【アスカガ】首都、オロファト郊外に構えるアスハの本邸がある敷地は、本館の他に別館や庭園なども兼ね揃えており、とても広い。
敷地をぐるりと取り囲む塀に沿って、早朝のロードワークを終えたカガリは、熱めのシャワーを浴びてさっぱりした後、バスローブを羽織って腰紐を緩く縛った。
濡れた髪を無造作に拭いながら寝室に続く扉を開けると、そこには先ほどまで居なかったはずの人物が、机の上に置いてあった封筒を手に取っている所だった。
扉の開く気配に振り返ったアスランは「ただいま」と、柔らかく目尻を下げる。
ザフトとの会合でプラントに赴いていたアスランは、予定では今日の午前中にはオーブに帰国する手筈になっていた。
「おかえり、今帰ってきたのか?」
「ああ、でもこれを取りに立ち寄っただけで、10分後にはおもてに車を回して貰うことになっている」
「そっか、お疲れ様……言ってくれれば届けさせたのに」
「この時間だったら君もまだ屋敷にいるだろうと思ったから」
慌ただしくも、空き時間の隙間を縫って顔を見に立ち寄ったのだ、と言外で伝えられたカガリは、アスランの体調面を気遣う気持ちを抱きつつも、わずかな逢瀬を望むアスランの気持ちに照れくさい気分になる。
「プラントから直で戻ったんだろう? 時差ぼけは?」
「それはないが、行きと帰りの移動も含めて滞在中は、ずっとSPに張り付かれていて、気疲れの方が大きいな……」
珍しく弱った顔をしたアスランは、インナーのファスナーを下げて首もとを寛げると、ドサリとベッドに腰掛けた。
疲れた、という台詞に嘘は無いようで、精悍なカガリの旦那様の顔には、疲労の影が色濃く滲んでいるように見える。
下手に護衛に守られるよりも、自分が前線に立つ方がよっぽど戦況をうまく誘導することができる男だ。警護する者から、警護される者に変わったばかりのアスランにとって、必要以上に人に注目されるのも、人に合わせて行動するのも、どちらもストレスの対象になるらしい。
気持ちは分かるが、こればかりは立場上どうすることもできない。
「自分で好きに動くのと、人に先導されながら動くのでは気の張り方が変わるからな。おまえもそのうち慣れるさ」
その手に関しては年季の入った経験者であるカガリは、前髪からしたたり落ちる水をタオルで拭いながら笑った。
アスランは、顔をあげてじっとカガリを見つめていたかと思うと、軽く息を吐いて立ち上がる。
「……そんなやり方をしていると、痛めるぞ」
「え?」
「髪……」
「ああ、いつもこんな感じだぞ」
「ったく、貸してみろ……」
ドレッサーの前にカガリを座らせたアスランは、その背後に立つとカガリの手からタオルを奪って丁寧に髪を拭い始めた。
「いいよ、別に……」
「駄目だ。ただでさえカガリの髪は跳ねやすいんだから」
「立ち寄っただけじゃなかったのかよ」
「君の髪を乾かすぐらいの時間ならある」
自分の髪は、わりとおざなりに扱っているくせに、カガリの髪を乾かしたり、風呂上がりの体にボディークリームを塗ったり、妻の世話に関してはなにかとマメに焼きたがるアスランは、金糸のような髪から滴り落ちる水分をしっかりと拭うと、今度はドライヤーを温風に設定して髪に当て始めた。
――時折、意図とは違う方向に暴走することもあるが、経験上、文句を言うよりも好きにさせた方がアスランの満足度の上昇が早いことを学んでいるカガリは、仕方がない、というポーズでアスランのすることを受け入れる。
基本的に器用で丁寧なアスランの指の動きは、プロのスタイリストに手入れを任せているかのように優しく巧みで、心地よいブローにカガリの思考はとろりと蕩けかけた。
だが、押寄せるまどろみに瞼を伏せかけたカガリは、背後にいるアスランの視線が、鏡越しなのに、やけに一点のみに固定されていることに気づいて目を細める。
「……どこを見ているんだよ……えっち」
「あ」
バスローブの合わせが緩くなり、露わになりかけていた乳房に気がついたカガリは、ささっと胸元を整えた。
鏡越しに背後の夫を軽く睨めば、アスランはバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。
見ているだけで、手を出してこないということは、恐らく本当にちょっかいを出しているまでの時間の余裕は無いのだろう。
名残惜しそうに眉を下げたまま、アスランはカガリの髪のブローを終えると、ドライヤーとブラシを鏡台の戸棚にしまった。消沈している背中はとてもこの国の国防を任される責任者のものには見えなかった。
「アスラン」
「ん?」
「ちょっとだけ、補給していくか?」
「は? どういう……」
顔をあげたアスランは、立ち上がって両手を広げているカガリを見て瞠目した。
「……待ってくれ、そりゃしたいけど、さすがに時間が……」
「ばか。ちょっとだけ、って言っただろ、誰が朝っぱらから全部許すか」
顔を赤らめたアスランに、カガリは呆れた顔になる。
「疲れているみたいだから、ちょっとだけ癒やしてやろうかと思ったけど……そっか、時間が無いか。なら……」
「大丈夫だ! ちょっとなら! 問題ない!」
「お、おう、そうか……」
食い気味な返事をしたアスランに驚いてまばたくが、自分を求めようとするアスランの本音に、カガリは面映ゆい気持ちになって顔を熱くさせる。
「じゃあ、はい……どうぞ」
照れくささを笑顔に変えてカガリが仕切り直すと、アスランは一瞬だけ眩しそうに目を細めて、身を屈めた。
魅惑的な白い谷間は、顔を埋めるとふっくらとしているのに弾力があって、吸い付くようになめらかだった。
カガリの胸元に吸い寄せられるように顔を埋めたアスランは、柔らかな幸福感に包まれて瞼を伏せる。
「……よしよし、お疲れ様」
アスランの頭を胸に抱いたカガリは、幼い子供を宥めるように、ぽんぽんと頭部を叩いて囁く。優しい声音はアスランの脳の奥に響き、疲弊していた神経を穏やかな気分へと回復させてくれるのだが、風呂上がりで漂うほのかなフローラルの香りが、アスランに記憶の中の情事の熱を思い出させた。
気づけば、バスローブに包まれたカガリの体を抱き寄せたアスランの手が、カガリの背中に回って怪しく蠢き始める。
「……んっ」
背中を数回撫でた手は、そのままカガリのしなやかな体の線をなぞり、形の良い尻をいやらしく揉みしだいていた。
「こら、アスラン……」
桃色の吐息を零したカガリが、めっ、と悪戯を咎める目を向けると、アスランは複雑そうな溜息を吐きながらカガリから離れた。
「癒やされなかったか?」
「……いや……癒やされた、けど」
けど、の先を続けず、アスランは腕時計で時刻を確認した。
もう一度、今度は肩を落とす勢いで溜息を吐いているアスランを見て、カガリは余計な焚き付けをしてしまったかな、と少しだけ申し訳ない気分になる。
あまりにも後ろ髪をたっぷり引かれながら軍服を整えているから、声を掛けることを躊躇しかけてしまうが、このままアスランを送り出すことは、カガリの妻としての矜持が許さなかった。
疲れた夫を癒やすつもりでした「よしよし」なのに、肩を落とさせたまま仕事に送り出すのでは、本末転倒になってしまう。
意を決したカガリは、アスランに近寄ると、肩に手を乗せてえいっと背伸びをした。
「……続きは今夜、帰ったら、な」
囁きと共に、リップ音のサービスを付けて頬に口づける。
可愛らしい妻からの贈り物に、アスランはまばたくと、にやりと口の端をあげてぎらぎらと熱の籠もった眼差しをカガリに向けた。
「……後で覚悟しておけよ」
どこかの悪役みたいな台詞だ。
愛する妻に贈るには、非常に不穏な一言を残した旦那様を見送り、カガリは自分もそろそろ支度を始めるか――と、化粧のために再び鏡台へ向き合う。
鏡の中に映った自分の姿は、いつもと変わらない。
――否。
アスランに手入れをされた今日の髪型は、跳ねることもなく綺麗に整っている。
いつもと変わらない自分の顔が映っているはずなのに、チークもはたいていない頬は赤みを帯びていて、口元はどこか締まり無く緩んでいるように見えた。
――続きは今夜、帰ったら――
自分で告げた未来予定が、くすぐったくて気恥ずかしい。
先ほど別れたばかりなのに、新緑色の瞳が、もう懐かしく、熱を求める欲望が、カガリの胸の裡にじわじわと広がっていく。
覚悟なんて、とっくに出来ている。
与えられる情熱がどれだけ甘美で素晴らしいものか、カガリは既に身をもって知っているのだ。
――明日の仕事量は、調整しておくべきかもしれない。
上機嫌で身支度を調えながら、カガリは幸せそうに微笑んだ。