無題 岩神――「岩王帝君」がこの璃月にすべてをもたらした。璃月の人間であれば、信心深い者でなくとも誰だって知っていることだ。そう、港町を駆け回る、小さな子どもであっても。
この国を実質的にまとめあげる「璃月七星」の秘書である甘雨は、今日も変わらない一日を月海亭で過ごした。仕事も一段落し、甘雨は豊かな水色の髪を櫛でそっと梳く。それから鏡に映る自分と数秒見つめ合い、そのままの足で街の雑踏へ。
夜の街は昼間ほどの活気は無いが、それでも多くの人々が行き交う。その大半が岩神を「岩王帝君」と呼び、敬っている。この街が今の姿であり続けているのも、岩王帝君のお陰であると。当然、甘雨もそう考えている。
甘雨はゆっくりと歩いた。特にあては無い。夕餉も簡単にではあるが済ませているし、買わねばならないものも特に無い。無意味な散歩のように思えてしまうかもしれないが、このようなこれといって目的のない散歩が甘雨は好きだった。遠く、遠く、離れた昔から。理由は簡単だ、そういう時は思考の全てを岩王帝君へ向けることが出来るから。
どれだけ歩いただろうか、甘雨はふと足を止める。それから空を仰ぐ。璃月は大変に明るい街。星はさほどたくさん見つけられない。だが、それでも美しく甘雨の目には映る。それはきっと岩神が愛した地だからなのだと彼女は考える。璃月にすべてをもたらしたのが岩王帝君であるのなら、あらゆるものは彼に結び付けられる。
「帝君……」
ぽつりと落ちる声はやや掠れ気味だ。甘雨が人間たちに混じって生きるようになって、長い時が流れている。それでも彼女の身体に流れている仙人としての血はその色を保ったまま。それもすべてが岩王帝君に繋がる糸。
運命などは知らない。だが、それが神の手で傾けられる天秤であるなら、甘雨はどんなに冷たい運命でも、拒まないと固く誓っている。星が落ちようとも、海が割れようとも、大地が嘆こうとも、甘雨の信仰は奪われない。甘雨は言う、岩王帝君の決定、それこそが自らの決定であると。世界は彼の手でからからと廻り続けていると、彼女は考えているのだ。彼の織り成す糸がどんな色をしているのかなどは関係無いのだ。
――やがて今日という日は沈み、明日が来る。甘雨はその度に祈る。岩王帝君へ、幾千、幾万、幾億と紡ぎ続ける時の中。