カフェにふたり 新マイカ街、大通りから一本奥に曲がった通りで乾いた発砲音が鳴り響いた。
数少ない目撃者の悲鳴とともに誰かの叫びが聞こえる。
「救急車を!」
ライラックのシフォンワンピースの女の声が辺りに聞こえたのだった。
ブロッサムの病院では弾丸の摘出手術を受けた女性が既に個室に運ばれていた。
彼女の隣にはひとり、目を引く美貌の男性が椅子に座っていた。彼女が目を覚ますのを待っているのだろうか、厚い本をぱらぱらと捲っている指は細い。
風が吹く。その風に誘われるように女性の目が覚める。
「ナデシコ嬢、お目覚めですか」
「付き添ってくれてありがとう、チェズレイ。私は何日眠っていたか」
「一日ですね」
その言葉を聞いたナデシコは首を傾げた。体に不安があるわけではない。ただなにかを反駁しているようだった。
「しかし今回はおかしいな」
ナデシコの言葉にチェズレイが首を縦に振る。
「今回の外出はグループウェアの予定表にも入れなかったし、君との食事ではなく女子会とだけ秘書に口頭で伝えたから知る者も多くない」
「電話とネットは」
「シキが抜き打ちで調べている。報告は勿論私のところに届いているし結果は全員シロ。内部に手の者がいるかもしれない。だが表立って捜査は出来ない。明日にでも退院して現場復帰してから追い詰めようと思うが」
そう言い切ったナデシコの眼前には椅子から立ち上がったチェズレイが態とらしく肩をすくめるとはあと溜息をつく。
「お薦めできませんね。それに――」
チェズレイが続きを発する前に内密にされた貴賓室へとせわしない足音が聞こえると、ナデシコの入院している部屋で止まった。
「ナデシコちゃん!」
「どうしたモクマ」
「大丈夫? 怪我はひどくない? 後遺症とかない?」
心配するモクマの動きにナデシコは苦笑する。一緒にいた頃よりも明らかに動きも多い。
「よく喋るようになったな」
「まあね。君が俺を外へ出してくれたお陰だよ」
空気だけが部屋を満たす。
「しかし誰から聞いたんだ」
警察の誰にも言ってないぞとナデシコが言うのを遮るようにモクマが言い始めた。
「チェズレイが病院から出られないと言ってていたからね。今日はナデシコちゃんとデートと聞いてたからどちらかになにかあったのかなって。それにその体で退院はよくないし、チェズレイからも暫くは周辺を警備しろって言われてるし」
モクマの言葉にナデシコは眉を顰める。
「チェズレイ」
「はいなんでしょうナデシコ嬢」
「私は退院すると言ったし、今回の事件は解決してないぞ。捕らえなくていいのか」
「私はお薦めできないと先程お伝えしました」
悪びれることもなくチェズレイはナデシコに言い放つ。
「なら私を納得させる理由をくれ」
「承知しました」
その言葉を待っていたかのようにチェズレイはナデシコに語り始めた。
「まず、ナデシコ嬢のスケジュールは今回の私とのお茶会は記録されていなかった。更に予定を伝えたのは数人のみ。ハッカー殿の定期調査がシロならば、短期間で何かしら警察の中で都合が悪くなった誰かの犯行が疑われる。それこそナデシコ嬢の失脚を願う誰かが。執務室の近くで働いている誰かがナデシコ嬢を狙わないとは限らない。気付かれずに相手を特定させるならば」
淀みなく話すチェズレイの腕ががモクマとナデシコの二人の視界を遮るように肩に掛けていたショールを動かす。
「私が潜入しましょう」
一分もかからずしてチェズレイのいたことろには服以外寸分違わぬ容姿のナデシコがいた。
「ナデシコ嬢は退院したということで翌朝から私が出勤。怪しい人間をあぶり出している間は病院で休まれてください。もしその間にナデシコ嬢が狙われても問題のないよう、モクマさんを待機させます。それで、よろしいでしょうか」
ナデシコの首は動かない。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
優雅な指の動きをしたナデシコの声のチェズレイが返事をする。
「何故ここまでするのか。君は巻き込まれただけだぞ」
「モクマさんの恩人であり、私の数少ない友であるあなたの役に立ちたい、では駄目ですか?」
「それは嬉しいが他にありそうだなと思ってな」
短いが濃い付き合いをした三ヶ月余りを振り返っても襲撃事件に巻き込まれるだけとはナデシコは思ってもいない。
「徹底的に相手を排除します。なにせこの私の目の前で起きたのですよ。出し抜かれるのは癪ですので。背後に組織があるようならその芽を摘むまでです」
復讐だけでなく、少し愉しむ素振りを見せるチェズレイに何かを言うのは野暮だとナデシコは確信し、一拍目を閉じるとはっきりとチェズレイに言い放った。
「いい目だ。では頼んだぞ」
そこからのチェズレイは生気に満ちた眼で公安警察の周囲を見回した。彼女の直近の部下である三人にはシキを通して内容を伝えている。拙者が……と申し出たゴンゾウには不審な挙動をしている部下を目で追って欲しいと伝えたところ、ひとり、総務にいる部下の動きが怪しいとの連絡を受けると、シキに数日分のグループウェア、メール、パソコンの接続履歴を詳細に報告せよとの言葉に文字通り迅速に返ってきたデータを分析し、シキとイアンの二人で極秘に敵の本拠地へ向かわせた。
二人が出たあと、チェズレイは男を呼び出した。
「君か? 私の外出予定を漏らしたのは」
屋上に呼び出した男の腰には拳銃がついていた。
「ヒイ! ちか、近寄らないでください!」
そう男は言いながらも銃を構える。拳銃を持ったことのないだろう細い腕ががくがくと震える。
「君は借金のカタに私の情報を売った。長官暗殺後には借金がなくなるという甘言を鵜呑みにして」
「ああああごめんなさいごめんなさい」
男の声も表情も錯乱している。
「実行犯が私を倒せなかったら復帰日に君が撃てと命令された」
拳銃を構える相手にチェズレイは近寄る。男の構える拳銃の銃口はずっと震えたままだ。
「今からそれを実行しようとしているのだろう?」
だから私が屋上に先に呼んだと男に告げると肝の冷えるような冷たい口振りで男に告げた。
「失敗すれば君の命はないと」
「ああ……あああっ!」
乾いた拳銃の音と同時に死角から男に目掛け弾丸が放たれ、男の肩を射貫いた。
「あああああ!」
体が床に崩れ落ちると同時に男はありえない光景を見た。
銃を躱し、宙を舞うナデシコと、自分の肩に銃弾を当てたナデシコが二人いた。
その音と同時に警備員に成りすましていた協力者が複数名雪崩れ込むと、宙を舞ったナデシコを抱えたモクマと銃を放ったナデシコを護るようにゴンゾウが鈍い蹴りを協力者に放った。
「いい蹴りだゴンゾウ」
「がら空きな背後を守るのが拙者の使命」
「あァモクマさん、そのひりつく刃を容赦なく浴びせるなんてェ」
「遅くなったねチェズレイ」
男の薄れゆく記憶のなかで、ナデシコが白金色の髪をした長身の美貌の男に変化するのが見えたのだった。
発砲事件が起きて数日が過ぎた頃。
ナデシコとライラック色のシフォンワンピースを着た女性が共にケーキを食べていた。
「一緒にケーキを食べて大丈夫なのか、チェズレイ」
「ええ、ナデシコ嬢の退院祝いを兼ねて。モクマさんは生クリームが苦手ですし、私だけで行っておいで、と」
「そうか」
シャンパンを口に含んだナデシコは一緒に頼んだサンドウィッチを口に含むと視線だけを左右に動かした。
「ええ。綺麗なお金が出所なのでご安心を。そういえば私達のお祝いだけだというのに気配を消そうとしているお目付役がいるようですね」
「おそらくな。まあ気にするな、おそらく再び発砲事件が起こらないようにと過保護になっている奴がいるんだろう」
ナデシコの言葉に茂みから葉が一枚落ちる。その様子を微笑ましく見ながら変装したチェズレイはクスリと笑った。
「そうですね。私にもひとりいるようですし。では遅くなりましたがこちらが約束のフラッシュメモリです。ナデシコ嬢の希望したものが入ってますので」
「ありがとうな。これで一網打尽にできそうだ」
「そうそう、先日の襲撃犯とその一味の情報もついでに入れましたので心ゆくまでご活用ください」
変装したチェズレイが白いレースの手袋を纏ったままフラッシュメモリをナデシコに渡した。
「ありがとう。そういえば歌姫さんがベースの化粧について相談したいと言っていたぞ。そのときは私も呼んでくれ」
「勿論、構いませんよ」
にこりと微笑むチェズレイに先程葉が落ちた茂みが風もないのに揺れ出した。
(出るんだろう、モクマ。早く出ていかぬか)
(そんな勝手に出たらゴンゾウもナデシコちゃんに叱られちゃうでしょ!)
茂みに誰がいたかはナデシコやチェズレイにも判りきっていた。
その様子を面白く観察しながらナデシコとチェズレイはその日二つ目のケーキを食べたのだった。