中で聞こえる、低い唸り声。
首元に、何か生暖かいものが垂れて、悲鳴にすらならない何かが、恐怖と共に私の全身を支配した。それが何かの予想は容易だった。ご馳走を前にしたら溢れてくる、背中の獣の、涎――――
あ、食べられる。視界がぼやけて、歪んだ。張り詰めていたものが決壊するように涙が頬を伝った、その瞬間。
「――――おらッ! っとと、大丈夫?」
軽快な掛け声と共に、背中の重量がどこかへ吹っ飛んでいく感覚。急な衝撃と、有酸素運動後の苦しい呼吸に、私がケホケホと咳き込んでいると、目の前に手が差し出された。
見上げると、そこには、先ほど別れたはずの金髪の姿。その後ろには壁に叩きつけられたのだろう、黒くて大きな犬のような影があった。黒い犬ははすぐに体勢を立て直すと、威嚇するように私達へと低い唸り声を上げる。
「……ホシ、くん?」
「うええ、まだ動いてる。とにかく逃げようか、タチバナちゃん」
犬の様子を見て顔を顰めた金髪が、未だ地面に座り込んでいる私の手を取って、無理やり立ち上がらせる。恐怖に苛まれた私の足はまだ笑っていて、すぐにでもまた転んでしまいそうだ。
「ちょっと辛いだろうけど、もっかい走るよ!」
「え、ねえ……ちょっと!」
ついでに落とした私の鞄を拾いつつ、ホシくんが私の手をぐいっと引っ張って、そして走り出す。すぐに私は転びそうになってしまうが、後ろにいる犬が同時に駆け出した音が聞こえてきて、なんとか踠くように足を動かした。
一体どこに向かっているのか訊ねようにも、全速力で走っている手前、息継ぎをするのでやっとだった。言葉を喋る余裕など、どこにもない。
がむしゃらに足を動かして、右へ、左へと路地を曲がりながら、なんとか目の前の背中に食らいついていく。
…………しばらく走っていると、後ろの足音が聞こえなくなったことに気がついた。
ホシくんもそれに気がついたのか、徐々に走るスピードを落としていき、最終的にはゆっくり歩いていく。
二度目とはいえ全身の力を振り絞り走り終え、肩で息をしている私と比べて、ホシくんは呼吸を乱してすらいなかった。恨めしげに睨みつける私の目を見て、ホシくんはイタズラが成功した子供のような顔で笑い、語りかける。
「疲れてるでしょ、喋らなくていいからついてきて」
そう言って私の手を引いて足を止めることなく歩き続ける。正直、家に帰して欲しいところではあるのだが、またあの黒い犬のような何かに出くわすかもしれないという恐怖と、犬を撒くために随分右に左に曲がったため今ここがどこなのかも把握することができていないため、私は大人しく目の前を歩く男の後をついていくことを選択した。
ふと、自分の手がカタカタと小さく震えていることに気がつく。それが恐怖から来るもののか、疲労から来るものなのかは分からないが、それを目の前の男に知られるのがなんとなく嫌で、握られていた手を振り解き、ずっと持たせてしまっていた鞄を引ったくるようにして奪い取る。一瞬、彼は驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になって前を向き、それっきり振り返ることはなかった。
しばらく歩くと、たどり着いたのは怪しい看板が掲げられた古ぼけたビルだった。かろうじて読める部分に『探偵事務所』と書かれたそれは、雨風に晒され塗装が剥げてしまったのか、随分と古ぼけているように見える。
「ここは……」
「オレの家兼バイト先。ついてきて、きっとタチバナちゃんの力になれる」
そう言って目の前の男は慣れた手つきでビルの階段に繋がる扉を開けて、上へと登っていく。私は一人にされるのは真っ平ごめんなので、先ほどまで感じていたものとはまた別の種類の恐怖を抱きながら目の前の背中を追いかけた。
…………その古ぼけたビルの二階に、その事務所はあった。彼が先に扉を開け、私を通す。
事務所の中は、既に電気がついていて明るく、外の古ぼけた印象からは一点、比較的清潔に整えられていた。
来客用なのか、こじんまりとしたスペースにはソファーが二つ、向かい合わせになるように置かれている。恐らく間にはローテーブルがあるのだろうが、玄関の位置からは確認ができなかった。今はカーテンが閉められているが、向かい側には大きな窓があり、面している道路が一望できるのだろう。
彼は私に待っているように伝えて奥へと繋がっているのだろう扉の向こうに消えていった。放置されて、どうしようかと考えていたら、すぐに金髪が何やら箱を持って帰ってくる。十字架のマークが見えたため、救急箱か何かかもしれない。
そういえば、先程転んだ時に勢いよく手と膝を擦りむいたことを思い出す。恐る恐る自分の手を見てみると、グロテスクに皮は捲れ上がり、中の肉が見えていた。じわじわと滲む血を眺め、傷を認識した瞬間、今まで何も感じていなかった――もしくは考えないようなしていた――とは思えない程じくじくと痛み始めて、私は一人ぐっと奥歯を噛み締めた。
彼はその救急箱をここからは見えないローテーブルに置いて、そして静かに眉を顰めて見せた。その仕草が気になってそちらに近づいてみると、私の側から見えなかったソファーに人が寝ていたことがわかる。そういえば、この事務所に入った時に電気が付いていたのだから、他にも人間がいるのは不思議なことではないのだろう。
「センセイ、起きてください。ほら、仕事ですよ」
「うるせえ……営業時間外だ……」
「緊急っすよぉ。起きてくださいってほら」
彼がゆさゆさと眠りこける人間を揺さぶる。根負けしたのか、嫌味を言いながらその人物は体を起こし、私のことを睨みつけてきた。まるで品定めでもするように、上から下までをキツい視線で私のことを見つめていた。一歩、私は後ろに後退る。
「……」
「センセイ、挨拶!」
「………………ようこそ、芥探偵事務所へ」
金髪の彼に促されて、目の前の男が渋々といった様子で私へと挨拶をする。
眠たげな目で私を、睨みながら。