無題星奏館のブックルームは、寮の施設のひとつにしては多種多様な本が室内に所狭しと並んでいる。初めて見た時、この中にどれだけ私の知らない知識や物語があるのだろうと胸を躍らせた。
寮へと移ってから暫く合間を見ては通い詰め、はじめは自身の趣味・好奇心の向くまま手に取って、一日中読み耽る日もあった。今まであまり目にすることのなかった娯楽漫画を、ジュンと読むことも増えた。(このことに関しては、茨があんまりいい顔をしないけれど)
利用する回数も増えていき、私の知識や好奇心はどんどん深まって広がっていくことを留めず、足繁く通わせる。
そんな折、ふと仕事に必要な雑学の資料もあると知るとそれがEdenの…茨の、役に立った。話すと驚きと感謝を茨から向けられた時、私は嬉しい、また喜んでほしいと自分の中に芽生えたささやかを胸に、新しく探してはそれを題材にし茨と交わす言葉と過ごす時間が増えていった。
そうしていくうちに私はわざわざ本を読むためのサークルに所属するくらいになり、今日もそのサークル活動中。朝から天候に恵まれ雲ひとつない晴れやかな空が広がったのもあり───私以外のメンバーはブックルームでなくガーデンで読書をするために出ている。
といっても、みんなで集まれたら読書はするが、いつの間にかお茶会にかわって賑わいだすことのほうが多い。創くんの淹れてくれる美味しい紅茶や、各々が持ち寄ったお茶菓子に舌鼓を打つのも悪くないが、今日は久しぶりに一日ゆっくり出来るオフ。私は心ゆくまで読書をすると決めていたから、みんなを見送り一人ブックルームに残った。
「……えぇっと、これに関連する文献は……、あった」
それから───どれだけ時間が経ったかは分からない。
読みたい本をテーブルに持って行って、読み終わったらまた探して戻る、という行動が億劫でいつからか本棚の前で読み耽っていた。おかげで普段より捗った気がする。
考古学や鉱石、歴史などの私が元々好む種類の本は他よりちょっと少なくて、茨に頼んで持ってきてもらう量ばかりが増えていった。それに気付いたつむぎくんが私の希望を聞いて取り揃えてくれた時は、茨も普段より多くの感謝を述べていたっけ。
そしてそれらは私の身長すら超える本棚に、綺麗に背を揃えて並べられている。中から一冊を、手を伸ばして取った。関連文献として選んだのは、とある海のほとりにある洞窟から出た文書の発見から、現代に至るまでの数々の作業を踏まえた、複数原語からの翻訳をされた書籍。本文の背景にある歴史的事柄な触れているもので、特有の言葉・考え方などについて解説が載っていた。
…なるほど、興味深い。
私はひとつひとつを読み解くために思考を巡らせ、文字を追うのにひたすら熱中した。
*
「閣下、こちらでしたか。読書中に失礼致します。少々よろしいですか?」
「───……え、茨?」
文献の内容を解きほぐし、ある程度を理解出来たところにふと、室内を歩き回り段々と私の方に近付いてくる足音に気付いて顔を上げた。それと同時、ひょこ、と本棚から顔を出した思わぬ来客に驚いてしまった。
「そのままで結構ですよ」
思考が戻りきらぬうちに、視界に認めただけで気の抜けた返事をした私を見て、どこかほっとしたように微笑んだ茨。
ちらりと室内に備え付けの時計へ目を遣ると、針は15時をまわったところ。まだ仕事をしている時間のはずなのに、何かよほどの急用だろうかと首を傾げた。私の様子から察した茨が向かいにやってくる。
「先程、つむぎ陛下と偶然お会いしまして。閣下が午前から一人でブックルームにこもりきりだから、様子を見てほしいと頼まれました」
「…つむぎくんが?」
「はい。その陛下はどうも急を要する用件の対処のため、これから事務所に行かねばならないとのことで自分がこの大役を引き受けた次第です」
「……そうなんだ」
何やら誇らしげに胸を張る茨を微笑ましく横目に見遣り、私は顎に手を添えサークル──ビブリオンのみんなと別れる前、午前の記憶を思い返す。確か、集まった時につむぎくんは今日はオフだから、ガーデンでのんびり読書をしながらお茶を飲むのが楽しみだと言っていた。
今までにも突然仕事が入って、活動の時間を惜しみながら走り去っていく彼を見たことはあるけれど、今日は場所が離れていたのもあって見送ることも出来なかったようだ。
「…つむぎくん、残念だろうな。たまには一日ゆっくりしてもらいたかったけど、仕事なら仕方ないね」
忙しい彼を思うと、私では到底窺い知れない苦労に簡単な労いを返事するしか出来なかった。今度、彼が好みそうな題材の書籍を薦めてみよう。席を用意してもてなすのも良いかもしれない。友人のための思案は、次いだ茨の言葉で途切れる。
「ええ、本当に!陛下も常にお忙しい身でいらっしゃるというのに、休暇よりこうしてサークル活動にも積極的に参加されていて…いやはや、自分も見習いたいものです!」
「……うん」
いつも通りの快活な茨を見て、話す言葉が本心かどうかはさて置き──茨も人のことを言えないでしょう、と言いたくなったのを少し飲み込む。
仕事に学業に、経営に。数々をその身で担い、人に見えないところでも頑張っている茨。
(…いつか、本当にふと。私の視界から消えてしまうんじゃないかと心配になる)
頑張っている、の度がすぎれば首根っこを掴むくらい強引に止めるという手段を取らざるを得ない場合もあるが、それはそれ。当時の対応は今と状況も違うが、もう無い機会だろうといつかの光景を思い出し隣で何やら楽しげに笑う茨を見て、私は気付かれないように小さく息を吐いた。
「おっと、申し訳ありません。陛下の心配よりも閣下のことですね。そもそも自分、お渡ししたいものがあって閣下を探していたんです」
手に下げていた紙袋の中から茨が取り出したのは、数冊の本とクリップでまとめられた紙類。出したそれらを私にちゃんと見えるよう広げてくれたので、少し覗く。
「以前ご要望をお聞きしてから取り寄せた書籍や資料などが届きました。本日の夕飯のあとに部屋まで持って行くつもりでしたが、陛下からの頼みを聞き入れるついでにも色々ちょうど良いかと思って、お持ちしました」
「…ああ、この前の…。すぐ用意してくれたんだね。ありがとう、茨」
言われて思い出す。広げられてる全て、数日前私が茨に欲しいと伝えた天文学、星座、惑星についてなどの資料たちだった。ブックルームに見当たらない本はもちろん、外へゆっくり買い物に出られない時ほど茨が取り寄せてくれることに助かっている。
加えて私が一番必要とするのが、茨がまとめてくれた文章、新聞や雑誌の切り抜きを貼ったスクラップブック。取り寄せた、といつも言う茨の発言に間違いはないが、正確でもない。
関連書籍、資料を全てを取り寄せた後、茨が自分でも目を通しては補足の情報を書き足し、歴史に特に関するものならきちんと時系列も考え、それらを丁寧にまとめて…と、とにかく私が読みやすいようにしてくれる。忙しい合間、ここまで手間を惜しまず尽くす茨にはいつも感謝が絶えない。
一人で見ているだけでは不足している部分を補え、私に添ってくれる。何ものにも代え難く世界のどこを探しても無い、私だけが手に入れられる貴重なものだ。
持ったままだった本を棚に戻している間に、紙袋へ再びまとめられた資料たちを受け取る。
「はい。また何かあれば遠慮なく自分に仰って下さい!」
「…うん、そうさせてもらうよ。自分で探すのも好きだけど、茨が持ってきてくれるものはどれも私の求める内容を的確に把握しているから…いつも助かってる」
──ありがとう。もう一度礼を告げて茨の頭に、ぽん、と軽く手を乗せる。一瞬目を丸くした茨も、私の行動には慣れたもののようですぐにまた笑顔を見せた。敬礼、のポーズもつけて。
「それは何よりです!もはや専門家よりも造詣が深くていらっしゃる閣下に、自分の選んだ物でご期待に沿うことが出来ているようで安心しました!」
「…何も心配することなんて無いのに。茨のくれたものが、いっそう私の知識を深めて好奇心を満たしてくれている。他の誰でもない茨が、私のために探して見つけてくれるから…それに触れられることで、こんなにも満たされるのだと私は実感しているよ。もちろん、本や資料だけの話ではないけどね」
数回、茨の髪を梳くように頭を撫でる。さらり、逃げるような指通りの良さとずっと触っていたくなる柔らかさがとても好きだ。
こうやって言葉で伝えるだけではなく、この掌からも私の想いが伝われば良いと瞳を、茨をじっと見つめて。
「………っ…。はい…」
居心地悪そうに目を逸らす茨。小さな返事を聞き取るとこれは不機嫌なのではなく照れ隠しだと分かる。可愛らしい仕草が愛おしくて、思わず口元が綻んだ。
(……とは言え、人目につきそうなところでこれ以上は、やめておいたほうがいいかな)
ふと周囲を目線だけで見回すが、人の気配は感じられない。私と茨の二人きりだ。だが棚で遮られていても開けた空間で触れ合うのは、そろそろ茨のお叱りが飛んでくるかもしれない。髪を一房すくって指に絡む暗紅が離れていったのを名残惜しく思いつつ、私は茨から手を離す。
踵を返し、まだ片付けきれず読み終わっているのに本を積んでいたそばのテーブルに紙袋を寝かせた。
「…この後は、すぐ仕事に戻るの?せっかく来てくれたから、時間があるならもう少し茨と話していたいけれど…」
言いながら振り返れば、私の顔を見た途端何に驚いたのか茨の肩がびくりと跳ねた。
それは、ほんの一瞬。しかし、茨はすぐに姿勢を正して、握った拳を胸に当てた。
「ぁ──か、閣下の、お誘いとあらば!お断りする理由などございません!不肖この七種茨、全身全霊をもってお相手させていただきます!」
(………?)
今の瞬間。
私ではない、他の人ならどう思ったか。
「……話してくれるだけでもじゅうぶんだし、そんなに畏まらなくて良いよ」
ほんの僅かに見えた茨の動揺。若干の拙さで話す声。どちらも気になる反応だった。
すぐさま茨の様子は、もういつもと変わらないものになってしまったから特に尋ねるのはやめた──…が。私の言葉をはぐらかしたわけでは無さそうだけど、普段通りに見せかけて不明瞭な発言に、今見た茨の態度で私の中に引っかかってしまった。
(……何か、隠しておきたいことがある…?)
私は顎に手を当て、そばの本棚へと向いた茨の背を見つめて軽く首を傾げる。
先程言っていたように、資料を渡すだけなら夕飯の時でも問題はない。私としては早く読めるに越したことはなく、茨に会えたのも嬉しい。
つむぎくんに頼まれた私の様子確認を足しても目的が達成された今、茨が仕事よりここへ留まるのを選んだ明確な理由が無いと感じられた。
「…ねぇ、茨──…」
「それにしても、相変わらずの蔵書の数ですね。いつ見ても天井まで埋め尽くしそうなくらいの数に、思わず圧倒されてしまいました!たまには自分も閣下に倣い一冊読んでみようかと思うのですが、閣下のおすすめなどはありますか?もしくは、仕事に役立ちそうな書籍があるようでしたら助かりますが」
私が口を開くと同時、茨が饒舌に話しだす。
「──あの、閣下?どうかしましたか?」
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