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    海老原

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    海老原

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    データ置き場
    「君は夏の幻影」①
    蝶の話とキスするとこまで
    別途word保存 ファイル名「君は夏の幻影」

    真夏の気温の中、待合室も無くただベンチが置いてあるだけの無人駅。木製の少し歪んだそのベンチに座るトーリスの元へ、ゆっくりとした速度で列車がホームへ入ってくる。降りる者は無く、駅で一人待つトーリスが乗り込むのみ。擦れて消えそうな開閉ボタンを押せば、開いたドアから車内の冷気が流れて火照ったトーリスの頬を撫でた。
    乗り込んだ先、誰もいない窓際のボックス席を見つけてそこへ腰を下ろす。見計らったように発車のベルが響いて、軽い揺れと鈍い金属音と共に列車が走りだした。
    流れ始めた車窓を、トーリスはぼんやりと見ていた。
    人もまばらなこの列車では、わざわざ相席しようとする客もおらずただ静かに時が流れる。本を読む者、寝ている者、小さく談笑する者。目的地までの一時を思い思いに過ごす乗客達。黙って車窓を眺めるトーリスもまた、そんな空間にひっそりと溶け込んでいた。
    「特急で行けば早いのに」という両親の言葉を無視して鈍行列車に乗り込んでいるのは、年頃の僅かばかりの反抗心と、あとは単純にこの車窓からの景色を思いの外気に入っているからかもしれない。夏らしい、いっそ青すぎるほどの青空と逞しく育った入道雲を背にどこまでも広がる小麦畑。都会の景色とは全く違うそれを自然と「綺麗だ」と思うのは、かつて自然の中で生きていた人間の名残だろうか。
    夏の間、田舎で暮らす祖父母の家へ遊びに行くのは毎年恒例で、幼い頃は楽しみにしていたそれも今となってはただの義務でしかない。実家に居ても特別することはないけれど、それでも、友人もいない、何もない田舎へ赴くのは、15そこらの少年には些か退屈だった。虫取りや川遊びに一日を費やしていた幼い頃には戻れない。涼しい部屋の中で一日寝転んで、祖母の少し古臭い味付けの料理を食べて過ごすだけの一週間だろう。
    田舎での生活を想像する度漏れ出る欠伸を噛み殺して、トーリスは再び景色に目を向けた。



    夕方、僅かばかりの街灯にぼんやりと照らされる駅にトーリスは降り立った。相も変わらず古びたベンチが置いてあるだけの田舎の小さな駅。街頭に群がる蛾も都会で見るよりずっと大きいような気がした。背後で列車の扉が閉まり、暗がりへと走り去るのを見送ってから荷物を肩へかけ直して歩き出す。やはり無人の改札を潜って外に出れば、鬱蒼とした林が広がっていて、その真ん中に駅よりも一層暗い道がまっすぐと延びている。幼い頃はこの道が無性に怖くて、祖母に手を引いてもらって歩いたものだ。もう一人で歩けるとは言え、多少の不気味さは感じる。鞄の紐をぎゅっと握って足早に歩を進めた。

    直に林を抜けるというところで、視界の端に建物が映り込んだ。何度も通ったこの道に、果たして建物などあっただろうか。幼い頃からの記憶を辿ってみても、思い当たるものはない。最近越してきた人でもいるのだろうか。けれども、こんな場所に家を建てたりなどするものか。
    その建物の異様性や不気味さよりも好奇心が勝って、トーリスは脇道へと入っていく。街灯もない道を月明かりだけを頼りにしばらく歩いて見つけたのは、小さな教会だった。何年も修繕されていないであろうその外観は、とても最近建てられたもののようには見えない。壁面の蔦や小さなひび割れが目に付いた。
    トーリスは敬虔なクリスチャンではないが、人知れずひっそりと佇むこの教会に興味が湧いた。どうせここに居る間特にやることもないのだ。明日はこの辺りを散策してみることにしよう。この場所を忘れないようにしっかりと記憶して、トーリスは足早に立ち去った。



    翌朝目が覚めたトーリスは、朝食もそこそこに昨日の教会へと向かった。夕方の林と違い朝日で葉がきらきらと輝くその空間は、教会の雰囲気とも相俟ってとても神秘的で、トーリスは思わず姿勢を正す。この場に本当に神様が居るのではないか、そんな風に思わせた。
    朝だからだろうか、昨晩は閉じていた教会の扉が開いており、中央祭壇やその奥の大きなステンドグラス、規則正しく並んだ長椅子が見える。中はこぢんまりとしていて長椅子もそれ程多くはない。だがその中でステンドグラスだけが、田舎の小さな教会にしては随分と風格のあるものだった。正面の壁一面を覆う色とりどりのそれは細やかなデザインと繊細な色遣いで、教会の床に鮮やかな影を映し出している。林の中の小さな教会に居るとは思えないほど幻想的な光景に、引き込まれるように中へ足を踏み入れると、一番前の右手の長椅子。色とりどりの光に照らされながらそこへ座る後ろ姿が見えた。まさかこんな場所に自分以外の人間が居るとは思わなかった。思いがけない先客に一瞬鼓動が跳ねる。
    その人物は、ただ静かに座って目の前のステンドグラスを見上げていた。こちらからでは表情は窺えない。ただ、切り揃えられた細いブロンドと華奢な肩口が見えるだけ。この空間が自分に幻覚でも見せているのではないかと疑うほど、その後ろ姿はこの空間に怖いくらいに馴染んでいて、いっそこの教会の一部なのではないかと思ってしまうほどだった。
    ゆっくりと歩を進めて彼女の反対側、一番前の左の長椅子に腰掛ける。中を見渡すふりをしてその横顔を盗み見て、瞬間息を呑んだ。なめらかにすっと通った鼻筋とツンと尖った鼻先。小ぶりな唇は赤く色付いて、滑らかな白い肌によく映える。そのどれもが魅力的で目を引いたけれど、中でも真っ直ぐと前を見据える瞳は別格だった。ステンドグラスに散りばめられたどの色よりも美しく朝日を受けて輝く様は、正に宝石と言って過言ではない。こんなに綺麗な人が居るのか、トーリスは純粋に心からそう思った。
    「・・・なんよ」
    突然、静か過ぎるほど静かだった空間に音が響く。視線の先、ぼんやりと魅入っていた相手が訝しげにトーリスを見て口を開いた。
    「お前、俺のことじっと見とるし」
    「えっあ・・・ご、ごめん」
    完璧な造形に嵌め込まれた対の宝石が、静かに、それでいて強くトーリスを見つめる。目が離せなくてじっと見つめ返せば、今度は少し困ったようにくしゃりと表情が歪んだ。とくり、とくり。鼓動が早鐘を打つ。じっと見つめてしまっていたことを謝らなければと思うけれど、それよりも。
    「えっと・・・君、男の子なの?」
    少女のように思えた後ろ姿。でもテノールのその声は、少女のようには聞こえない。
    「どっからどう見ても男に決まっとるし」
    「そ、そっか・・・」
    それだけ言って、再び教会はしんと静まりかえった。静かな空間に二人きりで、そこに会話は無い。些か気まずい空気が流れて、トーリスは穿いていたズボンを握り締めた。彼の方も居心地の悪さを感じているようで、もじもじと小さくなって、時折助けを求めるようにトーリスに視線をやる。
    「な、なんか言えし」
    先に痺れを切らしたのは彼―ブロンドの少年―の方で、少し上擦った声で早口にそう言うと、またきゅっと口を結んでしまった。次はお前の番だと言わんばかりにトーリスを見つめる。
    「えっじゃあ・・・・・・えっと、君の名前は――?」

    彼の名前はフェリクスというらしかった。年は十五。彼の言動から少し幼く見えたが、同い年だった。名字は無く、この教会の孤児だと言う。この教会に来る前の記憶は無くて、とにかく物心ついた時からここに住んでいるのだと。ということはこの教会はずっと前からあるようで、いつからあるのかと訊けば「知らない」の一点張り。神父様が居るのかと訊いても「そうかも」なんて適当な答えしか返ってこなかった。
    どんな質問をしても暖簾に腕押し。フェリクスに関する情報はこれ以上のものはなくて、教会の謎も深まるばかり。ただ、毎日ここで祈りを捧げていることは教えてくれた。

    「フェリクスは明日もここに居るの?」
    「うん」
    「・・・明日も会いに来ていいかな?」

    不思議な教会で出会った不思議な少年。トーリスは、そんな彼に少しずつ心惹かれていることを感じていた。



    次の日、トーリスは言葉通り再び小さな教会を訪れた。
    昨日見た光景が未だ信じられず、今日行ったらそこに教会は無いのではないか、そんなことを考えながら林の中の脇道を進んで行けば、そこには当たり前のように昨日と変わらぬ姿の小さな教会がぽつりと建っていた。開け放たれた扉を潜ると、昨日と同じ一番前の右の長椅子に静かに座っているフェリクスが見える。トーリスが声をかけるより先にフェリクスが振り返り、笑って口を開いた。
    「本当に来たし」
    フェリクスは完璧な造形をくしゃりと崩して子供のように笑うと、隣に座れと手招きしてトーリスを呼んだ。
    「会いに来るって言ったでしょ」
    「嘘かと思ったし」
    「嘘なんてつかないよ」
    フェリクスの隣に腰を下ろしながら心外だという風にトーリスが言えば、フェリクスはまた笑う。それからトーリスの方へ体を向けてぐい、と顔を近付けると、その顔からすっと笑顔を消した。昨日と同様、静かに強く見つめられる。遠くから見つめるだけだった宝石が突然目の前できらきらと輝いて、予期せず近くなった距離にトーリスは思わず固まった。
    「なあ、なんで来たん?」
    「だから、昨日また来るって・・・」
    「なんでまた来ようと思ったん?」
    「そ、それは・・・・・・ここが綺麗だから・・・かな」
    君のことが気になって、なんて本当のことは言えない。それでも、トーリスをじっと見つめる宝石は、全てを知っているかのように澄んでいた。
    「ふぅん・・・な、学校の話聞かせてくれん?」
    興味が逸れたのか、フェリクスはす、と離れると追及をやめて突然話題を変えた。
    「え、学校?」
    「そう。俺学校行っとらんから」
    「そうなの!?」
    「だってこの辺学校なんか無いし。だから学校ってどんな所か気になるんよ」
    一般的な学校生活を送るトーリスにとっては、フェリクスが事も無げに告げた事実は衝撃的だった。都会で生活するト―リスの周りには、同世代で学校に行っていない者はあまり居ない。これくらいの年齢から社会に出て働く者も居ないわけではないが、かなり稀な部類だ。困惑しているトーリスとは裏腹に、フェリクスは待ちきれないように足をパタパタと動かして再び笑顔を見せた。
    「普段学校で何してるん?」
    「勉強、かな?」
    「他には?他の事はせんの?」
    それは望む答えではないと言わんばかりに、トーリスの答えに対してフェリクスは喰い気味に質問を重ねる。言われて、トーリスは自身の学校生活を思い起こした。
    基本は毎日学校へ行って、席に座って授業を受ける。それがベース。特別親しい友人は居ないけれど、空き時間は席の近い奴と適当に話して、また授業。部活動もやっていないし、放課後は帰るだけ。勿論友人と寄り道なんてしたこともない。家では本を読んだり音楽を聴いたり、静かに過ごしていた。
    トーリスの学校生活には、恐らくフェリクスの望むものはないのだろう。友人との関わり、打ち込めるもの、素晴らしい思い出。自分のことをごく一般的な人間だと思っていたが、どうやら違ったらしい。自分は退屈な人間だったのだ。トーリスはそこで初めて、自身の生活に全く色が無いことに気付いた。
    「・・・どうしたん?」
    考えたまま黙り込んでしまったトーリスの顔を、フェリクスは少し心配そうにのぞき込む。形の良い眉がきゅ、と寄せられる。
    「なんか、俺には何も無いなって思ってさ」
    「何も・・・?」
    「うん。友達も、好きなことも、思い出も、何も無かったや」
    いい答えが無くてごめんね、そう言ってトーリスは弱々しく笑った。フェリクスはそんなトーリスをじっと見つめ返したかと思うと、突然相好を崩して笑い出した。
    「別に答えとかどうでもいいし。ま、お前がつまらん奴だっていうのはわかったけどな」
    一頻り子供のように無邪気に笑ってから、悪びれもせずそう口にしてフェリクスは目元に滲んだ涙を拭う。
    「でも俺つまらんのは嫌いなんよ。だから、この夏思いっきり楽しめばいいと思うんよ。そしたらトーリスもきっと変わるし」
    「そ、そうかな・・・」
    「んで、お前はいつまでここに居るん?」
    「・・・一か月くらい」
    再びトーリスに向き直ったフェリクスへ答える。当初の予定では、トーリスは一週間ほど滞在したら帰る予定でいた。祖父母への孝行のためならば、一週間も居れば十分だった。だがこの時気付けば、トーリスは一か月―夏休み中―ここに居ると答えていた。昨日この田舎町へ来た時には考えもしなかったことだった。
    「よし、この一か月俺とたくさん遊ぶし!」
    トーリスの答えに、フェリクスは嬉しそうに決めた、と言って再び眩しいほどの笑顔を見せた。笑顔と伴に握られた手はトーリスよりも幾分か小さかった。



    トーリスとフェリクス、二人で過ごす夏が始まった。
    とは言ってもここは何もない小さな田舎町で、周りにあるのは鬱蒼とした林とどこまでも続く広大な小麦畑だけ。できることは限られている。
    トーリスはフェリクスに会うため毎日足繫く教会へ通ったが、祭壇の前の長椅子で二人ただ談笑するだけの日がほとんどだった。フェリクスはトーリスの顔を見るなり取り留めのない話を始め、トーリスはそれに大人しく相槌を打つだけ。時折フェリクスは、チェスや見たこともないような古いボードゲームを持ってきたが、めちゃくちゃな自分ルールで、ゲームとして成立する方が稀だった。
    そんな中、ある朝トーリスが教会へ赴くと、珍しくフェリクスが扉の外で立っていた。立って何かをしているということはなく、どうやらトーリスを待っていたようだった。
    「どうしたの?珍しいね、外にいるなんて」
    トーリスはここへ来て初めての出来事に、率直な感想を述べた。いつもはあの一番前の右の長椅子に座ってトーリスを待っているというのに、今日は外で待っている。どういう風の吹き回しなのか。
    足元の小石を見つめるばかりだったフェリクスがその声に顔を上げた。
    「今日はちょっと歩かん?」
    フェリクスは内緒話でもするかのような小さな囁きでそう言い、下を向いていたことで頬にかかった髪をそっと耳にかけた。上目にトーリスを見つめるフェリクスは、普段の可愛らしい雰囲気とは違った艶やかさがあった。そんなフェリクスを前にして何も言えずにいるトーリスを置いて、無言を肯定ととったのかフェリクスは先に行ってしまう。慌てて追いかけたトーリスを、フェリクスはくるりと向きを変えてじっと見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
    「綺麗?」
     突然その小さな口から零れた言葉は果たして何を指しているのか。この空間の中で綺麗な物と言えば、教会か、それともこの景色自体だろうか。でも、一番綺麗なのは・・・。トーリスの中には確固たる答えがあった。
    「うん、綺麗だね・・・」
    何についてかは言及せずに、トーリスは同意だけを示した。それでも、フェリクスの澄んだ宝石に自身の心の中を見透かされているように感じて、思わず目を逸らす。
    「だよなー。俺、朝の林って結構好きなんよ」
    トーリスの言動を気にした素振りも無くそう言って、フェリクスはまた前を向いてどんどんと進んで行ってしまう。要らぬことを口にしなくて良かったと安堵する間もなく、土地勘のない場所に置いて行かれぬようトーリスはフェリクスの後を追った。
    「フェリクスはよくこの辺歩くの?」
     隣に並んで歩きながら、今度はトーリスの方から話題を振る。
    「あんま外出ないんよ。いつもは窓から見とるだけだし」
    フェリクスは自身のことをあまり多くは語らない。現にトーリスがフェリクスについて知っていることは必要最低限のことだけで、こうして聞かない限りそれ以上のことを知る機会は訪れないだろう。ならばこの期を逃す手は無い。
    「俺と会う前は毎日何してたの?」
    「んー何もしとらん。毎日お祈りしとっただけ」
    「神父様って勉強教えてくれたりしないの?」
     質問を重ねる。
    「んー・・・・・・あ、蝶々だし!」
    会話を遮って突然フェリクスが走り出した先には、道端の小さな花に止まる一匹の揚羽蝶。翅をゆっくりと開閉させながら吻を伸ばして花蜜を吸っている。ひらひらと飛んだかと思えば花から花へ優雅に舞う姿は綺麗だ。けれど、幼い頃手を伸ばして触れていたその生き物に、トーリスはもう触れたいとは思わなかった。あんなに夢中になって一日中追いかけ回していたのに、今となっては近くで見るのは少し気持ち悪いとすら思った。そうやって立ちすくむトーリスを放って、フェリクスは蝶に近付いたかと思うと、その繊細な手の中に繊細な生き物をそっと閉じ込めてしまった。
    「うわっ」
    トーリスは思わず目を逸らした。
    「なんよ」
    嫌悪感を露わにしたトーリスの声に、フェリクスはじとりと視線をやる。その小さく細い手の中に蝶を携えたまま、じりじりとトーリスへの距離を詰めた。
    「虫苦手なん?」
    トーリスの目の前まで来て足を止めると、宝物でも仕舞いこんでいたかのようにゆっくりと慎重に手を開いてみせた。開かれた先手の平の上には、つい先ほどまで自由に空を飛び回っていた蝶が、じっと止まって動こうとしない。人の手に触れられて弱ってしまったと言うよりも、まるでその場所を気に入って翅を休めているようだった。
    「ほら、綺麗だし」
    トーリスの反応を窺うように見上げる瞳は、やはり光を受けてきらきらと輝いて、確かに綺麗だと思った。
    「虫はな、凄く凄く神秘的なんよ」
     フェリクスはトーリスから蝶に視線を落とし、ぽつり、ぽつりと話し始める。
    「幼虫から蛹になって、蛹の中で一回ぜーんぶ形が無くなって、そんで全然違う形になる。でも皆同じ形に模様なんよ。それって、マジ凄いことだと思わん?」
    静かにフェリクスの話を聞いていた揚羽蝶が手の平から飛び立ち、己の姿を見てくれと言わんばかりに二人の目の前を飛んでみせた。重力など感じさせずに、文字通り自由に空を舞い踊る揚羽蝶。その姿越しに、トーリスはフェリクスを見た。
    「フェリクスの方が、ずっと神秘的で綺麗だよ」
     ステンドグラスに照らされる君も、けらけらと笑う君も、その繊細な指先で蝶を慈しむ君も、その全てが神秘的で綺麗だった。
    「はあ?」
    トーリスの突然の言葉に、フェリクスは表情を歪めて呆れたように返した。その反応に、トーリスの全身の毛穴から汗が噴き出す。
    「あ、いや、その・・・違くてっ・・・・・・」
    咄嗟に手を挙げてトーリスは一歩後退る。未だ表情を歪めたままトーリスから視線を外さないフェリクスは、呆れているか、怒っているようにも見える。または嫌悪感を抱いているようにだって見えなくはない。とにかく負の感情であれば、なんだって当てはまるような気がした。
    つい、本当に無意識にトーリスはそう口にしていたのだ。トーリス自身も予想していなかった言葉だった。だが、それが本心なだけにフェリクスの反応に生きた心地がしない。だって、今日朝顔を合わせた時から、あるいは出会ってからずっと思っていた。彼を、綺麗だと。
    「・・・それ、どういう意味なん?」
    また、フェリクスはあの宝石でトーリスを簡単に縛り付けてしまった。じっと捕らえて放さない強い視線が、トーリスの心の内を覗こうとしている。
    「・・・・・・嘘なん?」
    何も答えず固まったままのトーリスに痺れを切らしたのか、先ほどよりも一層呆れた声音でため息交じりにフェリクスはぽつりと零した。そのままトーリスからふ、と視線を外した瞳にほんの一瞬落胆の色が滲んだ気がして、トーリスは慌てて口を開く。
    「嘘、じゃ・・・ないです」
    嘘ではない。嘘偽りの無い真実だから。だから、嘘だったのだと思って、悲しんでほしくなかった。
    その言葉にぱっと顔を上げたフェリクスが、無防備にもトーリスへ一歩身を寄せる。もう少しで胸と胸が触れてしまいそうな距離。フェリクスの、剥き出しの丸い額が近い。
    「俺とキスしたいとか、思ったりするん?」
    「いや、それは・・・」
    「なんだ」
    「し、したいけど・・・」
    「ならいいし。ほら」
     なにやら一人で満足したらしいフェリクスが、目を閉じて唇を少し突き出す。まるでキスされるのを待っているかのようなそんな態度に、トーリスを縛り付ける宝石は隠されているというのに、体が固まって指一本動かすことができなかった。
    「・・・?しないん?」
    「・・・・・・します」
    目を閉じたまま至極不思議そうに呟いたフェリクス。その華奢な肩へ少し迷ってから手を添えて、浅く息を吸い込んで止めた。
    「っ・・・」
    けたたましい蝉の鳴き声や風が木々を揺らす音、ほんの少し前までトーリスの聴覚を支配していたそれらの音が、今はとても遠くに聞こえるような気がした。鬱蒼とした林、周りから隔絶された空間の中、木々の隙間から僅かに差し込む光だけが二人を照らした。今この瞬間トーリスの世界に存在するのは、確かに自身とフェリクスの二人だけだった。
    トーリスは目を閉じて、ゆっくりと顔を近づける。失敗はできない、慎重に。
    フェリクスがどういう想いで今こうして唇を差し出しているのかはわからない。ただの気まぐれかもしれない。ただ、そんな偶然の産物だとしても、そこにつけ込むくらいにはトーリスは人並みに狡い人間だった。
    目の前にあるはずのフェリクスの顔がとても遠い。それでもようやく唇に柔らかな感触を感じた瞬間、トーリスの世界から全ての音が無くなった。代わりに、心臓が耳の横で五月蠅いくらいに脈打って、頬がじわりと熱を持つ。フェリクスと居る時、トーリスの心臓はいつも忙しなく動いていて、もしも人の一生分の心拍数が決まっているのだとしたら、この夏でトーリスの寿命は尽きてしまうかもしれない。ただ、それでもいいとすら思えた。目の前の少年に奪われるのなら死んでも構わない、そう思うほどには夢中になっていた。
    「・・・な、なんか慣れてるね、フェリクス」
    やっとの思いで触れた唇を離してフェリクスを見れば、何でもないといった風に澄ました顔をしていた。ドキドキと落ち着かない気持ちにさせられているのはトーリスの方だけで、フェリクスにとってこの行為は大した意味を持っていないように見える。それを見て、言外に、初めてではないのかと尋ねたつもりだった。
    「なんで?初めてだし」
    「そっか、なんかごめん・・・」
    「え、なんよ?」
     トーリスにとってはフェリクス、好きな子と、それも初めてのキスをするなんて口から心臓が飛び出してもおかしくないほどの行為なのに、フェリクスにとってはそうではないらしい。勿論感じ方は人それぞれなのだから同じような感情を強制することは良くないけれど、少しくらい意識してほしかったと思うのは我が儘なのだろうか。
    「なに拗ねとるんよ」
     フェリクスは黙り込んだトーリスを揶揄うように笑っていたが、そっとトーリスの手をとると自身の胸にあてた。
    「俺だって普通にドキドキしとるし、な」
     シャツ越しに感じる柔らかな体温とフェリクスの鼓動。トーリスのように五月蠅いほど暴れているわけではないけれど、それでも普段と変わらないと言うには少し速い。
    「キスなんてしたことないし。お前が初めてだから・・・」
     胸にあてられたトーリスの手をフェリクスがぎゅ、と握った。トーリスを見つめる人形のように綺麗な少年。目の前の彼は、世界でたった一人トーリスが初めてのキスを捧げた相手だった。
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