すきっていわせてポーカーで負けた。
今まで一度もこいつだけには負けた事がなかったから、結構ショックだった。おれでさえたまに同情するほどに絶望的に運の悪いこいつに負けるなんて、いよいよおれも神に完全に見放されたのかもしれない。
自分でも信じられないと言った表情で恐る恐るストレートフラッシュを出した兄は、固まるおれを見て勝利を確信したのか、小さな子供みたいに喜んで、そして、敗者に向けてこんな命令を発動した。
『明日一日、一松はオレがお願いしたら絶対に好きって言わなきゃいけないことにする!』
◇
負けたら、相手の命令をひとつ聞く。
小学生の頃からずっと、何かで競う機会があればこれが定番だった。
男六人でそんな王様ゲームみたいな事して楽しいのかと言われるかもしれないが、大概は自分がやりたくない家事手伝いの押し付けか、近所のコンビニまでのパシリを決めるための暇つぶしに過ぎない。まぁ、たまに酔っていると女装しろだの全裸で一発ギャグだのと悪ノリすることもあるけれど。
何が言いたいかって、そんなつもりじゃなかった。
布団の中でぱかりと目が開いて、極力静かに目線だけで時計を確認する。
朝の五時。
…もうちょっと寝てよう。
うーんむにゃむにゃ、なんてわざとらしい小芝居と共に寝返りを打つ。おれはまだ寝てます。断じて起きてません。
布団の端っこを引き寄せながらきゅっと丸まって、昨日夜中の出来事を頭の中で反芻する。酔った勢いで、真横で寝こけているクソ松とポーカーして、生まれて初めてこいつ相手に負けて、それで出された命令が、その、ちょっとあれなやつだったというわけだ。
「……記憶飛んでてくれねぇかな」
カラ松は記憶を飛ばすタイプの酔い方はしない。
というかそもそも素面でも酔ってるみたいなテンションのやつなので、酒が入ってようがなかろうがあまり変わらないのだ。そんな事は重々承知している。
好きって言えって?しかも一日中求められ次第何度も?無理じゃん、おれにそんな事出来ると思う?だっておれだよ?無理だって。
考えただけで手足が冷たくなってくる。腹痛くなってきた。今日こいつが目覚めた瞬間がきっとおれの命日だ。やばい、うんこしたくなってきた気がする、こいつが寝てる今のうちにトイレ行ってそのまま夜まで逃げるか?でもその物音で起きられたら逃げ切れる自信がない。どうしようか、もちろん二度寝なんて出来るわけもなく、息を潜めて布団に潜り込んだまま刻一刻と時間は過ぎていく。こうしていても仕方ないと意を決して掛け布団をめくろうとした瞬間、背中から小さな呻き声が聞こえてきて飛び上がった。
「ぅうん…」
「ヒッ…!」
寝返りを打ったカラ松の手がおれの腰元に当たる。やばい、今のうちにどうにかしないと…!
『ニートたち起きなさーい!!早くご飯食べちゃってー!!』
「ん…?んん…ゔぁ…」
うわ、おわった。一階から聞こえてきたいつもの母さんの大声に、六人分の長い掛け布団が一斉にうごめき出す。当然寝起きの悪い次男も目を擦りながら身体を起こす。そしておれの姿を視界に映し、早速昨日の命令を発動…
「…おぉ、おはよぉいちまつ…」
半分閉じた目のまま寝ぼけた声でぼそりと声をかけられて、何故かぽんと肩を叩かれる。そのままおれを置いて他の五人はさっさと階段を降りていってしまった。
「…えっ?」
ぽつんと残された布団の上で、間抜けな声が出る。あれ、なんか思ってたのと違った。もしかして覚えてない?と一瞬期待したけれど、全員一緒にいる時に言わせるのは流石に思いとどまってくれただけかもしれないし、まだ分からない。なんなら、朝ごはん食べた後でホテルにでも連行されて思う存分言わされる可能性だってある…いや、素面の時よりはまだそっちの方がマシかもしれないけど。
はー、と深く息を吐く。そもそも、なんであいつはあんな命令してきたんだ、おれがそういうの苦手だって分かってる筈なのに。いや、悪いのは完全に好きの一言すらも言えないおれの方なんだけどさ。でもおれにはおれのペースってやつがあるわけで、そういうのはタイミングが大事っていうか、言わされるもんじゃないっていうか…それで今まで言えてないまま来ているのだから、痺れを切らしたって考えれば少し申し訳ない気持ちにもなってくる。
「…れんしゅう、しとくか…」
別に、考えてみればそんなに身構える事でもない。『好き』の一言くらい、あいつ以外の兄弟相手にはふざけて何度も言ってるし、もっと軽いノリで、冗談混じりにやってしまえば簡単だ、パシリと変わらない、六つ子間でのいつもの罰ゲームだとでも思えばいい。
周りを見渡して、誰もいない事を確認してから息を吸い込む。軽いノリで、なんでもないみたいに、なんなら、むしろ向こうが面食らうくらいに自然に、
「…す……………っ……」
いや無理だな。
脱力して布団の上に崩れ落ちる。虚無に向かってすら言えないってどんだけだよ、自分に絶望したわ。まさかここまでだとは思わなかった。下から響きわたる母さんの声に急かされて渋々一階へ降りると、おれの悩みの元凶は呑気に味噌汁を啜っていて、ちょっとイラッとしたので茶碗の上にキープしてあったウィンナーを奪いとってやる。困惑顔のまま涙目になった姿にちょっとだけスッキリした。
◇
屋根の上から聞こえてくるうるせぇギターと下手くそな歌声に、本日百回目くらいの舌打ちが出る。あいつ、もしかして本気で忘れてるんじゃないか?いや、忘れてるならそれで別にいいんだけど、なんか釈然としない。おれの半日以上の心労を返してほしい。
他のみんなはバラバラにどこかへと出掛けていって今この家は正真正銘の二人きりだ。それでなんのアクションも起こしてこないって事は、もう、そういうことでしかないだろう。
「……いや、別にいいんですけど…」
というか、むしろおれ的にはそっちの方が助かるんですけどね。ただ、もし仮にあいつが昨日の事を覚えていた上で意図的にその話題を出して来ないという場合だ、そして、その原因がおれにあるとしたら。
「怒ってる、とかじゃ、ないよな…」
あいつに限ってまさかな、とは思うけれど、その可能性に至ってしまった途端、なんだかそわそわしてしまう。あいつに負けた上に変な命令された腹いせにトランプ破り捨てて多少暴れはしたけれど、そんなのはいつもの事だし、そんなんで怒るような性格なら、はなからおれとこんな関係になれていない。
ギターの音が止まった。少しして、ぎしぎしと梯子を降りてくる気配がする。散々一人で歌って満足したのだろうか、何やら上機嫌でギターを部屋の隅に置いて、そのまま部屋を出て行こうとする。
「っあ…」
「…ん?どうかしたか」
「い、いや…なんでもない…」
少し不思議そうな顔をしながらもそのまま部屋を出て行ってしまったカラ松に、持ち上げかけた手が宙に浮く。命令の事を忘れていたにしても、家に二人きりなのに。いつもだったら、二人きりになった途端に向こうからベタベタくっついてくるのに。
段々心臓が痛くなってくる。こんな簡単な一言すらも言えない自分に、とうとう嫌気がさしたんじゃないか、あいつは人一倍そういうのを欲しがるようなタイプだって分かっていたのに。部屋の隅にうずくまりながら、小さく鼻をすする。気づけば太陽はもうずいぶんと傾いてきて、真っ赤な西日が目に痛かった。
◇
「おいクソ松、ちょっとツラ貸せ」
「えっ、は、な、なに?ちょ、ま、いちまぁつ???」
夕飯食べて、銭湯行って、パジャマに着替えて、布団を敷いて。そんなこんなで時刻は夜の十一時半。とうとうなんのアクションもないまま一日が終わろうとしていた。一日中ずっともやもやしていたおれは我慢ならず、眠そうな顔で布団に潜り込みかけていたカラ松を引きずり出す。困惑しているようで抵抗らしい抵抗がないのをいいことにそのまま誰もいない居間に放り込んだ。
「ど、どうした一松…」
「……お前、なんかおれにさせたい事、あったんじゃないの」
「…えっ、」
ちょこんと正座して大人しくしているカラ松の前に仁王立ちすると、ちょっと怯えるように首をすくめられる。よくみるとその頬には大きめの引っ掻き傷がついていて、あぁそれ、おれがつけたやつか、と今更ながらに思い出して、ぎゅっと胸が痛くなった。
「おまえが言ったんだろ、何忘れてんだよ、無責任だ、おれの一日返せばーかばーか」
げし、と目の前の太ももを蹴る。完全な八つ当たりだって分かってるのに、自分でも何がしたいのかよく分からなかった。
「おれだって、おれだってさぁ…」
好きでこんなめんどくさい性格になったんじゃない、本当はずっと、お前みたいに素直になれたら良いのにって思ってるよ。たった二文字でさえ上手く口に出せないようなやつ、おれだったらもうとっくに見放してる。
「めいれいしろよ、」
理由がないと、きっかけがないと、一人じゃ何も出来ない。怖くて堪らないんだよ、無理矢理言わされでもしないと、自分の本心を曝け出すのが、怖くて堪らないんだ。
視界が少し滲んでくる。たかが酒の席での戯言一つに、ひとりで振り回されてバカみたいだ。お前の一挙一動全てに振り回されて、勝手に不安になって、八つ当たりして、自己嫌悪になって、毎日疲れて仕方がない。どうせこいつは自分で言った事なんか忘れてるのに、こんな事、こいつに言ったって仕方がないってわかってるのに。
「…忘れてなんかないさ」
不意にぐっと腕を引かれて、バランスを崩す。転びかけた身体は、目の前の腕に簡単に抱きとめられた。
「本当は朝、言ってもらおうと思ったんだけど、だって、お前があんまり怯えたような顔してるから、なんか可哀想になってきて」
子供をあやすように背中を叩かれながら、ため息混じりにそんな事を言われる。
「好きって言って欲しかったのは本当だけど、別に、嫌な事を無理してやらせたい訳じゃ、」
「嫌とか、一言も言ってない…!」
「でも、昨日だって散々無理だって暴れて」
「無理と、嫌は、ちがうじゃん…確かに無理だけど、絶対出来ないって思ったけど、でも、言いたくないって訳じゃなくてさぁ…」
自分で言ってて段々恥ずかしくなってきて、顔が見られなくなる。甘やかすように抱きしめられるままに顔を埋めた。またこれだ、お前がそうやってどこまでも甘やかすから、どんどんダメになっていってしまう。おれ、こんなんじゃもう、お前じゃないと、
「じゃあ、言いたかったら、言えばいい」
「…え、」
つい、と顔を上向かされる。その先にある時計を見ると、丁度日付が変わった所だった。
「ここから先は、もう、命令じゃなくて、ただのいつものオレからのお願いだ。いつもみたいに無視して突っぱねてもらっても構わない」
「えっ、それって、もしかしてお前最初から、」
「お前の口から、お前の意思で、言って欲しいんだ」
ぎゅう、と抱きしめられる。逃がさないって言われてるみたいだった。
「なぁいちまつ、すきっていってくれ」
一日中ずっと、聞きたくなくて、聞きたくて堪らなかった一言は、想像していたより何倍も甘くて、意地悪だった。