白と赤 温泉行くぞ、なんて唐突な言葉とともに半ば強引に連れ出され、わざわざ電車に乗ってどこへ行くのかと思えば、着いたのは意外と近く、オオミヤ駅だった。ぱちくりと瞬きをしつつも左馬刻の後ろをついていく。改札を出てどちらへ曲がるのかと思っていれば、男はくるりと振り向いて切符を差し出してきた。手渡されたのは、知っているようで知らない切符だ。普段使う電車のそれよりもだいぶ大きい。それから、目的地を見てさらに首を傾げる。
「カミノヤマ温泉……ってどこっすか?」
「ヤマガタだな」
「…………え、今から? ヤマガタ行くんすか?」
そんな遠くねぇよ、と左馬刻は言うが、切符に書いてある到着時刻は二時間と少し後。それが遠いか遠くないかはどう答えればいいのか迷うところだったが、少なくとも何の準備もなく今日の今日でふらりと寄るには遠い距離だと思った。戸惑う一郎をよそに、西口でも東口でもなく、新幹線の改札へと向かう左馬刻の背中を追いかける。
初めて行く地へのわくわくした感情よりも、なんで急に、という疑念の方がどうしたって強い。促されるまま乗り込み、窓側を勧められておとなしく従い、互いに無言のまま、ゆっくりと新幹線は動き出す。
「昼飯、着いてからでいいか?」
「はい」
「駅弁でも買っときゃよかったな」
「……や、まあ、そこまで腹減ってるわけでもないんで……」
なんとなく途中で音を立ててしまうような気はしたものの、別に我慢できないほどの空腹ではない。答えながらちらりと隣を見れば、左馬刻はゆったりとシートに背を預け、早々に瞼を閉じてしまっていた。
そわそわと、もどかしい感情が胸の中を渦巻く。しかし何を尋ねればいいのかはいまいちよくわからなくて、そのくせうまく躱されるところだけはしっかりと想像できてしまって、一郎は口を噤んで窓の向こうへと視線を向けた。
ふう、と小さく息を吐く。肘掛けに乗せた腕が、僅かに触れている。分け与えられる熱はどことなく居心地が悪くて、けれどどうしてか離れがたかった。
左馬刻に倣って瞼を閉じる。心地よい揺れに身を任せてしまえば、すんなり眠気は訪れた。
そうして再び瞼を開いた時、窓の向こうは一面の雪景色だった。
「う、わ……」
思わず小さく声が零れ、そのままじっと外を見つめる。
おそらく田んぼか何かであろう平坦な地は、今は真っ白な絨毯だ。そうかと思えば突然トンネルに入って視界は黒に遮られ、光が戻ってきたかと思えば細い木の枝に積もる雪が景色を幻想的な白に塗り替える。気づけば身を乗り出して窓の外を覗き込んでいた。
この時期でなければ、きっとただの田舎の景色。だが今は、心を浄化する、白。
「…………」
昨日からずっと引きずっていた胸の中の燻りが、いつの間にか解けていたことにようやく気づく。そうして、まだ隣で瞼を閉じている左馬刻をそっと盗み見た。この人の突拍子もない提案の理由は、きっとここにあったのだ。尋ねたことの答えはいつも上手くはぐらかしてくるくせに、そのくせどこかわかりやすく気づかせてくれる。本当に寝ているのか寝たふりをしているのかわからないが、綺麗な顔を見ているうちに、むずむずと初めての感情が込み上げる。
(……あー…………)
じわりと気持ちが滲む。初めてのはずなのに、その感情は心の中でしっかりと言葉になった。
(…………あーあ……)
大人で、先輩で、憧れて。こんな兄さんがいたらいいなと薄ぼんやり思ってはいた。
だが初めて、好きだと思ってしまったのだ。
(好き、だったんだなぁ……)
解けたはずの心が、また違う感情で締め付けられる。その頼もしい背中にも無防備な寝顔にも、知らなかった感情が顔を出す。肘掛けに乗せられた腕に、そっと自身の腕を寄せた。
◇
二組ぴたりと寄せて並べられた布団の片側に二人、身を寄せるだけでは足りず、そっと唇で頬に触れる。擽ったそうに身を捩る一郎に「かわいい」と告げながらキスを降らせ、昂ぶる熱のままに舌を絡めた。アルコールの混ざった吐息に、ぞくりと素直な欲が湧く。浴衣の下にはご丁寧にシャツを着ているようだが、その無駄な一手間に不思議と悪い気はしなかった。
「……なぁ、なんでこんなとこ来たがったんだよ」
「ん……?」
二日前、行きたいとこあんだけど、と珍しく提案してきた一郎に、心を躍らせながらもできるだけ平静を装って一言どこだよとだけ返した。すると一郎は「カミノヤマ」とだけ短く告げて、うっすらと頬を染めたのだ。カミノヤマ。……カミノヤマ?
『あぁ? いいけど、なんで』
ヨコハマより遥か北の地。新幹線でもそれなりに時間は掛かる。そんなところへわざわざ何をしに、と訝しげな視線を送れば、昔行っただろ、と一郎は唇を尖らせた。
言われてようやく、薄ぼんやりと思い出す。たしかに行った。まだTDDの頃だ。日帰りで、なんなら滞在時間とほとんど同じくらい移動時間を使って。
『あー、どうせそっちまで行くんなら、もうちょいいいとこにしようぜ。あん時はどうせ、お前も弟が待ってるから泊まれねぇだろうと思って駅から近いとこ選んだんだよ』
ヤマガタには全国的にも有名な温泉地がある。だが、そこへ向かうには新幹線からさらに電車やバスを乗り継がなければならない。日帰りだとするとその移動時間はさすがに億劫だからと、駅からすぐ温泉街へと繋がるカミノヤマを選んだのだ。
だが一郎は、首を横に振る。
『あの温泉行きてぇの。……、まあ、今回は泊まりでだけど……』
『……おー』
誰かに見られていれば「チョロい」と冷めた目で見られそうなやりとりだが、幸いそれは二人きりの時に交わされたやりとりだ。久しぶりに休みが重なって、それも二連休だとわかって、どうしようかと何気なく尋ねた時にすんなりと泊まりの提案が出てきたのだ。浮かれるなという方が無理だった。そのせいでわざわざこの地を選んだ真意は問いただせなかったのだけど。
そんなやりとりを思い出しながら左眼の下のほくろに短いキスを落とすと、一郎は小さく笑ってからにやりと笑ってみせた。
「ここさ、俺の初恋の思い出の場所なんだよなぁ」
「…………は……?」
思わず呆けたその一瞬の隙をついて、一郎は身体を起こす。ぱちくりと瞬きを繰り返す左馬刻の首に腕を回し、唇にキスを贈り、すっと目を細めて口元を綻ばせた。
「かっこいいなって思ってた人のこと、初めて好きだって自覚した」
「…………」
「……ははっ、左馬刻真っ赤じゃん」
飲んだせいか「さまときもかわいー」なんて言葉を吐いてご機嫌な様子で口付けてくる一郎に、そのまま素直に委ねてやるつもりはない。腰に回した腕で身体を引き寄せ、応えるように少しだけ乱暴な口付けを返す。
「テメェもそれ、酒のせいだけじゃねぇだろうが」
「あ、バレた?」
「たりめーだわ」
頬も、耳も、首筋も。アルコールのせいだけでも温泉のせいだけでもなく真っ赤に染まった肌に吸い付きながら、遠い昔の健全な弾丸温泉旅行を思い出す。理由はわからなかったが明らかに不機嫌な様子の一郎が、家で「兄」として笑顔を作らなければならなくなる前に、少しでも気分転換になればと無理やり連れ出したあの日。当然防寒なんてものはしておらず、駅に着いた途端二人で寒い寒いと騒ぎ、鼻先を赤くしながら温泉に浸かり、あっという間だったなと言いながら新幹線に乗って、萬屋まで送って行った。たったそれだけ。なんてことのない一日だったはずなのに。
「……珍しい髪型してたのもそれが理由か?」
「そ」
日中丸出しだった額に口付けて、くすぐったそうに笑う一郎を見つめる。恥ずかしい奴。そういうところも嫌いじゃないが。
初恋だなんて甘酸っぱい単語をまさかこの歳になって聞かされるとは思わず、なんともむず痒い気持ちを誤魔化すように、目の前の男を再び布団に転がした。