商売柄、客の顔はそれなりに覚えている。特に飯を食ったあとの表情は次に店に来た時出す料理の味付けの参考になるし。
もちろん、忘れてしまったり思い出すまでに時間がかかることもあるけど、その思い出せない相手のことをいつまでもどこで会ったのか思い出そうとする自分というのはあまり覚えがなかった。
眇めた目で俺のことをみていた天狗の男。桔梗色の瞳や、枯れ草色の柔らかそうな髪にはどことなく覚えがある気がして、男が店を出てからもずっと気にかかっているままだ。
下がり気味の眉、薄い唇。厚着していても痩躯だとわかる身体付き。小さなひとくちに、食べたときに目を見張る癖。
そう、あの表情を俺はどこかで見たことがある。美味いか?と聞いた時見張った目が和むように細められて美味しい、と答える幸せそうな声もきっと。
……名前、聞いてみればよかったかも。
そしたらもしかしたらこの形になりきらないモヤモヤが晴れてあいつのことを思い出せたかもしれないのに。まあ、あまり出来の良くない頭では名前の方も覚えていないかもしれないけど。
「おい、ネロ。ネロ、聞いてんのか?」
「……んあ?」
「なに腑抜けた声出してんだよ。突っ立ったまま寝てんのか?」
「うるせえな。考え事してただけだっての」
「てめえがこの間店に連れてきた天狗のことだろ」
……バレてやがる。目ざといところは変わらないし抜け目のない奴だな。それとも俺が分かりやすすぎるだけか。
「ここらじゃ見ねえ面だったな」
「ああ……」
考えに没頭していたせいで止まっていた手を動かす。今日は山に山菜を取りに行くつもりだった。背負子を背負うとブラッドに軽く手を上げる。
「とりあえず行ってくる。俺がいないからって仕込み途中のもんつまみ食いすんなよ」
「うるせえよ、心配ならとっとと帰ってくるんだな」
「へいへい」
考え事して足滑らせて転けたりしねえよう気をつけないとな。
気をつけないと、と思っていたのにやはりあの男のことが頭を過ぎってしまって気づいたら見事に道に迷っていた。
「ん~……どっちから来たっけな」
いっそ飛んで方角を確かめようかとも思ったが山菜を摘み終えてからでも遅くはないだろうか。
「……何をしている」
「うぉっ!?」
上から訝しげな声が聞こえてきて俺は飛び跳ねそうになった。見上げると太い枝に腰を降ろした天狗と目が合う。
「……あんたは、この間の」
「……ファウスト」
ファウスト、と口の中で飴玉を転がすように呟いてみる。相手はそれを聞いて目元を和らげた。
「僕の名前」
「俺はネロ。よろしくな、ファウスト」
ファウストは何かを言いかけて、躊躇うように視線を泳がせて、俺をみる。なんだろう、変なことでも言ったか?……よろしくされたくなかったか、もしかして。
「道にでも迷ったのか?」
「はは、そうみてえだ。山菜摘みにきたんだけど」
「そう。この辺りは迷いやすいからな」
「あんたも道に迷ったのか?」
問いかけながら、あまりそういう風には見えないな、と首を傾げる。むしろ街中にいる時よりも自然体に見えた。
「いや。僕は山に住んで長いからこの辺りは庭みたいなものだ」
「へえ」
それで街で見かけた記憶がなかったのか。でも、こいつのことを知ってるっていう違和感に似た確信は消えないんだよな。
「なあ、そっち行っていい?」
「構わないけど……」
向こうが降りてくる気配がないので問いかけると意外だったのか目が僅かに丸くなった。そういう顔をするとあどけない感じがして可愛く見える。そしてその表情にはやはり既視感があった。
「よっと」
ファウストが座っている枝まで飛んで、握りこぶし三つほど間を空けて座る。
「いい眺めだな」
「ここから夕日を眺めるのが好きなんだ」
まだ昼時だけど、とファウストは空を見ながら口にした。昼時だったのか、腹が減るわけだ。
「よかったら一緒に食わねえ?」
竹の皮に包んだおにぎりとぬか漬を見せるとだが、とファウストは眉を寄せる。
「きみの分が減るだろう」
「いいよ、多めに作ってきたから」
「……それなら、ひとつ頂くよ」
「あんたみたいに細いやつ見てるとたくさん食わせたくなっちまう」
ふっとファウストが吐息で笑う気配がした。そして何か呟いたけど、突風が吹いて聞き取れない。
「悪い、なんて?」
「なんでもないよ」
手ぬぐいで手を拭いて、二人並んでおにぎりを頬張る。
「美味い?」
「うん、きみの味だな」
「……?そうか?」
まるで、ずっと昔から俺の飯を食ってたみたいな台詞に疑問が浮かんだけどファウストに真意を語るつもりはなさそうだった。
「口元に米粒が付いてるよ、ネロ」
「え、どこ?」
「じっとしてて」
そういってファウストがさっき使った手ぬぐいではなく手巾で俺の口元を拭う。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
そういって柔らかく笑うファウストの顔を見続けるのがなんだか猛烈に照れくさかった。
腹が人心地ついてから、俺はファウストと一緒に山の中を歩いて山菜を摘む。食い終えたらそこでお別れかと思ったけれど向こうも今日は山菜で夕餉にすることにしたらしい。
背負子がいっぱいになり、日も落ちてきた。
「そろそろ帰んないと」
「送ろうか?迷ったんだろう」
「いや、飛んで帰るから平気」
本当をいうともう少しだけ一緒にいたい。けど、そんなガキみたいなわがままを言えるほどの距離は許されていないだろう。天狗の翼があることが少し恨めしい。
「なら、せめて道案内をつけるよ」
少し待って、とファウストが葉っぱを一枚ちぎると草笛を鳴らした。音に惹かれたように小鳥が飛んでくる。
「はは、くすぐったいよ、お前たち。彼を街まで送ってやってくれないか」
ファウストが小鳥と戯れる姿は奇妙な懐かしさで俺の胸をいっぱいにする。
「……ネロ、どうかしたのか」
「え?」
驚いたような顔で問われて俺は頬を伝う涙にようやく気づいた。
「わ、悪い。なんかあんたをみてると妙に懐かしくて……」
格好悪い。ガキみたいな真似はできないと思ったばかりなのに子供みたいに泣いてる自分が情けない。
「……覚えてるのか?」
「……え?」
覚えてるのか?何を?……誰を?──……ファウスト、を?
軽い混乱に涙が止まる。ファウストはすこし困ったような顔で涙のあとを拭ってくれた。
「いや、なんでもないよ。気をつけて帰りなさい」
「……なあ、また、会える?」
きゅっと眉が寄る。聞いてはいけないことだっただろうか。撤回しようとして、でもしたくなくて。
「きみが望むなら、いつでも会えるよ。その小鳥をきみに預けておこう。僕の家はその子が覚えているから、手紙をくれたら会いに行く」
「……わかった。今日はありがとうな」
「暗くなってきたから、気をつけて」
そこで見送ってくれるらしいファウストに飛びながら手を振って、俺は小鳥に導かれて街へと帰っていった。
草笛の音がすると嬉しそうにやってくる小鳥たち。くすぐったいよ、と笑う子供特有の少し高い声。
俺が食い物を手のひらにのせて差し出すとそれを啄んで、お礼に歌を聞かせてくれた。
それを聞いている枯れ草色の髪をした男の子。
美味い?と聞けば美味しい、と笑ってくれた。
川辺はそのときの俺たちの秘密基地みたいなもので、名前しか知らない同年代の友達と遊んだ宝物みたいな記憶がたしかにあって。
また明日、そういって日暮れに別れる日が続いて、それがずっと続くと思ってた。
最初に来なかったのは、ファウストのほうで。次の日から俺は川辺に通うことをやめた。
──怖かった。俺と遊ぶのに飽きたのだとしたら。なにか理由があって来れなかったのではなく、来るつもりがないからこないのだとしたら。
だから、俺のほうから思い出を捨てるようにして、未練に蓋をして、やがて過ぎ去った年月がファウストの姿を雨が石を丸くするように朧にした。
それでもまだ、あんたを覚えてる。それなのにまだ、あんたを覚えていた。
目が覚めて、涙が一筋流れているのを自覚した。
自分から切り捨てたくせに、探す勇気も、問いただす度胸もなくて逃げたくせに。
──俺はずっと、泣くほどあんたに会いたかったんだと知らされる。あんたに俺の料理はいつも美味いよって言って欲しかったんだと思い知る。
「……ファウスト」
噛み締めるように、その名前を呼んだ。
なあ、あんたは俺を覚えてる?そう聞くのは、まだやっぱり、少し怖いけど。
手放さないよ、今度はその手を。たとえもう隣に立てなくても。