未必の故意など知らずに笑う(鍾タル) 習慣というものは当人の自覚よりもずっと執念深く居座り続けるものだ。毎日の何気ない行動は、日々塗り重ねられて自分という存在を形成する。他国で盛んな油彩の絵画がそれに近いのかもしれない。それは何千年でも、二十年かそこらの歳月でも大きくは変わらないだろう。
公子と性行為に及ぶことがひとつの「習慣」となってから暫く経つ。感情を伴わない即物的な欲求を正面からぶつけられたので、応えただけ。それだけの関係であり、特別、公子に対して何らかの感情を抱いているわけではなかった。向こうもそう変わりはないはずだ。単に都合が良いだけの利害の一致。――だが、好きな部位がひとつだけあった。
彼の耳が、どうにも好ましい。赤朽葉色の髪からのぞく、雪国の人間らしい白い肌。武人としては勲章であり、戦士たる証とも言える傷痕は彼の身体の至るところに残されているが、耳にはひとつとして残されていない。唯一、左耳にぽつりと小さな穴が開いているだけ。平時は耳飾りによって隠されたそれを目にしたことがある人物はそう多くはないだろう。それが行為のとき、興奮すると薄く朱が差す。裸体を晒されるよりもずっと、それが淫靡で仕方がないように思われた。
あとは単純な話、手持ち無沙汰を紛らわせるのにちょうどよかった。主導権を握ることを好む公子の好きなようにさせているとき、よく手が届くのが耳だった。あるいは、挿入してから落ち着くまで動くなと駄々を捏ねられるときにも、時間をやりすごすには都合がよかった。そういう、様々な理由から公子の耳を好ましいと思っていた。
つまるところ何が言いたいか。この「習慣」は、害意があって形成されたものでは決してないのだということ。そして、俺はあくまでも善意で公子の髪についた落ち葉を取ってやっただけなのだということ。その拍子に指が耳を掠めただけで。
だからその、まるで凌辱されかけた生娘のような目で見ないで欲しい。まったくの冤罪である。
公子はつい先ほど触れられた左耳を押えている。右耳のほうは平時よりも血色が良い。信じられないと言わんばかりの顔をしている。だが、よくよく目を合わせようとしても視線が思うように重ならなかった。泳いでいる。気まずげですらあった。信じられないのはこちらに対してではなく、どちらかといえば己に対しての感情のようだった。
こほんと咳払いをすると、ちらちらと左右を見渡す。往来だったが彼のささやかな悲鳴は誰の耳にも届かなかったらしい。
「あの、……さあ、」
「何だ」
「鍾離先生、頼みがあるんだけど。金輪際、俺の耳に触らないでくれる?」
「先日は構わないと言っていたと思うが」
「まさかこんな支障が出るなんて思わなかったんだよ」
不貞腐れたような口ぶりは歳相応にも思われた。この青年は未だ成長過程のような顔立ち、身体のつくりをしているようだが、立ち振る舞いも話しぶりも相応以上だろう。詰めは甘く、我慢弱さと、やや後先を考えないきらいがあるが頭も回る。そんな彼が年相応に不服そうな顔を見せるのは悪い気分ではなかった。
ふむ、と漏らすと、なんだいと胡乱な視線を向けられる。
「今更ではないのか」
「何がかな」
「頻繁に性行為に耽る習慣づけをしてしまっていることは、公子殿の言う、支障とやらにはならないのか」
光を飲み込む深海がぱちりと瞬いた。先ほど一瞬宿った欲望の色は今や消え失せてしまっている。あっはは、と何の憂いも知らないとばかりに公子は笑った。
「それは大丈夫だと思うよ。元々そういった欲求は強くないほうだし、闘いで発散できれば構わないんだ。今はあまり派手なことはできないし、大きな任務も割り当てられていないから仕方なくこの手段を取っているってだけでね」
「……そうか。耳の件については承知した。無理を強いる理由もない」
「物分かりがよくて助かるよ」
ああところで、今晩空いているかな。と、公子の言葉が続く。そういう男だと知ってはいたが、やはりこちらの言葉は毛ほども気に留めていないらしい。まあいい。何が起きたとしてもこちらの知ったところではないし、忠告はしたつもりだ。
ただ、この先のいつか、璃月を離れたどこか遠くの地の夜。この男が幾度となく重ねた夜のことを想起したら、と考える。どんな顔をするだろうか。耳朶をほのかに色付かせ、顔を顰めて悪態を吐くのだろうか。それはずいぶんと、愉快なことであるような気がした。