実りの秋横浜の星奏学院に来て一週間。
鷲上源一郎は菩提樹寮の塔でオーボエを吹いていた。
窓から差し込む光は木の葉が色づく秋にも関わらず強く入り込んでくる。
ー横浜の秋は随分と明るいものなのだな。
練習の手を止め窓から外を見る。すると、晴れ渡る青空が広がっており、源一郎は目を奪われた。
思えば青森の秋は短く、今日のような日もないわけではないが一瞬で終わり、間もなく冬の訪れを待つような冷たく重い空に変わっていった。
そして先日まで過ごした御門邸は庭の花を始めとして秋の趣を感じることも多々あったが、屋敷の作りが機能的とは言えないため秋になるとどこか肌寒さも感じていた。
今日のような暖かい日差しを感じる秋というものは滅多にないことのような気がする。
「喉が乾いたな……」
強い日差しに加え、思いの外練習に打ち込んでいたらしい。喉の乾きを感じたため、源一郎はキッチンへ向かうこととした。
「鷲上くん!」
キッチンに行くと、朝日奈唯が包丁片手に何やら悪戦苦闘していた。
見れば山のように柿が置いてあり、それをひとつひとつ剥いているようだ。
「すごいな……」
それしか言えない自分が恨めしい。
これが成宮ならもう少し表現豊かに伝えたのだろう。だが、自分は口下手なためこれしか言えない。
「うん。竜崎くんが親戚の方からいただいたんだって。竜崎くんはオケ部の用事で学校に行ったから、代わりに切っているんだ」
そう言いながら慣れない手つきで柿を切っていく。
見ているだけでハラハラしてしまい思わず言ってしまう。
「俺も手伝っていいだろうか」
唯が驚いた顔をして自分を見つめてくるのがわかる。
「浮葉様の元にいたとき、柿なら切ってきたから、多少なりとも役に立てるかと思う」
「そういえば、京都にいたときも御門さんからたくさんの柿をもらったもんね」
そう、この間まで身を置いていた御門家は凋落の一途を辿っているとはいえ、昔からの馴染みは季節ごとに贈り物をしてきた。
柿もそのうちのひとつで、「私ひとりでは食べきれないからね」と言う主の言葉により、書生の自分も口にする機会があった。そのため、扱いには多少なりとも慣れている。
唯が台所から包丁とまな板を探し出し源一郎に渡してきたため、ふたりは黙々と柿を切る。
「御門さん、何しているのかな……」
ふとした瞬間、唯の口から漏れてきたのは、ほんの少し前まで源一郎が仕えていた者の名前。
破門されるときに殴打された頬の痛みは引いたものの、心残り中では癒えぬ傷としていまだ残っている。そして、それは当分引きずるであろうことも感じている。
そして、似たような想いを抱えているのは隣にいるコンミスも同じなのだろうか。
みんながいる前では元気に振る舞おうとしているが、今のように他の者がいないときは溜め息を吐いていることに源一郎は気がついていた。
包丁の音が響く中、源一郎はふとひとつのことが気になった。スターライトオーケストラと関わってから抱いていたひとつのことを。
「ところで俺はスターライトオーケストラの足手まといになっていないだろうか」
すると、隣にいた唯が勢いよく源一郎の方を振り向いてきた。
「何言ってるの!? そんな訳ないじゃん」
語気の強さに彼女自身驚いたのだろうか。小さくごめんと呟き、そして続けてくる。
「音色が安定しているから、頼もしいよ。御門さんのところで練習を積んできたんだとわかる音だよ」
唯に言われて思い出す。
青森の家を飛び出したものの、事情がありステージに上がれなかった日々。
そんな中でもいつかステージに立つ日を夢見て練習を怠らなかった日々。
楽器は違えどそのように導いてくれたのは浮葉であったことに。
「柿って栄養素たっぷりなんだってね」
山のようにあった柿も残り一個となった。
先ほどより慣れた手つきで切りながら唯はそう話す。
「京都にいたとき御門さんがたくさんの柿を分けてくれたけど、きっと御門さん、鷲上くんのことを大切に思っていたんじゃないかな。健康でいてほしいって」
そうだったのだろうか。
もしかすると優しさはもちろん、最後に見せた厳しさも主なりの思いやりだったのかもしれない。
まだ自分の中では納得できていないが、いつの日か腑に落ちる日が来るのかもしれない。そんな風に思えてきた。
すると、最後の一個を切り終えた唯が源一郎に向かって話し掛けてくる。
「ところでもうじき文化祭だけど、後夜祭があるの知ってる?」
「後夜祭……?」
初めて聞く内容であった。
そもそも星奏学院自体、単位交換制度を利用してこの間から通い始めたばかりだ。
文化祭が近づいているのは同じクラスの者たちが準備を進めていることで察していた。ただ詳細についてはいまいち把握しきれないでいたが。
「男子が女子を誘ってダンスを踊る行事があるんだ」
言葉振りから察するに、ダンスと言っても、フォークダンスでなければもちろん盆踊りでもなく、おそらく社交ダンスだろう。しかも、結構本格的な。
「去年は誰とも踊らなかったんだ」
「そうか……」
寂しそうに笑う唯に対して源一郎はそれしか答えられない。
一年生のときの彼女は所属オケの解散や音楽科に落ちたことなどが重なり、今ほど笑顔を見せていなかったと聞いたことがある。
しかし、今年は成宮もいるし、見た限り他のメンバーとも仲が良さそうなため、パートナーには事欠かないだろう。そんな気がしてならない。
そもそも自分は身長が高すぎるため、仮に立候補するとしてもダンスのパートナーには不向きだ。
「朝日奈、大丈夫だ。今年はパートナーが見つかるはずだ」
そんな風に話し掛ける。
すると、源一郎のその言葉に唯が少し悲しそうに頷く。
そのことに驚くが、あいにく心当たりがない。
そして、源一郎も胸が痛むのを感じながら後片付けをすることにした。
一年後。
二度目となる横浜で過ごす秋。
澄みきった空と強い日差しにはまだ慣れない。
だけど、菩提樹寮で過ごす日々には慣れてきた。
そして、源一郎は最近全体練習前のチューニングの時間が楽しみであることに気がつく。
コンサートミストレスである唯と目が合い、そしてほんの一瞬だけふたりの音が重なり合う。
これから始まる練習に向けての大切なチューニングだとわかっていながらも、源一郎はその一時が楽しみであった。
そして、今年も文化祭、そして後夜祭が近づいてきた。
昨年も結局、唯は誰とも踊らなかったという。成宮あたりが誘うかと思いきや、どういうわけか彼も唯を誘うことはしなかったらしい。
今年の彼女はどうなのだろう。既に誘いを受けた相手がいるのか、それとも誰かからの誘いを心待ちにしているのか。知りたい気持ちがないと言えば嘘になる。しかし、その感情がどのような気持ちから来るのか源一郎にはわからなかった。
「今年もすごいな……」
日曜日の午後、練習の合間にキッチンに行くと段ボール一杯に詰められた柿があった。
「あ、源一郎くん、ちょうどよかった。ほら、見て。御門さんからだよ」
宅配便の送り状を見ると確かにそこにはかつて仕えていた者の名前が書かれている。
丁寧な筆跡は確かに本人のもの。
すると、唯が少し不安な様子を見せながら源一郎の顔を覗き込んでくる。
「一緒に切らない? 源一郎くん、去年切ったけどとても上手だったし」
「ああ」
いったんそう返事をし、源一郎はポケットからスマートフォンを取り出し、浮葉に電話を掛ける。彼の事情がどうであれ、礼を述べておきたかった。
出ない可能性もよぎったが、呼び出し音が二回鳴ったところで懐かしい声が響いてきた。そして続けてくる。
『食べきれない程の柿をいただいたからね。スターライトオーケストラは大所帯だしちょうどいいのではないかと思ってね』
「ええ、卒業した先輩方も足を運びますし、新入生も入ってきましたから」
『そうかい。それは頼もしいことだろうね』
電話の向こうからは安堵の溜め息が漏れていた気がする。浮葉も浮葉なりにスターライトオーケストラのことを案じていたのだろうか。
だとすれば嬉しい。そう思っていると、電話の向こうから思いもよらないことを言われる。
『ところで源一郎、後夜祭、とやらに彼女を誘うのかい?』
「どこからその話を」
浮葉はそれには答えない。ただ「健闘を祈るよ」。それだけを伝えてくる。
すると、キッチンから唯がこちらをうかがっているのが見える。
電話を掛けたのが誰であるか察しはついたのであろう。
そして彼女なりに心配してくれているのであろう。
ふとそんな彼女がかわいいと思えた。
そして、源一郎はようやくチューニングの瞬間を楽しみにしている気持ちが何から来るものであるのか理解した。
「朝日奈、ちょっといいか。頼みがあるんだ」
「今年は源一郎くんに誘ってもらえて嬉しい」
後夜祭当日、源一郎は唯とダンスを踊ることとなった。
浮葉との電話のあと、彼女をダンスに誘ったところ、即答でオッケーの返事をもらうことができた。
「もう少し身長が低ければよかったのだが……」
「そんなことないよ。バランス崩しても源一郎くんが支えてくれるという安心感があるから」
慣れないダンスに加え、自分の身長が高すぎるため、どうしてもスマートにはならない。
だけど、自分の思い違いでなければ手を握っている相手の唯はそんな状況でも喜んでいるような気がする。
そして、源一郎自身も自分の中に幸福感と高揚感が入り混ざっているのを感じる。
浜松で見掛けた憧れのスターライトオーケストラのコンサートミストレス。だけど、時間は掛かったけどそれだけの感情でないことをようやく自覚する。
やがて後夜祭は最後の曲が演奏される。
今日を逃したら伝えるチャンスはないかもしれない。自分と彼女の関係性を変えるひとつの言葉を。
そう思いながら源一郎はそっと唯に話し掛ける。
「コンミス、このあと、少しだけ時間をいただけないだろうか? 伝えたいことがあるんだ」
フィナーレの音楽とともに呟いた言葉。
目の前の唯がこっくりと頷く様子がとても愛らしかった。