Good morning RED どのくらい眠っていたのか見当もつかないけれど、当初の予定通りに事が運んだのであれば数十億年ほど眠っていたのだと思う。このネジの抜けようを見れば、もしかするともっと長かったのかもしれない。
腕の中で一向におとなしくならない彼女を抱きしめたまま、途方もない時間をかけてまた巡り逢ってくれたことに安堵して、クロはゆっくりと細く息を吐き出した。
何十億年もひとりにしてごめん。そしてありがとう。
再度強くアカを抱きしめたあと、拘束を解いた。
「よし」
「は? なに? なに勝手に納得してるの? よくわかんないんだけど! 私の唇奪っといてどういうつもりよ!」
「別にファーストキスじゃないだろ」
「なんでそんなことお兄さんが知ってるわけ⁉ 信じらんないっ! セクハラって知ってる?」
「はいはい。でもしょうがないんだって。約束だったのにしてくれなかったから」
「約束? 私そんな約束した記憶ないんだけど……」
「うん。いいよ、俺が覚えてるから」
「さっきから全然意味わかんない! 絶対頭おかしいのお兄さんの方だと思うよ?」
「そうかもな」
クロはゆっくりと立ち上がって背伸びをすると、肩や首をコキコキと鳴らして身体をほぐしていく。仮死状態だったとはいえ数十億年メンテナンスもされずに放置されていた身体である。ガタがきていたら大問題だ。あちこち折り曲げたり伸ばしたりしたあと、最後に足首をくるくると回して唯一光が差し込んでいる洞窟の入り口を見た。
「アカはあそこから入ってきたのか」
「そうだけど……なんで私のことアカって呼ぶの? 誰かと勘違いしてるんじゃないの?」
「じゃあ名前は? なんていうの。教えてよ、いまの名前で呼ぶから」
「そ、れは……思い、出せないんだけど……」
「じゃあアカでいいじゃん」
「そうだけど、お兄さんにつけられたのがなんだか癪っていうか……」
ぶつぶつ言っているアカの手を引いて、クロはゆっくりと光の方に向かって歩き出す。仮死状態のおかげで目覚めの感覚は一晩ぐっすり眠った程度のものだったけれど、それでも歩き方はこれで合っていただろうかと不思議な感覚に陥る。自身の足の裏が硬い大地をとらえる感覚が、妙に懐かしい。
洞窟の外に出て、数十億年ぶりの日光に全身を浸す。このまま灰になって溶けてしまうのではないかと錯覚するほど、降りそそぐ太陽の光は眩しい。仮死状態になったころの太陽とは大違いである。
そしてこの燦燦と輝く太陽を取り戻してくれたのは、間違いなくアカなのだ。
クロは握っていた手を一層強く握り込む。
「いった! ちょっと痛い痛い! お兄さん⁉」
「ああ、ごめんごめん」
「さっきからなんっなの⁉ いい加減怒るよ!」
「マジか。ていうか本気で怒るところは初めて見るかもな……ちょっと怒ってみてよ」
「……変態さんだったの?」
「違うけど」
見つめ合って、それからゆっくりとクロの手がアカの眼帯に伸びる。紐の下にするりと中指を滑り込ませて、少しだけ眼帯を浮かせたけれど、アカはなにも言わずにクロの瞳を見つめたままだった。
「いまもこっちに着けてんだな」
「私眼帯のことお兄さんに話した? 話してないよね?」
「何回付け替えたの?」
「そんなのもう覚えてないけど……」
「そっか」
「なんでお兄さんが悲しい顔するのか私わかんないなぁ~」
「悲しい顔してた?」
「うん。してる。なんていうの? 百面相? してる。そんなに表情変わらないけど、私わかるんだぁ。ずーっと人間見てきたからさ、そういうのわかっちゃうの」
「ずーっと?」
「うん、ずーっと! 人間がこの世界に生れたときからね! あっ、人間の前には動物がいて、恐竜っていうでっかいやつらもいて、それから、それから……」
そう言ってアカは自身の腕を大きく広げて見せる。太陽の光を背中に受けてアカの髪はきらきらと煌めき、透き通るような白い頬はうっすらと桃色に染まっている。そして、まるで宝石をはめ込んだような左目は、真っ直ぐにクロを見つめていた。
「……ハハ、神さまみてぇ」
「ん? なんて? お兄さんなんか言った?」
「すげェ別嬪さんだなって」
「だからそれセクハラだよぉ⁉ いまの時代そういうの厳しいんだからね!」
アカはそう言いながらも別嬪さんと言われたのが嬉しかったのか、自身の頬に手を添えて今度は林檎のように赤くなっている。
「それよりさ、お兄さんじゃなくてクロって呼んでよ」
「クロ? それがお兄さんの名前?」
「そう。もう、そうだな……多分数十億年くらいこの名前」
数十億年というワードに、アカの表情が僅かに曇る。
「ひょっとしてお兄さんも、死なないの……?」
アカのその言葉は、自分が不老不死であるのだと恐るおそる告げていた。
あのときの約束なんて記憶の彼方に消えてしまうほど途方もない時間を過ごして、自分の名前も、神さまであることも、クロのことも全部忘れてしまった。
それほどの長い時間、たった数週間一緒に過ごしただけのクロと再び巡り逢うために地球を作り替え、ずっとひとりで生き続けてきたのだ。
それでも、
「死ぬよ。人間だから。予定ではあと八十年くらい生きて、それで死ぬつもり」
「そうなんだァ……人間の寿命って短いよね。神さまはなんでそんなふうに作っちゃったんだろう」
「さあ。でも多分神さまも知らないと思うぞ」
「そうなの?」
「うん」
「そっかぁ……自分で作ったくせに、変だよね」
「そういう理由も全部忘れちまうくらい、長い時間生きてんだよ。神さまてやつは」
クロはアカの頭に手を乗せると、そのままぎこちなくぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。痛い! という抗議の声には耳を貸さなかった。
すべてを忘れてしまったとしても、すべてが変わってしまったとしても、今日という日は訪れた。
そして、これから過ごす日々はきっと、すべてが最高の一日になるに違いない。
「俺さァ、いまから幸せにならなきゃいけないんだよ。世界で一番幸せにしたい女の子のために」
「なんかあべこべでよくわかんないけど、幸せになるのは私、いいことだと思うなァ~。どうすればいい? 私手伝うよ? クロくんどうやったら幸せになる?」
「じゃあ参考までに教えてほしいんだけど、アカの幸せってなに?」
「私⁉ 私の幸せかぁ~……」
「うん。なんでもいいよ。俺に笑えって言うなら、笑うし」
「なにそれ意味わかんないけどおもしろそう」
「はっはっは」
「すっごい棒読みだ! でもおもしろい!」
「しあわせ?」
「ん? んー……多分、しあわせ!」
「そっか」
ふと、アカの顔に影が落ちる。触れるだけのそれはやっぱりどこか懐かしくて、どうしようもなく胸が苦しくなる。きゅーっと縮こまっていく心臓が、かすかに香る煙草の気配を追いかけるように走り出す。どっどっど、と音を立てるそれは自分のものだけではないのだと、本当は最初に気づいていた。
「……クロくんさ、顔真っ赤だね」
「……うるさいな」
「照れるならしなきゃいいのに」
「仕方ないだろ、したかったんだから」
「普通のひとはしたかったからでキスしないんだよ? わかる?」
「じゃあ普通のひとじゃなくていいよ。ていうかおまえにしかしないし」
「なにそれぇ~……クロくんと話してるとなんか調子狂うんだよなぁ~……」
「はっはっは」
クロは表情を変えないまま笑うと、胸ポケットの煙草とライターを取り出した。数回着火を試みたが、数万年どころか数十億年も経っているいま、煙草もライターも完全に使い物にならなかった。
「ねぇねぇ、それなぁに? もしかしてたばこ? ねぇ貸してかして! 私も吸ってみたい!」
「ダメ。ていうか使えない。あー……ニコチン吸いてぇな。アカ、この世界って煙草ある?」
「あるよ~」
「マジかラッキー」
「私も吸ってみたいんだけどねぇ~。この姿じゃ売ってくれないんだよね~」
「あー……そっか、地球復活してんだもんな。そりゃ俺意外に人間もいるか」
「人間? いるよ? この辺は山奥すぎてあんまりひとには会えないけど」
辺りに生い茂る木々はもう何年もここに根付いて森を育んでいるらしい。耳を澄ませると懐かしい電車の走る音がして、文明が随分と進んでいるのだと気づかされた。
「アカさ、ここってどこかわかる? もしかしてムー大陸?」
「ムー大陸? それって伝説のやつ? クロくんもしかしてそんなの信じてるの?」
「よしわかった。一旦忘れてくれ。とりあえず、ここがどこかだけ教えて」
「ここ? ここはイギリス」
「ほお。……じゃあさ、日本ってある?」
「日本? ある! あるあるある! 私ね、あそこ好きだよ~。景色とかきれいなところ多いんだよね~!」
「そっか。じゃあとりあえず日本行こう」
「クロくん日本に行きたいの?」
「まあ、そうだな。目下の問題はたくさんあるんだけど、とりあえず人間がいて俺が普通に生きてたころくらいまで文明が進んでるなら、日本が一番やりやすいかなって。まあ戸籍とかないけど……パスポートもないな。どうやって飛行機乗るかな。まあいいか生き返ったし。なんかいまなら全部なんとかなる気がしてきた」
「クロくんって楽観的だねぇ~」
「マジか。いままで生きてきて初めて言われたなそれ」
ただ咥えているだけの煙草をポケットの中に押し込んで、もう一度アカの手を取る。小さな指を絡めとって、簡単には離れないようにきつく、きつく握りしめる。アカは先ほどのように文句は言わなかった。ただ黙って、クロの横に並んでいる。まるで最初から自分の場所はここだったのだと自覚しているように、ただ隣に寄り添った。
「まあ、柄じゃないけど、俺頑張るよ。アカが毎日しあわせだーって笑ってくれるように」
そして俺が、最後にありがとうって、しあわせだったって君に伝えて死ねるように。
「あ、言い忘れてたわ」
「ん? なぁに?」
「おはよう、アカ」