凪砂についた香りに不機嫌になる茨────────
「凪砂くんも、興味があるならつけてみる?」
ふわり。
髪がゆれるたびに、私が歩くたびに、身にまとった香りが鼻腔を擽る。
オフの日、買い物帰りの日和くんと出会していつもと違う匂いがしたから尋ねてみると、「新しい香水を買ったんだよね!」と、手元を嗅がせてくれた。
日和くんによくあう、フローラルな香り。
(…厳密には、フローラルフルーティーなんだっけ。爽やかだけど上品な香り)
くん、と自分の手首あたりを鼻に近付ける。
(…日和くんと、同じ香り)
香水はつけたことがなかったから、実際つけてみることによってどう感じるのか。
香りによる作用はどんなものなのかと興味を持った。
尋ねれば日和くん曰く、好きな香りを身に纏えるのは、自分を演出する一部だと。この香りがぼくを思い出すきっかけになる、と言っていた。
以前、ブックルームで『五感の中で匂いを感じる嗅覚は、特に長く記憶に残る』『五感に強い記憶を残す』…そんな本を読んだことがあった。
たしかに、この香りが日和くんのものだと覚えてしまえば、脳は次からこれを感じるとすぐに日和くんを思い出せる。
現に私がそうだ。先程から日和くんのことばかり考えてるし、思い出している。
(…私も、何か自分だけの香水を買ってみようかな?)
それは単純な興味本位。
許可してもらえるかどうかは、分からないけれど。
「駄目です」
「………」
思いのままを伝えてみれば、笑顔で頷いて聞いてくれてたから良いのかと思ったのに、ぴしゃりとお断り。
想像していなかったわけではないけど、期待させる素振りをするのはどうかと思う。
「香りによるイメージ操作も悪くはありませんが、我々は別にファンとの距離がそれほど近いわけではありませんし。その香りを感じてもらう機会が少ないなら、わざわざつける理由もないかと」
「…私は、こうしたオフの日にたまにつけられたらそれでいい」
「う〜〜ん、合う香りを探すのって結構たいへんなんですよ?それによって人に与える印象も変わりますし。閣下にとっては良い香りでも、他者からすれば苦手、という場合もありますから」
むう。茨の言うことももっともだ、と思わず納得してしまった。
いくら公の場でつけないと言っても、寮や共有スペース、仕事の打ち合わせなんかで人と出会わないことはない。
それを考えられるようになった今としては、茨の言葉に頷く他なかった。
「……わかった、諦める」
「迅速かつ理解あるご判断、ありがとうございます!…時に閣下」
今回は仕方ない、と折れる。
私も納得してしまったから。
それなら、たまに日和くんに借りてみたりすればいいかな…。
そう考えていると、茨がデスクから移動して私の座るソファのそばにきた。
「…うん?」
「この部屋へ来た時からしている、貴方の体についた匂いは何なんですか?」
そちらを見遣れば、茨の顔からは表情が消えていた。
しかし露骨に不機嫌そうな態度を隠す様子もなく、私を見下ろす。
「…ああ。日和くんが新しく買ったという香水がいい香りだったから、つけてもらったんだ。それで私も欲しくなって、茨に聞きに…、…わっ?」
そして徐に私の足元へ膝をついたと思えば、香水をかけられた左手首をがしっと掴まれ、茨が自分のジャケットの裾で強く拭い始めた。
「……茨?」
突然の行動が理解出来ず、されるままにしばらく眺めていた。
つい名前を呼ぶと、ピタリと止まる。
そして匂いがうつったであろう裾を嗅ぎ、茨が眉を顰めた。
「───すみません、ずっと不愉快だったもので。僭越ながら拭わせていただきました。やっぱり、こんなんじゃ全然落ちませんね」
これが殿下の香りですか。と顰めっ面に茨が言う。
そしてジャケットを脱ぎ、テーブルを挟んだ向かいのソファにそれを投げ捨てそのまま窓辺に向かった。
「換気したいので、窓を開けますよ。少し寒いですが、我慢してください」
開けられた窓から風が入り込む。
それを感じて私の頭は冷静に判断した。
「……茨、もしかして私から日和くんと同じ香りがするのが嫌なの?」
これ以外に浮かばなかった。
他にないだろうと判断はしたが、しかしその背は何も答えない。
「……やきもち?」
もっと単純に伝える。
すると、茨がゆっくり俯いた。
「………自分の知らない香りがして、それが誰かにつけられたものだと知ったんですよ。そりゃあ心底ムカつきますけど。いけませんか?」
窓に置かれた手が拳を作る。
放っておくとガラスを割りそうなくらい、力がこもってるのが分かった。
ここまで嫉妬の感情をあらわに、というかそういったものを全くと言っていいほど出さないのに。
今回に関しては、よほど茨の逆鱗に触れてしまったようだ。
(…あの茨に、これほど感情をあらわにさせるなんて)
つい、「嬉しい」「可愛い」と思ってしまったけれど。
それを口にすればもっと怒らせてしまうことは目に見えていたので、私はなんとかそれを堪える。
今すぐに茨を抱き締めたくなった。
溢れる愛おしさを胸に、茨に近付い───
「あっ、すみませんが今は近付かないでください。近付きたければ早々にその香りを綺麗さっぱり無くしてきていただきたい」
「…………」
さっと振り向かれ、ぱっと距離を取られる。
「じゃないと、今にも窓ガラスをぶち割りそうなんです☆」
にっこり。
そう効果音がつきそうなくらいに笑っているように見えたけれど、目が笑ってない。どうやら見た目以上に怒っているようだ。
茨の怒りを鎮めるために、茨に触れるために。
(…ごめんね日和くん。茨に触れられないなんてこと、私、我慢出来ないから)
心の中で日和くんに謝罪しながら、時間をかけて私は、香りを落とすためにこの身をしっかり清めることにした。
♢♢♢♢♢♢
「…どうかな?もう平気だと思うけど」
「ええ!自分なんかのためにありがとうございます!本当ならこんなことを口にするのも許されないはずですが、いやはや。至らぬ自分をお許しください」
「…怒ってはいないよ。咎めもしない。大丈夫、私が茨に触れたくてしただけのことだから」
「───……っ、あの。…申し訳ありません」
「…ん?」
「自分でも、なんでか分かりませんが…殿下につけられた香りだと知った途端、感情の制御が上手く出来ず、閣下にとんだご迷惑を…」
「…いいよ。私ね、嬉しかったから」
「?」
「…茨があんなに感情をあらわにしてくれたことが。ふふ、茨もやきもち妬くんだね。可愛かった。好きだよ」
「今日のことは、全部忘れてください……!」
茨は本当にかわいいね。
終