眠れる閣下も美しい────────
「おや?」
無人の廊下にポツンと落ちていた、一枚の紙。
と思えば、今から自分が向かうべくやってきたAdam専用ルームのドアの隙間からも何枚かはみ出ているではないか。
全て拾い上げて裏返したそれは、今朝方閣下に渡した仕事の資料の一部だった。
おかしいですね、クリップでまとめて綴じていたはずなのに。
「大事な資料で遊ばないでほしいんですけどねぇ」
読む時に邪魔だったのだろうか。綴じていたものをわざわざ外して、読み終わったらその辺に捨てでもしたのか、何なのか。内容が順になっていないのを見るに、全部散らばっているので回収しなくてはならない。
余計な仕事を増やされ──いえ。閣下に拾わせるなんてもってのほか。早々に集めてしまおう。
二度ほど軽く、ドアをノック。返事を待つが、室内からは声がするどころか何の音もしない。
しかし人の気配は感じるので、おそらくは閣下が在室しているはず。今日の午後は台本と資料を読んでおくようにと言っていたので、守ってくれたようでなにより。
「失礼します、閣下。七種茨です──」
何故かいつもより重かったドアを開けた途端に、正面から受け止めてしまった。
「───っ!」
自分を迎えたのは閣下ではなく、強く吹き付けてくる風。
ブレザーを翻すほどの強風に視界を確保出来るよう、咄嗟に腕を目元の位置まであげる。
捉えた視界には、強風にあおられて室内を舞い踊る紙類たち。大きく揺れるカーテン。遊んでいたのは閣下でなく、この風だったというわけか。
「っああ、もう!こんなに散らかって!」
原因である大きく開かれた窓を、急いで閉めに行く。
バタン──少し荒々しく窓を閉じると、途端に静まる室内。
乱れた髪と制服を直して、あちこちに散乱した資料を拾い集める。
「あと何枚か足りない……。あそこか」
必要枚数が足りず室内を見回すと、テーブルの下やソファのそばに落ちているのを見つけた。
そして、これを散らかした当の本人はというと。
(まあ、そうしたのは風だけど。ちゃんとまた綴じるなりしていてくれれば、こんなことにはなっていなかったわけですし?)
どうやら目を通しているうちに、睡魔に誘われてしまったのだろう。ソファに仰向けでその身を預けて、静かに眠っていた。
足りない資料は台本と一緒に眠る閣下の胸元に数枚残ったのを見つけて、落ちていたものだけを全て拾い終わらせ順番と枚数を確認してから再びクリップで綴じる。
「やれやれ。窓を開けっ放しで寝るなんて…不用心が過ぎます」
溜息混じりに一言ぼやく。
いくら寝ているとはいえ主人の前であるまじき態度であるが、これくらいは許してほしい。
「閣下、お身体を痛めますよ。眠るならご自身のお部屋へ戻られてはどうですか?閣下〜?」
「……………」
「……熟睡ですね…」
綴じた資料をテーブルに置いてから、眠る閣下を覗き込む。これだけ物音を立てたり呼びかけているのにピクリとも動かない閣下は、最早本当に眠っているのかが不思議だった。
黙って動かないでいると、まるで人形のようだと感じてしまったから。
(そう思うほどに素晴らしい容姿の持ち主ではありますが。…本当に、眠ってるんですよね?)
触れるのは躊躇われたので、呼吸を確かめようともう少し顔を近寄らせる。
見遣る先には、寝顔も美しい我が最終兵器。寄れば規則正しい寝息が聞こえたので、内心ホッとする。
「……………」
こうしてじっとお顔を拝見するのは初めてかもしれないと、ふと思った。失礼にあたるのでしたことはなかったが。
(寝姿を晒すなどと無防備な真似は、自分は御免ですが…。いつか雑誌の撮影や写真集の発売となった時には、使えそうですね。オフショット、とでも銘打って…)
浮かぶのは新たな試み。どんな一面も商機に繋がるのなら、一つでもこぼさない。
ついまじまじと閣下を見つめて、そんなことを考えてしまっていたものだから。
──死角から伸びていた手に、気付けなかった。
「……そんなに見つめられると、少し照れてしまうね」
「え?起きて──うわっ!」
眠っているはずの閣下。その唇が微かに微笑んだ。
だが気付いた時には、力強く引かれて閣下へ倒れ込んでしまった後だった。
「……茨、あたたかいな。何だか鼓動が通常時より早い気がするけど…うん、生きている証拠だね」
「あのっ、閣下!?何を突然っ…、危ないでしょう!」
体重をそのまま預けることになった状況に、呑気な閣下の言葉は耳に入らない。
打ちどころが悪かったら、とこちらは気が気でないのに痛がる素振りも無く、むしろ穏やかなほど。
「……今日は天気が良くて、風も気持ち良かったから…。窓を、閉め忘れてた」
「起きてたんですか?いつからです?」
「……ふふ…」
「閣下!」
分かっていたけど本人から聞くとまた違う。反省らしき言葉を聞けたのは良いが、どうやらこれは一時の微睡み。
「……よしよし、茨。私と一緒に、眠ろう…」
とん、とん、と優しいリズムで背を叩かれる。
閣下はまだ眠たげな声で、会話はうまく噛み合わない。
「いえ、自分はまだ仕事がありますので!閣下はお休みいただいて結構ですが、その前に自分のことは離して……閣下?」
「…………」
「かっ……、…え?嘘だろ」
返答はなくなった。
規則正しく、添えた手の下で緩やかに上下する胸。至近距離で見る寝顔は、正直心臓に悪い。
いやいや、見てる場合じゃない。
「あれっ。う…動けないっ!?」
しかも。背中に回った腕が、強く抱き締めてきてる。自力で抜け出そうとしたが、身動ぎひとつ許されなかった。
「ちょっと、本当にまた寝たんですか…!?」
どうすればいいんだ、この状況!?
*
「───……ん…」
深い眠りから目覚める。
とても気分良く眠れていた気がするのだけど、何だったんだろうか。特別夢見が良かったわけでもない。
「おはようございます、閣下。お目覚めはいかがでしょうか!」
ゆっくり瞼を開いて、まず視界いっぱいに飛び込んできたのは。
ちょっと怒りの滲む声と顔をした、茨だった。
「……うん、おはよう。起きてまず茨の顔が見られるのは、中々に嬉しいものだね」
「自分如きが閣下の良きお目覚めに貢献出来たようで、何よりであります〜☆」
率直な感想を述べると、茨の眉が、口端がピクリと引き攣った。
言葉と裏腹に茨は本当に怒っているのだと、私はようやく自覚する。
でも、何で?何かしてしまったのかな。
だけど、それよりも──…
「……茨は、どうして私の上にいるの?」
いまいち覚えのない、この状況。そういえば、眠っている時に茨と会話をしたような夢を見た気がするけど。もしかしてあれは、夢じゃなかったんだろうか。
こうして茨を抱き締めている感覚は、覚えがある…ような。思い出したくて、確かめるために抱き締める腕の力を強めた。
考え耽っていると、ついに我慢ならないといった様子で茨が声を荒げる。
「あ───貴方が!突然、無理矢理!自分を抱きすくめたんでしょう!そのせいで身動きが取れなくてっ…」
「……そうだっけ?覚えてないな」
茨の言葉に首を傾げる。茨が言うならそうなんだろうけど、やっぱりハッキリとした覚えがない。
「そうなんです!それよりもう、離していただけませんかね!」
「……ふふ。かわいいね、茨」
「はあっ!?寝ぼけてんですか!?」
もはや取り繕うことすら出来なくなった茨に、私は笑う。
本当、かわいい。
頭を撫でると嫌そうな顔をされてしまった。ここまでの様子はちょっと珍しい。
いつもの従順な茨も好きだけど、こうして感情をあらわにしてくれると嬉しくてもっと好き。
「閣下!本当、お願いですから。離してください…」
「……かわいいけど、駄目。今日はもう、私とこのまま眠っていよう」
「嫌ですってば!閣下、…んむっ!?」
せっかくだから。もう少し、このままで居たいから。
──茨がこれ以上何かを言う前に、その唇を塞いでしまった。
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