序────────
時は××年。舞台は華やかで絢爛なとある一国。
人知れず、いいや知る人ぞ知るのはこの国の裏に潜み影で生きる一人の男の存在。
「──眩さが強いほど、影は濃くなるものです。それはもう、暗闇の如く。いやぁ、殿下の威光は素晴らしい!自分のような人間を闇に紛れさせてしまい、自由に暗躍させているのですから!これほど動き易いところは他にありませんなぁ!」
狭い路地を這い回る、理知的で狡猾な蛇のような男。黒のスーツに黒の革手袋、首から下は一切の露出が無いのに、薄暗いところでも分かる生白い肌に映えるのは血が染み込んだような暗紅色の髪。高らかな声と軽やかな足取りが導く。
狭くて暗い、行き止まり。
「……茨。あまり騒ぐと逃げられるよ」
「おおっと、失礼しました!久しぶりの仕事でつい足元が浮ついているので、高揚した気分を紛らわせるつもりが!」
スーツの男は、自身の背後の誰かに諭された。声しか聞こえないのに、たしかにそこの暗がりに誰かが居る。楽しそうに笑う男は一度止まって背後に振り返り、目に見えない誰かに向かい深々と頭を下げた。
「しかし、お言葉ですが閣下。こんな路地裏に追い込まれて我々から逃げられる方が、この世にどれだけいらっしゃることでしょう!」
「……人はそれを、慢心と言うね」
「これはこれは、手厳しい!なぁにご安心を、自分はこれっぽっちも慢心などしてませんよ。仕事で閣下に情けない姿はお見せ出来ませんからねぇ」
「……ふふ。そうなんだ」
路地の最奥、後方と左右を壁に囲まれた場所に心許ない蛍光灯が一つ。漸く灯りが照らしたと安堵する暇もなく、そこで改めて視界に認め息を呑む。男の手に嫌に馴染んでいるのは、良く磨かれていて艶のある黒の銃。今時珍しい回転式拳銃を片手に、長い銃身を見せつけながら一歩、また一歩と獲物──へにじり寄る。コツ、コツと革靴のヒールの音を響かせ距離を縮ませられるよりも、目に見える方が恐怖を煽った。
銃の装弾数は六発のものだろう。威力の高い弾丸を体に撃ち込まれたら、と考えたらゾッとするそれを、脅しで出しているだけならどれほど良かったか。そもそもそんな情けがこの男にあるのなら、まるで遊ぶように「逃げるとただ苦しむことになるだけですよ?ですがその選択を取ると言うのなら、お望み通りに致しましょう!さぁ、見事逃げ果せて見せてください☆」なんて言いながら、躊躇いなく一発足へ撃ってきたりしない。
幸いにも掠めただけだったが、それでも激痛に苛まれ血の滴る足を引き摺って逃げるのを悠々とした足取りで暗い路地裏に追い込まれる、こんな状況に陥ってはいない。
「とうとう行き止まりですが、もう逃げるのはおしまいですか?その足でよくここまで頑張りましたね、貴方。褒めてあげましょう…♪」
蛍光灯は、哀れな獲物を照らし出すスポットライト。銃を持ったまま男が手を叩いた。乾いた音と一緒にした金属音が、やけに響いて聞こえる。惨めにも逃げ回るだけしか出来なかった獲物への、せめてもの手向けだろう。
そう───じりじり追い詰めて弱らせて、獲物は食べられてしまうだけ。
ああ、もしこの男と"取引"をしたいのなら、どうか気を付けてほしい。
麗しい見た目に騙されてはいけない。甘い微笑みに見惚れてはならない。調子の良い口調に乗せられてはいけない。取引をするのなら目を逸らしてはならないが、瞳の蒼を見つめていては言葉にならない。どれだけの知略が水面下で張り巡らされているかなんて、表面だけを見ていては到底気付けるものではないけれど。
しかし、運良く気付けたとしても既に手遅れだ。
出会ったが最後。もう"取引"は始まっているのだから───。
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↓
「あっはっはっは!閣下、どうですか!これが"人間"です!この醜さ、卑しさ、傲慢さ!ああ、こんなに穢らしいもの、貴方の視界に入って良いはずが無いというのに!まだみっともなく生きてる!いいえ、自分はしぶとい方は嫌いではありませんが…閣下、如何致します?」
「……やはり、誰も彼も同じだね。昨日の人もそう…死の淵で叫ぶのは、口汚い悲鳴とよく分からない命乞い。つまらないな…。……茨、もういいよ」
「アイ・アイ!では、最初で最後のお客様。閣下にお目にかかれた幸福を噛み締めながら、どうか安らかにお眠りください」
「───バキュン☆」
……わたしだけが楽しくて美味しい詰め。