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    maybe_MARRON

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    左馬一
    萬屋のあのビルという名のでかい借りを返そうとする一郎の話
    でも左馬刻の元を訪ねた時点で、無意識のうちに心のどこかに引き止めて欲しい気持ちも生まれてたのかな〜とか

    あの日の太陽 兄弟三人で暮らすという、小さな小さな願い事。一郎のそんなささやかな願いは、様々な縁が重なって無事に叶った。一緒に住んで、兄弟でラップして高め合って、日々の充実感に満たされてから数年。いつか来るだろうと覚悟していた日常の終わりは、ある日突然やってきた。
     それは、何も悲しい話ではない。二人とも一人暮らしを始めた。ただそれだけのことだ。
     必要以上に動揺してしまったのは、三郎が進学をきっかけに家を出た時点で、まだ二郎が家に残っていたからかもしれない。順番が入れ替わったことで、なんとなく二郎はまだしばらくこの家に住むのだろうと油断してしまっていたのだ。ところが二郎は二郎できちんといろいろ考えていたようで、準備が整ったその日、「俺、海外に行こうと思う」と唐突に告げた。
     そうして一郎は一人になった。
     送り出した時はまだよかった。寂しさよりも誇らしさの方が大きかったから。だが日に日に魔法は解けていく。ただいまとつい声に出しても返事がない。毎日洗濯しても山盛りだったはずの洗濯かごが全然いっぱいにならない。米は三合炊けば足りるようになってしまった。胸の奥に届く痛みはちくりとした僅かなものだったけれど、どうしてか深く刺さったまま抜けてくれない。また帰ってくることもあるだろうに、二人とも自室を綺麗に空っぽにしてしまったからなおさらだった。
     思っていたよりキツいな、と一郎が自覚したのは、一人暮らしになってから二ヶ月が経とうとしていた頃である。この広さも、思い出も、毎日一人で浴びるべきではない。なんとなく物件を探してみたところちょうどいいテナントが見つかってしまったものだから、内見の前にまずは左馬刻に話をしようと思った。迷いが生じる前にさっさと電話してアポをとり、火貂組へと来たのである。
    「…………で?」
     左馬刻は紫煙を燻らせたまま、気怠げに用件を促した。短く問う低い声に、一郎はあっけらかんと言い放つ。
    「俺、引っ越そうと思って」
     左馬刻は訝しげに眉を寄せたまま、机の上の鍵をじっと見つめた。
     火貂組の事務所に来るのは二度目だ。わざわざこんなところに顔を出したくなどないのだが、こちらから話がある時に「来い」と言われたら行くしかない。重苦しい黒い部屋。その主に用意された立派な椅子に掛ける左馬刻の正面に立つ。見下ろす側であるにもかかわらず少しも有利な気がしないまま、一郎は続けた。
    「……長い間、悪かったな」
    「何が」
    「家賃だよ。それに敷金礼金更新料……他にもあるのかもしんねぇけど」
     左馬刻は視線を逸らし、チッと舌打ちをする。
     何年もあの街に住んでいて、家賃の相場に気づかないはずがない。もっと正確に言えば、あのビルを紹介してくれた当初から薄々気づいていながらも甘えさせてもらっていた。最初はそれでもよかったのだが、その大きな借りはなぜか関係が最悪になった時でさえ続いた。変わらない家賃の額面と、請求されない更新費用。それはむしろ腹が立つほどであったが、すべてを一人で支払いながら弟たちに不自由をさせない自信があるかと言われれば微妙だったのだ。仕事は軌道に乗ったものの、バトルもあり情勢は不安定。弟たちはまだ学生生活が続くため、何かと必要な出費も多い。今は良くても、万が一の事態が起きた時に弟たちにすべてを背負わせることになってしまうかもしれないと思うと、優先すべきは一郎のプライドではなく家族での生活だった。
     だけど、そんな時期も過ぎてしまった。独り立ちした二人。安定した仕事。もし何か想定外の事態が起きたとしても、ちょっとやそっとじゃ困ることはない自信がある。
    「二郎も三郎も独り立ちしたなら、俺は自分の部屋と事務所があれば十分だ。近くに空いてるテナントも見つけてる。……萬屋も、ちゃんと続けられる」
     だから、この大きすぎる借りを返そうと思った。左馬刻からすれば別にたいしたことないのかもしれないが、金銭的な側面ではもちろん、精神的にも甘えっぱなしになってしまうと思ったから。
     広い机の上にぽつんと置かれた鍵は、やけに寂しく見えた。だが、これでようやく、弟たちに続いて自立できる。そう思えばむしろ誇らしさもあって、一郎はきゅっと拳を握った。
     左馬刻はしばらくじっと鍵を見つめていたかと思うと、ゆっくりとそれを手にとった。ちゃり、と小さく音を立てて手の中に収まった冷たい金属。反対の手は煙草を灰皿へと押し付けていた。ゆっくりと息を吐きながら徐々に持ち上がる視線に捕らえられ、つい唇を引き結ぶ。
    「……実家がなかったら寂しいだろ。あいつら帰ってきた時」
     低く静かな声は、咎めるわけでもなくただぽつりと零された。ゆらりと揺れる赤から視線を逸らすことができないまま、ただ言葉に詰まる。
    「…………そ、れは……」
     もちろん独断で決めたことではない。二郎にも三郎にも許可はとってある。特に三郎は左馬刻が金を出している可能性に気づいていたこともあって、事情を説明するとすぐに納得してくれた。
     三人とも、寂しさがないわけではない。あの家にはたくさんの幸せな思い出が詰まっている。だけど三人が揃うなら場所はどこでもいいと思っているのも本当で、ビデオ通話をしながら浮かべた微笑みのすべてが嘘ということもなかったのだ。
    「…………」
     それに、実家を持たないのはこの男の方だ。実家も、最愛の妹と住んだ家も手放して、今は一人で広い家に住んでいるはずである。何なら一郎には、本当は五人で暮らした実家と呼べるような場所が残っていた。行かないし、呼ばないし、誰にも言わないだけで。
     左馬刻は手のひらの中を見つめながら、また一つため息を吐いた。
    「一郎」
     名前を呼ばれると同時に鍵が放り投げられた。思わず受け取ってしまったそれが、手のひらの中で存在を示すように音を立てる。
    「……っ、さま」
    「寂しいっつーなら俺様が一緒に住んでやんよ」
    「……………………? はあ?」
     心底意味がわからなくて、つい素っ頓狂な声が出た。
     いったい、何をどうしたらそういう話になるのだろうか。一緒に住むも何も、左馬刻と一郎は今やただの先輩後輩である。たまに必要な時に連絡をとる以外、ほとんど顔を合わせることもない。そもそも誰が寂しいなどと言っただろうか。いや、寂しいけれど。そんな感情は絶対にこの男には気づかれたくなかったから、言葉にはしていないはずだ。
     一郎はごくりと息を呑む。なぜか心臓が早鐘を打っている。うまく言葉が選べなくて、冗談まじりに尋ねてみた。
    「……ハマの王様名乗っておきながらブクロに住む気かよ」
    「完全に移り住むのは無理だろうな。たまに行くくらいならできなくもねぇか」
    「…………いや、なに本気で……」
     至極真面目な左馬刻の言葉に、動揺は増すばかりだった。鍵を握りしめる手にはいつの間にか汗が滲んでおり、思わず視線を彷徨わせる。
     冗談みたいな話ではあるが、この男は冗談でそんなことを言うような人間じゃない。まっすぐこちらを見つめる視線は至ってフラットで、それがかえって何の気負いもないただの本気の提案だと示していた。
    (わけがわかんねぇ……)
     昔から、時々突拍子もないことを提案してくる人だった。そもそも家のことだって、最初は「金貸してやろうか」に始まり、さすがに断れば今度は「報酬だ」ときた。それをありがたく受け取ってしまったから今こうなっているのだが、まあおかげでかなり助かったのは事実でもあって。
    「……」
     もう、いったい何度振り回されてきただろう。いつまで経っても慣れなくて、だけどあまり悪い気もしない。誰かが前を歩いて道を教えてくれるというのは、酷く安心するものだと知ってしまった。
    (…………勝てる気しねぇよ、左馬刻さん……)
     一郎はゆっくりと顔を上げ、出会った頃から変わらないまっすぐな赤い瞳を見据える。温度の移った鍵を握りしめ、すうっと息を吸った。
    「……飯、食いに来るってこと?」
     そう尋ねた声は、どんなふうに届いたのだろう。左馬刻は存外柔らかく目を細め、そうだ、と頷いた。
    「飯食って酒飲んで……あとはまぁ、たまにはラップも付き合ってやるよ」
    「ははっ、そりゃいいな」
     そんなの、別にどこでだってできることだ。だけど、だからこそ、あの家でやることに意味がある。
     どうしてこんなことになったのだろう。そんな本音を隠しながらじっと見つめていれば、左馬刻は口元に薄く笑みを浮かべる。それはまるであの日のような微笑みで、懐かしさとともに鍵をポケットへ仕舞った。
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