キラキラ 出勝「おれが来た!」
不意にかっちゃんの大きな声が響いて、僕はすべり台のてっぺんを見上げた。
幼稚園の外遊びの時間。いつだってクラスの男の子たちの半分は、ヒーローごっこをするために、かっちゃんの周りに集まっていた。ごっこ遊びの中でなら、誰もが強力な個性を持てる。誰もがオールマイトになれる。時には敵役になって、意地悪なことを言ってみたり、やってみたりする。市民の役になって、ヒーローに助けられることを喜んだりする。
ヒーローごっこの中心はいつだってかっちゃんで、かっちゃんが「モブ」と呼ぶような役をやることはなかった。
それでも、みんながかっちゃんの周りに集まってきたのは、かっちゃんが、かっちゃんだったからだ。
人気ヒーローの役を、かっちゃんは決してやらなかった。オールマイトにも、エンデヴァーにもならない。かっちゃんは、「かっちゃん」のまま、ヒーローになる。そして圧倒的な力で、いつだってヒーローに勝利をもたらすんだ。
この時だって。せっかくオールマイト役になったのに、敵役の子に負けてしまいそうな僕のピンチに、かっちゃんは駆けつけてくれた。
「かっちゃ、わっ!? いたい!」
けれど、滑り台の上にかっちゃんの姿を探そうとした瞬間、目に何かが刺さるような衝撃を感じて、僕は慌てて掌で顔を覆った。
太陽を見てしまったんだ、と、気付くまでには暫くかかった。グッと涙を堪えて、恐る恐る顔から手を離して周りを見ると、他の子たちも潤んだ目を擦っていた。一緒にヒーローごっこをしていた子だけじゃなくて、ボール遊びや、鬼ごっこをしていた子たちまで立ち止まっている。
それくらい、誰もがかっちゃんの存在を無視できなかった。幼い僕にとって、それは当然のことで、疑問に思うことはおろか、特別なことだなんて思ってもみなかった。たぶんそれは、かっちゃん自身もそうだっただろう。
「なんだよ。せっかくおれがカッコよく登場したっていうのに!」
すべり台を滑って、かっちゃんが唇を尖らせながら駆けてくる。
「かっちゃんが光ってるのかと思った。ぼくたち、お日様を見ちゃったんだ」
その姿がまだ眩しい気がして、僕は目を擦りながら答えた。その時初めて僕は、かっちゃんの髪が、太陽と同じ色をしていることに気付いたんだ。
それまで、お絵描きをするときには、オールマイトの絵ばかり描いていた。僕はあまり絵が得意じゃなかったから、それ以外に描きたいものなんて無かった。お絵描きの時間にも、先生の絵を真似るだけで精一杯。自分の顔を描くことすらままならなかった。
それなのに、その日の僕には、妙な自信があった。今の僕になら、かっちゃんを描ける、って。
それくらい、かっちゃんの輝きは鮮明だった。それに、太陽の絵だけは褒められる僕だったから。きっと描けるって思ったんだ。だってかっちゃんは、太陽と同じ色をしているんだから。
お部屋での自由遊びの時間、僕はかっちゃんたちがしているブロック遊びに混ざらず、自分の自由画帳とクレパスを持ってきた。白いページを探して開き、肌色のクレパスで丸を描く。その丸の左右に更に小さい丸。下には四角を描いて、顔のベースは完成だ。
「かっちゃんの髪は、お日様と同じ色」
そして僕は胸を躍らせながら、赤いクレパスを握り締めた。画用紙の上に、パッと明るい光が生まれるのを期待しながら、グリグリと手を動かす。髪の毛を描いたら、目と、鼻と、口。そしてスモックと、ズボンを描いて、そこから手足を生えさせたら完成だ。技術はイマイチでも、知識だけなら僕だって周りの子たちに負けていない。
けれど出来上がったのは、まるで知らない人だった。後ろを通りがかった先生が「新しいヒーローを考えたのかな? お顔が太陽のヒーロー、強そうだね」と優しく言った。まだ人の絵が上手く描けない僕は、目も鼻も口も肌色の中におさめきれなくて、その上、全て同じ赤色のクレパスで描いてしまったものだから、混ざり合ってしまったんだ。
僕はどうしたら良いかわからなくなって、赤色のクレパスを握り締めたまま、かっちゃんのところに走った。
「なに?」
そして初めて、かっちゃんのことを、絵に描くためにジーッと見た。お日様と同じ色をした髪。眉毛。目はお日様とは違う色。でも、赤だ。口も赤。鼻は僕と同じ。でもかっちゃんの方が、ちょっと高い。
「かっちゃんの髪は、お日様と同じ色だけど、赤じゃないんだね」
赤いクレパスとかっちゃんをもう一度見比べる。どう見ても、髪の毛も眉毛も赤くない。
「おれの絵いつも見るくせに、知らなかったのかよ」
「うん。知らなかった」
「しょうがねェなぁデクは! 見本みせてやる。ついでにおまえも描いてやるよ」
かっちゃんは得意げに笑うと、作りかけのブロックを掲げて「欲しいやつー?」と、声を掛け、真っ先に手を挙げた子に気前よく渡した。周りから「いいなぁ」という声が上がる。かっちゃんが作っていた車は、作りかけにしてもう格好良かった。
僕も欲しかったな、と、思っている間に、かっちゃんは先生に怒られない程度の早足で、自分のロッカーから自由画帳とクレパスを持ってきて、僕が座っていた席の隣に腰掛けた。
「しっかり見てろよ! デク!」
そして、僕に向かって肌色のクレパスを突き付けると、真っ白な画用紙いっぱいに、かっちゃんと、僕を、描き始めた。
「オールマイトも描く」
更に隣に、オールマイトも。
「オールマイトと、かっちゃんの髪は、同じ色?」
かっちゃんは黄色のクレパスで、オールマイトと自分の髪の毛と眉毛を塗った。
「ちょっと違ぇけど、持ってるヤツだと同じ色」
「いいなぁ。ぼくも、オールマイトとかっちゃんと、おんなじが良かった」
「一緒のページに描いてやってんだろ」
話しながらも、かっちゃんはどんどん手を動かした。自由遊びの時間に、かっちゃんがお絵描きを選ぶことは滅多に無いのに、お絵描きが好きな子たちよりもずっと上手い。先生の絵と同じくらい、とは言えないけれど、年長さんの絵と並んでも、遜色なかったと思う。
「これは爆破」
そして最後の仕上げとでも言うように、黄色のクレパスを紙の上に走らせた。途端に、パッと明るい光が、画用紙の上に灯るのを僕は感じた。それこそ、僕が描きたかった光だった。僕がかっちゃんに感じた光だった。
「なんだか、ぼくも光ってるみたい」
「爆破の光は強ェからな!」
かっちゃんは目を輝かせて言った。
「かっちゃんが、みんなをキラキラにしているんだね」
かっちゃんの絵の中で、かっちゃんも、オールマイトも、僕も、輝いていた。
思えばこの時からだ。
僕がかっちゃんの絵を描き始めたのは。
かっちゃんの輝きに魅せられたのが、いつからだったのかは、もう、わからないけれど。
***
幼稚園からの帰り道、勝己と二人で、堤防に遊びに行った。しっかりと手を繋ぎ、いくつか道路を渡って、土手を登ると、緑が生い茂る春の野原が、川沿いに広がっているのが見えてきた。遠目にもたんぽぽやシロツメクサの花が、そこかしこに咲いているのがわかる。握り締めた小さな手に、汗が浮くのを感じた。ヒラヒラと舞う蝶々が、勝己を誘っている。勝己は今にも私の手を振り払って、走り出してしまいそうだった。
「ここならいっぱい個性を使って遊べそうだね、勝己。ベンチに荷物を置くまで、我慢だよ」
ほんの少し前までは、こんな約束は意味が無かった。勝己はいつだって私の手をすり抜けて走っていこうとした。
五歳になったから。
そう言ってしまうのは容易い。もっと小さい頃よりも、物事がわかって、イヤイヤ期だって終わったからだと。そう、周りは思っているだろうし、もしかしたらそう考えてしまった方が、私たち親も楽かもしれない。
けれど、勝己は聡い。
もともと、賢い子だった。けれど、衝動のままに私の手を離せなくなったのは、きっと、自分の個性がどういうものか、勝己自身が一番、理解しているからだ。
「お茶飲んだ!」
勝己はベンチにカバンを置くと、私が口を出すより早く水筒の蓋を開いてお茶を飲み、宣言するや否や駆け出した。その掌から、パチパチと光が弾ける。興奮がそのまま、ニトロのような汗の誘爆に繋がる。眩しくて、強力で、子どもが手にするには、扱いにくい個性だ。
勝己は全力で私に怒られないギリギリの距離まで走ると、今度はクルリと私の方を向いて、蝶々を追いかけ始めた。と思えば、不意にハッとした表情をして下を向く。たぶん、バッタが跳ねたんだろう。腰を屈めて、草むらに目を凝らす。そして次の瞬間、勝己自身がバッタになってしまったように、ピョンっと地面に向かって跳ねた。
「つかまえたー!」
勝己は指の間でもがくバッタを、私に向かって掲げて、嬉しそうにニッと笑った。
「捕まえるの上手いじゃん。虫かご無いし、放してあげなー?」
勝己は私が見たことで満足したのか、すぐにパッと手を離した。そして羽を広げて逃げていくバッタを暫く見送ったあと、また新たな獲物を求めて走り出した。
養子に出さないかという話があった。
一般家庭で育てるには、難しい個性だというのが理由だった。
勝己には、ヒーローになる力がある。名のあるヒーローのもと育てられれば、確実にヒーローになれる。
そうやって力説されるほどに、勝己が敵になる可能性を危惧されているのが感じられた。
勝己は私の手を簡単に振り払える。手にしたバッタを、簡単に粉々にできる。
まだ個性を完全に制御することなんてできない年齢だ。それどころか、この爆破という個性は、一生かかっても制御しきれないものかもしれない。ニトロに似た汗を任意で出すことはできても、それが爆発するタイミングまでもが、勝己の意思でどうにかできるものじゃない。感情のままに、それがたとえ勝己の意思では無くとも、全てを破壊してしまうかもしれない。何せ爆発は、喜びに興奮した時にも起こる。
「勝己! こっちに来てごらん。綿毛が生えてるよ」
呼び掛ければ、勝己は真っ直ぐに私に向かって走ってきた。まだ柔らかい髪の毛が、春の柔らかな陽射しそのもののようにキラキラと輝く。勝己が足を踏み出すほどに草花は踏み付けられて、勝己が通り過ぎる度にその身を起こす。まるで勝己のために道を開けるように。まるで勝己こそが、花を咲かせていくように。
「くれ!」
「くださいでしょ」
乱暴な言葉使いを軽く頭を叩いて窘めて、たんぽぽの綿毛が生えている場所を教えてあげる。勝己は満面の笑みで綿毛の前にしゃがみ込むと、根元に近いところから、ぷつりと音を立てて茎をちぎり、大切そうに両手で握り締めながら、慎重に立ち上がった。
そして、野原を走り回っていた子と同じ子だとは思えないほど静かに、ふぅーっと、窄めた小さな口で、息を吐いた。
我が子をキレイだと思うのは、親バカだろうか。
勝さんのカメラを持ってくれば良かったと思う。
せめてケータイのカメラを構えておけば良かった。
勝己の息に乗って、綿毛が空へと飛んでいく。
長い睫毛が、丸い頬に影を落としている。乱暴な口調や態度が嘘のように、繊細な顔立ちをしている。その繊細さと同じくらい、勝己は心の方も繊細だ。
どれだけの人が、そんな勝己のことを理解してくれるのだろう。
風に乗って、綿毛はふわりふわりと飛んでいく。勝己は役割を終えた茎を放り出して、綿毛を追いかけていく。
「見てろ! ババア!」
「誰がババアだって!?」
怒る私に、イタズラっ子の笑みで応えて、勝己は軽やかに駆けながら、両腕を後ろに向けた。その掌から、細かな爆発が起こっている。何かをする気だと直感した。途端にドクンっと、大きく心臓が跳ねる。止めなきゃ、という思いが、焦燥と共に湧き上がる。何度頭を過ぎったか知れない、起こりうるかも知れない凄惨な光景が頭に浮かんで、一瞬にして血の気が引く。
けれど私は、ただ、見ていた。
勝己を信じてあげられる強さを持つことこそが、何より大切だと知っていたから。
「いけ! ばくそくターボ!」
少し舌足らずに勝己が叫ぶ。瞬間、風が吹いた。勝己の身体が、風に乗って前へと押し出される。
「もっとだ! 爆速ターボ!」
いくつもの光が輝いて、勝己が生み出した風が、勝己自身の背を押していく。ふわりふわりと、まるで綿毛が、春風に乗って旅立つように。
爆破の熱は遠いのに、目頭が熱くなった。どうして感じるのが、春風のように柔らかで暖かい風だけなのかに気付いて、いっそう視界が涙で滲む。
爆破が破壊のためだけの力では無いと、あの子はいつから気付いていたのだろう。
憧れを胸に、誰に教わるともなく、勝己は可能性の種子を振り撒いて、ヒーローとしての芽を出し始めている。
だから私たちにできるのは、たくさんの喜びを、悔しさを、怒りを、悲しみを、楽しさを、あらゆる興奮を。
私たちが勝己の一番側にいてあげられるうちに、いっぱい体験させてあげること。それだけなのだ。
「勝己! お腹減ったでしょ。そろそろ帰るよー!」
夢中で飛び回る勝己に、声を掛ける。
勝己は聞き分けよく個性を使うのをやめて、私のところまで駆けてくると、熱を持った掌でギュッと、私の手を握りしめて笑った。
***
「お母さん! 早く! 早く! お外の時間始まっちゃうよ」
幼稚園バッグを背負って、待ちきれないようにその場で足を踏みならす。いつから出久は、こんなにも幼稚園が大好きになっていたんだろう。幼稚園に入園したての4月の頃は、それはもう泣いて泣いて、連れて行くのも、私と離れるのも、大変だったのに。
何がキッカケになったのかはわからない。でも、出久を変えたのが、誰なのかは知っている。
「あんまり早いと、かっちゃんだって来てないよ」
「かっちゃんはれんらくちょうにシール貼るのも片付けするのも早いから、かっちゃんより早く着いてないと間に合わないんだよ!」
だから早く! と、出久は今にも玄関から飛び出しそうな勢いで言う。
「わかったわかった。はい、水筒。お靴履いて、行こっか、出久」
手を繋いで幼稚園までの道を歩く。その間、出久のお喋りは止まらなかった。
「今日はねぇ、ぜったいにオールマイト役になるんだ。昨日は市民役で、かっちゃんが救けにきてくれたんだよ。かっちゃん凄いんだ。ぼくが鉄棒の近くまで逃げてたらね、一番高い鉄棒で、空中逆上がりを三回連続でやってから、ジャンプして登場したんだよ。本物のヒーローみたいだった! 爆破を使ったら、もっと凄いことできるんだって。幼稚園じゃ使っちゃダメって言われてるけれど、いつか見てみたいなぁ」
「いつもの河原じゃ、遊具はないもんね。今度、個性を使って遊んでもいい公園まで、かっちゃんたちを誘って行ってみようか」
「うん! ぼく話してみるね。あ、かっちゃん!」
「出久!」
止める間もなく、出久は私の手を離して、まさに幼稚園の門の中に入ろうとしている、かっちゃんを目指して走り出した。追いかける私の後ろで、車が横切っていく音が響く。もし、道路を挟んでいたら。そんな考えが瞬時に頭に浮かんで、ゾッとする。
「おぅデク!」
「出久くん、でしょ!」
「痛ってーなクソババア!」
「どうしてそんなに口が悪いのこの子は!」
そんな私の目の前で、最近ではお決まりになったやり取りが繰り返される。光己さんに頭を叩かれたかっちゃんは、目に涙を溜めながら、フンっと顔を逸らした。出久は困ったようにかっちゃんと光己さんを見比べていた。光己さんが「いつもごめんね」と出久の頭を撫でる。その間に、かっちゃんは園舎の方に駆けていってしまった。気付いた出久が「待って! かっちゃん!」と叫んで、走り出そうとする。
「おかあさん、いってきます!」
出久は一度だけ私を振り返って、にこやかに手を振った。
だから、私は「いってらっしゃい」以外に、何も言えない。
「ごめんなさいね、口が悪い息子で」
光己さんが本当に申し訳なさそうに謝ってくれるから、「いいのよ、子ども同士のことだもの」としか言えない。
だって、いくらバカにされても、出久はかっちゃんのことが、大好きだったから。
「どうして出久のこと、デクって呼ぶの?」
そう、かっちゃんに聞いたことがある。
あれは河原で水切り遊びをしていた時だった。かっちゃんは跳ねやすい石を探して、子どもたちの輪から少し離れたところにいた。だから、ママ友の輪をこっそり抜け出して、出久にも、光己さんにも聞かれずに、話をすることができた。もしかしたらそうやって二人きりで話すのは、初めてだったかもしれない。
「出久って漢字、デクって読めるんだろ。それに、出久は何にもできないし、ピッタリだ」
「でも、デクって、悪口よ」
「なんで? 何にもできないヤツは他にもいるけど、おれは出久以外をデクって呼ばないぜ」
「でも……」
「デクのやつ、水切り一回もできないんだ。まだひらがなも上手に描けないし。絵だって下手くそだ。おれ、幼稚園で教えてやってるんだ。俺がいっちゃんすげーから。で、デクがいっちゃんすごくない」
そんなことを言わないで、という言葉が、喉元までせり上がってきていた。デクって呼ばれたら、私が悲しいわ。そんな言葉が、今にも口から溢れそうだった。
でもきっと、そんなことを言ったら、頭の良いこの子は、私が一番恐れている言葉を返す。
出久が、無個性なことが悲しいんじゃないの。
けれどあの日、出久に謝ってしまった私には、何も言うことができない。
「かっちゃん、出久を助けてくれてるのね。かっちゃんは、なんでもできて、凄いね」
微笑みかけると、かっちゃんは嬉しそうにニコッとした。
「かっちゃーん」
少し離れたところから、私たちに気付いた出久が、かっちゃんを呼びながら走ってくる。
「いい石、見つかった?」
「おう!」
そうして二人は、私を振り返ることなく、川に向かって駆けていった。
かっちゃんといると、出久は男の子になる。
膝に擦り傷を作って、靴も靴下も泥だらけにして、それでも家に帰りたがらずに、かっちゃんについて行こうとする。
虫が怖いと泣いていたのに、かっちゃんが誘えば、虫取り網とカゴを買ってと嬉しそうに言って、虫取りに出掛ける。かっちゃんにバカにされて、励まされて、蝉を素手で掴めるようにもなった。
時には殴られたような痣をつけて帰ってくることだってある。涙に目を腫らして帰ってきたことだって。それでも、出久はヒーローごっこを楽しみに幼稚園に向かう。かっちゃんと遊びたくて、私の手をすり抜けていく。
無個性でも、何もできないと言われても、出久は友だちの輪の中で、笑うことができる。
どうしたって、出久にはかっちゃんが必要なのだと、わかってしまう。
「光己さん、今度、個性使用が可能な公園に行かない? ほら、雄英の近くにあるでしょう?」
「あら、いいわね! 勝己ったら個性使いたくていつもウズウズしてるし、雄英見に行きたいってずっと言っていたのよ」
「出久もそう。やっぱり、オールマイトの出身校ですものね」
「引子さんも随分オールマイトに詳しくなったんじゃない? オールマイトといえばこの前……」
光己さんと話しながら、家までの道を歩く。
出久が笑うから、私もこうして笑える。同じオールマイトに憧れる息子を持つ母として、光己さんと肩を並べられる。
出久はたぶんまだ、ヒーローになることを諦めていない。
そして出久にとって、身近な憧れ、ヒーローに至る道のお手本は、いつだってかっちゃんなのだ。
***
「それ、俺か?」
便所から5年1組の札がかかった教室に戻ると、デクが一人、机に向かっていた。廊下側の一番後ろなんて、人目に付きやすい位置なのに、周りをまるで気にしちゃいない。実際、周りのヤツらもデクのことなんて気にも留めていないようだった。
それでも、目についちまった以上、言わなきゃならねーことがあった。
「そうだよ……さっきのバスケの試合、すごい活躍だったね。かっちゃんより背が高い子だっていたのに、爆破を使わなくても誰よりも高く跳んでた。跳び方を知ってるんだって思ったよ。どれくらい跳べていたか記録したくて。ゴールとパスをもらった位置から考えると、距離と高さは……」
「煩ェ! そーいうンが聞きたいんじゃねーわ。クッソナード!」
胸ぐらを掴んで引き寄せる
「俺に隠れてコソコソと。キメーんだよ!」
「ゴメン……」
モブどもの笑い声に混ざって小さく謝る声が聞こえてくる。でも、そんなもん口先だけだ。いつだってこいつは、怯えたフリをして、その実、俺の言うことなんざ聞いちゃいない。見ているのは俺の個性と、それを操る肉体だけだ。
あいつにとっては、ヒーローに関わることが全てだった。
ノートの中で、俺が暴かれていく。
非力なあの手によって。
ヒーローを目指せば目指すほど、その、全てが。
「将来のためのヒーロー分析」
それをデクがいつ始めたのか、俺は知らない。興味も無い。
だけど、初めて自分が登場したのがいつかを、俺は知っている。
あれは小学校一年生のとき。四年生のクソ共と喧嘩して、勝ったときだ。
「おはよう、かっちゃん。昨日ね、上級生と戦って勝つとこ、見てたよ。オールマイトみたいだった。格好良かったなぁ」
朝イチ、出久は俺の顔を見るなり駆け寄ってきた。もう一緒に帰らねぇと言って突き飛ばしてやったのは、ほんの数日前のことだったのに、まるで気にしていないみたいだった。
「爆破の勢いを乗せたパンチが決まったときには、オールマイトの動画観ているときみたいに応援したくなっちゃった。あれ、オールマイトのスマッシュの真似だよね。最後の左手挙げたのも、オールマイトのスタンディングだ。帰ってきてから、ノートにまとめていて気付いたんだ」
ほら、と、デクはテンション高くノートを見せてきた。そこには、鉛筆と色鉛筆を使って描かれた、黄色い髪の同じポーズをした二人の人間がいた。幼稚園の頃よりも、描き慣れてきている。ひらがなで書き込まれたたくさんの文字。それが、俺の分析とオールマイトとの比較だと気付いた瞬間、自分の意志とは関係なく、掌から爆破が起こった。キレたわけじゃない。喜怒哀楽のどの興奮にも当てはまらない。興奮すらした覚えは無い。爆破が起こった理由がわからないなんてこと、初めてだった。
「えっ!? あ、ご、ごめん、かっちゃん……」
出久は勝手に、爆破を脅しととらえて、怯えた目で謝ってきた。ノートを抱きしめて、ビクつく様子に胸がすく。
そのお陰で、頭が冴えた。笑う余裕もできた。
「デク、てめェみてーなヤツなんて言うか知ってるか? ナードって言うんだぜ」
「ナード?」
「カーストの最底辺。知識だけが取り柄のオタクくんって意味だよ。てめェにピッタリだろ。クソナードくん」
「やめてよぉ」
デクはノートを抱きしめたまま、上目遣いで俺に訴えてきた。俺の勝ちだと思った。無個性のデクなんて、個性を見せてやるだけで勝てるんだ。デクは何もできない。俺は強い。
俺を見ているだけのモブに、一体何ができる?
今なら、あのとき爆破が起きた意味がわかる。頭でっかちのクソナードと違って、分析はただの趣味じゃない。強個性に生まれついた俺にとって、生きていくために必要な行為だ。
あの日デクは、俺を救けにこようとはしなかった。それはいい。来てたら俺がデクを殴っていた。加勢なんて必要なかった。現に俺は勝った。
問題は、デクがそれを見抜いていたんだろうってことだ。たぶんデクは、俺が負けると判断していたら、飛び出してきていた。戦力にならないとか、そんなこと、あいつには関係ない。俺の爆破にビビる癖に、ヒーロー気取りで俺の前にだって飛び出してくるやつだ。丸太の上を歩くのだって怖がっていたのに、俺が落ちた川に、タイムラグ無く駆けつけて来るヤツだ。
何もできないデクの癖に、目は死んでいない。
認めたくないが、分析だけは一級品だ。それを活かす能力が今は無いとしても、あいつはきっと、俺の弱点も知っている。俺の倒し方を、誰よりもデクは知っている。
気持ち悪い。吐き気がする。
掌の上で爆破が起こる。抑えきれない。だから、規模だけ小さくして発散する。それくらいなら、咎められないって知っている。分析と経験が、俺を強くする。俺を自由にする。
けれど、俺が強くなる度に。
「あんまイジめてやんなよ。可哀想じゃんクソナードくんがさ」
「バスケん時もブツブツ言ってるだけで、ボール蹴っ飛ばしてたもんなアイツ」
「バスケと言えばさ、今週のアレ見た? アニキが雑誌買ってんだけど……」
自分の席につくと、ダチが集まってきて机を囲んだ。教室の前の方の席は、デクの姿が目に入らなくて居心地が良い。
あの視線さえ、無ければ。
ダチの声に重なって、ノートに鉛筆を走らせる音が聞こえてくる気がする。
俺が立ち去ったのを良いことに、クソデクは俺の分析を再開しているんだろう。
俺の言葉も思いも、気にも留めずに。
***
蝉の鳴く声に混ざって響く笑い声を、少し距離を置いて追った。廊下には人が溢れているのに、すれ違う人の話し声は蝉の声とそうは変わらない。ただ、その笑い声だけが意味を持つ。
中学の移動教室は、決まって番号順で座らされた。
一年生のときは、まだ良かった。同じクラスに、は行の苗字を持つ人が、何人かいたから。
けれど二年生になって、僕とかっちゃんの間を埋める人はいなくなってしまった。
かっちゃんの目に留まらないように気を付けながら、教室の壁に沿うように歩いて、かっちゃんの後ろの席に座る。正確には、教室の前後を基準にするなら後ろの席で、机を基準にするなら、隣の席だ。美術室の机は大きくて、一つの机に四人が座れる。背もたれの無い椅子は、前後左右の概念に縛られない。
蝉の鳴く声が、距離感を狂わせる。
前の席から聞こえてくる話し声は、妙に遠く感じられた。一限は美術室が使われなかったらしい。クーラーはまだ効いていなくて、僅かに開けられたままの窓からは、期待するほどの風が吹き込まない。そのせいで、教室の中は熱気で歪んで見えた。視界は狭まって、いっそう席と席との間が離れて感じられる。それでも、かっちゃんの白いシャツに、汗が滲んでいくのだけは、妙にくっきりと目に映った。
チャイムが鳴っても、しばらくの間、話し声は続いていた。美術の先生が来るのが遅いのを、みんな知っているからだ。早く授業が始まれば良いのに。誰もが一人でいることが当たり前の時間を、僕はいつだって静かに待っている。ぼんやりとその背を見つめて、自然と耳に入ってくるその声を、聞くともなく聞きながら。
美術は嫌いじゃなかった。けれどそれは、一人で黙々とやれる時に限っての話だ。
その日、授業開始から5分遅れて教室に入ってきた先生は、画用紙の束を配りながら、僕が最も嫌な課題を出した。
「まずは身体ごと向き合って、相手の顔をよく見ろよ。描く時間より、見る方に時間を使っても良いからな」
それは、友達の顔を描くという課題だった。友達? それなら自由にペアを組ませても良かったはずなのに。僕みたいに友達がいないヤツへの配慮だろうか。それともペア作りや移動に時間を取られることを避けるためだろうか。番号順とは、確かに便利なものだ。けれど前者ならば、その配慮がこれほど裏目に出ることも無いだろう。
よりにもよって、こんな課題で、かっちゃんとペアになるなんて。
「見ンなクソデク!」
先生に言われた通り座る向きを変えても、かっちゃんは当然のように、僕の方に身体を向けてはくれなかった。それどころか案の定、僕の視線さえ許さない。
「見なきゃ描けないよ」
正論だって、かっちゃんに通じないことなんてわかっている。それでも、言わずにいられるようなら、ここまで嫌われていないんだろう。
また、罵声で返されると思った。教師の前で個性を使うほど、かっちゃんはバカじゃないけれど、言葉の暴力は教師もスルーする。それは、教師の怠慢じゃなくて、それが普通のことだからだ。僕だって今更、傷付かない。ただ、こんな時には、かっちゃんが協力してくれないことが、少し困るだけ。
そう、思っていたんだけど。
「描けるだろ。てめェは」
自分の耳を疑ってしまうほど静かに、かっちゃんは言った。その顔からは、表情が抜け落ちて見えた。
「かっちゃん?」
その声と、顔付きに、何故だかドキッとして、僕は無意識にその名前を呼んでいた。
かっちゃんはチッと鋭く舌打ちをすると、鉛筆を手に画用紙に向かった。これ以上、僕とは一言も話す気は無いという姿勢だ。きっと、絵が完成するまで、僕を見ることもないだろう。
これは、ある意味では幸運だった。
いくら口で見るなと言われたって、関係ない。先生は、見ろと言っている。僕がかっちゃんを見ていたって、何も不思議なことはない。誰も、見咎めない。こんな風に堂々と、かっちゃんを見られるチャンスなんて早々ない。
かっちゃんのことは、今でも新しい発見をする度に、将来の為のヒーロー分析ノートに書き留めている。中学に入ってから、本格的に個性に合ったトレーニングを始めたと思う。半袖のワイシャツから伸びた腕は、一年生のときよりも確実に太い。着痩せするタイプだから、服の上からじゃハッキリと分からないけれど、胸筋や腹筋も、同世代とは比べ物にならないくらい、鍛え抜かれているんだろう。
いつの間にか、喉仏が出ている。声変わりをした時期は知っている。あれは4月。苛烈な性格をしているのに、不思議とクラスが変わっても、人が寄ってくる。人気者、というわけじゃない。たくさんの人に囲まれているわけでもない。それでも誰も、彼という人間から目を逸らせない。クラス内でグループがまとまる頃には、かっちゃんの声も、前より低く落ち着いていた。
「緑谷、そろそろ描き始めないと、間に合わないぞ」
不意に先生から声を掛けられて、我に返る。慌てて返事をして、周囲を見やれば、みんなもう画用紙に向かっていた。見える範囲の全員が、正面の顔を描いている。時折声を掛け合って、真っ直ぐ互いを見ては、照れくさそうに笑い合って、また描く作業に戻っていく。
再びかっちゃんに視線を戻す。
かっちゃんは迷いなく手を動かしていた。僕の事なんて見なくとも描けるんだ。
それは、僕のことを普段から見ているから……なんてことはもちろん無くて、才能マンと名高い、そのあらゆることに発揮される才能のためだ。
天才なんて言葉で一括りにできない。努力の人だって知っている。それでも同時に、やっぱりかっちゃんは、天に愛されていると思う。かっちゃんは、全部持ってる。その全てを、思い通りに使いこなすことができる。
喩えるなら……そう、かっちゃんは、たくさんの絵の具を持っている。そしてその絵の具を混ぜ合わせて、もっとたくさんの色を作ることができる。そうして自分が描こうとイメージしたものを、画用紙の上に再現することができる。誰の目にも素晴らしく映る作品として。
対して僕は、色を持っていない。この鉛筆一本で、理想をなぞることしかできない。
けれど一つだけ、誇れることがあると言うなら。
僕は、かっちゃんが生み出す色の名前を言うことができる。たとえ同じ色を生み出す力が僕に無かったとしても、僕は、かっちゃんを知ることができる。
だから、僕のノートには、かっちゃんのページがある。
そうやってまとめてきたノートと、同じことだ。鉛筆を握りしめて、画用紙に向かう。いざ描こうとすると、不思議なほど、笑顔ばかりが思い浮かぶ。それは、楽しげなものばかりではなくて、人をバカにしたり、煽ったりするときに見せる、意地の悪いものもある。
小さい頃は、底抜けに明るい笑顔だって、間近で見ていた。
今は……僕が間近で見せられるのなんて、後者しかない。
確かなのは、そのどれもが、描くには相応しくないだろうということ。
だから、今の僕に描くことが許されているのは、まさに今のかっちゃんだけだ。正面の顔なんて描けない。根が真面目なせいで、嫌ってる僕の絵なんてものを真剣に描いている、かっちゃんの横顔を描くことしか、できない。
見ずに描くなんて、できるわけない。
スッと通った鼻筋。伏せた目元は、長い睫毛のせいで、どこか穏やかに見える。おばさんの個性の影響か、女子が羨むほど肌がキレイだ。顔は水で洗って済ますのに、日焼けすると黒くなるより先に赤くなって肌が剥けるから、日焼け止めを塗っている。だから、この時期はいっそう、他の男子たちより肌が白く見える。だから……体育の着替えの時とか、ふとした瞬間、服に隠れていた部分の肌が晒されたときには、ハッとさせられたりする。
窓から差し込む光が、薄い金髪を透かして、キラキラと輝かせている。
粗野にしか見えない態度を取るから、普段は意識しないけれど。かっちゃんを構成するパーツはどれも繊細で、その個性が生み出す爆破の光そのもののような、輝きを持っている。
「できた……」
けれど、そうしてできあがったかっちゃんは、別人のように見えた。
誰が、かっちゃんの横顔を記憶しているだろう。静かな眼差しを。閉じられた唇を。誰が、知っているだろう。
不意に、蝉の声が煩く耳に響き出した。同時に、鉛筆を握った手に、汗が滲むのを感じた。暑い。冷房は未だに効いていなかった。壊れているんだろうか。それとも、温度の設定の問題だろうか。
かっちゃんの額にも汗が浮いている。個性柄、汗をかけばかくほど強くなるかっちゃんは、意識して新陳代謝を上げている。暑がりで、汗っかきで、夏が一番、機嫌が良い。
春先よりも僅かに焼けた、白いうなじを、汗が伝う。
その汗を描き加えれば、少しはこの絵も、現実のかっちゃんに近付くだろうか。
そんなことを考える頭の片隅で、誰にも見せたくないという感情が、不意に浮かんだ。
どうして、そんなことを思ったりしたんだろうか。
暑い。汗がこめかみを伝って、拭う間もなく、顎先から伝い落ちた。
それは、鉛筆で汗を描き込む代わりに、画用紙に描いたかっちゃんを濡らした。
咄嗟に拭おうとして、指で画用紙を擦った。そのせいで、汗は鉛筆で書いた線と混ざり合って、描いたかっちゃんの顔を汚した。その静かな眼差しも、長いまつ毛も、穏やかに弧を描いた眉毛も、緩く結ばれた唇も、全て、わからなくなるくらいに。
消しゴムで、消えるだろうか。
けれど、書き直しても、これ以上良いものが描けるとは思えない。
ちょうど、その時だった。
「そろそろ皆描けてきたか? できたヤツから出して良いぞ」
教卓を示しながら、先生が言った。途端に、みんな席を立って、画用紙を提出しに行く。
その人波の中には、かっちゃんも含まれていた。
僕の絵を出したかっちゃんは、もう隣には戻って来なかった。
蝉の鳴き声が、秒針の音をかき消している。それでも時計は時を刻む。間もなく、チャイムが鳴り響くだろう。
これ以上、できることなんてない。だから僕も画用紙を手に、席を立った。
蝉の鳴き声に混じって、声が聞こえてくる。友達の輪に入ったかっちゃんは、静けさとは無縁の表情に戻っていた。
やっぱり、笑っている時の方が、かっちゃんらしい。
たとえ正面からその笑顔を見ることが、僕には許されないとしても。
***
「模試の結果はA判定。おまえの個性なら実技だって楽勝だろう。ヘドロ敵の一件で、一躍有名になったおまえなら、まず雄英に落ちることはない。推薦が来なかったのが不思議なくらいだ。まぁあれは親のツテも大きいって言うから気にするな。親御さんは一般人だしな。一般入試で入学できる方が凄いんだぞ。いやぁ先生も鼻が高いよ。俺の生徒から雄英進学生が出るなんて。先にサイン貰っておこうかな、なんてな。ハハハ」
個人面談の席で、クソ担任は間抜けに笑った。ここまで来たら、コイツは俺が何したって内申を下げるようなことはしないだろう。いくつかのバカげた案が思い浮かぶ。くだらない。考えるのも面倒になって、席を立つ。
「じゃあ、俺、塾行くんで」
「おぅ! 頑張れよ。応援しているからな」
ヘドロの一件以来、クソ敵の名前が俺のあとをついて回った。どこに行ってもヘドロヘドロヘドロ。否が応でもあの日を思い出させる。
「勝己早かったじゃん。やっぱり模試A判定様は違うなー」
教室に戻ると、順番を待っているヤツらが一斉にこっちを見た。
直接は何も言って来なくとも、目は同じことを語ってくる。
「言ってる暇あんなら勉強しろや赤点野郎」
「バカ校行くから良いんだって。じゃあな、また明日」
コートを着て、マフラーを巻く。ダチに見送られながら、荷物を持って教室を出る。塾に行くために、駅に向かって歩き出す。
本当は、塾なんて必要なかった。ただ、個性を使える場所があればいい。物心ついたときからよく遊びに行ってた河原、そこから繋がる森。そこで良かった。去年も、そういう話をしていた。勉強の方は自力で何とかできたし、必要なのはただ、個性を思いっきり使える環境だけだった。
ババアに、何か言われたわけじゃない。俺の親だけあって、大抵のことじゃ動じない。ヘドロ事件のあと、警察に保護された俺を迎えにきたババアは冷静だった。けれど。
「アンタ、プロヒーローたちにもうスカウトされたんだってね。やっぱり一度はヒーロー塾を体験しておくのも良いと思うのよ。ライバルがいた方が張り合いだってあるだろうしね」
いつもの自信に満ちあふれた笑顔で、ババアは何枚かのパンフレットを差し出してきた。それが、どこから渡されてきたものかはわからない。警察か学校が薦めてきたのか、塾が送りつけてきたのか、あるいはババア自身が調べて集めたのかもしれない。けれどそんなことは、どうだって良かった。重要なのは、それが選択肢として俺に渡されたことだった。いつもと変わらない。でも、俺の親だ。それがどれだけの精神力でもって見せられた顔かくらいはわかる。あの時オールマイトが来なかったら、俺は敵に身体を乗っ取られて死んでいただろうし、そうなる前に、俺の個性でデクを殺していただろう。
個性に目を付けられて拐われることも、敵になることも、俺の個性が誰かに致命的な傷を負わせることも、俺が事件に巻き込まれて死ぬことも、全て、俺の個性がわかった時点で、没個性の奴らよりも起こり得る可能性が高いと危惧されていたに違いない。
その全てが、現実になるところだった。
俺が、弱かったせいで。
俺は、パンフレットの中から設備が良さそうな一校を選んで、ここが良いと頼んだ。塾に見学に行くと、講師はヘドロ事件を引き合いに出し、合格確実と囃し立て、塾の宣伝に使って良いなら、受講料は無料にするから是非と俺たちを勧誘した。ババアは顔を顰めたけれど、俺はそれで良いと答えた。何だって良かった。強くなれるなら。勝つためなら。あんな屈辱を、二度と味わわされないためなら。
電車を降りて、改札から出た途端、鼻先に雨粒が当たった。
「クソッ雨予報じゃなかっただろーが」
携帯電話を開いて、天気アプリを起動する。通り雨だ。天気予報が変わっていただけのこと。
あの時とは違う。オールマイトが拳一つで天気を変えた、あの時とは。
空模様は自然に、移り変わっていく。
「しゃーねーな……」
屋根の下に戻って、壁に凭れる。単語帳を開こうか迷って、目を閉じた。雨は嫌いだ。冬も、嫌いだ。晴れた夏の日よりも爆破の威力が下がる。イメージとの剥離によって精度も下がる。体調まで悪いような気がしてくる。雨じゃ代謝を上げるために、走ることもできない。
サァ……っと、細かな雨粒が地面を打ち付けるにつれて、冷たい風とともに、雨のニオイが漂ってくる。通り雨にしては長い。もうすぐ次の電車がやってくる。いっそその電車に乗ってやろうかと思う。一日くらい塾をサボったって、親に電話はいかないだろう。筋トレくらいは、家でだってできる。一日爆破を使わなくたって、汗腺は死なない。
あの日から、学校で爆破を使っていなかった。
デクと、関わっていないからだ。
生のオールマイトに会ったからだろうか。あの日から、デクは身体を鍛えている。春に比べて、明らかに体格が変わっていた。周りのヤツラは、今だってアイツのことを気に留めていない。けれどもともと、模試の結果は悪くなかったはずだ。ヒーロー科を落ちたとしても、他科に受かる可能性は高い。自分にあったサポートアイテムを手に入れれば、無個性でもヒーロー科にのし上がってくる可能性はある。あいつは決して諦めない。そしていつかまた、俺の前に立ちはだかるんだろう。
その時あいつは、俺を見ているんだろうか。
あの日から、食い入るような視線を感じない。
オールマイトと並んで描かれた、小1の時の絵を思い出す。あいつにとっちゃ、俺はオールマイトの代替品か? 勝てなかったら興味無しか。俺の弱ぇところ見て救けに来て満足か。オールマイトが来なかったら、てめェも……!
握り締めた拳の中で熱が弾けて、我に返った。どーでもいい。俺が、オールマイトを超えれば済むことだ。
雨のニオイに混じって、焦げ臭いニオイが漂い始める。
遠く響き出す踏切の音に背を押されて駆け出した。
冷たい雨が、頭と手を冷やしていく。
たぶん天気予報は、また変わっている。
***
寮暮らしが始まる。
何もできない日々から一転。引っ越しの準備は、思っていたよりずっと大変だった。何せ外泊したことだって、学校行事の経験でしか無い。
思い出をひっくり返すと、部屋の中はオールマイトで溢れかえっていた。それに、凄いと思ったヒーローたち。僕の部屋を大きく占めるのはオールマイトのグッズで、次いで、紙類だった。ヒーローに関する本、新聞や雑誌のスクラップ、自分で書き綴ったノート。
「出久ーダンボールは足りるー?」
部屋の外からお母さんの声が聞こえてくる。
部屋は散らかるばかりで、そのくせ組み立てたダンボール箱は、全ていっぱいになりつつある。
紙の束に埋もれた足を引き抜いて立ち上がる。ドアを開けて「全然足りない」と、廊下の向こうに声をかける。するとすぐに、リビングの方から、畳まれたダンボールを手にお母さんが現われた。慌てて自分の部屋のドアを閉める。見られて困るものは出していなかったと思うけれど、この状態を見られることそのものが問題だった。ただでさえ、心配されているのに。
「いい? 全部は持って行けないんだからね。これ以上はダメよ。手伝ってほしいことがあったら言ってね」
「わかってるよ。ありがとう」
学業に必要なものは、ほとんど学校のロッカーに入っている。服は詰めた。新しく買ってもらった、タオルや、歯ブラシなんかの生活に必要な消耗品も。本棚や机、カーテン、ラグ、ベッド含めた寝具一式はそれぞれ購入したお店から直接配送されることになっている。あとは、純粋に趣味として持っていきたいものたちの選別だけなんだけれど……。
「うーん……やっぱり持っていくのは、保存用も手に入れられたグッズだけにしようかな」
ゴールデンエイジのオールマイトフィギュアを手に取る。まだ、オールマイトがテレビの向こう側のヒーローだった頃に買ったものだ。いつか、サインが欲しいと思っていた。夢は現実に。それ以上のものを与えられる日が来るとは思ってもみなかった。テレビの向こう側から掛けられた声を、自分に向けられたメッセージとして受け取る日が来るとは、思ってもみなかった。
頭の中で、何度もオールマイトの言葉が繰り返される。
ーー次は
「僕なんだ」
フィギュアを厳重に梱包して、ダンボールに入れる。少しでも早く、オールマイトのように強くなりたくて、外に飛び出したくなる。その衝動を堪えて、せめてもの思いで、書き溜めた「将来のためのヒーロー分析」ノートを開く。
一冊目の一番初めのページは、もちろんオールマイトだ。今では読みにくい、ミミズがのたくったような字で、それでも一生懸命、知ったデータを書き綴っている。その隣に描かれているのは、幼稚園の時にかっちゃんに教えてもらった描き方をどうにか再現しようとした、オールマイトの絵。
「懐かしいな」
思わず口元が緩む。一冊目を開くのは、随分と久しぶりだった。次のページに何を書いたかさえ、覚えていないほどに。
一枚ページをめくると、そこには、オールマイトと、僕と、かっちゃんが三人並んだ絵が描かれていた。明らかに、幼稚園のとき一回だけ、かっちゃんが描いてくれた三人の絵のマネだ。一ページ目にオールマイトを描いたことで思い出したんだろうか。忘れかけていたあのかっちゃんの絵が、この時の僕の心と重なって、鮮明に思い出される。あの絵とは比ぶべくも無い、下手くそな絵だけれど、これを書き上げたとき、自分がどんな気持ちでいたのかも、思い出した。
いつから忘れてしまっていたんだろう。
僕はずっと、この瞬間を諦めていなかった。
オールマイトと、かっちゃんと、三人並んで、笑い合う瞬間を。
もう一枚ページをめくれば、そこには笑顔のかっちゃんがいて、そんなかっちゃんの凄いと思うところが、いっぱい書き込まれていた。
「かっちゃん……」
ページをめくればめくるほど、そして、ノートに表紙に書かれたナンバーを重ねれば重ねるほど、たくさんのヒーローたちに混ざって、かっちゃんの絵がどんどん出てくる。
幼稚園、小学校、中学校、そして、今。
今、架空ではない僕の姿も、このノートには書き込まれている。
個性を授かって、雄英に入って、共に戦って、少しは近付けた気がしていた。それでも、ページをめくればめくるほど、かっちゃんの姿は遠ざかっていくままだ。
「出久ーそろそろご飯だよ」
お母さんの声が聞こえてくる。意識すると、夕飯の良いニオイが漂ってくる気がした。お腹がぐぅと間抜けな音を立てる。
「はーい」
返事をして、ダンボールの中に、ノートを一冊目から揃えて全部入れる。ここにまとめてきたことが、確かに今の僕を形作っている。きっと、これからも必要になってくるだろう。
「今日のご飯、何ー?」
ドアを開けると、ニオイが濃くなって、それだけでメニューを当てられる気がした。今夜はたぶん、カツ丼だ。
「出久が好きなものだよ」
大正解。
「カツ丼だぁ」
お母さんのご飯は何だって美味しいけれど、最近は特に、僕が好きなものを選んで作ってくれていると思う。
あと何度こうやって、一緒に台所に立てるんだろう。
不意に遠いところまで来てしまった気がして、怖くなる。
けれど、振り返ったお母さんの、変わらない笑顔に、自分が今、ここにいることを、実感する。
「準備は進んだ?」
「うん。今日中に終わるよ」
「足りないものとか、もう無い?」
「うん。大丈夫だよ」
「忘れ物があったら持って行ってあげるし、いつでも帰ってきて良いんだからね」
「ありがとう。これ、運ぶね」
夢がある。気持ちは焦る。今はどんどん、移り変わっていく。
「いただきます」
それでもお母さんのカツ丼は、子供の頃から変わらず美味しい。
***
「アルバムを見てたんだ」
と、母親は言った。
「アンタが死にそうになってるとき、私は何も知らずに、昔のアンタを懐かしんでた」
雄英に避難してきた両親の鞄の中には、その時に見ていたという俺のアルバムが入っていた。
「荷物になるからね、あとはデータ化して持ってきた。持ってこれない大切なものは全部、勝さんの会社のツテで、海外に送った。アンタは何も気にせず、自分がやれることをやんなさい」
そう言って、そのアルバムを押しつけてきた。
それは、俺が生まれたての赤ん坊の頃から現在まで、おそらくババアが特に気に入った写真を集めて作られたものだった。
アルバムの中で、俺はバカみたいに笑っていた。両親に抱かれて。オールマイトのキラカードを手にして。個性で草原を駆け抜けて。コンクールでピアノを弾いて。部活の大会で優勝して。険しい山の頂で。
これが俺だった。望めば何だってできた。俺が一番凄くて、周りはザコでモブ。
そんな自分が、あの日、死んだ。
デクを庇い、血を吐いて倒れたのは、俺がそうして殺したのは、無敵でクソな中学生の俺だった。
自分の弱さを認めるには、随分と時間がかかったように思う。俺はたぶん、丸太橋の下であいつに手を差し伸べられたその時から、ずっと、俺自身の弱さに気付いていた。誰よりもあいつがヒーローに近いんだと、心のどこかで感じる度、あいつを貶めることで、誰よりも高みに在ろうとしていた。
血を吐く思いで、その一つ一つの感情に向き合ってきた。
放課後の訓練中。オールマイトと、二人で話したときがあった。オールマイトに、また話し合える時がくると言われたとき、自分の弱さを、また一つ痛感した。
出久はもう先へと進んでいて、俺に虐められたことなんてまるで忘れたみたいに接してくる。俺と一緒に何かをすることが、嬉くて仕方が無いような顔をする。
贖罪だとオールマイトは言った。それをデクが、思ってもみないだろうとも。
端的に言えば、それで合っていたと思う。それが、俺の弱さへの向き合い方に他ならなかった。デクを虐め続けた弱さ。オールマイトを終わらせた弱さ。それを贖うために、訓練は都合の良い手段だったに過ぎない。俺自身にもメリットがあった。だからこそ、それだけじゃ十分じゃない。
刺し貫かれた傷が痛む度に思い出す。言いたかったこと。言わなきゃならないと思ったこと。
殺された中学生の俺は、もう謝ることができない。
無個性の何もできないデクはもういない。
降り頻る雨の中を駆ける。
雨の日は古傷が痛むのだと知ったのは、どのコミックだっただろうか。
今、肩と脇腹に負った真新しい傷が、痛む。見た目だけは塞がってなお痛むこの傷は、たぶん、この戦いを生き延びても、雨が降る度に疼くのだろう。
そのとき、俺は一体何を思うのだろう。
重要なのは、傷を負ったことじゃない。
本当はいつだって、そうだった。向き合えばとっくに、理解していた。
あの瞬間、俺は、確かに憧れという名の理想に近付いた。
「いたぞ、てめェら」
じわりと身に染みていく雨の冷たさも、重さも、もう、気にならない。
けぶる視界の中で、自分がやるべきことだけが明確だ。
今の自分にしかできないことが、ある。
何かを俺は、まだ、掴みかけている。
***
雄英高校の体育祭の生中継を見ていたとき、何度もテレビの前で失神した。活躍が嬉しくて、けれどそれ以上に、怪我が恐ろしかった。私にはまだ、覚悟が足りていなかったから。
もし、出久がオールマイトに憧れて、ヒーローになりたいと言ったその日からずっと、出久がヒーローになることを信じてあげていたら、これほど涙を流さずに済んだだろうか。出久が傷つくことを恐れずに、出久が傷つくことで、自分自身が傷つくことを恐れずに、応援することができただろうか。
きっと一年が経って、来年の体育祭を迎えても、泣いてしまう気がする。出久の活躍が嬉しくて。怪我をすることが恐ろしくて。手に汗を握って、視界を歪ませる涙を拭いながら、必死に応援するんだろう。酸欠と脱水症状で、死にそうになりながら。
そしてそれは、出久がプロになったって変わらない。
たぶん、ずっと、そうだ。
一人で戦っている出久に、私は何もしてあげられないから。
スクリーンには出久とオールマイト、そして、二人が戦う敵の姿が映っていた。
「あぁっ……出久……!」
出久の気持ちが痛いほどわかる。
出久がどれだけオールマイトに憧れていたか知っている。
全てはオールマイトから始まった。
オールマイトみたいになりたかったから、出久は、今、画面の向こう側にいる。傷だらけになって、戦っている。これが夢なら良いと、どれだけ願っただろう。もう自分が息をしているのかどうかもわからない。激しい鼓動が、狭まった視界を揺らす。何もできない。何もしてあげられない。私は、あの子の母親なのに。側にいてあげることも、大丈夫だよと言って抱きしめることもしてあげられない。憧れを守ってあげられない。ずっと、そうだった。ずっと。
「嫌……嫌だよ……」
もし、オールマイトが。
そんなこと、考えたくもないのに。
「いずく」
ーー誰か
その瞬間、スクリーンが真っ白に染まった。
それが、撮影者の間近で起こった強い光のためだと、そのときの私たちは知らなかった。
全ての情報をシャットアウトされたことで、私の頭の中には走馬灯のように、出久がまだ私の手を握っていてくれた頃からの光景が駆け巡った。
だから、光の中にその子を見たとき、俄かにそれが現実だとは、信じられなかった。
それでも私の涙は、止まっていた。
何故なら出久が、泣き止んでいたから。
まるで小さい頃と同じ目をして、その子を見つめていたから。
かっちゃん
全ては一瞬の出来事だった。二人が手を取り合った。光が弾けた。次の瞬間には、かっちゃんがオールマイトを、救けていた。
「あぁ……!」
かっちゃん。
今初めて、出久がかっちゃんに向けていた気持ちがわかる。
出久の状況は何も変わっていないのに、まだ、敵は倒されていないのに、それでも、この瞬間に、世界は一変した。
これがヒーロー。
出久が、ヒーローに救われるところを、今、初めて私は目にした。
地面を感じた。ヒーローが作ってくれた、市民を安全に守るために用意された地面。その地面に、私は二本の足で立っていた。
目の前にあるスクリーンも、ヒーローたちが用意してくれたもの。
そこに、私の息子と、息子の幼馴染が映っている。
目を逸らしたくなる悲惨な光景は続いた。
それでももう、自分を見失うことは無かった。真っ直ぐに、スクリーンに向き合うことができた。胸の前で強く握り締めた手が痛む。けれど、いつの間にか胸を苛む後悔は消えていた。手放せないでいた恨みや嫉妬すらも、もう私の中には無かった。
出久はもう、一人じゃない。
私が諦めそうになる度に、誰かが、ヒーローが、出久の側に来てくれる。
それが、ヒーローなんだと私に教えてくれる。
これが、出久がなりたかったヒーローなのだと。
狭まった視界が広がって、周りの音が耳に入ってくる。言葉として人の声が聞こえてくる。私も、一人じゃなかった。一人ではもう、いられなかった。
出久が無個性だとわかったとき。私は諦めてしまった。謝ってしまった。そのことを、ずっと後悔していた。あの時、どんな言葉をかけたら良かったのか、ずっと、わからないままでいた。
それが今、やっと、わかった。
ヒーローたちに背を押されて、出久が走り出す。
声が聞こえる。
出久を見ている、みんなの声が。
私にも、出久のために、してあげられることがある。
だから、どんなに怖くとも、言うよ。
「頑張れ、出久!!」