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    PostTakahiro

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    セレブな平勇のお話です

    As you wish. 1「美味しいチョコレートが食べたいですね」
    ワインのグラスを傾けながら、そう言った勇作に視線を向けて、平之丞はチョコレートですか、と返した。
    「ノイハウス? ヴァンデンダー?」
    「フライドポテトとムール貝も食べたいです」
    「今日の勇作さんは、お腹がすいていらっしゃる?」
    くすりと笑う平之丞に、勇作は素直に頷いて返す。
    「昨日、音くんが兄様と焼肉に行ったと教えてくれまして」
    音くんというのは、平之丞の弟で勇作も親しくしている青年だ。勇作の異母兄と半同棲のような生活をしていて、その兄の動向を聞くためにも毎日何かしらの連絡を取っている。
    「焼肉ですか」
    「私も何か美味しいものが食べたいと思って」
    それでチョコレートが出てくるところが、勇作だなと平之丞は気恥ずかしそうに答えた様子を眺める。
    「一昨日、お肉は食べましたしね」
    平之丞は音之進の言う焼肉が、チェーン店の食べ放題であったことを知っているが、勇作は多分知らないだろう。勇作さんにはそんな店があることを教えてはダメだぞ。と音之進が面白かったと言って教えてくれた時に注意をしたので、平之丞はそれに同意しておいた。
    「では、明日出掛けますか」
    「はい」
    言う間に飛行機は抑えたが、さて、どこへお連れすべきかな、と平之丞は今回の旅を思う。
    「音くんにどんなお土産を買いましょうか」
    「勇作さんは、百之助さんの方が重要でしょう?」
    異母兄のことを勇作は敬愛しているが、その兄とはあまり上手くやれていない。それはこれまでの生活のせいでもあり、兄の側の屈託のせいでもあるのだが、そこに勇作の落ち度が全くないと言うわけではない。
    「兄様は、あまり私からのお土産は喜ばれないので」
    それは多分、勇作が兄のためと張り切りすぎるからなのだと平之丞は理解しているが、勇作にはそれがわからない。兄には自分の知る最良のものを、と惜しみなく金を使うが、兄から見れば弟にそこまで貢がれる理由はないというところだ。何かと苦言を呈されて、勇作は最近では音之進を通して贈り物をすることを覚えたところだ。
    「音くんから渡されると、断られはしないようですが」
    「そうまで心を傾けているのを見ると、少し妬けますね」
    だからなんとなく、そんなことを口に出してみると、勇作はハッとしたように平之丞を見返して、そんな気持ちはありません、と首を振る。
    「平之丞さんよりも大切な人はいませんから」
    私のために何でもしてくださるのは、いつだって感謝しています。と勇作は言う。
    同じ目線で、同じ価値観で、同じ金銭感覚で、とこうして過ごしていられるのは、何よりも特別で嬉しいことだ。これまでに知り合った誰も、勇作がチョコレートを食べたいと言ったところで、ベルギーへの旅を提案してくれることはなかった。それは平之丞が勇作に教えたことだから、仕方のないことなのかもしれないけれど、そんな日々は勇作にとって何より心地良くて、ほかの誰かでは代わりが効かないのだということを理解してしまってからは、もう観念するしかなかった。
    「帰りはドバイ経由で帰ってきましょう。久しぶりにコテージに寄って過ごすのもいいかもしれません」
    平之丞はパーム・ジュメイラに別荘を所有していて、年に何度かはそこで過ごすことがある。その際には勇作も同行することがほとんどだが、今年はまだ訪れていなかったと思い出す。
    「いいですね」
    どこかへ旅行に出かけたついでに、次の目的地を設定することはよくあることだ。けれど、こうして行く前から提案されることは珍しい。
    「最近少し、勇作さんは気落ちされているようだから」
    「そんなことはありませんけれど」
    ないけれど、最近少し二人で過ごす時間が足りていないと思っていたのは事実だから、二人で過ごす時間を提案されたのはとても嬉しい。
    「……平之丞さんが、お一人で出掛けられることが増えたから…」
    少し寂しくて連絡を取った音之進は、兄と二人で楽しそうにしている事を教えてくれて、それが羨ましかったとも言える。音之進は勇作さんは兄さあに甘やかしてもらえていいなぁと言ってくれたけれど、私だって時には恋人を甘やかす立場になってみたいのですと、勇作は思った。
    「お詫びに、何か素敵なものをプレゼントしますね」
    平之丞はにこりと笑って、新しいスーツはどうですか、と問い掛けてくれる。
    「簡単には許しませんよ」
    平之丞は自分の管理する資産を使い、多くの人に投資をしている。時にはその相手との会食もあり、今月はそれが少し多く予定されていた。勇作も同じように人に会うことはあったのだが、その予定が少しずつずれて、こうして二人でゆっくり過ごすのも久し振りのことだった。
    だから、そんな風に拗ねたことを言うのも、勇作にしては珍しいことではあったけれど、音之進が時には素直に言ってみるのも大事だと教えてくれたことに従ってみた。音之進曰く、恋人の時々の我が儘ほど可愛くて愛おしいものはないのだ、だそうだ。
    「ご機嫌が治るまで、なんでもします」
    にこりと笑った平之丞は、愛おしそうに勇作の頰に手を伸ばし、そっと撫でてくれる。その手が勇作は何より好きで、そっと目を伏せてその手にすり寄れば、額に優しくキスが降ってくる。
    「今日は一緒にお風呂に入りたいです」
    そのための広いバスルームだ。一人で過ごすのも好きな場所ではあるけれど、今日は二人で過ごしたい。そう思って平之丞を見詰めると、彼は少し驚いたように目を見開いて、初めてのお誘いですねと笑った。
    「髪を洗ってください」
    「もちろん」
    可愛い人。平之丞がそう囁く声が、勇作は何より好きだった。







    「兄さあが、土産を送ったからって連絡があったぞ」
    スマホを眺めていた鯉登が顔を上げて言い、あぁ、またか、と小さく溜息が漏れた。
    「あの人達は、今はどこに行っているんだ?」
    尾形の恋人である鯉登音之進は、日本の中でも有数の資産家の次男坊だ。そしてその兄である鯉登平之丞は鯉登家の資産を継いでいく人間だ。だが、鯉登家というのは経営者一家というわけではない。代々続く旧家の人間が、先祖の資産を使い投資をし、資産を増やし、日々の糧を得ているというのが正しい。故に、音之進も平之丞も定職には就いていない。
    「昨日、勇作さんが美味しいチョコレートが食べたいと言ったから、ベルギーへ行っているらしい」
    そう言って、チョコレートショップの写真や、フライドポテトとビールの写真を見せてくる。
    「相変わらず、金持ちを隠さないな、この人たちは」
    インスタグラムに楽しそうに日々の生活を晒すその投稿は、本人達の顔は写っていないものの、男二人で世界中を飛び回っていることがわかるものだ。鯉登はそれをこまめにチェックしていて、コメントなども度々残しているが、尾形は眺めてため息をつく程度だ。
    「楽しそうでいいだろ?」
    平之丞と共に行動しているのは、尾形の腹違いの弟である花沢勇作だ。花沢家は鯉登家と結びつきの強い旧家で、同じように土地持ちの資産家だ。尾形のような愛人の子供が複数人存在すると噂されてはいるが、認知されているのは尾形のみだと聞かされている。その辺りは、尾形の母親の行動力の違いということだろう。
    母は息子が生まれると認知を迫り、養育費と家を手に入れ、自分が事業を起こす金も手に入れた。おかげで尾形は生活に困ることなく育ち、母も商才を発揮して小さなアンティークジュエリーの店を経営している。
    鯉登と出会ったのは、その店の顧客として母同士が個人的な友人にまでなったからだ。母が鯉登家を訪れた際、幼い尾形を連れて行き、その家にいた幼い子供と知り合った。当時既に平之丞は家を出ており、尾形はまだ花沢勇作と出会っていなかった。幼い子供同士、特にこだわりなく親しくなった後、尾形は異母弟に出会い、それが鯉登のことも知っていることを知った。
    以来、親しいとも言い難いが、険悪でもない関係が続いている。勇作は尾形に何かと物を贈ってくるがそれを除けば、概ね良好な関係だと尾形は思っている。
    「兄さあに、ラペルピンを買ってもらったと言っていたから、私たちにも届くかもしれないな」
    アントワープで買ってもらったと言っていたから、やっぱりダイヤかなぁ。と呑気に鯉登は言うが、そんなものが送られてきても使う場所がないだろうと尾形は思う。とは言えども、彼らが送ってくるものはどれも趣味がよく、着けて行く場所がないなんてことにはならないのはわかっている。それでも、なのだ。この男たちの金銭感覚にだけは、尾形はついていけない。
    「ビールでも送って終わらせてほしいもんだな」
    どこかへ旅行に行っていると聞いた後、帽子、ネクタイ、カフス、ベルトに靴、コートまで揃えて送られてきた時には、本当に言葉もなかった。更にその中には生地があり、花沢家お気に入りのテーラーでスーツを仕立てるようにと伝言があったのには、呆れを通り越して怒りが湧き上がるかと思った。鯉登が隣で尾形にはきっと似合うなと嬉しそうに笑っていなかったら、勇作の元に一体何を考えているのかと抗議の電話をしただろう。けれど、それは本当に単なる好意なのだ。恩を売るだとか媚を売るだとかではなく、自分が楽しい思いをしたから、その楽しみをおすそ分けしようと言う、ただそれだけの何の狙いもない好意なのだ。
    そしてその好意を最も多くやりとりしているのが、その弟と恋人である鯉登の兄の平之丞だ。二人そろって旅行に行き、何かを食べたいと言えば飛行機に乗り、どんな国へも連れて行く。それを見ていると、自分と共にいる鯉登には申し訳ないような気もするが、鯉登は安いチェーン店の焼肉でも嬉しそうにしている。
    「チョコレートね…」
    コンビニのチョコで喜ぶような育ちではないのはわかっているが、まったくもって、金持ちのやることは理解できないなと、尾形は小さく息を吐いた。


    ———————


    花沢勇作が鯉登平之丞と初めて出会ったのは、10歳の頃。10歳年上の平之丞は大学生で、3歳年下の彼の弟、音之進は7歳だった。
    10歳年上ともなれば、随分と大人に見えて、勇作はその優しい人柄に憧れを抱いた。けれど、もちろん、その時は彼と今のような関係になることは想像もしなかった。兄弟というものに対する漠然とした憧れと、兄というものはこういうものかという感動で終わるはずだったのだ。
    「平之丞さんは、初めて会った日のことを覚えていますか?」
    私は覚えています、と伝えるその視線は、どこか嫉妬の色をはらんでいるように見えた。
    「もちろん覚えているよ。勇作さんはとても可愛らしい少年で、藍の浴衣がよく似合ってた」
    父の幼馴染である花沢幸次郎の家族と共に、夏の祭りに一緒に出掛けたのだ。弟の音之進は白地に黒い金魚の模様の浴衣に、赤の縮緬絞りの兵児帯を、ふんわりと金魚の尾のように絞めて、錦鯉みたいだろと、はしゃいでいた。勇作は藍の浴衣に兵児帯を絞めて、はしゃぐことなく行儀良く母親の横であいさつをしたのだ。
    可愛らしい子供だなと平之丞は思ったのは、音之進の浴衣をよく似合うと褒めた時だ。素敵ですねと言った勇作に、音之進はありがとうと答えたが、その勇作が少しだけ羨ましそうな顔をしていた事には気付いていなかった。
    この子は我が儘など言ったこともないのかもしれない。そう思って、うんと甘やかしてあげたいと思ったのだが、それは今でもずっと続いている気持ちだ。
    もっと自分のしたい事をたくさん口に出しなさいと、平之丞は常に勇作に示してきた。そしてその我が儘を最大限に叶えようとしてきた。
    平之丞にとって、勇作は何よりも優先されるべき愛し子なのだ。
    「私に音之進より大事に思う人ができるとは、思わなかったからね」
    兄さあは勇作さんが大好きでしょう?と音之進が尋ねたのは、何とその日の眠る前だった。
    『おいのこと、後回しにしたから』とは、なぜそう思うかと聞いた答えだ。そして音之進は嬉しそうに笑って、勇作さんがおいの兄さあになってくれたら嬉しいなと言ったのだ。
    なんて愛しい私の弟。そう思って小さな体を抱きしめた。世の中の面倒ごとも何も知らず、だけれどそれ故に躊躇いなく祝福をくれる。
    その時は平之丞だって、まさかその愛情に欲が混ざるなんてことは思わなかった。誰にも渡すまいと思って、他の誰も寄せ付けないように蜜に漬けるように愛を注ぎ込んだのは、彼がもっと大人になってからだ。
    それでも結局は音之進の言う通りに、勇作は彼の兄のようなものになったし、彼はその時から大好きだと言っていた幼馴染と仲良く暮らしている。
    「今日は、何があったんですか?」
    くすりと笑って問い掛けると、勇作は我が儘放題に育った平之丞の弟がよくしたように、少しだけ唇を尖らせて、平之丞さんが悪いのです、と言った。
    「あの方は私の運命の人です、なんて」
    それは平之丞がパトロンとして支援をしている声楽家のインタビュー記事にあった一文だ。才能はあるが資金に不安のある学生や音楽家に、平之丞は支援をしている。
    いつか私や多くの人の助けになる存在だから、と平之丞は言う。勇作はそんな平之丞のことを尊敬しているし、それに倣ってパトロンとして支援もしているが、それでもそんな言葉を見てしまうと、その人は私の運命の人ですと言いたくなってしまう。
    「私の運命の人は勇作さんですよ」
    世界が変わったのですから。真っ直ぐ見詰められてそう言われた言葉に、勇作は心を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
    「家族が一番大切な人間は、自分が一番大切なようなものです。でも、勇作さんが現れたあの日から、私はずっとあなたに夢中になっているんですよ」
    いい歳をした初恋です。そう言って気恥ずかしそうに笑う平之丞に、勇作は堪らず飛び付いた。
    音之進が時々兄の百之助にこうして飛び付いているのを見た事があったが、自分にはそんな衝動が訪れることはないのだろうと思っていた。けれどそれは自分の中にもあって、そしてしっかりと抱き締められる歓びは、天にも昇る心地だ。
    「機嫌を直してくれましたか?」
    「はい」
    子供のような嫉妬心を笑われるどころか、こんなに嬉しい告白を貰えるなんて、思いもしなかった。
    「今日はどこかへ出掛けますか?」
    そっと囁かれる声に首を振って、ぎゅっとその背を抱き返す。
    「今日はずっと二人で過ごしたいです」
    こんな日には、きっとそれが正解に違いないから。


    ----------


    「お腹が空きましたね」
    勇作が呟いたその言葉を聞き、尾形はその後の展開を警戒して様子を伺う。
    「何を食べますか?」
    「何にしましょうか」
    「私、寿司が食べたい」
    鯉登が声を上げると、平之丞がそれでいいかと勇作に目を向ける。
    「お寿司は久し振りですね」
    勇作の同意が取れたと見て、平之丞がスマホを操作するのを見て、銀座にでも出掛けようって話か?と尾形は黙って成り行きを見守る。
    「今日は来られないそうだけれど、届けてくれるそうだよ」
    「バラちらしお願いしてほしい」
    「尾形さんは?」
    まさか自分には振られないだろうと思った質問に驚き、尾形は平之丞へ目を向ける。
    「音之進と同じのでいいです」
    バラちらしなら想像がつくが、寿司屋で何を食べたいかと突然問われても咄嗟には答えが出ない。回転寿司のメニューならわかるが、そんなものを口にする時ではないのはわかる。それにどうせ、お任せでという話で、握りか巻物かくらいの指定でいいに違いない。
    「尾形は普通のちらし寿司の方がきっと好みだぞ」
    「それじゃ、そっちで」
    平之丞はニコニコと嬉しそうに笑い、スマホを操作する。勇作の言葉は何一つ聞かないが、店の名前も出さないのに、鯉登が尾形の好みについて話したくらいなのだから、そこはもうわかっていることなのだろう。この男達には行きつけの店があって、名乗ればいつもの品が用意されるくらいの人間だから、寿司ならどこと決まっているのだろう。
    「届くまでに何かつまみますか?」
    平之丞はそう言って、冷蔵庫に何か入ってたと思うんですが、と立ち上がる。
    「この間、生ハムを切ってくれたのが美味しくて、買ってみたんですが、なかなか難しいんですよね」
    「俺がやりますよ。冷蔵庫開けて大丈夫ですか?」
    尾形は平之丞が料理をしないことは知っている。このマンションには広々としたキッチンが備えられているが、これは住人が料理をする場所ではなく、ケータリング業者や家政婦が料理をする場所だ。先程のやりとりからすると、もしかしたら寿司職人も来るのかもしれないが、なんにせよ、プロが使うためのものだということに変わりはない。
    「私も手伝う」
    鯉登も尾形についてソファを立ち上がり、キッチンへ移動する。
    「冷蔵庫に作り置きの物があるはずだから、それを出して温めればいい。妹緒さんは私が来る時には絶対に用意してくれているんだ」
    妹緒さんというのは鯉登家の家政婦で、今は通いでこのマンションの家事も請け負っている。音之進もよく知った人で、家を出た音之進が多少の料理が出来るようになったと知ってからは、レンジで温めるだけの物を冷蔵庫に入れてくれている。なにせ住人達は電子レンジの使い方も知らないのだから、作りおくことに意味がない。
    尾形はキッチンの冷蔵庫を開けて、そこに並んだフードコンテナを見て首を傾げる。
    「これ、お前が時々持ってくるやつか?」
    尾形の家の冷蔵庫に収められることの多いそれは、音之進が作れないような物が多いが、明らかに人の手で作られた物で、実家から貰ってきたのかと思っていた。
    「そう。兄さあ達が急に出掛けた時とかに、冷蔵庫の中を貰ってくるんだ」
    二人とも冷蔵庫の中身なんて普段は気にしてないからな。と音之進は言う。
    「実家から貰ってんのかと思ってたぜ」
    「最近は殆ど家には出入りしてないぞ」
    あれこれ持たされて大変だからな、と音之進は言い、フードコンテナの中身を確認する。
    「生ハムはこれか」
    幸いなことに、脚を丸ごとではなく、ブロック状にカットされたものが、冷蔵庫の中に鎮座している。
    「尾形は切ったことあるのか?」
    「バイト先でやってたことがある」
    イタリアンバルで客の前で削いで見せるサービスがあったのだ。できるだけ薄く削げと言われて苦労したのを思い出す。
    「なんとかなるだろ」
    何年も前の話だが、ナイフも持たない人間よりは上手くやれるはずだ。
    引き出しを開けてナイフを探しながら、こいつはなんで、あっち側に残らなかったんだろうと、音之進を見て尾形は思う。
    初めて会ったのは音之進が5歳の頃だ。少しお相手をしてあげて、と母に頼まれて、絵本を読んでやったのだった。
    飽きる程に繰り返し同じ本を読まされて、けれどその度に嬉しそうに笑って、次第に声を重ねてくるようになった。こいつにとっては、同じ事ではないのかと思い至って、自分もそんなだったろうかと思った。
    母が働いていて、父がいなかったから、家にいる母には随分甘えたと思う。母は百之助は手のかからない子供だったと言うが、思い返すとそうでもなかったろうと思う。気に入りの絵本を寝る前に読んでもらうのが好きで、時には母が先に寝てしまうこともあったような気がする。そんな母を見て目を閉じるのが好きだった。
    「お前は、あの人たちみたいに生活したいと思わないのか?」
    尾形は音之進が何かを食べたいと言っても、飛行機の手配なんてしてやれないし、旅行に連れて行ってやることもない。音之進のマンションはここよりは小さいが、それでも十分高級と呼ばれるものだ。本来の音之進はそういうものを選ぶ人間なのだ。
    「兄さあたちと出掛けるのは好きだけど、あの二人の間に入るのは時々で十分だ」
    レンジにかけた料理を皿に移しながら、音之進は困ったように笑う。
    「二人の世界に入ってしまうと、私は身の置き場がない」
    スマホを見ながら黙々と食事をしているだけだぞ。と言われて、やたらと料理の写真が送られてくる時があるなと尾形は思い出す。
    「なるほど」
    「尾形に仕事を辞めろなんて言う気はないし、私はお前みたいに働くのは無理だ。うちの両親だってあんな生活はしていないし、兄さあたちみたいな生活に憧れたことはないぞ」
    音之進は定職に就かず、鯉登家の所有する古文書を研究しては論文を発表している。江戸時代の民俗についてや、明治維新の資料など、種類は多岐に渡っているが、外の人間を入れるには個人的な所有物だという話で、音之進が調べてから資料として外に貸し出されることもあるという話だ。
    それを自分の好きなペースでやっているから、1か月も全く会えない時があるかと思えば、毎日連絡があることもある。本人の言う通り、音之進は会社勤めなんてものは向いていないだろう。
    「だから、尾形がこれでいいと言ってくれているのがありがたい」
    「そうか」
    いろいろ我慢をさせているのではないかと思っていたが、音之進は気を遣うことを知らない人間だから、これは嘘ではないのだろう。
    「それに兄さあたちみたいな生活をできるのは、才能みたいなものだぞ」
    私だって無理だ。音之進は笑い、生ハムを削いでいる尾形の手元を眺める。
    「尾形と一緒にいられるのが一番いい」
    目元を緩めてそう言う言葉に嘘はなくて、その理由が一番聞きたいんだけどな、と苦笑して、それならよかったと返す。
    「こんなもんか」
    皿に並べた生ハムを眺め、あとはテーブルでいいだろうと一息つく。
    「美味しそうだ」
    嬉しそうに笑うその素直さは、いつだって自分を助けてくれることを、尾形は知っている。
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