曇天色のウェディングベール白いツヤツヤしたダイニングテーブルの上に、真っ赤な液体が広がっている。
その鮮やかな赤は床にも染み付き、衝撃的な光景を作り出していた。
「社長、すみません。汚してしまって…」
黒い衣服に身を包んだ青年は、電話口で謝罪した。
テーブルの上に横たわる男は、青年にとっては見知らぬ存在。
頭に開いた深い傷から、血が大量に流れ出ているのが広がり、周囲を汚していた。
「テッド、進展はあるか?」
と、電話の向こうで声がした。
「はい、進んでいます。」
「そこはさっさと他に任せて、戻りなさい」
ふと後ろを見れば、清掃員と思しき男が2人、室内へ入って来る。
青年は静かに電話口へ返答し、部屋を出た。
***
この街は少し、他とは変わっている。
常に心地よい気候で、常に食べ物には困らない。
全ての人間に家があり、家族があり、仲間がいる。
感動と興奮を揺さぶるものに満ちていて、退屈することは無い。
外へ出れば皆が同じく快適に暮らしていて、劣等感も優越感も湧かない。
街へ誰かが新しく訪れることも無く、去ることも無い。
煌びやかな金メッキで飾られた、
永久不滅の監禁要塞。
それがこの街。
住宅街を抜け、商売が盛んなメイン通りを歩いていく。
行き交う人々は思い思いの季節感の服装を纏い、楽しげに過ごしている。
大部分の人々にはきっと此処は、理想郷のようにも思えるのだろう。
欲しいものが全て揃っている。
そうでなければ。
この街に足りないものなど無いと。
そう思わせなければ。
***
「ご苦労、テッド」
白い廊下を抜けると、白い部屋がある。
社長はこの部屋を社長室とし、滅多に人を近寄らせない。
パソコンの画面から目をそらさぬまま、社長は僕に告げた。
「以前の対植樹運動で何人消した?」
「ええ…12人、です」
「そのうち2人は10歳以下のガキだったよな」
カタカタとキーボードの音が途切れず聞こえてくる。
僕がただ立って指示を待っていると、社長はくつくつと笑い始めた。
「なぁテッド、お前も18だ。
あれから年を取りやがったなぁ」
「お陰様で」
ぱちん、とキーボードは1音鳴らし、静かになる。
社長は椅子を引き、僕を見つめた。
「背もだいぶデカくなったんじゃないか?」
「はい、先月頃に185センチを超えました」
「ほぉ!!」
椅子を降り、僕の胸の高さ位の身長の社長はこちらへ歩み寄ってくる。
「信じられねぇな。成長期ってのは
親父の背はデカかったか?」
「父の記憶は先々月の検査の時に消しました」
「はぁ。もし此処に神がいるなら、その真実を問いたい所だが……
お前、俺に嘘ついたことなんか無いもんな」
「ええ、ただの一度も」
「なら話が早いな」
めり、と腹部に重みを感じた。
骨や肉が無理やりに圧迫され、急激に痛覚が襲って来る。
僕は痛みのあまり1歩よろめき、膝をつく。
社長は右手にはめた金属を外すと、しゃがんだ状態の僕と目を合わせこう囁いた。
「“あの部屋”に勘づいたのはお前が初めてだよ、テッド」
「ぇ……」
「見たんだろ?中を」
「部屋、って……」
社長は部屋の奥の本棚に目をやる。
僕は数日前の記憶を辿っていた。
社長室へ訪れるのは月に数回程度。
社長に呼ばれこの場所へ来ることが多いが、あの日は社長に言われ社長室での探し物をしていた日だった。
目当ての探し物が見つからず、本棚へと手を伸ばした僕。
緑の書籍に触れると、ゴトン、と何かが落ちたような音がした。
何が落ちたのかを確認する前に、視界の端に目当てのものがあるのを見つけてしまったため、その事はすっかり忘れてしまっていたが……
「落ちた音というのは、部屋のロックが外れた音だ。お前はあの日、その部屋を解放した」
「僕はそんな……」
「部屋の中を確認していないと言うならそれで信じてやってもいい。だがお前にはそれを忘れる権利は無い」
未だに腹部の痛みが襲い、立ち上がるのが困難な僕の腕を引き、社長は無理やりに僕を本棚まで連れていく。
「全てを見せてやる」
緑の書籍に触れ、手前へ何センチか引き出す。
その後、ゴトン、と言う音も続く。
社長が本棚を押すと、本棚はまるで扉のように、片側を軸にして開き始めた。
腹部を押さえながら、僕はその部屋の中を見た。
「あ……」
緑。緑。緑。
その部屋は、まるで、子供部屋のように見えた。
足元には緑色の布人形や絵本、ボールや積み木、ドールハウスなどが所狭しと並んでいて、壁には特定の人物1人の様々な様子を映した絵画や写真が張り巡らされている。
甘ったるい砂糖菓子の匂いも立ち込めていて、正直とても、気分が良い部屋ではなかった。
「彼は私の全てだった」
僕から手を離すと、社長は静かに告げる。
「だがその“全て”が欠落すればどうなるか?
……簡単だよ、テッド。
欠落したなら、埋めるしかないんだ
模造品でもレプリカでも偽物でも、補う力のあるものは何もかも利用した」
足元に落ちていた人形をひとつ手に取り、数秒見つめたのちに、社長は僕を見る。
その瞳には、助けを求めるような感情も読み取れた。
「誰にも見つかる訳にはいかない、私の欠落だ。
……墓場へ行ったあとも永遠に、ずっとずっと秘密にしていてくれ」
「……社長、」
手に握る人形は、社長の手でギリギリと首を締め付けられていた。
まるで泣くのを我慢している子供のように見えたその社長の姿に、僕はつい、同情してしまった。
植樹を願うことが出来ない代わりに、
どうか、これ以上の闇が、街に広がりませんように。
まるでベールのようにスモッグが折り重なる空を見上げ、僕は社長の涙を隠すように、その身を抱き締めた。