七海の出戻りが解釈違いな元カノの話 3任務先で祓いきれなかった呪霊の返り血をシャワーのように浴びてしまった後の、バケツをひっくり返したような雨は私にとって救いだった。吐瀉物のような臭いが漂う呪霊の返り血に比べれば多少の酸性雨なんて聖水みたいなものだ。特に酷い上半身に存分に雨を浴びて、ずぶ濡れ状態で補助監督と合流するとフイと目を逸らされた。
露骨に拒絶されて傷付かないわけではないけれど、今の自分の汚さを思えば仕方がない。まだニオイが残っているのかもしれない。早く暖かいシャワーを浴びたい。ずぶ濡れのまま高専の高級車に座るわけにいかず、トランクを開けて何か敷けそうなものを探しているとちょっとびっくりしてしまうような大きさの声で「あの!」と声を掛けられた。
「びっくりした……。なに?」
「これ!よかったらどうぞ!」
「あー……、うん。ありがとう……?」
差し出されたのは車に常備されているバスタオルだ。これも探していたしありがたいけれどそんなに顔を赤くするようなことだろうかと疑問に思っていると、続いて彼のマウンテンパーカーを差し出されてさらにハテナが頭を埋める。
「着てください!」
「え、いやいいよ。そんなに寒くないし」
「着て!くだ!さい!」
「えぇ……?濡れるよ?」
「いいです!」
「そ、そう……」
貸してくれるならありがたい。強がってみたけれど本当はしっかり寒い。なるべく濡らさないようにとシャツを脱ごうとして気が付いた。そういえばシャツの下は下着だ。キャミソールなんかではなく、ブラだ。しかも黒。彼の様子から察するに透けていたっぽいな。あー、恥ずかしい……。ありがたく拝借して、ずぶ濡れのシャツを脱ぎ捨ててパーカーを着た。
「……待たせてごめん、ありがとう」
「いえ!!出発!!します!!」
「はい、お願いします」
▽△▽△
補助監督入れ替えの都合上、任務と任務の間に一度高専に寄らなければならない日だった。七海との任務以来、前ほど極端には高専を避けないようになっている。とはいえ高専に行く度必ず"バッタリ"遭遇する七海に真っ直ぐ睨みつけられながら「お疲れ様です」と挨拶されているのがかなり不愉快だ。今日は車で待ちたかったけれど、どうせ高専に寄るなら一度着替えたいし、せっかくならシャワーを浴びたい。ロッカールームに歩いている最中に七海の「お疲れ様です」が聞こえたけれどいつも通り「ン」とだけ返して顔は上げなかった。
普段ならそれで済むのに、今日は進行方向に割り込んで足止めされた。顔なんて見たくないから窓のサッシを見ながら「何?」と言うと「どういうつもりですか」と質問で返された。ロクに挨拶を返さないなんて今に始まったことじゃないのになんだっていうんだ。「別に何も」と返して七海を避けて通ろうとしたのにまた阻まれる。
「なんなの」
「誰の服ですか」
「知らない」
「盗んだんですか」
「借りた」
「どうして」
「うるさい」
「貸すと言われたんですか」
「そうだけど」
「どうしてそんなものを着ているんですか」
「うるさい。どいて。早くシャワーを浴びないと風邪ひく。寒い」
「……」
立ち塞がっていたのをやめたものの当然のように隣に並んで歩いて服の持ち主をジャストで特定してくる。そして「彼のことが好きなんですか」と追撃。でも無視だ。好きじゃないけど答えてあげる理由もない。ていうかなんでわかるんだろう。誰と任務に行くのか知っていたのかな。だとしたらどうして知っているのか。漏らしているのは誰だ。
「彼氏でもないくせに束縛する気ですか?」
「……束縛なんかしていません。ただ、男性の服を借りるなんて社会人として」
「緊急で借りただけなのに特別な意味なんかあるわけないでしょ。それとも透けブラしたままの方がよかった?」
「透……、」
「善意で貸してくれただけなのになんでそんなキレて、んぐ」
後ろから両腕を掴んで後ろに引っ張られた。多少鍛えた程度の体幹なんて筋肉質な男性の腕力に勝てるはずがない。倒れこむように七海にもたれる羽目になり、慌てて姿勢を立て直そうとするのに二本の太い腕がそれを拒む。ここをどこだと思っているんだ。なんで職場でこんなことが出来るんだ。
「どうしてですか」
「どんだけ品の無い女と付き合ったら職場でこんなことするようになるの?」
「今は誰も見ていません」
「モラルの問題でしょ。早く離して。私に触らないで」
「相手が自分に対してどんな好意を抱いているか、もっと考えて行動してください」
「じゃあもうお前とは二度と会いません」
「私ではなく」
「彼が私のことを好きだったらなんだっていうの」
「私の想いを知っていてよくそんなことが言えますね」
「そんなもの知りませんけど」
「……ああなるほど、確かに口にしたことはなかったですね」
脇の下から通した腕が私の首を固定して、もう一本はジッパーに手をかける。まずい。七海が察しているのかは知らないけれど、この下は下着だけだ。
「な、何する気、」
「私はずっと貴女を愛しています」
「!?……ちが、知らないってそういう意味じゃ、」
「別れてからもずっと貴女だけを心の支えにしていました。貴女を置いて行った負い目があるから今は大人しくしていますが、私の隣には貴女以外考えられないですし、貴女の隣に私ではない男がいる姿なんて反吐が出るんです。打たれても無視されても嫌われても私だけとは仲良くしてくれなくても、貴女のことを嫌いになれません。ずっと貴女だけを愛しています。他の男なんてみないでください。せめて私の前だけで構わないので……」
ジジ、と下げられたジッパーによりデコルテラインが露出したことで、垂れ流されていた重量のある言葉がピタリと止まった。
「……何故服を着ていないんですか」
「ずぶ濡れになっちゃったんだからしょうがないでしょ」
「男から借りた服を素肌にまとうな」
「うるさいうるさいうるさい!早く離してよ!」
真後ろの七海が気付く程度の露出というのは、正面から見るとかなりとんでもない露出になるのだ。高専の廊下でなんてことしてくれたんだ。誰も見ていないけど許せるわけではない。恥ずかしさと嫌悪感と脳裏を巡る残響のせいで必死になって暴れる私の肩に七海ががぶりと噛みつく。痛みで動きが止まった私の首筋に、七海はゆっくりと痕をつけた。見なくても、数日残るくらいの濃さだとわかる。
「最低……。……いつになったらシャワーを浴びさせてくれるの。風邪引いたらどうしてくれんの。もう嫌、本当に大ッ嫌い」
「……引き留めてすみません」
拘束する腕の力が弱まった隙に抜け出してジッパーを上げながらロッカールームへと飛び込んだ。七海はもう追いかけてこなかったけど、どろどろと流し込まれた言葉はいつまでも頭から離れなかった。