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「……私も一緒に作るって言ったよね」
「あ〜……えっと、はい…」
「……どうして一人でやってるの」
「アラームより早く、目が覚めてしまったので…」
「……………」
「ひっ!すみません、謝るので無言で睨まないでください!」
春の早朝。今日は一日雲一つなく晴れるため絶好の花見日和との予報通り、爽やかな朝を迎える──はずの、とあるマンションのキッチンでは。
目覚めから不機嫌な凪砂に睨まれてしまい、怯んだエプロン姿の茨が、持っていた菜箸を床に落とすほどに動揺する。
すぐに拾うことすら出来ないまま、正面から注がれる凪砂の鋭い眼光を浴びて硬直すること以外、茨には叶わなかった。
*
事の発端は日和だった。
日和が所属しているサークル『プリティ5』の面々と花見に行ってきたのだと、ある日の楽屋で嬉々として凪砂に話していた。
収録現場から楽屋に戻った茨がその場面に遭遇すると、突然凪砂に期待の眼差しを向けられて首を傾げる。
「…茨。私もお花見がしたい」
「───はい?」
と言ったこの返事は、承諾の意ではなかったのですが。
茨は全く話の意図が掴めぬまま、凪砂へ尋ねるより先に日和が「それならぼくが色々教えてあげるね!」凪砂へ言えばまた二人の世界に入る。
二人の向かいのソファには、すっかり帰り支度を済ませたジュンが、日和の腰が上がるまで退屈そうに待っていた。何の話かと聞けば、なるほど凪砂が興味を持つわけだと頷いて茨は納得した。
しかし、トップアイドルであるEdenの乱凪砂が、大衆に紛れて花見など言語道断。安全面も考慮して、茨はもちろんNOと言う他無いのだが──
「…ちょうど来週ある私たちのオフの日が、一番の見ごろらしいよ」
「…お弁当はなにがいいかな。日和くんのおすすめを買うのもいいけど…そうだ茨、私と一緒に作ろう?」
「…シートの上で寝転んでみたい。気持ちよさそうだよね、そのまま少し寝てしまうかも」
「うっ…………」
わざわざ行かずとも、ここに花が咲いている。
閣下の背後に満開の花々が見える。
眩いほどの笑顔を浮かべる楽しげな凪砂を見て、茨は何故か痛む胸を押さえ、言いかけた言葉をやっとの思いで飲み込む。
それを見ていたジュンに「これは断れませんねぇ〜?」ニヤニヤと揶揄われて、日和に「茨!きみはちゃんと、凪砂くんをめいっぱい楽しませることだね!」と命じられてしまえば。
「〜〜っ分かりました!自分がご一緒させていただきます!閣下の数々のご要望にも、最善を尽くしましょう!」
茨はやけ気味にだが今度こそ了承し、嬉しさのあまり抱き着いてきた凪砂にやれやれと溜め息を吐いた。
*
そして後日、二人で数時間に及ぶ話し合いの末に『自宅で花見をする』というものに落ち着き、迎えた今日。
「閣下、聞いてください。全部一人でやろうとしたわけではないんです」
「……だけど、ほとんど出来上がってる。どれも美味しそうだよ」
──弁明は通るのだろうか。凪砂を不機嫌にしたことから今日を始めてしまって、申し訳なさと心苦しさが茨の中に渦巻いた。硬直状態からなんとか言葉を絞り出すのが精一杯になるほど、先程の鋭さが消え、沈んだ様子の凪砂に慌てた。
凪砂の要望を出来る限りで叶えようとあれこれ決めた中の一つに、『一緒にお弁当を作る』がある。
だが、茨の中でこの項目は、凪砂に怪我の恐れがあるからどうにか避けたかったものだった。
アラームが鳴るより前に自然と目覚めてしまったのは本当。それ以前に凪砂には言わずに決めた時間よりも早く起きて、ある程度の用意はしてしまおうとこっそり決めていたのも事実。
「あ、ありがとうございます。少々張り切ってしまい……って、それよりもです。ここは危ないので、そろそろ離れていただきたいのですが…」
「……………」
「閣下〜?無視は良くないと思いますよ〜?」
凪砂の身を案じるばかりの行動が、見事裏目に出てしまった。きっと凪砂も分かってはいながら、それでも茨と何かを共にすることを楽しみにして今日を待った。
それを早々に茨本人から奪われてしまうとは予想しておらず、だからせめてこれ以上はさせまいと茨が硬直してる間にしっかりと抱き竦める。
結局身動きの取れない茨は、あとは盛り付けの段階まできてしまっていては最早弁明も何も無いかと一人苦笑した。
そばには空腹を誘う揚げたての唐揚げに、数々の惣菜や凪砂が特に気に入りの茨お手製玉子焼き…他にも茨が作った品々が、今日のために買いに行った重箱の中を彩るのを待っている。
(う〜ん、困りましたねぇ…。気付けなかったせいで、閣下の楽しみを奪ってしまうとは。どうしたら……)
二人で入ってしまえばすっかり狭いキッチンで下手に動こうものなら、まだ片付けもしていない食器類や包丁、更には熱された油もあって危険だ。
そうして困り果てた茨がふと落とした目線の先。そこにはやわらかく綺麗に巻かれた、艶やかささえある玉子焼き。
どれよりも丁寧に、いっそう凪砂を思いながら作ったそれを見て「そうだ」──ひとつひらめく。
「閣下。このままで構わないですが、少し力を緩めてもらえませんか」
「……どうして?」
「そうしてくださったら、閣下に特別を差し上げます」
「……特別…?」
背中へ呼び掛ける茨の手に凪砂はゆっくり顔を上げ、きょとんと首を傾げる。
「ええ、特別です。今日だけなんですよ、これは」
優しく凪砂の頬を撫でると、抱き締める腕の力が緩まる。少し自由になったところで茨は手を伸ばし、届いた箸を持つとそばの玉子焼きを一口大に切り分けた。
切ったところからふわりと湯気がたちのぼるその一口を、冷ましてから凪砂の口元に運んでいく。
「ふー……。…はい、口をあけてください」
「……ん」
「熱くはないですか?」
「…………」
こくり。凪砂は小さく頷いた。
特別、の一言によく味わいながら玉子焼きを食べてみると、口の中にじわりと砂糖の甘みが広がった。
朝食に出してくれる玉子焼きより、いっそう甘い味。まるで焼き菓子を口にしているように錯覚するほどの、けれど焼き加減や甘さ以外は変わらない、舌によく馴染んだ茨の味付け。
「……美味しい。でも、いつもより甘くなってるね」
食べ終えたあとに思いのまま呟くと、茨が頷いた。
「普段も閣下のお好みに合わせて、控えめではありますけど甘めの玉子焼きをお作りしてますが…今日はせっかくの花見ですから。特に甘く仕上げてみました」
「……うん」
「まあ、あの量の砂糖を見るのは、正直目眩がしましたけどね…」
過去に一度も使用したことのない、大さじ一杯の砂糖と数分間にらめっこしたことを思い出して茨の背筋が震えた。必要以上の量を摂取させたくない身としては、次を凪砂に望まれても断固として断る所存のこの玉子焼きを『特別』と言う他ない。
───そう、今日だけの特別。
閣下に、今日という日を少しでもより良き一日にしてもらうための、そのひとつにする。
作る時に言い聞かせながら、でもやっぱり苦心してようやく出来上がったものを食べてもらえたはいいけれど、凪砂の様子は特に変わったようには見えない。
考え込むようにまた黙ってしまった凪砂を見て、茨は内心で自嘲する。
(ああ、やっぱり、こんな作戦じゃ駄目ですよねぇ)
「甘いものを召し上がれば、お喜びいただけると思ったんですが…。さすがにこれは、閣下にも甘すぎたんでしょう。分量はきちんと測ったけど、慣れないものは難しい…、いつも通りのものに作り直すしかないな」
作戦の失敗で次なる考えを巡らせるあまり、気付かぬまま独り言となって出てきている。
じっと聞いてるうちにどんどん悩み始める茨に、つい笑みがこぼれた。
(……だって、こんなにも私のことばかり考えてる)
決して口にはしてくれないし、自覚は無いのかもしれない。それだと言えば、きっぱり否定されるのは分かってる。
だけどこれを茨なりの愛情のひとつだと思うと、凪砂は胸が高鳴った。
速くてうるさい鼓動も、茨のために動いてると思うと心地良い気分すらした。
「……茨」
「はっ、はい!閣下!」
そろそろちゃんと顔が見たい。
名前を呼べば、茨は反射的に姿勢を正す。癖で敬礼の動作まで行こうとした腕は、抱き締められているのを思い出し止まる。
何を言われるのかと緊張する茨に出来るだけ優しく微笑むと、表情から固さが消えた。
「…玉子焼き、作り直さなくていいよ。私、今日の味付けも好きだから安心して」
「あ、それは良かっ……もしかして口に出してました!?」
完全なる無意識でしていた先程の独り言への返事をされ、慌てふためく茨。宥めるように頭を撫でれば、何か言おうとしては口を閉じてと繰り返す。
可愛らしい様子をにこやかに見ていると、茨は観念してされるままになった。
「…かわいい」
「可愛くありません!揶揄わないでください」
「………ごめんね、茨。私のために頑張ってくれたのに、何も分かってなかった。怖い思いもさせてしまったかな」
「め──滅相もない!これは全て、自分が気付けないばかりに閣下に不快な思いをさせてしまっ……!」
調子の戻ったやり取りに少なからず安心した茨だが、次いだのは凪砂からの謝罪。焦る茨の言葉を、唇にあてた指で遮る。
(…私のことを考えてくれるのは嬉しいけど、それなら笑っていて)
そう思いを込めて、きつくもう一度抱き締めた。
「か、閣下?」
戸惑う茨の額へ軽く口付けをし、名残惜しくもゆっくり離れる。
そしてようやく茨の作った料理たちに向き合ってみた。このまま食べてしまっても良いくらいなのに、まだ完成ではない。
あまり入らないキッチンの中にある道具を一瞥し、用意されてる重箱を手に取る。
「……私にもやれること、あるんだよね?一緒にやってもいい?」
「っ…!もちろんであります!いえ、むしろここからが本番。是非ともその重箱を、閣下の思うように彩ってください!」
並び立つキッチンは変わらず狭いが、もう窮屈さは感じなくなった。
たまに触れる肩が、少しくすぐったいくらいに。
ついに完成した、待望のお弁当。
「…うん、出来た。どうかな、茨」
「おお、流石です閣下!高級料亭さながらの美しき盛り付け!箸をつけるのを躊躇う出来栄えですな〜!自分も腕を振るった甲斐があるというもの!」
凪砂の手により、茨の作ったものが彩り豊かに、重箱を飾った。それでいてどれから食べようか迷ってしまうほどの見栄えの良さ。
茨の絶賛に、凪砂も満足げに頷いた。
「では片付けを済ませたら、他の準備も始めましょう!」
「…そうだね。楽しみだな、茨とのお花見」
「はい!我々も、殿下へたっぷり自慢出来るほどに満喫せねば!」
見るものはきっと、真新しいものではないだろう。
だけど二人で、隣で一緒に同じ景色を見れるのなら、それは何よりも"特別"になるはず───
「……あ、『特別』のお返し、ちゃんとしなくちゃね。とっておきを考えておかないと…♪」
「お気持ちだけで、結構です!」
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