交わって、離れて、その先は(鍾タル) 出来心だった。一人で過ごす時間は決して嫌いではないけれど、誰か、一緒にいて楽しめる人間がいるならもっといいと思っている。あのとき、旅人以外にと考えたときに、一番に思い当たったのが鍾離先生だった。ただ、それだけだ。――彼には、そう伝えていた。
時を遡ること数日前。久しぶりに会った旅人と手合わせと食事をして、満足な一日を過ごしたときのことだった。もうじき稲妻に発つ予定だという旅人は、もしタルタリヤがよければお願いがあるんだけど、と言って塵歌壺を取り出した。曰く、稲妻に発つにあたって暫く出入りができるか、どうなるかもわからないから気が向いたときに中の様子を見に行って欲しい、と。向こうでの寝食を心配したが旅人とおチビちゃんは平気な顔をして胸を張っていた。まったく逞しいことで何よりだ。そうして暫くの間、旅人の塵歌壺を預かることになった。
そういうわけで今、俺は鍾離先生を誘って塵歌壺にて二日間の休暇を楽しんでいる。
大抵の物資は整っていて衣食住には困らない場所だった。多少の埃が気になったので簡単に掃除をして、建物の換気をしてやればあとはすることは殆どなかった。それからは俺が材料の許す限りでスネージナヤ料理を作って、持ち込んだ酒と一緒にいつものように鍾離先生の蘊蓄に耳を傾けた。今日は料理が料理だったから、いつもよりも俺が話すことが少しだけ多かった気がする。先生も異国の文化までには明るくないからか、興味深げに聞いていた。
そうして気が付けば、昼過ぎに壺に入ったはずだったが既に夜が更けていた。こんなにもこの男と話し込んだことが他にあっただろうか。二日分、と考えて多めに持ち込んだはずの酒はとっくに空ききって、テーブルの上に空き瓶がいくつも並んでいる。
酒には弱くない方だ。寧ろ殆どアルコールが意味を成さないと言ってもいいほど。だのに、どうしてだろう。頭の芯が痺れてふわふわとしている。爪先がどうにも浮かれてゆらゆらと揺れていた。
俺と同じだけの量を飲んだはずの男は、案の定まったく顔色を変えずにグラスを傾けていた。炎水はそれが最後の一杯だから大事に飲んでくれよ、流石に俺はもう飲まない方がよさそうだから。
こつん、と靴の先が鍾離先生の革靴とぶつかる。
「あ、ごめん」
「構わないが、……公子殿、そろそろ休んだほうがいい。時間は明日もあるだろう」
ぐいとグラス半ばほどまで残っていた炎水を飲み干した男は、気遣うように俺をじっと見つめていた。もう酒が入っていないグラスのふちをべろりと舐めてみる。傾けてももう何も入ってはいない。アルコールなんだか水なんだかわからない液体が辛うじて唇に乗ったので舐め取る。なんだか無性に。ああなんだろうか、この感情は。
公子殿、と聞き分けのない子供に呼びかけるみたいな声。なに、と笑った。もうすこしだけ、と俺の腕を取ろうとしそうな男の手を逆に取って引き留めてやる。
返ってきたのは小さな溜息と、水を持って来よう、というどっちつかずの答えだった。
ぼんやりしているうちに目の前に水の入った新しいグラスが置かれて、鍾離先生はまた同じように俺の真正面に腰を下ろした。俺に合わせているのか単に手慰みのつもりか、それともこれ以上俺に飲ませるつもりがないという牽制のつもりか。彼も同じように水の入ったグラスを傾けていた。
「どうして俺を誘ったんだ」
男が言葉を発するまでに二度、グラスが傾いた。俺はまだ一度も水に口を付けないうちのことだった。
「それは言ったはずだよ。なんとなく、鍾離先生と過ごしたら楽しいかと思ったんだ。それだけさ」
鍾離先生はそれに納得したのかしていないのか、ふむとも、そうかとも言わず、なんだか煮えきらないような顔をしていた。はじめて迷子になった子供のような目。逡巡をいっぱいに湛えて彷徨っているようにも見える。
「どうしたの」
「いや、……想定と異なる返事に少し、驚いただけだ」
「ふふ、先生の想定では俺はなんて言ったの」
こつん、と靴の先で軽く鍾離先生の足を蹴ってみる。その足先は空回らなかった。これ、多分訊かないほうがいい気がする、と冷静な自分が頭の隅でそう言っているのに口にまで神経が繋がっていないらしかった。何が愉快なのかも分からないまま笑い声だけが唇からこぼれる。
「公子殿は、俺に慕情を向けているだろう。だからその類の言葉が向けられると、そう思っていた」
ああ、大当たりだ。なんだばれていたのか。うまく隠し通せているつもりだと思っていたのに、やっぱりこの男には叶わないらしい。こんなことで六千年分の年の功なんて発揮しなくてもいいのに。
「言わないよ、そんなこと」
感情そのものについては否定しなかった。多分、いつもならきっぱりと否定して逃げていただろうけれど。言っても言わなくても変わらないような気がした。この男、どうやら俺の心情をそれなりに慮っているらしい。だってこんなに情けない顔をしている。あの璃月全土を支配していた過去があり、今も凡人ひとりなんてきっとどうにでもできてしまうはずのこの男が! ならば、俺が否と言えばそれまでで終わるはずだ。回らない頭でもそのぐらいの思考はしてくれた。それが正常かどうかはさておき。
何故とは問われなかったが追い打ちをかける。あんたがはじめた話なんだから、最後まで付き合ってくれ。
「だってさ、そんなもの伝えたところで何にもならないだろ。ただの、なんにも知らない一般人じゃないんだから。俺が鍾離先生に好意があって、たとえばそれがお互いにそうだったとして。恋人になんかなれないのに伝えてどうするの。そういう契約も約束もできないよ」
「そういったことを望んでいるわけではない」
ここでそういう話ではないと言ってくれればよかったのに。否定はされなかった。やっぱり俺たちは同じこころを抱えているらしい。
鍾離先生はむっつりと唇を引き結んで、顔を顰めていた。苦しくてたまらないって顔。このひとはどんな気持ちで俺の言葉を聞いているのだろう。今、俺はどんな顔をしているのかな。
グラスの水を一息に飲み干した。頭の芯がゆっくりと冷えて思考が戻ってくる。それでも、一度切った口火はもう止められなかった。見苦しい。まるで悲鳴みたいだ。分かっていてもどうにもならなかった。
「そうだね。鍾離先生は物分かりがいい人だからきっとそうなんだろう。でも、あんたがもし俺と恋人になって、一緒に住んだりなんかしちゃったらさ。俺が璃月を離れて別れた後もずっと、同じ部屋で、家具もそのままで暮らしそうじゃないか。そんなのは嫌だね。嫌なんだよ」
「ならば何も残さず別れればいい」
「違うよ。これはものの喩えだ。心まではどうにもできない。今生の別れのあとでも、あんたの心の中に飼われ続けるのは御免だって言ってるんだよ。そんなの、寂しすぎる」
この話はおしまい。おやすみ、また明日。そう早口で言いながら席を立った。見下ろした鍾離先生の表情があんまりにも凡人らしくて笑えてしまう。そんな顔、他の誰かが見たらひっくり返るか今すぐ俺が刺されてしまいそうだ。いっそ愉快で仕方がなくて、たまらない。キスしてしまいたくなるくらいに。
鍾離先生と呼ぶと、こちらに向かって持ち上がる顎を指先で掬いあげた。そのまま唇を寄せて口付けてしまう。ただし、水越しに。鍾離先生の手元のグラスに残っていた水を操作して、唇と唇の間に潜り込ませていた。だから何も伝わってこない。残るのはキスをしたっていう事実だけ。においも、温度も、感触も、何も残りはしないから。
俺も先生のことを言えないな、なんて。唖然としている鍾離先生を置いて背を向ける。ごめんね、俺にできるのなんてこの程度なんだよ。