香りが教えてくれた恋の行く末「葵、今度の土曜日暇?」
「あ、ごめん。その日は黒橡のライブチケット発売日なんだ」
「黒橡、黒橡って、ちょっと時代遅れのビジュアル系どこがいいのよ」
クラスメートの里穂の言葉に思わず苦笑してしまう。
黒橡。堂本大我さんと御門浮葉様のふたりによるクラシック系ユニット。
今年初めにデビューしたばかりで、ふたりが奏でる音色はクラシックのことがわからない私でも引き込まれてしまう。
そして、演奏以外でもふたりはそれぞれ違った意味でカッコよく美しく私は見惚れてしまう。
ネットやテレビ越しで見ていたふたりだけど、ようやく念願のライブ参戦が叶いそうで私は浮かれていた。
「いいよ。わからなくて」
里穂の言葉ももっともだ。
黒橡のふたりは高校生でありながらも人生をどこか達観したところがある。
うちの親なんかも「高校生らしい初々しさというか可愛らしさがないのよね」とぶつくさ言っていたのを思い出す。
だけど、身の周りにはいないタイプだからだろうか、私の周りでも少しずつファンは増えている。
机に置いてあったカバンを肩に掛け帰ろうとしたそのとき、近くからひとつの声が聞こえてきた。それは呟きといってもいいのかもしれない。
「黒橡か……」
声の発信源を確認すると、少し離れたところにいる朝日奈唯ちゃんからのものであることに気がつく。
唯はお弁当を一緒に食べるほどの仲ではないものの、近くの席になったときはよく話している。
そして、彼女は学校を離れることが多いため、その間のノートを貸すこともある。
「朝日奈ちゃんは興味ないよね、黒橡なんて。朝日奈ちゃんは正統派クラシックだから、黒橡とはまたちょっと違うもんね」
同意を求めようと里穂が唯にそう話しかける。
唯はここ星奏学院を拠点に活動するスターライトオーケストラ、通称スタオケのコンサートミストレスを務めている。といっても、オーケストラに詳しくない私にとって、コンサートミストレスの役目は正直よくわからない。ただみんなを演奏面で引っ張らないといけないから大変だと聞いたことがある。
すると里穂の言葉に唯は少し表情を曇らせる。
「うん」
唯が首を縦に振ったのを見て里穂はそれ見たことかとドヤ顔をする。
「だよね? よかった~ 最近黒橡ばっかり話題になっていて、ちょっと心配なんだよね。ポラリスの方があんなに可愛いのにこのままだと事務所も黒橡ばかり推しちゃいそうで」
里穂が自分の追いかけている音楽系アイドルの話をしているのを流しながら私は唯の表情をうかがう。
何か考え込んでいて、今にでもため息を吐きそうな様子を見せている。
最近の唯はずっとこんな感じだ。
前はもっと明るく、のびのびとしていたのに。
そう、京都に行ってから彼女は変わってしまった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「最近いろいろな学校の人がやって来るから、学院内の雰囲気も変わったね」
「そうだね。3年生の桐ケ谷さんとか、2年生の赤羽くんとか、学院にはいないタイプだもんね」
春に発足したというスターライトオーケストラ。
学院内に事務局を置き、まずは学院内の、でも音楽科ではない生徒がメンバーの中心となって発足したらしい。
そして、全国各地に赴いてはメンバーを集めているらしい。
最初に向かったのは茨城。そこでは星奏にはいないヤンキーな雰囲気の3年生の男性が加入してきた。
そして、浜松で今売り出し中のアイドル・ポラリスのふたりが加入してきたり、宮崎では吹奏楽経験のある2年生の男子が加入したりしてきた。
スタオケに加入しているメンバーは練習の関係で星奏を利用していたり、場合によっては単位交換制度を活動して一緒に授業を受けることもある。
星奏にはいない感じの生徒ばかりで彼らは私たちの目には新鮮に映った。
「刑部先輩カッコいいよね」
「あんた、隣のクラスに彼氏いなかった?」
「それはそれ、これはこれよ」
今日もそんな感じでクラスメートたちは盛り上がっている。
そんな中、唯はどこか上の空になっていた。
手にしているのは古文の教科書。
「でも、唯は朔夜とつき合っているから関係ないよね」
そう話しかけると唯は小さく笑う。
「そんなんじゃないわよ」
同じクラスの九条くんとのことを言われると唯はいつもそうやって返す。
九条くんは去年も唯と同じクラスで、結構頻繁に話していた。
だけど九条くんとは仲が良さそうだけど、恋人同士という雰囲気はしない。
どちらかと言うと唯がぐいぐいと九条くんを振り回しているという感じがする。
「そういえば赤羽くんが話していたけど、スタオケってまたどこかに行く予定があるの?」
スタオケのメンバーで、単位交換制度では隣のクラスに在籍している赤羽くん。
明るい彼はすぐに打ち解けてみんなと仲良くしている。
この間もうちのクラスの男子から「いいよな」と言われているのを聞いた。どうもスタオケはまたどこかに旅に出るらしい。
「うん、京都。依頼演奏だって」
「すごいね!」
「うん。前は手違いだったけど、今度はスターライトオーケストラに対しての依頼なんだ」
そう話している割に口調はあまり嬉しそうではなかった。
「京都、嫌なの?」
そう言うと唯は頷く。
「京都いいじゃん! 今の時期は紅葉が綺麗で」
「でも、お寺とか古文のイメージが強くて……」
言われて納得する。
京都と言われて真っ先に思い出すのは中学の修学旅行。
先生たちに「よくみておけ」と言われたものの、よくわからないところに連れ回されてばかりで楽しかった記憶はない。
楽しかったことと言えば、せいぜい自由時間にまわったときに入ったカフェの抹茶パフェが美味しかったのと、夜みんなで先生の目を盗んで話をしたことくらい。
テレビとかでよく見る京都とは程遠くてがっかりしたのを思い出す。
「あと、なんか予感がするんだ」
「予感?」
「うん。こんなこと言うと変に思われそうだけと……」
「そんなことないよ」
「なんか運命を変える出来事が起こりそうな気がする」
そのときの唯の目はなんといえばいいのだろう。
怯えのようにも見えたし、一方で覚悟を決めているかのようにも思えた。
にわかには信じられなかったけど、こういう直感は案外当たりそうな気がする。
ただ私は何と声かけていいのかわからず、とりあえず唯に話し掛けることにした。
「また話聞かせてくれる? 唯の旅先での出来事聞くの面白いから」
「いいよ!」
先ほどまでの憂鬱さは嘘だったかのように消えていた。
それを見て私はいつも知っている唯の姿に戻ったような気がして安心していた。
そう。京都に行く前の唯は満面の笑みを見せていた。
まさか京都から帰ってきた彼女が物憂げな表情を浮かべることになるとは露知らず、彼女の背中を見送ることにした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
スタオケへの依頼演奏は数日で終わるものではなかったらしい。
唯たちが学院を離れてから戻ってくるまでに約2週間掛かった。
出発前は青さを残す銀杏並木も唯たちスタオケのメンバーが戻ってきたときには金色に染め上がっていた。
「なんか朝日奈ちゃん、雰囲気変わったよね」
「うん。落ち着きが出てきたというか」
「窓から外を見て溜め息ばかり」
クラスの仲良い子たちとそんなひそひそ話をする。
京都に行く前の彼女とは打って変わって大人びた雰囲気になっていた。
そして、窓から外を眺めてはため息を吐くことが多くなった気がする。
唯の視線の先には木の葉が音もなくひらひらと舞い落ちるのが見える。
「唯、京都で何かあった?」
話しかけるべきか悩んだ末、私はそっと唯に話しかける。
「何もないよ」
予想通りというべきだろうか。唯はそう答える。表情は明らかにそうではないと訴えているにも関わらず。
「そう…… ならいいけど」
何もないよと言いながらも相変わらず小さなため息が漏れている。
「古文の教科書持っているけどどうしたの。次、数学だよね?」
京都を出る前は苦手意識を持っていたように見える古文。
さっきは現代文の授業だった。そして、次の時間は数学。わざわざ出す必要があるようには思えない。
「うん、もう少し古文勉強しておいた方がよかったかなと思って……」
「そういえば京都行く前に予感めいたことを話していたけど、何か出会いとかあった?」
私がそう聞くと唯は顔をゆがめながら答えた。
「そうね…… 出会いだったかもしれないし、すれ違っただけなのかもしれない」
はっきりとしたことはいわず唯はそう答える。
私たちの距離感だとこれくらいしか言えないだろう。
ふと気になったのは、今回、スタオケに加入したのがひとりしかいないということ。
唯たちスタオケのメンバーが旅から帰ってくるときはいつも仲間が加わっていた。
大抵は2人。
にもかかわらず、京都から帰ってくるときはひとりしか加入していないことだった。
先月行った沖縄では小さな学校ということもありスタオケにはひとりしか加入しなかったからまだわかる。
そして、京都から帰ったときにスタオケに加入したのは鷲上君というとても背の高い男子だった。彼と同じクラスの女子の話だと寡黙でちょっとこわい印象だという。
だけど、その鷲上くんの通っている高校は伝統校でそれなりの規模らしい。そして、彼はひとりで演奏していたようにも思えない。
それにも関わらずスタオケに加入したのが鷲上君しかいないことが引っかかっていた。
唯の憂い顔と京都からは鷲上君しか加入しなかったこと。これらは関係あるのかもしれない。
でも今はそれ以上聞くことはせず、私は唯からそっと離れることにした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
京都から帰った後しばらく落ち込んでいるように見えた唯だったけど、少しすると今度は雪が降り始めた札幌へ旅立ってしまった。
そして、戻ってきたときは例によってスタオケには新しいメンバーが加わったらしい。
もっともその新メンバーは3年生ということで星奏学院にはあまり来ることはなかったけど。
そしてあわただしく年末を過ごしているうち、新しい年を迎えることになった。
「唯、すごいよね!!」
年末に行われたオーケストラの国際コンクールをかけた選考会。
そこでスタオケは見事優勝し、ウィーンでの国際コンクールに出場する権利を得られた。
明日の新学期に備えて友達と連絡していると話題になるのは唯のこと。
みんな最初につぶやくのは「すごいね」の一言。
それについては私も同じだった。
ウィーンか……
横浜は土地柄、海外に関心ある人が多い気がする。
そしてここ星奏学院もやはり富裕層の家庭の子も通っているため、外国に行ったことある人は一定数いる。
だけど、それは一握りで、私にとってヨーロッパというのは無縁の土地だった。
そんな土地に旅行としてではなく学生の代表として行く唯が少し遠い存在になったような気がした。
もう唯には気軽に話しかけられないな。
そう思いながらため息をついていると、また通知が来た。
今度は誰だろう……
そう思いながら見ると割と流行に敏感な紗季からだった。
見れば何やらリンクが貼られている。
「お願い騙されたと思って見て!」
そこは、『黒橡ーデビューPV』とあった。
お正月ムードが収まってきた数日前、注目のユニットがデビューすると話題になっていたことを思い出す。
そのときはふたりの辛気臭い雰囲気でドン引きしていたけど、あらためて見るとそれぞれがタイプが違うイケメンだと思う。
そして、クラシック系ユニットでありながら和を基調としているのか着物を意識したデザインの服は目新しいものだった。
私はイヤホンをして動画を再生する。
すると耳元に迫ってくるクラリネットの音色はどこか切なくそして何かを求めている、そんな音色だった。
それを支える低音も素晴らしいけど、メロディラインを奏でるクラリネットは歌詞がないにも関わらず何か胸を打つものがあった。
私は黒橡のサイトを見ることにした。
クラリネット担当が御門浮葉、そして低音の楽器はファゴットというらしい、その楽器は堂本大我が担当しているということを知った。
御門浮葉。
名は体を表す、その言葉のように雅で、そして美しく、そして儚さすら感じさせる人だった。
なんでデビューしたときに興味を持たなかったのだろう。
そんな後悔をしながら私は公式サイトにSNS、これらを夜が更けるまで見ていた。
「浮葉様、素敵だね!」
「葵はやっぱり浮葉様かー。私は堂本くん」
「そっか。でも、なんかわかる気がする」
始業式、昨日黒橡を布教していた紗季に会うなり、私は浮葉様のことを話題にしていた。
私の反応を予想していたのだろうか。紗季はスマホを取り出して今まで雑誌に掲載されたという記事の写メを見せてくれた。
次から次へと訪れる供給にテンションが上がっていると唯がいつの間にか登校し、着席していることに気がついた。
「あ、朝日奈ちゃん、おめでとう。」
「うん、ありがとう」
国際コンクール出場から時間が経ったからだろうか。
唯は舞い上がっている感じはしない。
むしろ新年とは思えないくらい落ち込んでいるようにすら見えた。
紗季がそっと小声で話し掛けてくる。
「優勝した割には声が落ち込んでいるね」
「うん……」
国際コンクールに向けての練習が厳しいのだろうか。こんなんでは世界で勝てないとか言われているのかもしれない。
でも、だとすれば唯は負けずぎらいの部分もある。
もっとがむしゃらになって練習に取り組みそうだ。
どっちみち私が本当のことを知ることはない。
「これは先週ネットに出ていた記事」
紗季が勧めてくる動画やSNSでの最新情報。
これらに耳を傾けているといつの間にか私は唯の憂い顔のことなんてすっかり忘れてしまった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから私は自分でも驚くくらい黒橡にはまっていった。
楽器なんて誰が吹いても同じでしょくらいにしか思っていなかったけど、やっぱり浮葉様のクラリネットの音色は人の心を揺さぶる何かがある。
そして黒橡ファンとしては先輩にあたる紗季がライブのチケットを取ってくれた。
お母さんの反応が心配だったけど、意外とものわかりがよく、常識の時間内に帰ってくるのであればライブに行くこと自体は大丈夫だった。
黒橡はファンがライブに合わせて喪服をイメージした黒い服を着ていくのがドレスコードとなっているらしく、ライブが近づくにつれどのような服装にするのか投稿する人が増えてきた。
私もみなとみらいまで足を運んで参戦服を買った。
そして、当日を迎えようとしていたのだけど…
「え~、紗季、インフルエンザ!?」
黒橡のライブを翌日に控えた金曜日、紗季から届いたのは彼女がインフルエンザに罹患したというマインだった。
高熱でつらい中連絡してくれてそれ自体はありがたいけど、一緒に行くことを楽しみにしていたため、寂しくて仕方がない。
それに悩みはもうひとつ。
「チケット余っちゃうな……」
チケットは紗季が取っていて、その分のお金は払うと言ってた。
だけど、空席を作るのがもったいないと思ってしまう。
だからと言ってリセールに出すにしても、高熱にうなされている中だと難しいだろう。
どうしようかな……
そう悩んでいたとき、意外な人から声を掛けられた。
「ねえ、葵ちゃん、黒橡のライブ、一緒に行ってもいいかな?」
唯だった。
とても意外な気がした。
正統派クラシックを嗜む彼女がクラシック以外の音楽を聴くことも意外だったし、それに最近は暗い表情を見せることも多いとはいえ、まるで太陽を思わせるような雰囲気の彼女が真逆のエッセンスを持つ黒橡に興味を持つようには思えなかったから。
「いいけど、珍しいね。唯がそう言ってくるなんて」
「うん。黒橡に興味を持つ人はどんなところに惹かれているのか気になって」
ジャンルは違えど音楽で人を魅了するところは同じだからだろうか。唯はそんなことを話す。
話がまとまったところで私は紗季に連絡し、無事に紗季から唯にチケットが譲られるのを確認する。
そして、待ちに待った黒橡のライブの日を迎えることになったのだ。
「やっぱり浮葉様、素敵だね!!!!!」
黒橡のライブはネットで見るよりも何倍も何十倍も迫力があった。
歌声はないはずなのに、浮葉様のクラリネットは私の感情を揺さぶるものだった。
「うん、そうだね……」
唯は小さく同意する。
その瞳には興奮というより戸惑いと衝撃が入り交じっているように思える。
「そういえば意外だったな。唯が浮葉様に差し入れをするなんて」
待ち合わせ時間にギリギリにやってきた唯は何やら花束を持ってきた。
受け取ってもらえないことも覚悟していたらしいが、受付であっさりと快諾される。そんなあたりはやはりクラシック系の流れを引いているように感じる。
花束の中心にある牡丹の花が妙に印象的だった。
「うん、なんとなくね」
唯はそれ以上話すことはなかった。
ファンからの差し入れというにはライブ参戦を決めたのは昨日だし、唯が黒橡にそこまで熱量を持っているようには思えない。
どんな理由があるのか気にしつつも、私はこれからのことを考える。
「せっかく東京来たのだし、お茶でもしていかない?」
すると唯は残念そうにしながら首を横に振る。
「ごめん。このあと楽器店に行こうと思うんだ。結構時間掛かると思うから、別行動にしていい?」
「わかった。気をつけてね」
唯にそう言われ納得したものの、せっかく東京まで来たのだし、普通に喉も乾いた。そこで私はカフェを探すことにした。
表通りはライブ終わりということもあって混雑しているけど、ちょっと入り組んだ場所にあるお店なら入れるかもしれない。
そう思いながら慣れていない路地を歩いていると聞き覚えのある音色が耳に入ってきた。
あのヴァイオリン……!
クラシックに詳しくない私でもわかる。
あの楽しげな音色持ち主が誰であるかを。
人混みをそっとかき分けて見るとそこにはつい先ほどまで一緒にいた唯がヴァイオリンを弾いていた。
一緒にいるのは誰だかわからない。
だけど、唯はまんざらでもなさそうだった。
「唯……」
どうしてここに?
ふと浮かんだ素朴な疑問。
そんな私に答えを示すかのようにひとりの男性の姿が目に入った。
清潔さを感じさせる白いシャツ。それだけを見れば気がつかないだろう。
だけど、腰まで届く長髪と、凛とした雰囲気を持つ様子は明らかに女性ではなかった。
そして、メイクを落としているから印象は変わるものの、あの端正な顔立ちは浮葉様のものだった。
その瞳は唯に向けられており、ライブのときに見せたものとは違う優しいものであった。
なぜこのふたりが?
最初に考えたのはそのこと。
正統派クラシックで活動する唯と、黒橡では接点があるようには思えない。
だけどここでふたりが会っているのは紛れもない事実であった。
きっと私の知らないどこかでふたりは出会い、もしかすると私に、というより世間に内緒でつき合っていて、ふたりは密会の約束をしていたのかもしれない。
そうとしか考えられなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それからどうやって家に帰ったのか正直覚えていない。
乗り換えで間違えることなく帰ることができた自分を褒めてあげたいくらいだ。
お母さんが用意してくれたご飯を食べて、その日はライブの振り返りをすることもなく、寝落ちしてしまった。
翌日の日曜日、重い頭をなんとか起こして、今日という日を起動させる。
機械的に朝ごはんを食べたあとは自分の部屋に行き、なんとなくスマホで動画を見ることにした。
動画アプリを開くと最初に出てくるのはここ最近ずっと心が奪われていた黒橡。
昨日、唯が浮葉様と一緒にいたことを思い出すと胸が痛むし、同時にいろいろな疑問も生まれる。
だけど、浮葉様が美しいという事実は変わらなかったし、その醸し出す雰囲気に惹かれざるを得ない。
イヤホンをしながら黒橡の公式チャンネルの再生ボタンを押す。するともう細部まで覚えてしまったメロディが流れ出す。
「やっぱり浮葉様だな……」
黒橡のふたりは出会ってから一年も経たないうちに結成されたという。そのせいかデビュー時のPVはまだふたりの音色はどこか澄んでいて、相手に対する遠慮すら感じられる。
だけど、今年に入ってから発売されたCDの音源を音源を聴いて私は鳥肌が立った。
それはひとりの女性を恋うている曲で、浮葉様のクラリネットがその恋心を歌い上げていた。
堂本さんのファゴットがしっかり支えているのもあってか、心情がまじまじと伝わってきた。
これは表面上をなぞった演奏とはとても思えなかった。
そして、全体としてはもの悲しいはずの旋律の中に私はそこに一筋の光が見えた気がした。
それにしても。浮葉様が誰かを思って吹いていることはそれなりの人が想像ついているかと思う。それくらいメロディは切々と訴えていた。
だけど、その相手が誰なのか思いつく人はいないだろう。
でも、昨日、浮葉様が唯と一緒のところにいるのを見て、さらにそのときの浮葉様が優しい瞳をしていることを思い出すと誰を思っている曲なのかは明らかだった。
唯だ。これは、この曲は唯に対して訴えている。
あなたが好きです。あなたを想っています。あなたを愛しています、と。それは聴くだけで人の心を打つものであった。
浮葉様が奏でる旋律に心揺さぶられた私はその日、時間が許す限り黒橡の動画を見ていた。
月曜日、唯にどうやって話を切り出そうか考えて教室に入ると、古文の便覧を開いている唯の姿があった。
真剣にだけどどこか楽しく見ている。
ふと思い出すのは浮葉様のこと。
インタビューの動画とかでも浮葉様は和歌や昔の物語に関する教養を絡めて話すことがあった。
その知識を深めるために唯は古文の勉強でもしているのだろうか。
そう思いながら私は彼女に話しかける。
「唯」
そう呼び掛けると、唯は肩をビクッと震わせながらもこっちを向いた。
「葵ちゃん、土曜日はありがとう」
そう話す彼女はいつもの唯と変わりなかった。
そんな彼女に私は話しかける。
「唯、放課後時間ある? 聞きたいことがあるんだ」
「うん、今日はスタオケの練習は休みだから大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ、カフェで待ち合わせでいい?」
「わかった。遅れそうなときはマインするね」
放課後。
約束した星奏学院近くのカフェで私たちはお茶をすることにした。
席に着いてから約5分。
「この間、見たんだ」
何をとは言わなかった。
だけど、唯は何のことかわかったのだろう。
「そっか……」
まずはそれだけを話す。
そして、少しずつ話し始める。
浮葉様との出会いや、そして浮葉様と過ごした時間のことについて。
私はそれについてじっくりと耳を傾ける。
「つまり、一時的にスタオケで活動していたものの、スタオケには入らず、それどころかライバル楽団のグランツに入ったというわけね」
黒橡のファンをしていると自然と覚える浮葉様のプロフィール。
没落している名家の出で、そんな彼の窮地を救うため堂本さんが黒橡として活動しないか動いた。
だけど、浮葉様がリーガルレコードの所属となるまでどう過ごしてきたか語られることはなかった。
そして、唯はファンは知ることはない空白の期間を知っているのだろう。
ううん、知っているどころかともに過ごしている。それもかなり親密に。
「だけど、好きなのかどうかわからないんだ。恋愛感情ではなくて、固執なのかもしれない」
そう話す唯に私は思わず否定する。
「浮葉様は唯のことが好きなんじゃないかな」
「え?」
「音楽のことよくわからないけど、浮葉様の音色からは人の心を動かす何かがあるよ」
信じられない。
そう言いたげに唯は私を見た。
「浮葉様の音色からは、熱烈なメッセージを感じるよ。あなたを愛しています。あなたを求めてやまないですってね。土曜日にふたりがいるところを見て思ったんだ。あれは唯だって。浮葉様が唯を見つめる視線はとても優しかったから」
唯はもともと丸い目をさらに丸くしながら私を見てきた。
にわかには受け入れがたいことなのかもしれない。
私が唯の立場だとしてもやっぱり同じことを考えたと思う。
すると、唯は寂しく笑った。
「実は昨日、あんまり一緒にいられなかったんだ」
私が浮葉様と一緒にいる唯を見たのは本当にたまたまで、あのあと浮葉様はお仕事の予定がありすぐに立ち去ったのだという。
だけど、唯はそこで引き下がらなかったらしい。
「半ば強引にデートに誘ったの」
先ほどまでの表情を一転させ嬉しく笑う。
それは私が知っている唯のようであったし、私が知らない恋をする女の子という感じもした。
浮葉様とたまたま一緒にいるだけでなく、意図的に過ごそうと誘う唯が眩しく見えた。
「それでオッケーしてくれたんだ」
そう話す唯の笑顔を見ていると、浮葉様が朝日奈唯という女の子と一緒に過ごしたいと思う理由がわかった気がする。
こんな風に笑い、自分を思ってくれている女の子に惹かれずにはいられない。
黒橡のファンとしてはとても複雑な心境になる。
だけど、やっぱりクラスメートのひとりとしては、恋愛がうまくいきそうな様子は見ていて微笑ましい。
すると、ぴろろろんと何か通知音が鳴る。
「あ、御門さんからマインだ」
そう言いながら唯はスマホを開く。
マインでやり取りするくらいふたりの距離が近いことを感じると同時に、唯が浮葉様のことを御門さんって呼んでいることに気がつく。
そう思いながら唯の表情が崩れた。
「京都で会わないかって」
「新幹線代は!?」
本当に聞きたいのはこういうことではなかった。
横浜に住む唯がデートするとなれば、横浜か東京、ちょっと足を伸ばして千葉だろう。
まさか新幹線での移動が必要な場所をセレクトするとは思いもしなかった。
しかも、京都といえば浮葉様の出身地。
そこで会うのは意味深な気がする。
「御門さんの都合で京都にしたから新幹線代出してくれるって言ってくれたけど、断っちゃった」
照れながら唯はそう話す。
「会いたいのは私の都合だし、私もスタオケの活動やエキストラの参加で謝礼いただいたりしているしね」
音楽という世界で生きている浮葉様。
そして、目の前の彼女も金額にしたらわずかなものかもしれないけど、音楽で対価を得ている。
それはまるで唯が少しでも浮葉様に引けをとらないように上へ上へと向かっているように感じた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「昨日の黒橡のライブすごくよかったみたいだね。チケット取れなかったから」
「キャパ小さいよね。行きたかったな」
月曜日、教室に入って席に座るなり紗季が話しかけてきた。
私も相づちを打つ。
最近、ますます黒橡は人気が出てきて、チケットは発売日でもあっという間に完売となることが当たり前となってきた。
昨日のライブも同様で、私も紗季も先行発売や一般発売を駆使したものの全滅だった。
だけど、SNSを見ているとそんなプラチナチケットを獲得して人たちがライブを楽しんできた様子が流れてきた。
次こそは行けることを願っているとひとつの声が響いてきた。
「おはよう」
唯だった。でも、その声は少し暗かった。
少し前の唯は浮葉様と京都で楽しい時間を過ごしたのだろうか。
口にははっきりと出さないけど幸せな雰囲気が漂ってきた。
そして、最近はカバンに浮葉様のアクキーをつけるようになっていて、それを大切に触れているときもあった。
そして、今日は新しいアクキーになっている。それは昨日のライブ限定で販売されていたもの。
私には手に入れることができないプラチナチケット。だけど、やっぱり唯なら手にしたのだろうか。そう思って私は唯に聞いてみる。
「唯、もしかすると昨日、ライブに行った?」
唯は周りの目を気にしながら小さく頷く。
そして、ため息を吐く。
「ただ、やっぱりいろいろ重いものを背負っている人で…… 覚悟はしていたけど支えきれるかなって思っちゃった」
「そっか…… でも、浮葉様は唯が近くにいるだけでも違うと思うよ」
「だといいけどね」
「大丈夫だよ」
そんな会話をしていると、廊下から唯に呼び掛ける人の姿が見えた。
「朝日奈さん、いる?」
常陽工業高校の桐ケ谷さんだった。星奏にいないタイプで新鮮味を感じる人も多く、スタオケで演奏するトランペットの演奏を聴いて泣きそうになった人は数え切れないほどで、密かな人気がある。
「さっき廊下でたまたま会ったんだけど、篠森先生が用事あるって。放課後、木蓮館に来いって」
「はい、ありがとうございます。」
そう答える唯だったけど、私はそんな彼女にひとつの変化を感じた。
「唯、変わったね」
「そう?」
「うん」
前はもっと九条くんを引っ張ったり、桐ケ谷さんたちとわいわい騒いだりそんなのが似合う彼女だった。
もちろん今でも九条くんは唯に引きずられている感じは否めないし、桐ケ谷さんたちスターライトオーケストラのメンバーとも楽しくやっている。
だけど、前よりもずっと落ち着いた雰囲気になった気がする。
ふとそのとき、わずかな香りな漂ってきた。
何の香りかわからないけど、高貴さを感じるものだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「浮葉様とはどお? 相変わらず連絡取り合ったりしているの?」
期末テストが近づき、クラス全体がだんだん重い空気になってきた頃、玄関から出る唯とばったり会った。
話の流れは自然と浮葉様のことになる。
幸せそうな笑みを見せることを予想していたけど、唯が見せたのは悲しそうな顔だった。
「浮葉さんから連絡来ないんだ」
忙しい人だしね。
それにいろいろ事情を抱えていて、今は唯に力を借りる時期ではないのかもね。
でも、落ち着いたら連絡くれるよ、きっと。
そう励まそうとしたそのとき通知音が鳴り響いた。発信源を探ると唯のスマホだった。
そして画面を見るなり唯は驚いた顔を見せる。
「今から来てくれないかって。浮葉さんが」
「どこに!?」
「京都の浮葉さんのおうちにだって」
「京都に!? 今から!?」
休日に朝出発して夜に帰ってくるのとは違う。
今から到着すれば夜になるだろう。そして、明日も学校がある。
本当なら年上の男性、しかも芸能界に身を置く人がともに夜を過ごそうともとれるような誘いをしていることを考えると止めるのがクラスメートとして正しい姿なのだろう。
だけど、私が知る限りでも浮葉様はいろいろなものに巻き込まれてきた印象はある。そして、そこから救えるのは唯だと思えた。
私は唯の背中をポンと押した。
「唯、いろいろあると思うけど…… 気をつけてね」
「ありがとう」
そう言って彼女が向かった先は木蓮館でもなく菩提樹寮でもなく、駅の方角だった。
彼女が、そして浮葉様がたどる運命が納得する形になることを願いながら私は運命に立ち向かおうとする唯の背中を見送った。
翌日、唯は学校に来ていなかった。
担任の話によると用事があるため、午後からの登校になるとのことだった。
スタオケの用事で休んだり、遅刻や早退をすることがあるため、クラスメートも特段騒いだりはしない。
だけど、昨日、唯が浮葉様からの連絡をもらった場面に出くわしている私は唯の遅刻の理由を確信した。
恋人同士として仲睦まじい時間を過ごしたのかもしれないし、そうではなくもっと違う真剣な話をしたのかもしれない。
あるいは浮葉様と会ったのはほんのわずかな時間でそのあと唯は京都観光を楽しんでいたのかもしれない。
何をしていたのか、そして何をしているのかわからないけど、彼女が今日の午前中は学校に来なかった。それは紛れもない事実であった。
すると、昼休みも終わる頃、唯が教室に姿を見せた。
「この不良娘!」
思わずそう声を掛けてします。
「そんなんじゃないわよ」
そう返す唯の声はどこか気だるさと、そして甘さすら感じる。
その声から私は察する。
浮葉様が抱えていた問題、それはある程度解決したのだろう。そして唯もそんな浮葉様とも関係が深まったのだろう。
するとそのとこ唯の身体からいい香りが漂ってくる。
この間も感じたのとおそらく同じもの。
その香りから一人の存在を感じて私はドキッとする。
少しずつ遠くなっていくように感じていたクラスメート。そんな彼女が確実に私たちから離され、それとなく誰のものであるのか所有を見せつけられる。
そんな気配を感じて私はどこか寂しくなった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから間もなく私たちは3年生となった。
文系クラスを選んだ私だけど、同じクラスには相変わらず唯の姿があった。
机に向かって読んでいるのは新しい古文の教科書。
「朝日奈ちゃん、音楽科に行かなかったんだね」
進級前に学校中で唯と九条くんはスタオケでの活躍が認められて音楽科に転科するのではないかと噂されていた。
だけど、結局私たちと同じ普通科の制服を着て同じ教室にいる。
「うん、実力不足だし、あと竜崎くんから教養も必要だと言われたから」
私には唯が実力不足だとは思えなかった。だけど、本人がそういうにはそういうことなのだろう。
それに竜崎くんが話すように、一般教科を学ぶには確かに普通科の方がいい。
(浮葉の音色もよくなった描写)
すると私の鼻孔にこの間感じたのはこの間と同じ香りだった。
私にはおそらくこの先も縁がない高貴な感じのする匂い。
ああ、きっと話していないだけで唯は浮葉様と親密になっている。
姿は見えないけれど、それはまるで浮葉様が唯を包み込んでいるようにすら感じた。